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1 ☆ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー・ポッター』シリーズ I. ホグワーツはイギリスの学校? 1)そういうわけで、ハリーは、なるべく家の外でぶらぶらして過ごすことにした。夏休 みさえ終われば――それだけがわずかな希望の光だった。九月になれば七年制の中等学校 に入る[原文では When September came he would be going off to secondary school ]。そ うすれば、生まれて初めてダドリーから離れられる。ダドリーはバーノンおじさんの母校、 「名門」私立スメルティングズ男子校[Uncle Vernon’s old school, Smeltings]に行くこと になっていた。……ハリーは地元の、普通の、公立ストーンウォール校[Stonewall High, the local comprehensive]へ行くことになっていた。ダドリーにはこれが愉快でたまらない。 「ストーンウォールじゃ、最初の登校日に新入生の頭をトイレに突っ込むらしいぜ。二階 に行って練習しようか?」(ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』松岡佑子訳) →なぜ日本語訳は原文にない「七年制」を補ったのか? 私立と公立(comprehensive)の 違いは? ☆イギリスの学校制度 ・ハリーが学ぶはずだったストーンウォール校は、五年制の comprehensive school。/大 学に進学する場合は、2年間の sixth form でさらに勉強を続ける。 ・ホグワーツの勉強はハリーが 11 歳~17 歳の 7 年間。つまり、イギリスならコンプリヘン シヴ・スクール+シックス・フォームの 7 年間にあたる。 (これが 17 巻のそれぞれに対応) ・ただし、魔法界には「大学」は存在しない。(小学校課程も言及されない。) ☆ホグワーツとイギリスの教育制度の類似: ・ホグワーツでは、5 年生の終わりに O.W.L,試験(Ordinary Wizarding Level Test)を受 けることになっている。 ・イギリスでは中学卒業時に GCSEGeneral Certificate of Secondary Education)とい う実力試験を受ける。 →しかし、現代(およそ 20 世紀後半に確立した)イギリスの学校制度では説明しきれない 要素が、ホグワーツには存在する。 ☆全寮(寄宿舎)制(通学生がいない)……生徒はグリフィンドール、ハップルバフ、レ イブンクロー、スリザリンの 4 つの寮に分かれ、学内で生活する。(長期休暇期間のみ帰宅) ☆寮(House)ごとの対抗戦(寮対抗杯、クィディッチ) ☆監督生(prefect)制度……5年生から選ばれる 等々 →これらから窺えるのは、小説や映画で流布した「パブリック・スクール」のイメージ

☆ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー ......1 ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー・ポッター』シリーズ

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Page 1: ☆ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー ......1 ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー・ポッター』シリーズ

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☆ホグワーツで学ぶこと~学園小説としての『ハリー・ポッター』シリーズ I. ホグワーツはイギリスの学校? (1)そういうわけで、ハリーは、なるべく家の外でぶらぶらして過ごすことにした。夏休

みさえ終われば――それだけがわずかな希望の光だった。九月になれば七年制の中等学校

に入る[原文では When September came he would be going off to secondary school]。そ

うすれば、生まれて初めてダドリーから離れられる。ダドリーはバーノンおじさんの母校、

「名門」私立スメルティングズ男子校[Uncle Vernon’s old school, Smeltings]に行くこと

になっていた。……ハリーは地元の、普通の、公立ストーンウォール校[Stonewall High, the local comprehensive]へ行くことになっていた。ダドリーにはこれが愉快でたまらない。 「ストーンウォールじゃ、最初の登校日に新入生の頭をトイレに突っ込むらしいぜ。二階

に行って練習しようか?」(ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』松岡佑子訳) →なぜ日本語訳は原文にない「七年制」を補ったのか? 私立と公立(comprehensive)の

違いは? ☆イギリスの学校制度 ・ハリーが学ぶはずだったストーンウォール校は、五年制の comprehensive school。/大

学に進学する場合は、2年間の sixth form でさらに勉強を続ける。 ・ホグワーツの勉強はハリーが 11 歳~17 歳の 7 年間。つまり、イギリスならコンプリヘン

シヴ・スクール+シックス・フォームの 7 年間にあたる。 (これが 1~7 巻のそれぞれに対応) ・ただし、魔法界には「大学」は存在しない。(小学校課程も言及されない。) ☆ホグワーツとイギリスの教育制度の類似: ・ホグワーツでは、5 年生の終わりに O.W.L,試験(Ordinary Wizarding Level Test)を受

けることになっている。 ・イギリスでは中学卒業時に GCSE(General Certificate of Secondary Education)とい

う実力試験を受ける。 →しかし、現代(およそ 20 世紀後半に確立した)イギリスの学校制度では説明しきれない

要素が、ホグワーツには存在する。 ☆全寮(寄宿舎)制(通学生がいない)……生徒はグリフィンドール、ハップルバフ、レ

イブンクロー、スリザリンの 4 つの寮に分かれ、学内で生活する。(長期休暇期間のみ帰宅) ☆寮(House)ごとの対抗戦(寮対抗杯、クィディッチ) ☆監督生(prefect)制度……5年生から選ばれる 等々 →これらから窺えるのは、小説や映画で流布した「パブリック・スクール」のイメージ

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II. ホグワーツはパブリック・スクール? ・パブリック・スクール Public school とは……古い歴史をもつグラマー・スクール(大学

進学のためラテン語「文法」を教えた学校)のうち、上流階級の子弟を受け入れるように

なった“名門”校。生徒は 8~9 歳から 17~18 歳まで。私立学校なのにパブリック・スク

ールと呼ぶのは、一説には(上流階級で主流だった、家庭教師を使ったプライベートな教

育に対して)多数の子供に開かれた学校で教育する、ということ。 ・18 世紀末~19 世紀初頭には、パブリック・スクールの規律が乱れ、「下級生へのいじめ」

「暴力」「教師への反抗」「器物破損」「飲酒」……などが問題視されていた。 →こうした状況を改革しようとしたのが、ラグビー校の校長トマス・アーノルド(1795-1845)。1828 年に着任したラグビー校で、「クリスチャン・ジェントルマン」を育成する、

という目的を掲げる。 ☆全生徒を寮=ハウスで生活させる(ハウス・システム) ☆生徒の自治=最上級生を監督生(prefect)に任命する……など。 ・さらにその後、19 世紀後半のパブリック・スクールは、スポーツ[団体スポーツ]を、

学校教育に取り入れるようになる。(そして、いくつかの学校が「パブリック・スクール」

として伝統や格式を主張するようになっていく――「名門」イメージの成立。) ☆そうしたパブリック・スクールのイメージを流布したのが、トマス・ヒューズ(1822-96)の『トム・ブラウンの学校生活』(1857)。自身が在学したラグビー校の経験をもとに、

理想化されたパブリック・スクール生活を描いてみせる。 ・トム・ブラウンの父親の考え…… (2)「息子が勇敢で、役に立つ、嘘を言わないイングランド人になり、紳士になり、キリ

スト教徒になってくれれば、それ以外に望みはない[If he’ll only turn out a brave, helpful, truth-telling Englishman and a gentleman and a Christian, that’s all I want.]」(ヒュー

ズ『トム・ブラウンの学校生活』前川俊一訳、第 4 章、[訳文は一部変更、以下同]) →「紳士」「キリスト教徒」を目指すパブリック・スクール教育は、一見『ハリー・ポッタ

ー』とは縁がないように思える。 ☆スポーツ だが、トム・ブラウンがラグビー校に行った初日に見るのが、寮対抗のフットボール試合。 (3)「おやおや、君は知らないのかい――今日は校長寮の対外試合日なんだ。僕らの寮は

全校を相手にフットボールをやるのさ」…… 「へえ、その試合に連れて行ってよ。そして話を聞かせてくれ。ぼくはフットボールが大

好きで、今までもやってきたんだ」(『トム・ブラウンの学校生活』第 5 章) →『ハリー・ポッター』における「クィディッチ」の試合に対応。

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図1:19世紀後半に人気だった少年雑誌『ボーイズ・オウ

ン・ペーパー』。パブリック・スクールを舞台にした小説

も連載され、人気だった。図は 1879 年の創刊号の最初の

ページ、最初の記事が「わたしの最初のフットボール試合」。 (出典: https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/18/BoysOwnPaperIssue1Jan1879.jpg/220px-BoysO

wnPaperIssue1Jan1879.jpg) ☆校長(トマス・アーノルド)への賞賛 (4)「もう一度注意する。校長の意に逆らって意地を張る

なら覚悟することだ。ひどい目に遭うからね。僕が無意味に校長の肩を持つような奴じゃ

ないないって、みんな知ってるだろう。もし校長が、フットボールやクリケットや水泳や

ボクシングを禁止したら、僕だってまっさきに反抗する。でも校長はそんなことしない―

―むしろスポーツを奨励しているんだ。校長は今日の試合を半時間も見ていただろう?

(校長万歳の声)彼は強く、正しく、賢い人だ。しかもパブリック・スクール出身だ。(万

歳の声)だから校長についていこう。これ以上くだらないおしゃべりはやめて、寮長とし

て校長の健康を祝そう。(大きな万歳の声)」(『トム・ブラウンの学校生活』第 6 章) →「校長」の神格化は『ハリー・ポッター』でも同じ(ハリー・ポッターを中心に、一部

の生徒が「ダンブルドア軍団 Dumbledore’s Army」を結成)。しかも、『トム・ブラウンの

学校生活』の結末では、校長の訃報を聞いたトムがラグビー校を再訪し、校長を追悼する。 ・『トム・ブラウンの学校生活』は、その後、20 世紀に何度も映画・ドラマ化され(1971年の TV ドラマ版を、1965 年生まれのローリングは見ていただろうか?)、『ハリー・ポッ

ター』によるパブリック・スクール人気にあやかってか、2005 年にも TV 化されている。 ☆一方、現実のパブリック・スクールは、20 世紀半ばには批判されることが多くなってい

た。“パブリック・スクール”も“インデペンデント・スクール”と自称し、階級・性別・

国籍にかかわりなく生徒を受け入れることなどを強調するようになる(例えば、ラグビー

校も現在は男女共学)。 ・パブリック・スクールは「悪しき伝統」の象徴にもなる。リンゼイ・アンダーソン(1923-94)監督の映画『If もしも….』(1968)は、1960 年代の「反抗する若者」像を体現し、

抑圧的なパブリック・スクールで、創立記念日に3人の生徒が武装蜂起する……。(「校長」

=正義の側に立って悪と戦う3人組、ハリー、ロン、ハーマイオニーとの違い。) ちなみにパブリック・スクール黄金時代を象徴した、図1の『ボーイズ・オウン・ペーパ

ー』は、1967 年に終刊。

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☆けれども 1980 年代以降、イギリスでは「古き良きイギリス」を積極的に再現した「ヘリ

テージ・フィルム」が多く制作されるようになる。(商品となる「イギリスの伝統」)。特に

19 世紀~20 世紀初頭、イギリス帝国全盛期を舞台にした映画やドラマが多数作られる。そ

れはちょうど、「パブリック・スクール」の黄金時代とも重なっている――。 ・BBC は、1982 年にラドヤード・キプリングの『ストーキーと仲間たち』(1899)、1984年にジェイムズ・ヒルトン原作の『チップス先生、さようなら』(1934)と、パブリック・

スクール小説の古典を立て続けにドラマ化。 →『ハリー・ポッター』シリーズは、1980 年代以降の「古き良きイギリス」へのノスタル

ジーと、1990 年代らしい多文化主義(女性や非白人の活躍)を兼ね備えた作品。 III もうひとつのホグワーツ? 『わたしを離さないで』のヘールシャム 『ハリー・ポッター』シリーズ第 6 巻が刊行された 2005 年、やはり「架空のイギリス」の

「架空の学校」を舞台にしたもうひとつの小説が発表され、話題になる(2010 年には映画

化)。 ☆カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(2005)……外の世界からは全く切り離された

「ヘールシャム」という施設=学校で、幼年時代から少年時代を過ごす男女の生徒たち。

キャシー、ルース、トミーの男女 3 人が主人公。特殊な性質を持つ生徒たち、全寮制、独

自の教育、企みを秘めた校長、そして 17 歳になると(大学へは進学せず)「外の世界」に

出て行く、「死」の予感のする学校生活――と、『ハリー・ポッター』/ホグワーツと不思

議な類似を見せる『わたしを離さないで』/ヘールシャム ☆1990 年代末~2000 年代にかけて、「全寮制学校」がイギリスのフィクションに改めて浮

上した意味を考える=1980 年代以降流行したヘリテージ文化を換骨奪胎(伝統的な舞台で

現代的な主題を扱う)/テクノロジーによらない人間関係を描く(ホグワーツもヘールシ

ャムも、携帯電話やインターネットとは無縁)/「別のイギリス史」を構想する偽史的想

像力、など。 ・文献 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳、ハヤカワ epi 文庫、2008。 小林章夫『教育とは――イギリスの学校制度からまなぶ』NTT 出版、2005。 トマス・ヒューズ『トム・ブラウンの学校生活』上・下、前川俊一訳、岩波文庫、1989。 J. K. ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』I、松岡佑子訳、静山社、2012。 Jeffrey Richards, Happiest Days: The Public Schools in English Fiction. Manchester UP, 1988.