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人文研究大阪市立大学文学部紀要 1989 年第41 巻第 7 分冊21 頁,.._. 40 無抑制 につ いて アリストテレス 『ニコマコス倫理学J 7 1146b8-114ib19 "ir/. -21- アリストテレス は『 ニ コマ コ ス 倫 理 学 』 第 7 巻の大半を「無抑制 J (&lC p ασ/α と呼ばれる情態の解明にあてている(1)。乙の「悪いと知りつつ, そうする必要もないのに ,悪を行う J (もしくは 「善い と知りつつ,しかもそ れを行う乙とができるのに,かえって悪を行う J) という 情態は ,周知のよう にアリストテレスに先立ってソク ラテスが取り上げ,乙 のような情態の存在 そ のものを否定したのである。 アリスト テレスも無抑制を取り扱うにあたっ て,乙のソクラテスの見解を何にも増して念頭に置い ている のである ω 『ニコマコス倫理学』第 7 巻におけるアリス トテレス の議論の大筋は ,一 方において無抑制という情態が事実存在するという一般的見解 (τd αtMμενα) (3) を認めつつ , I 知りつつ」 という乙との内に区別を設ける乙と によって, ソクラテスの見解の正しさをも 認め ようというものである。と の ようにアリストテレス の議論は,その目指すと乙ろの大筋は明瞭であるにも かかわらず,具体的な論点の一つ一つについては不明確な点が多く ,解釈の 別れる所である。したがって,その大筋の具体的内容も個々の論点の理解の 違いに応じて当然大きく変わらざるを得ないのである。 本稿の目的は, ζ のアリス トテレス の無抑制論の核心を なしてい る第 7 1146 b 31-1147 b 19の論点を整理し ,明確にする乙とにある。乙の乙とは, アリストテレスが道徳的行為の構造をどのように考えていたかという問題の 理解にとって,大きな示唆を与えるものである。 アリストテレスの無抑制論の検討に先立って, ソクラテスの無抑制論の論 旨を押さえておく 乙と にしよう。アリス トテレスの議論がソクラテスの無抑 j 論を念頭においてのものである以上,アリス トテレスの議論を理解.する上 ( 397 )

無抑制について - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd...無抑制についてー23 ー なく,感覚lζ 惑わされての乙となのである。

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人文研究大阪市立大学文学部紀要1989年第41巻第7分冊21頁,.._.40頁

無 抑 制 に つ いて

アリストテレス 『ニコマコス倫理学J

第 7巻1146b8-114ib19

塩 出

"ir/.

- 21 -

アリストテレスは『ニコマ コス倫理学』第 7巻の大半を「無抑制J

(&lCpασ/α〉 と呼ばれる情態の解明にあてている(1)。乙の「悪いと知りつつ,

そうする必要もないのに,悪を行うJ(もしくは 「善い と知りつつ,しかもそ

れを行う乙とができるのに,かえって悪を行うJ) という情態は,周知のよう

にアリストテレスに先立ってソク ラテスが取り上げ,乙のような情態の存在

そのものを否定したのである。 アリスト テレスも無抑制を取り扱うにあたっ

て,乙のソクラテスの見解を何にも増して念頭に置いているのであるω。

『ニコマコス倫理学』第7巻におけるアリス トテレスの議論の大筋は,一

方において無抑制 という情態が事実存在するという一般的見解 (τd

ゆαtMμενα)(3) を認めつつ,I知りつつ」 という乙との内に区別を設ける乙と

によって,ソクラテスの見解の正しさをも認めようというものである。との

ようにアリストテレスの議論は,その目指すと乙ろの大筋は明瞭であるにも

かかわらず,具体的な論点の一つ一つについては不明確な点が多く ,解釈の

別れる所である。したがって,その大筋の具体的内容も個々の論点の理解の

違いに応じて当然大きく変わらざるを得ないのである。

本稿の目的は,ζ のアリス トテレスの無抑制論の核心をなしている第 7巻

1146 b 31-1147 b 19の論点を整理し,明確にする乙とにある。乙の乙とは,

アリストテレスが道徳的行為の構造をどのように考えていたかという問題の

理解にとって,大きな示唆を与えるものである。

アリストテレスの無抑制論の検討に先立って,ソクラテスの無抑制論の論

旨を押さえておく 乙と にしよう。アリス トテレスの議論がソクラテスの無抑

制j論を念頭においてのものである以上,アリス トテレスの議論を理解.する上

( 397 )

- 22ー

で必要不可欠と思われるからである。

一一一一、J n ラテス 一

無抑制についてー 23ー

なく ,感覚lζ惑わされての乙となのである。同じ大きさのものが肉眼には近

くから見れば大きく , 遠くからは小さく見えるのと同様に, 快 ・苦につい

てもわれわれの感覚はその遠近 ・大小 ・多少等を正しくはわれわれに教え

ないのである。乙ういった点を正しく把握し正しく選ぶには計誌の技情(手

με-rp巧TrK9Taη)が必要なのである。「悪と知りつつ,快楽に負けて,それ

を行う」という乙とは,例えばそ乙から得られる手近の少しばかりの快楽の

ために,最終的にははるかに大きな苦痛をもたらす行為を,感覚に惑わされ

て,そうとは知らないで選んで行う乙とである。知識と悪しき行為が同時に

存する乙とはありえないのである。ソクラテスはそ の恨本確信において,人

聞が快楽を捨てて苦痛を選ぶ乙とも善を捨てて悪を選ぶととも,その本性上

あり得ない ζ とと考えている (6)。

以上の通りであるとすれば,ソ クラテスの理解すると乙ろにおいては,ひ

とが自ら進んで悪を行ったとしても,それは「悪と知って」ではないのであ

る。そ乙に存在するのは,当該の行為のもたらす善悪の総体についての誤っ

た感覚的迷妄のみである。『プロタゴラス』の記述から理解する限り, 乙の

ような誤った感覚的犯握と計量術に基づいた正しい知識との並存 ・両立の可

能性をソクラテスは認めていない。誤った感覚的把握に伴うものは知識の欠

如としての無知のみである。乙の限りにおいて,正しい知識が誤った感覚的

把握に打ち勝つ乙とも,その反対の乙ともあり得なし、。正しい知識はそのよ

うな感覚的把握の存在そのものを不可能ならしめるという乙とを,それ以上

説明する必要のない自明的な乙と と,ソクラテスは考えているのである。人

聞はその本性上,それが正しい知識の告げると乙ろであれ,誤った感覚の告

げると 乙ろであれ,よ り善い と教えられたも のを選んで行うのである。そ 乙

には善と悪との聞に知的にも,心理的にもいかなる葛藤も存在しない乙とに

なろう。

以上の無抑制に関する ソクラテスの主張は次の四点に整理する乙とができ

ょう。

①人間はその本性上より善いと思われるものへと向かう。乙のような本性に

対立するものは人間の内に存しない。

②感覚は乙 との善悪の総計について正しく把握し得ない。

③計量術に基づく知識のみが 乙との善悪の総計を正しく把握することができ

るo

e感覚的把握と計量術に基づく知的把握とが両立並存する乙 とはない。

( 399)

- 24ー

「大衆説Jとソクラテス説の基本的論点が以上の通りであるとするとE 両

者の根本的争点は「大衆説Jの②とソクラテス説の①の閣にあると言えよ

う。アリストテレスの無抑制論の解.釈の最大の問題も乙の点にあるのである。

果たしてアリストテレスは人間の内に知{ζ対立する何ものかが存在すること

を否定しているのであろうか,それとも認めているのであろうか。アリスト

テレスの無抑制論の検討に移ることにしよう。

一一一一 -1146b31-1147a2唯一一

アリストテレスは『ニコマコス倫理学~ (以下型 EN と ESする)第 7 ~さ

3 f.il1必b31以下のー述の議論によって.無抑制に関する彼自身の答えを与

えている。彼がこの一述の議論で答えようとしている問いli tz正しい

を持ちながら,ひとが娘抑制な行いをするのはg いかなる仕方で正しいやj

を持つてのことであるのか"というものであるの。この一連の議論は.(l

1146b31-35, (2)1146b35-1147a10, (3)1147310-24'" (4)114ia24-b5 の四つ

ぷ愉に分けることができる (1147b6-19は四つの論考を受けて

として:PJ!~?j{される)。これらの内の特にい)は . (1)(2)(3)と区別してF 14ゆuσrιJ

t.r議論として特徴づけられている。先ず段初の三つの

って各々の論点を押さえてゆくことにしよう。

(1) 第一論考 :1146b31--35

、..... ・•

アリストテレスは,彼の哲学の越本的枠組みの一つであお可能態と

、.IJ- 、セユ邑

の枠組みを適用して.r認蝕しているJ(lrc!uτ(¥'(JOil!( ということが二通 、.. '-

川J-bれるこ とを指摘するω。すなわち.;忍撒を持って

い肌合にも. 法治買を持・ち F かつ用いている113合に u ・

いるが用い一

iilo U lこしている」という ζ とが;告ら~1,1G\るのである。したがってき「正しく誠諭していながらJとア-

るが,これを働かせないで.行 J

I1忍聞をJSち,かっこれを働かせながら.行うべきでないこと

_-があ仏両者の11りにはめ;告な必いがあるのである。アリ

:l 'tば , 後~ð.の訟I~Kではなく前 ii?の.~(11,長でならば日:し

~Hfijmml.lな行 い:・寸 ~.Jと口うことに i(,~ の不思i;おも な t. 、

jil1

持~t

、、p

、,、-',-

- 、、

l‘

無抑制jについて - 25-

(2) 第二論考 :1146b35-1147al

アリストテレスは EN第 6巻において言及した「実践的推論J (o!

(}uAAor(},μoJ TaJπpακTGν(9) ) を当てはめて説明する。乙れはひとが行為へ

と至る実践のプロセスを,理論的 ・学的傾域における推論(三段論法)にな

ぞらえて理解しようとする試みである。ア リストテレスは第 6巻の言及箇所

のいずれにおいても,きわめて不十分な形でしか, 乙れについて述べていな

いが(1ω,第 6巻の記述および第 3巻 2・3・4章における選択に関する記述を

考え合わせれば,およそ次のようなものである。

「実践的推論Jの大前提となる のは,行為の口的たる最高善が何であるか

を述べる普通的な命題である。乙れに対して,小前提は個別的な命題であり,

大前提における行為の目的の持つ価値と個別的行為とをいわば媒介する命題

である。実践的推論の具体的な例は以下のようなものである。

〔大前提〕怪い肉は消化が良く健康に良い。

〔小前提〕鳥肉は怪い。

〔結 論〕鳥肉は健康に良い。

乙れが現実の行為(つ まり,乙の鳥肉を食べる行為)に移されるためには,

さらに「乙れは鳥肉である」という個別的認識が必要である。アリストテレ

スによれば,乙のような個別的な把握に関わるのは実践的推論の能力である

恩昆ではなく ,感覚である(11)。

さて,アリ ストテレスは第一論考で述べた区別を実践的推論lζ適用するの

である。乙れは第一論考において実践的な認識全般について語られた「認識

を持つてはいるが用いてはいない場合」 と,i認識を持ち, かつ用いている

場合Jの区別を,実践的認識を推論における前提lζ分析する乙とによって,

より分析的に把握しようとするものと言えよう。

「正しい認識を持ちながらJと言われる場合,実践的推論の大 ・小二つの

前提を正しく認識している と考え られるが,小前提についてはその認識をた

だ持っているだけで働かせていない乙とがあり得るのである(12)。 したがっ

て,二つの前提を認識していても,乙れら二つの前提が現実に結合されて結

論(行為)が導出される 乙とはないのである。乙のような行為者の行為は,

彼の持っている認識の指し示すであろうところのものとは異なるのである。

と乙ろで,アリストテレスによれば大前提における普遍にはわれわれ人間

に関わるものと事柄に関わるものとこつある。例えば「全ての人聞にとって

( 401 )

'.

- 26ー

乾いた食物が従販に良いJという大前提には,人間と乾いた食物というこつ

の普遍が合まれているのである。人間の万に関しては「自分は人間で、あるJ

という認識をひとが持たなかったり,持っていながら働かせなかったりする

ことはない,とアリストテレスは考えている。他方,事柄に関しては, rこのような性質のものは乾いている」という認識を持ち, 働カせても, rこれ

が乙のような性質のものである」 という個別的な認識(13) を持たないか,持

っていても乙れが働かない乙とがありうるのである。乙の場合,彼の持って

いる認識は現実の行為と結びつかない。乙のようなひとは,大前提と小前提

のにお分の認識を持ち,かつ倒jかせてはいても,小前提の一部を全く持たな

いか,持っていても働かせていないために, r自分にとってこの食物は健bii

iこ良い」という l認識を持ち行ないし,乙の食物を煤るという行為を行うこと

もあり得なし、。彼の行為は,彼の持っている認識の指し示すであろうところ

とは異なるのである。

乙れを控班すれは以下の通りである。

{大前提Jr全ての人間にとって乾いた食物は位以に良い」

〔小古ij鎚〕 : 「乙うした'凶質の食物は乾いているJ

〔結論〕

r 1:1分は人!日]であるJ! i乙のものは乙うした性質で・あるJ (乙

の認識を持たないか,働かさない〉

ilし!分にと って乙のものは蝕以に良いJ (乙の結論は等jijされな

いままに終わる)

アリストテ レスは第一 ・第二論考のいずれにおいても認訟に関してこのよ

うな事態がいかなる阪凶で人|切に生じるのかということについては一切己-及

しなし、。アリス トテレスの目的は「認識している」ということに現災態と可

能態の枠組みを当てはめる乙とによっ 'C, i.lEしく認識しながら無抑制な行

いをする」と行うことの論)理的可能性を先ず確認することにあると可えよ

つ。

(3) 卯三論巧 :1147 el1 0 24

「認識を持つてはいるが,それを働かせていないJ(iXecv /.t}v j!うχpfdO“'()

という場合に, r乙れまで述べられたものとは他の仕方で誌!被を持つ (l'XeCV

. "C¥).} 0ντp向,'0ν) という乙とがノ¥11ijにはある」とアリス トテレスは;Jう。

つまり,惚識をある芯i沫では持っているが,またある芯l沫では持っていない

ような持ち万があるとなうのであお。 ζのようなW-ちプiとしてアリス トテレ

( 4102 )

無抑制についてー 27ー

スの挙げている例は,眠っている者,気のふれた者,酔っぱらってい る者,

初学者,俳優であるが,情念のさなかにいる人一一憤激, 愛欲 (l:ra()υμfαr

TφνdゆpOOU1[ων)その他の情念、にかられている人一ーも情念、のゆえに同様の

情態にあるのである。

1147al0-ll の 「これまで述べられたものとは他の仕方で」と言われる

「これまで述べられたもの」が何についての言及であるかアリス トテレスは

明言していなし、。文脈から判断して,乙の直前の第二論考でj!.sべられた認識

のあり方を含む乙とは明らかで、あろう。認識に関しての第二論考と第三論考-

の相迩は,前者においては認識を持っている (lXelll)乙とは疑いのない事実

として前提一一乙の点で第一論考-も同様であるーーした上で,実際lζ行為の

場面で行為者が持っている 乙の認識が働いているか否かの違いが論じられて

いるのに対して,第三論考においては認識を持っているとか持っていないと

か言われる時の,その持っているという乙とそのものが問題になっているの

である。すなわち,第一 ・第二論考で前提された認識の持ち方とは別の,あ

る;む味では持っているが別の窓味では持っていないと言われるような認識の

持ちノ~. (Ê~lÇ) がある という乙とが第三論考では論じられているのである。

では,第三論Jぎで言うと乙ろのある芯味では持っているが別の窓味では持

っていないという認識の持ち方とはどのようなものであろうか。それはひと

が[""1にして語っている乙と一一外から見れば「認識に基づく言論J (,OU<;;

MγOK Tok d7rdτ手c tm付加沢 (14))ではあるがーーに関して,その実何の

認識も持っていない,つまり口らが口にしている 乙とを何一つ理解していな

いという点にある。 1147a21-24 でアリストテレスの挙げている初学者と俳

優の例は,まさに乙の点を示すものである。彼は日分の持っている「認識」

に対する理解そのものを失っているのである。乙れに対して第一 ・第二論考

のj訪合は,言わば一時的な物忘れの状態になって,理解して記憶しているも

のを口にする ことができない状態に例える乙とができょう。彼は臼分の持っ

ている訟識に対する理解を失っているわけではないのである。

実践的ffi~論lζ 当てはめれば, 第三論考の場合には当該の行為者は大前提か

ら小前提を経て行うべき行為について正しい結論を導出しながら〈15〉,乙の推

論の示すところを何一つ理解することなく ,全く別の行為を行うのである。

彼の抗論に法づく正しい結論は,睡眠中の寝言 ・酔っぱらいの戯言同然であ

って,彼の行う行為とは全く無関係なのである。 他方,第二論考の場合は大 ・

前提からお!;31kl乙主るための小前提の一部がそもそも欠けているか,その認識

(403 )

".-.

ーっ1 ー

いても三わば一時的{乙忘れ去ったために推こ舎の針封(わ

t1っ7ζ 汀ぬの時点において結論が導出されること

2。そのため,推 とは異なった汀

とになるのである。こ -回同- •

ムベ~か知らないし が行っている行為を ー』べ主弔...J..>‘ 色ζ

紅いし,そ 乙とをL1fこー』 ζ と

上、fζ

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て. 4ゆυdfA-rBc'と

I~ .! )る小'li111,~" v) r Ij~ 'ij

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無抑制について - 29ー

その粘冶は自ちに いu{}u,) 行為される と乙 ろとなるのである。

~Y,主的推論の結論が直ちに行為lζ移されるとは , どういう ことであろうか。

この八をア リス トテレスは続く 1147a29-31で推論の只体的な例を考会げてよ

り詳しく説明している。

「たとえは,もし全て甘いものは味わうへきであり (oε[) [普通的な

大前提J(17), 乙のものが個別的なものの内の一つのものとして甘い

〔個別的な小前提〕 とするならば,味わう能ノJがあって妨げられる

ととのない場合 (ou凶μενoνkdμ今κωAuoμενoν),ひとは同時にまた

( (iμα・・・Kai)ど、す ζれを行うのである。J([ J内は筆者による。)

ζれによれば,(i)実践的推論の大前提は「・・・…へきであるJとえ!とべられる

ような「命令的 MtTακτ(~6ç(l 8)J (規範的)な性絡のものであり,(ii)乙のよう

な命令的な推論の結論一一大前提が「……べきであるJという命令的なもの

である以上,結論も「…ーするべきであるj という命令的なものになるーー

が直ちに必ず行われるのは,行為者にその行為を行う能力があり,かつ妨げ

られない場合である,換言すればそもそも行為能力がないか,妨げがある場

合にはーj.Eしく般論が行われ結論が山ても,乙の結論が直ちに実行lζ移され

るとはI絞らないのである。

ず第一lζ大前提の「……べきである」とは,いかなる怠味の「へき」で

ろうか。アリス トテレスによれば笑践的推論の大前提は行為の目的とする

ζ関わるものであり,既に触れた2132的推論の例においては, r軽い肉は

削じが良く ,他政{ζ良いJ(1141b18-19), r全ての人間にとって乾いた食物

が随践に良いJ(1147a5-6)等の命題が Uit是として例示されていた。 人間

の企ての活動はその幸福.を究極目的としているのであって,人間の活動のプーνーレス

一守Bは幸福への願望uζよって支えられ方向づけられているのである。健康そ

の他の人聞が様々な活動において目的とするものは全て幸福を構成するー要

しくはそれらを実現するための手段として欲求されているのである。上

ζ準げた実践的推論の大前提の軽い肉も乾いた食物も,幸福.の一部もしくは

としての健康に対する願望によって支えられ方-向づけられているのであ

。したがって,上tζ挙げた大前提は「幸福の一部もしくは手段として健康

ピ闘記するならば,軽い肉(もしくは乾いた食物)を探るべきであるJと言

える乙とができょう。との命題が持つ命令的な力は,目的への願望が行

ζ対して持っているカに由来している(19)。行為者自身のうちK目的

ζ対立す6C.,のが何もないとすれば,彼が幸福を願望している以上,

(405 )

-一一

'.

- 30-

推論の帰結を認めると同時に乙れを行う乙とを望み実行しようとすることは

当然のととであろう。

乙乙で問題となるのは,実践的推論の帰結を実行することを命じる願望H:

対立し,実行を妨げるものが何か行為者自身の内に存在する乙とをアリスト

テレスは認めているのか,否かという乙とである。既に触れたように, まさ

に乙 ζlζ ソクラテスの見解と一般大衆の見解の根本的な相違点があっ七。

乙の点l乙関して,1147a30-31の 4μ4Kω).uoJ.l.E:νo〆 を①外的な妨げがない

乙とを怠味しているとする解釈と,②内的な妨げがないことも意味してレる

とする解釈と二通りの解釈が rlJ能である (20)。外的な妨げがないこととする解

釈に立ったiz-作,実践的推論において大前混と小前提が結乃され一:つ{ζなっ

た時には,行為者に行為能力があり ,外的な妨げがない限り,その帰結は必

ず行為{こも移されるというのがアリストテレスの主広であるといベことにな

る。 したがって,大前従と小前提から)l?結する結論が実行されないとすれに.

それは(i)行為者がそもそも行為の能力そのものをぺいているか,(ii)行為者γ

対して外的な妨げが働いているか一一このこ「の場今には,無抑制は成立し

ない一一,それとも(ω に!}j提と小前提のロヨ識を持ちながら.何等かの理性で

これらが一つの結論へと結介されなし、一一既にこのような事態が論理的に可

能であることを, アリス ト ナレスは~1この rl13考において必認したーーから明

ある。それゆえ, 乙の(ωにおいてのみ,無抑制jは成立することになる。乙

ようなJ1Il解lζ立った場合,$n;[自n命考はmニ論考でその論理的可能性が認め二

れ七 ~F態の ;十1~拠を '\.n'] の魂のZj~'1:. (こi可jして切らかにしようとするものであ 6

ことになる。

乙のM沢が1Eしいとすれば, これにおtく 114ia31-b3て品¥されるこっ

j世論は次のように解釈され ねばならなし '0 すなわち,---;5におい三「 つ乙とを妨げる いωえリOUdα reueaf)a,c)普遍的な見解Jがわれわれの内に内在

しており,他方1ζは「全て"u-いものは;ふリという別の将遍的J4l解も内在し

ている。さらに「このものは'1:1'l 'Jという個別的な命題(小前提)もわれ

れは持っているし,働かせてい ,;<:ll)。とすれば,r会三 1:1"いものは Rい、Jと

いう大j)ír拠とこの小川院から「このい刊よ t~l \ J という結論が出ー -、ー

は3命3m(t'~ , ζ必然である。ここに同時に PX1-ー こ れは a に ?・その間約~ 1 ~,t

しているーーがわれわれけr~ (と内 {Eしてい 3問、には,一方において「

うことを妨げる ・昨週的な .r~f~1í!JがわれわれにI~ {Eしてい日ζも|

~~の ι. ととして, この,t~ l 、 も t 、 { ι~~J tる(}¥叫が働さ . ζ, l、s を-a

(.. 106、‘" •

、ー、ー

、•

無抑制について - 31ー

う行動が直ちに行われる乙とになる。

乙の「味わう乙とを妨げる普遍的な見解Jとして具体的にいかなるものを

念頭に置いているのか,ア リス トテレスは全く明言していないが, 乙の直前

の 1147a29-31の実践的推論の例から,乙れを「全て甘いものは味わうべき

ではない」と理解する乙とが,文脈上最も臼然な解釈であろう (22)。乙のよう

に大前提を理解すると, ζの大前提と「乙 のものは甘い」という小前提から,

乙れらニつの前提が働いている以上「乙のものを味わうべきではないJとい

うもう一つの結論が, Iζのものは快い」という結論と全く同じ論理的必然

性をもって導出される乙とになる。既に見た 1147a29-31によれば,外的な

妨げがない限り, ζ のものを味わう乙とを妨げる行為が推論の結論と同時に

行われなければならないのである。

乙のように, 1147 a30-31の 4μ今κωAu6.μενo〆 を外的な妨げのないととと

理解する乙とは,行為者に相矛盾し両立 しない二つの行為を同時に行うとい

う不可能事を強いる乙とになる のであり ,乙 の解釈を採るととは困難である

と言わねばならない。 乙の解釈を維持するためには, I味わう乙とを妨げる

普通的な見解J(大前提)として「乙れは甘いJという見解がその小前提と

はならないような別の前提を立てねばならない。乙 の場合には,欲望に対応

する方の推論は完成されても ,I味わう乙とを妨げる普遍的な見解」はそのイ

前提を欠くために推論が完結する乙とはなく ,相矛盾し両立しないこつの行

為を同時に行うという不可能事を強いられる乙とはなくなるのである。しか

しながら,文脈上最も自然に理解される「全て甘いものを味わうべきではな

い」という命題にかわるべき大前提については,アリストテレスは何一つ示

唆を与えていないのである。以上の考察は,1147a30の ‘μ手κωAuoμενoν'を

外的な妨げのない乙ととのみ理解する乙とが困難であることを示すものであ

り,乙 れをむしろ内的な妨げのないことも合むものとして理解するべき乙と

を示すものである。さらに,わずか一行後の 1147a32 において「一方にお

いて甘いものを味わう乙とを妨げる (κω必oυσα〉普遍的な見解がわれわれに

内在しており, ……」と, 内在する見解について κω必ouσα と語られてい

る乙とも,われわれの解釈を支持するものであろう。アリストテレスは行為

者白身の内に内的なお藤の存在する乙とを認めている乙とになろう。

先に触れた 1147a34-b3は, 行為者における内的な葛藤の存在を前提に無

抑制の椛造の分析を試みたものと言えよう。

「一方はとれを避けるよう言うが,欲望は乙れへと駆り立てるのであ

( 407)

r-

- 32-

る(手 μtν oOLPMmφε6γεtνrokog 手ashzhMl

のも欲慣は身体の諸部分を運動させるカを持っている

したがって,無抑制な行為を行うという乙と

Tet,. )。と 4フ

りヲゴ

鴨川 y と

'"" りとか比解!ζ基づいての乙とであるが, ζ の

いてではなし付帯的な仕方において一一正し

るのである。というのも正しい乙とわりに反しー

って,比解ではないからである。J

乙こにはるごとく無抑制な行為を行う

の対~'\l.する襲来 , すなわち欲望と正しい乙とわり

乙の欲望は欲恒一般ではなく,この快いものに対ム

咽岨・・----- ザキ 三、-

-、ー -

としてニ

。ι. --a'a・4---h 」 ーす

れ量、」

甘いJと

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無抑制について - 33ー

態一一第二論考の情態は乙の情態の一つであったーーのもう一つの情態を明

らかにしたものとして,われわれは第四論考を位置づける乙とができょう。

一一-1147b6-19一一一

以上の四つの論考において,アリス トテレスは無抑制な人が「知っているJ

と言われるのはいかなる意味においてであるかを明らかにするとともに,そ

のような情態がいかなる自然的原因によって生じるかを明らかにする乙とに

努めてきた。乙れに続く 1147b6-14においてアリストテレスはやや唐突に

「無知J~c言及する。

「乙の無知(手 dγνO(α)がいかにして解消され,無抑制なひとがいか

にして再び認識をするようになるかという乙とについては,同じ説明

が酔っぱらっているひとや眠っているひとに関しでも当てはまるので

あって, 乙の的態iζ固有の説明があるわけではない。 乙の説IYJは1'1然

学者から聞かねばならない。J

一体「乙の無知Jとは何を指すのであろうか。先ず第ーに, 乙の直前の第四

論考において指摘された認識のあり方と考えるのが最も自然であるが,それ

は正しい実践的推論が行われながら,その認識が現実の行為において働いて

いないという認識のあり方であった。可能態と現実態というアリストテレス

の哲学の基本的枠組みを適用するならば,正しく実践的推論が行われ,その

認識が行為において現実に動いている場合, 乙のような認識乙そが現実態と

しての端的な認識である。 他方,正しい実践的推論が行われながら,その認

識が現実の行為において働いていないという認識のあり方は,前者lζ比して

可能的に認識であると言われよう。乙の芯味で端的に認識である前者に対し

て,後者は現実には認識でないもの d-worα,つまり「無知Jと言われうる

のである。

と乙ろでアリストテレスは, 乙乙で乙のような無知にある無抑制なひと の

情態は,酔っぱらいや眠っているひとと同級である と考えている。乙れは第

三論考においては,一応の認識を持つてはいても,それに対する理解を全く

欠いているため'c,認識を持っていないとも言えるような情態のひとにな

ぞらえられたものである。さらに 1152a8-15においては, 酔っぱらいや眠

っているひとは 「認識を持ち, かつ乙れを働かせているひと (oεldwc; /Cae

(409 )

-

- 34-

0εωρω)Jと対比されており, 11明らかiζ 「認識を持ちながらf ζ れをCまかせ

ていないひとJの情態を例えるのに用いられている。乙の「認識のあり方の区

別と類比は,既iζ見たよう !ζ第一論考において立てられたものである。

百年つばらいや眠っているひとの ζ のような用法はs アリストテレスが乙2

を広く無抑制なひと一般と類似したあり方として考えている ζ とを示すもの

である。事実酔っぱらった状態lζは完全に正体を失って身動き一つしない

1Eから軽く西名前しているだけで記債と意識が一部定かでない状態までの差異

があり,決して一定一様ではない乙とをs われわれもアリストテレス.

的事実として認めねばならないであろう。限っている状態についても

ものから浅いものまで嫌々な差異を同様に認めねばならないであろう。

アリストテレλの酔っぱらいや眠っているひととの類比|は3ζのように一

義的なものではなし無抑制抑制なひとの様々な局面に対応するものわハ明

ある。したがって,r乙の無知Jも, 第四論考で明らカ

のみに限らずー ζ れまでの論考において|明らかになった

合んでいると考えねばならない似〉。

のあり方全てを

114ib9-12おいてアリストテレスは再び節ニ ・第三論考に

考で切らかにされた実践的抗論の「最終的ながjtEJGINlhuτ

〈25〉,つまり小前提を持たないことの原因もF 第三論考-の事態と同

あることを新た!と付iJしている。

アリストテレスは次の秘に締めくくって乙のu

「さらに, 1削迄の311(吋μ5σχ(l.'¥"0μ 匂oν〉

し,普通的な)]1と|同様!ζは泌総されうるも

えに,ソクラテスが立てようとしたま型

である。という のも優れた怠l沫で認論と思

がら, このおlt~~ftiリという f15態がと12ずるとと

h5;合、によって引きず! ð ,~t る ζ ともない

とが起乙るの{

r 11~~容の写し!と lu.ぃ」の「乙jt"1, J 快い」とか「これを味わうべきではない」

!と他ならない。乙のような倒的にI~

iJS l 相手宗

n

l、

.... t.... ..t:", J、

無抑制について - 35ー

でも推論の小前提として働かなかったり,働いても結論において二つの結論

の内の欲望がそれに働くほうの結論が実行に移される乙とになったのであ

る。

では,乙の感覚的な認識に対して「優れた意味で認識であると恩われるも

のJとは一体何を指しているのであろうか。感覚的な認識が感覚的個物に関

わる小前提(もしくは結論)の認識を指すとすれば,普遍的な大前提の認識

がとの「優れた怠味で認識であると思われるものJ~ζ相当する乙とが先ず考

えられる。しかしながら,アリス トテレスにおいて,普遍的な大前提の認識

は恒常的な性向に根ざしたものであり〈26〉,一時的な情念や感覚に左右される

ものではないが,既に見てきたと ζ ろから明らかなように,乙のような大前

提を現に持ち働かせていても,乙れに即応する小前提を持ち,それを現実に

働かせるととが出来ない限り,大前提の認識はそれだけでは行為へと現実化

しないのである。乙のように大前提の認識の現存のみでは,いかなる芯味に

おいてもソクラテスの主張すると乙ろは帰・結しないのである。

ソクラテスの主張が成立するためには,それに即応する小前提を必ず持ち,

かっ働かせる乙とのできるような大前提の認識が存しなければならない。乙

れまでの論考において明らかにしたように,大前提に即応した小前提の働き

を妨げて結論の導出を不可能にしたり,出された結論が行為として現実化さ

れる乙とを妨げるものは快苦に関わる欲望その他の情念であった。したがっ

て,それに即応する小前提を必ず持ち,かっ働かせることのできるような大

前提の認識が成立するためには,乙の大前提の認識に言わば即応するような

情念が同時に成立していなければならないのである。真iζ善なるものを望ま

しいものとして願望するのみならず,乙の目的的善の一部または実現のため

の手段として思量によってしめされたものに快を感じるような倫理的性状,

すなわち倫理的徳(27)が認識と同時に成立していなければならないのである。

乙ζ においては,目的的善への願望と個別的な欲望の聞の魁艇は存しないの

である。アリストテレスの言う「思慮J(ゆμ均σ(~) はまさに乙のような認

識であり,実践の領域における最も優れた怠味における認識に他ならない。

「同じ人が思慮ある人であると同時に無抑制な人である 乙とはできないので

ある。なぜなら,……思慮ある人は同時に徳性においても優れた人であるか

らである。J(1152a6-8) (28)アリ ス トテレスがソクラテスの主張を認めるのは

との点においてである と, われわれは結論できょう。

( 411 )

• •

- 36ー

以上, wニコマコス倫理学』第 7巻第3fEKおけるアリストテ νスの無抑

制lζ関する四つの論考を見てきた。アリストテレスは無抑制K関して.ソ

ラテスの見解.と一般的見解に対してP 彼自身いかなる解答を与えたのである

うか。 ζ のλ去についてまとめて本稿を終える乙とにしたい。

彼は先ず「認識している」というととの怠味を分析し,幾通りの仕方で語

られ得るのかを明らかにする。それによれば.' i認識しているJという ζ と

は,①認織を一応持ってはいるが,十分な理解!ζ欠けている坦-合(乙の点明

は持っていない)にも,①十分な理解を以て認識を持っている拐-合Kも語ら

れ得るのである。さらに,②の場合には(a)持っている認、議を働かせている窃-

合と,(b)働かせていない場合とがあり F いずれの場合にも「認識しているJ

という乙とが揺られ得るのである。さらに乙の②一(ゅの場合.i実践的推論j

iζ当てはめられて,t ('ア)般論の小前提の一部について認;訟を持つてはいてι.それを働かせていない場合〈小前提の一部について認、;訟を持っていない餌

も ζ 乙 !ζアリス ト テレスは合めている)と ~ (イ)推論の結論のよ言論を持つー

いて4)・それを行為に働かせていない出合!ζ分けられている。乙

別について,①については筋三論考が,②については箆ー ・節ニ(特・に¥"・ー

(b)一(コη・第四(特iζ②ー(b)ー(イ))の論考が当てられていた。

アリス トテレス!とよれば①および②-(b)'の怠味であればJ i,認、ぶしてい

がふ無抑制な行為を行うJと高る乙と,fこU1HHiはないのである。したがって

1H~抑制の|問題が~ lillと「;1;忍滅しているJという u

いのであれば,(i)およひ:(2;ー(b)の芯味で,JHいるならば一般的し1

@一(臼)の~(IJ;lミで JH い るならばソクラテスの郎が成立するという心が.

トテレスの仰今年でおりーこれで十分ということになろう。

しかしながら,こにおいてj行摘したようにソクラテスのは杭と

=のliii誌やJH1Jではなく ,lJT誌によって tiい

uurとおいであるのか否かということであり!1

うな何ものかが人1mの内には lあるのか否かと lいうこと、

l!次!とアリス トテi 、...

おいて彼は,人11日の内にあ

こすれのとして.』h1・念の存在を認めた M

先日Jl1HlilJ( こ |却する一般的 ~\t仰を永;;越してい ると し'•

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弘、 量司- ......

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無抑制について - 37-

とのようなf占念、が存在するからこそ,時間をかけた習慣づけによる倫理的徳

性の涌援が必要とされるのである。乙の倫理的徳性が完成された時初めて,

ソクラテスの見解は成立しうると言えよう。 一一了一一

〉王

(1) rニコマコス倫理学J第7巻のllt15a15-1152b36が無抑制とそれに関連する問題

の解切に吋てられている。とれは Didot版の苧分けにしたがえば,全14friの内の

合'5 1 7Zからmlo11~L 当たっている。

ととでアリストテレスは無抑制jを,本米的 ・端的な芯;味における無抑制と類似(1り

な13;味における無抑制に分ける。前者は,人間にとって必須的な事柄,つまり食欲

とか性欲等に関わる肉体的な事柄のもたらす快Y!?に閃わるものである。他方,後者

は必須(f~ではなく , それ自身としては望ましいものであるが, 過超に陥るととのあ

るような事柄〈勝利とか名谷とか宮とかいうようなもの〉や,それ白身としては望

ましいものでもなければ,その逆でもないようなが柄のもたらす快却ζ関わるもの

である。とれは矧似性に基づいてのみ無抑制と言われるのであって,あくまでも別

削のものとアリストテレスは号えている。

木来的 ・端的なな"とにおける無抑制をアリストテレスが論究するのは,第11:Zか

り515322までであるが,その大半は無抑制にl刻するひとびとの見解の促示とその般

点の11今味という問題解明のための予備作採に充てられている。乙の予備作業を前提

iと無抑制IJIζi測する中心的問題である 'rr6iε1301,UM-R号03,mjπ(jj,' ε,'a6ieC'

(1146b8ーのに対する彼自身φ解容を与えようとするのが,本稿において取り上げる

1146b31-114ib19であり,アリストテレスの無抑制論の核心を成す部分である。

~川のテキストはþ By¥¥'ater 校訂の O.C. T.のものである。訳訟の他内容の現

料ζ|刻して,日I1J三郎i沢 rニコマコス倫理学J C:白波文部〉から多くの教示を受け....-れ』。

(2) cf. E1V. VII. 2. 1145b21-31

(3) 'Ta 9tt.:l'O"ε川'の芯:味については,次の Owcnの論文を参照されたし、。Owen,

G. E. L.. Tithenai ta PhainOll1ena, in S. :rvlansion (ed.), Arislole el les

p'roblcme demclhode. Louvain. 1961. pp. 83-103. ; cf. Hardie, ¥V. F. R.,

Arislotlc" s ,Ethical Thcory. Oxford. 1968. pp. 2611-265.

(4) El'¥1にVII.2. 1145b21-31n におけるソクラテス説への:言及が,プラトンの fプ

ロタゴラスJ352b以下の議論を念頭!とiEいたものであることは,用語からも内容

からも切らかである。 ζの点は,Stewart, Burnet, ]oachinl, Gauthier-Jolif,

DirlnlE.'ier等多くの論者の一致して認めると ζろである。

s) 訳文はプラトン 『プロタゴラスJ(藤沢令夫訳,治波文庫, 1988年〉を使用させ

てmいた。以下も同様であるが,m者の12任において一部訳を変更した箇所がある。

(413 )

- 38-

(6) Prot. 356a-c; 358c司 d

(7) EV. VII. 1145b21-22;cf. 1146b8司 9.

除文の 'πφc-は文法的には主動詞 '&κpaoε6εTα(.Iζかかると翠解する乙ともロ

能である。乙の場合,原文は「正しい判断を持ちながら,ひとはいかiζして祭抑

な行いをするのかJという窓味lζ解せられよう。 (Ross, Joachim, Gauthier-

Jolif, I~obinson , Dirhneier, ¥Valshはζの解釈を採っている。〉

しかし,このVGr・-----'という問いiζ対するアリストテレスの議議は専ら.ひと

が無抑制な行いをした場合の「正しい判断〈認滋〉を持ちながらJということの意

味もしくは持ちブJH:向けられているのである。したがって. szφf'iま分dロ

eomydltpd111川,・にかかると理解すべきである。乙lの点Kついては. cf. Hardie"

pp.266-67 : Dahl. N.O.. Praclical Reason. A:げ,

Iinneapolis. 1984. pp.163-164・

(8)Phys.255a33-b5:Jidel.1048a32-35;dCAn.412a9-l i,a22-23.

(0) ,8. ],l. V1. 1144a31-32.

(10) J~Þl. V]. 1141b14-21. 11 42a20-23, }i44a31-33.

(11) EiV. 111. 1112b33ー1113a2.

(1均 I-lardi は.なぜここで小前提についてのみ日守・っているだ で.それを 。せ

ていないJ乙とが羽られて.大前提については誠られないか錠問をよい

ついても|副議のととをアリストテレスは認めるべきであるとしずいー (DD.27~

279)。しかしなlがら . 第三 ・ ~nl!日 l冶 :J3でアリ トテレスが述べるように.無抑制と コ

的f必は1)';';合、によってーn~HJ~~ζ;むさ起こされる制服でおり . t桁ff百J1念!

のは自佑側b司i別的な小1前}苅甘削j挺足なのである。目的的おについての命姐である大前提に閑ね-"f

それを在宿するのは恒常的な性向で、あり.大前提を「持っているだけ

かせていないJという郁態はj犯に無抑制の随闘を越え,思憾のDl践にλっていると

M うべきであろう。 cf. む111姉夫 rアリス トテレスの倫理jgjElj.松波山I,L 19S59

1>P. 117-.118(7'5).

(I!l) ζのような個別の犯t1i{は感覚の飢般に同しており , 阪慌にはtLgi設と,~'1. a

(111) E1V. V.ll. 114.t7a18-19・

{Iゆ とのようなií~げ尽にある:行も rmu命的な倫恥をも口 !とするJ(l ト17n19圃

ている よ う に . 内特のJmß1~t.liさ で形式的lζim日討を完成させること

(It~ Phys.づo1 hit 10; G(! 11. じ yれ 31KIlo-tf.5tttWal-i, J.A.l,AM

JVicoF210cltmFIEthics qf AridoflcpJ2vols.,Oxfords llS92,vO1.2F P.1

11 J.17a24.1), p. 2G8 : '01. 1. pp.31:1-a7; BUl"no.t. J.! Thc ,1~山,。ndon,1900J pp. ~30 1 ・!-302CCOln. nd 1 UI7n!' 1).

(1乃 ζのような15139!を史問flUj111iiEliO ば.r

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無抑制について - 39-

ασTOのであって,無抑制なひとではない。 •

側 EN.V1. 1143a8-9

(19) アリストテレスは欲求 (oρεかのを願望 (sou初σ(c)と欲望(1.π(Ovp.ta)に分ける。

欲望が感覚的な快苦を対象とする無ロゴス的なものであるのに対して,願望は善を

対象とするロゴス的な欲求である (Rhet.1368b3o7-1369a4, 1370a18-27; de An.

414b1-6)

行為においてひとは常に何等かの善を目的として願望しているのであり,実践的

な知性である思慮は,乙の願望の対象である普の実現のための手段探究の能力であ

る。とのような目的的な知性であって初めて行為の始動因たりうるのである。 (EN.1139a31-b5)

例外的な妨げがない乙とと解釈する者としては,例えば Hardie(pp. 282),他方,

内的な妨げのないととも含むと解釈する者としては, Kenny, A. (The Practica1

Syl10gism and Incontinence, Phronesis, 1966, vol. XI, pp.177-178), Dah1

(pp.195-198, 215-216)をあげるととができる。

加) 'dTη 必ゐεprεi'(1147a33)の α57η が何を指すかについては,①「全て甘いも

のは快いJという普通的見解〈大前提〉を指すとする解釈と②「乙れが甘いJという

個別的見解(小前提〉を指すとする解釈と二通りの解釈が可能である (cf.Stewart,

vol. 2, pp.158-159)。 ①は「全て甘いものは快い」という普遍的見解の方は大前

提と して働くが,r味わうととを禁止する普通的見解Jは持っていても働いていな

いというととになる。との場合, r味わうととを禁止する普遍的見解Jを大前提と

する推論そのものが成立しないととになり,次の行の '手 μtvC5vλtyεf ゆεdrεW

iOUiO' (11t17a3'1)の解釈を困難にする。また,第二論考で示されたように,無抑制

においてd、識を持ちながらそれが{動いているか否かが問題となったのは小前提であ

り,大前提については全く問題になっていなかったのである。との点については,

?主(13)で既に論じた。

倒 Burnet,p.303; Gauthier-Jolif, L' Ethique a Nicomaque, II-2, :.pp. 61ト613.

倒 アリストテレスは,EN. 1. 1102b13-21, VII. 1147b21-33において,無抑制な

ひとの内iζ対立するこつの要素があり,内的な葛藤が存在する乙とを認めている。

ω ζのζ とは,ζの 1147b6以下の部分が第四論考の一部ではなしむしろ論考全

体の結論部である ζ とを示している。

制字義通りに解すれば,実践的推論の最終の小前提を君、味する。しかし,アリスト

テレスは結論を念頭に置いている時にもしばしば「小前提」として語るととがある

(Hardie, pp.288-289)。実際の行為が最終のものであると理解するならば,推論

.自体の結論は,行為の前にある最終の命題であるとも言えよう。

倒 cf.E~た III. 1113a15-b2.

的 cf.11. 110.1b3-16.

(415 )

- 40一

悌 cf.Ef¥l. VI. 1144b30-11 ~15a6 ; 1144a6-9.

的 ETl. VII. 1150blふ22;(cf. 115lal-i) fζおいて,アリストテ νスは祭抑餌を

日5さJとしての無抑制と「性急さJとしての無抑制のこつlζ大別している。前者

は思企はしても,その思量したところを情念、のゆえK守り通すζ とができない場合

であり,後者はそもそも思批しなかったがゆえに情念Kよって選手かれる場合である。

乙の区別は 7巻第3訟の無抑制jの悶の区別とうまく対応しない。

、3.U

--E・且-El

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