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汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション 95 X線構造解析手法の発展に伴って,卒業研究においても,合成した物質の構造をX線構造解析に よって決定することが日常的に行われている。しかし,初等的な結晶学の知識だけで,『結晶中の 原子配置(分子構造)が,結晶構造因子を介してX線の回折強度と関係している』ということを直 感的に理解することは困難である。今回,汎用の表計算ソフト用いて,結晶の構造情報をもとに, 回折パターンがつくられる過程を段階的にシミュレーションすることで,X線構造解析の方法論を 視覚的に理解できる教材を作製することを試みた。 〔キーワード〕化学教育  X線構造解析  結晶構造  分子構造 汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション ― 構造解析手法の理解を深めるために ― 高 瀬 つぎ子*,入戸野   修* *:福島大学共生システム理工学類 1.はじめに 分子の構造を決定するうえで,X線構造解析は強力 な手段となる。Braggがアルカリハライドなどの結晶 構造を決定して以来,多くの結晶構造が突き止められ てきた。1970年代には,それまで構造解析を行う上で 最大の課題であった位相問題がほぼ解決し 1 ,多重解 法による汎用性の高い直接法プログラム(MULTANSHELXSIRなど)が開発された 2 このような構造解析手法の発展に伴って,1970年代 には年間1,000件程度の構造解析結果が報告されるだ けであったが,近年では,年間数万件の構造解析結果 が報告されている。(福島大学においても,年間30件 程度の新規化合物の構造解析が行われている)。 最近では,材料科学や薬学などの非常に広い分野 で,X線構造解析によって求められた立体構造に基づ いて,分子の物性や機能の評価が行われるケースが極 めて多くなっており,これに伴って,結晶学の初学者 がX線構造解析を行う機会も格段に増大している 3 しかし,『分子の電子密度分布とX線散乱強度が, 結晶構造因子を介してフーリエ変換で結び付けられて おり,X線散乱強度を測定することで,結晶中の原子 配置(分子構造)が決定できるというX線構造解析 の理論を結晶学の初学者が直感的に理解することは非 常に困難である。 今回,X線構造解析のプロセスを大きく5つのス テップにわけ, ① 結晶学的パラメータの提示(格子定数,空間群, 原子座標,温度因子など)。 ② 格子定数を用いて,指数( h k l )に対応する回 折角を計算する。 ③ 原子散乱因子と原子座標を用いて,結晶構造因子 F h k l )を計算する。  ④ 温度因子を考慮入れた結晶構造因子を計算し, F h k l )} 2 を求める。  ⑤ 偏光因子や多重度を考慮して, F h k l )} 2 から 回折強度を計算し実測の回折強度と比較する。 汎用の表計算ソフトを用いて,それぞれのステップ ごとにシミュレーションをおこなった。各ステップご とに,視覚的に表示したシミュレーション結果と解説 を組み合わせることで,X線構造解析のプロセスを直 感的に理解できる初学者向けの教材を作製したので報 告する。 2.X線構造解析のプロセス 単結晶を用いたX線構造解析の一般的な手順を図1 に示す。構造解析の作業は大きく2つの部分に分けら れ,前半は測定,後半は解析である。 単結晶X線回折装置に結晶を取り付け,初めに回折 X線のピークサーチを行い,格子定数とラウエ群を決 定する。そのデータをもとに回折強度の自動測定プロ グラムを作成し,最も効率のよい方法で,回折強度の 精密測定を行う。測定後,格子定数を精密に決定した 後,スケーリングや吸収補正を行い,解析用の回折強 度データを作成する。 解析では,空間群を決定した後,直接法やパターソ ン法を用いて初期位相を求め,フーリエ合成と最小自 乗法によるフィティングを繰り返しながら構造(原子 の種類と座標)を精密化していく。 現在,多くの研究機関で使用されているX線構造解 析装置では,フーリエ合成までの過程がほぼ自動化さ れており,『解析装置に単結晶を取り付け,コンピュー ターのボタン操作をするだけで,分子構造が予測でき る』ということも,稀ではなくなっている。

― 構造解析手法の理解を深めるために...法による汎用性の高い直接法プログラム(MULTAN,SHELX,SIRなど)が開発された2。 このような構造解析手法の発展に伴って,1970年代

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Page 1: ― 構造解析手法の理解を深めるために...法による汎用性の高い直接法プログラム(MULTAN,SHELX,SIRなど)が開発された2。 このような構造解析手法の発展に伴って,1970年代

汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション 95

 X線構造解析手法の発展に伴って,卒業研究においても,合成した物質の構造をX線構造解析によって決定することが日常的に行われている。しかし,初等的な結晶学の知識だけで,『結晶中の原子配置(分子構造)が,結晶構造因子を介してX線の回折強度と関係している』ということを直感的に理解することは困難である。今回,汎用の表計算ソフト用いて,結晶の構造情報をもとに,回折パターンがつくられる過程を段階的にシミュレーションすることで,X線構造解析の方法論を視覚的に理解できる教材を作製することを試みた。〔キーワード〕化学教育  X線構造解析  結晶構造  分子構造

汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション― 構造解析手法の理解を深めるために ―

高 瀬 つぎ子*,入戸野   修*

*:福島大学共生システム理工学類

1.はじめに 分子の構造を決定するうえで,X線構造解析は強力な手段となる。Braggがアルカリハライドなどの結晶構造を決定して以来,多くの結晶構造が突き止められてきた。1970年代には,それまで構造解析を行う上で最大の課題であった位相問題がほぼ解決し1,多重解法による汎用性の高い直接法プログラム(MULTAN,SHELX,SIRなど)が開発された2。 このような構造解析手法の発展に伴って,1970年代には年間1,000件程度の構造解析結果が報告されるだけであったが,近年では,年間数万件の構造解析結果が報告されている。(福島大学においても,年間30件程度の新規化合物の構造解析が行われている)。 最近では,材料科学や薬学などの非常に広い分野で,X線構造解析によって求められた立体構造に基づいて,分子の物性や機能の評価が行われるケースが極めて多くなっており,これに伴って,結晶学の初学者がX線構造解析を行う機会も格段に増大している3。 しかし,『分子の電子密度分布とX線散乱強度が,結晶構造因子を介してフーリエ変換で結び付けられており,X線散乱強度を測定することで,結晶中の原子配置(分子構造)が決定できる』 というX線構造解析の理論を結晶学の初学者が直感的に理解することは非常に困難である。 今回,X線構造解析のプロセスを大きく5つのステップにわけ,① 結晶学的パラメータの提示(格子定数,空間群,原子座標,温度因子など)。

② 格子定数を用いて,指数( h k l )に対応する回折角を計算する。

③ 原子散乱因子と原子座標を用いて,結晶構造因子F( h k l )を計算する。 

④ 温度因子を考慮入れた結晶構造因子を計算し, { F( h k l )}2を求める。 ⑤ 偏光因子や多重度を考慮して,{ F( h k l )}2から回折強度を計算し実測の回折強度と比較する。 汎用の表計算ソフトを用いて,それぞれのステップごとにシミュレーションをおこなった。各ステップごとに,視覚的に表示したシミュレーション結果と解説を組み合わせることで,X線構造解析のプロセスを直感的に理解できる初学者向けの教材を作製したので報告する。

2.X線構造解析のプロセス 単結晶を用いたX線構造解析の一般的な手順を図1に示す。構造解析の作業は大きく2つの部分に分けられ,前半は測定,後半は解析である。 単結晶X線回折装置に結晶を取り付け,初めに回折X線のピークサーチを行い,格子定数とラウエ群を決定する。そのデータをもとに回折強度の自動測定プログラムを作成し,最も効率のよい方法で,回折強度の精密測定を行う。測定後,格子定数を精密に決定した後,スケーリングや吸収補正を行い,解析用の回折強度データを作成する。 解析では,空間群を決定した後,直接法やパターソン法を用いて初期位相を求め,フーリエ合成と最小自乗法によるフィティングを繰り返しながら構造(原子の種類と座標)を精密化していく。 現在,多くの研究機関で使用されているX線構造解析装置では,フーリエ合成までの過程がほぼ自動化されており,『解析装置に単結晶を取り付け,コンピューターのボタン操作をするだけで,分子構造が予測できる』ということも,稀ではなくなっている。

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2010- 196 福島大学総合教育研究センター紀要第 8号

3.今回の構造解析シミュレーションの  構成 実際のX線構造解析では,回折強度の精密測定の結果(回折角と回折強度のデータセット)を用いて,格子定数,空間群,初期位相,原子座標を導きだしている。しかし,回折強度から格子定数を求める過程(指数づけ)や,フーリエ合成による分子モデルの作製過程は数学的に煩雑であり。初学者にはハードルの高い内容である。 今回の構造解析シミュレーションでは,結晶構造パラメーターや,原子座標を最初に提示し,これらの値を用いたシミュレーション結果(回折角,相対回折強度)と実測のX線回折強度(粉末X線回折のデータ)を比較し,シミュレーションの精度の評価を行った。 結晶構造の提示から,実測値との比較までのプロセスを5つのステップに分割し,汎用型表計算ソフト(Microsoft Office Excel 2003)を用いてシミュレーションを行った。(シミュレーション教材の詳細は付録に示す)1)STEP 1  対象となる結晶の格子定数,空間群,原子座標などに関するデータを提示する。

  今回は,アルカリハライド結晶(面心立方格子)に注目して,『アルカリ金属の違いによって,X線回折パターンがどのように変化するか』をシミュレーションで求めることとした。2)STEP 2  与えられた格子定数を用いて,回折条件を満たす逆格子ベクトルの大きさを計算し,ブラッグの条件を用いて,回折角を求める。  実測の回折パターンと比較することで,回折条件(ラウエ条件)を満たしていても,回折点が現れない場合があること(消滅則)に気づかせる。

3)STEP 3  結晶の対称性を考慮した原子座標を用いて,結晶構造因子の計算を行う。  この時,結晶の対称性によって結晶構造因子が0になる回折点が存在する(消滅則)。また,原子によって原子散乱因子の大きさが異なるため,『同じ面心立方格子の対称性をもつアルカリハライド結晶でも,X線回折強度のパターンが異なる』という現象が,シミュレーション上でも再現できる。4)STEP 4  原子の熱振動が,X線回折パターンに及ぼす影響についてのシミュレーションを行う。  原子の熱振動が大きくなると,高角側の回折点の強度が極端に小さくなることがシミュレーション上にも現れる。5)STEP 5  X線の偏光因子や多重度因子がX線の回折強度に

及ぼす影響をシミュレーションし,計算結果と実測の回折強度と比較する。 このシミュレーションの中で,特に,STEP 3は,『分子構造(原子種類と座標)を用いて結晶構造因子を計算し,X線の回折強度を求める』という重要な役割を担っている。STEP 4,5はデータのフィティング上は重要な因子ではあるが,X線構造解析の本質を理解上では,必ずしも重要ではない。初学者の場合には,STEP 3までのシミュレーションを行い,X線構造解析の原理を明確に理解するという方法もありうる。(この場合,シミュレーション結果と実測値のずれはSTEP 5まで行った場合と比較して,大きくなる)

4.まとめ 汎用の表計算ソフト用いて,結晶の構造情をもとに,回折パターンがつくられる過程を段階的にシミュレーションすることで,X線構造解析の方法論を視覚的に理解できる教材を作製することを試みた。 現在,共生システム理工学類の材料系の4年生を対象にした少人数の演習でこの教材を使用し,有効性を検討している

参考文献1)M. M. Woolfson, Acta Crystallogr., A43 592(1987) J. Karle and H. Hauptman, Acta Crystallogr.,3, 181(1950)2) G. M. Sheldrick, Acta Crystallogr., A46, 467 (1990) A. Altomare, M. C. Burla, et.al J.Appl. Cryst., 27, 435 (1994)3)桜井敏夫,X線結晶解析の手引き,裳華房(1983) 実験化学講座10 回折,日本化学会編,丸善(1992) 大場茂 矢野重信, X線構造解析,朝倉書店(1999) 大橋祐二,X線結晶構造解析,裳華房(2005) 結晶解析ハンドブック,日本結晶学会編,共立出版(1999)

図1 X 線構造解析の手順

単結晶の作製単結晶の作製

データの整理空間群の決定

構造の精密化

結果の整理 作図

単結晶の作製単結晶の作製

ピークサーチと指数づけ

自動測定プルグラムの作製

回折強度の精密測定

格子定数の精密決定

測定

解析

初期位相の決定

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2010- 198 福島大学総合教育研究センター紀要第 8号

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汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション 99

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2010- 1100 福島大学総合教育研究センター紀要第 8号

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汎用表計算ソフトを用いた結晶構造のシミュレーション 101

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2010- 1102 福島大学総合教育研究センター紀要第 8号