22
第2章 時間の何が物語りえないのか 37 “きみのバラをかくもたいせつなものにしたのは、 バラのためにきみが費やした時間なんだよ。 C'est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante” サン・テグジュペリ『星の王子さま』 セシウム133原子は退屈を覚えるだろうか。光は自らの孤高を苦々しく思う だろうか。ショウジョウバエが兄弟への自覚なき憎しみゆえの解離性障害を患 うことがあるだろうか。一方で、私たち人間を含むいくつかの生物種は、長い進 化の過程で身体組織を複雑化させ、繊細で多様な技能の後天的学習を可能とす る身体を獲得し、おそらくはそれに伴って、情緒的・認知的・思弁的な、一般に心 的と言われる諸機能も豊かに開花させてきた。私たちの人生は大小様々なドラ マに満ちているように思われる――悲哀があり、絶望があり、この世のものと は思えない歓びがあり、かけがえのないものに出会うことがあり、またそれを 失うこともある。それらは無数の物語として、小説で、戯曲で、映画で、CMで、 あるいはカフェでのおしゃべりの中で、SNSで、結婚式場で、法律相談所で、葬 儀場で、日々紡がれ続けている。 第2章 時間の何が物語りえないのか ベルクソン哲学から展望する幸福と時間 1平井靖史 1本論文は、平成28 年度科学研究費補助金・基盤研究(B)「ベルクソン『物質と記憶』の総合的研究―国 際協働を型とする西洋哲学研究の確立」(課題番号: 15H03154 )の成果の一部を含む。

第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 37

“きみのバラをかくもたいせつなものにしたのは、

バラのためにきみが費やした時間なんだよ。

C'est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante”

サン・テグジュペリ『星の王子さま』

セシウム133原子は退屈を覚えるだろうか。光は自らの孤高を苦々しく思う

だろうか。ショウジョウバエが兄弟への自覚なき憎しみゆえの解離性障害を患

うことがあるだろうか。一方で、私たち人間を含むいくつかの生物種は、長い進

化の過程で身体組織を複雑化させ、繊細で多様な技能の後天的学習を可能とす

る身体を獲得し、おそらくはそれに伴って、情緒的・認知的・思弁的な、一般に心

的と言われる諸機能も豊かに開花させてきた。私たちの人生は大小様々なドラ

マに満ちているように思われる――悲哀があり、絶望があり、この世のものと

は思えない歓びがあり、かけがえのないものに出会うことがあり、またそれを

失うこともある。それらは無数の物語として、小説で、戯曲で、映画で、CMで、

あるいはカフェでのおしゃべりの中で、SNSで、結婚式場で、法律相談所で、葬

儀場で、日々紡がれ続けている。

第2章

時間の何が物語りえないのかベルクソン哲学から展望する幸福と時間注1)

平井靖史

注1) 本論文は、平成28年度科学研究費補助金・基盤研究(B)「ベルクソン『物質と記憶』の総合的研究―国際協働を型とする西洋哲学研究の確立」(課題番号:15H03154)の成果の一部を含む。

Page 2: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近38

私たちは、ただ時間を浴びるように生きているわけではない。意味を見いだし、

形を与え、筋書きを捉え、そうして生を物語る。物語は反芻されるうちに意味を

変え、形を変え、筋書きさえも変える。時間の中を生きながら、その時間を反省し、

総括し、改変していくことで、その先の自分の生き方を変えていくような、私た

ちはそうした再帰的な〈解釈-遂行〉エンジンである注2)。そんな私たちにとって、

ニーチェのうらやむ牛のごとく瞬間的な忘却の中に生きるようになることは、

決定的な損失であるはずだ。なるほど、すべての出来事を同じように覚えてい

るわけにはいかない。そこに価値的な抑揚・起伏、意味的な繋がりを見いだし、

立体的で構造的な形を与えることは、しかしながら、単にそうすることが不可

避であるからという以上に、私たち自身の人生了解にとって大きな利得でもあ

るのだ。

1. カーネマン

ところが、人生の「幸せ」を考えるうえで、こうした物語化の機制には1つの盲

点があることを、心理学者にして行動経済学の創始者の一人であるダニエル・カー

ネマンは指摘している。カーネマンは〈経験する自己experiencing self〉と〈思い

出す自己remembering self〉を区別し、両者において幸福の評価の仕方が異な

ることを様々な実証的な研究から導き出した。現実の時間経過の中で出来事を

現在進行形で経験する自己にとっての幸福と、それを任意の時点から振り返っ

て物語として思い出す自己にとってのそれとの間には、大きな隔たりがある、

というのである。「物語とは重大な出来事や記憶に残る瞬間を紡ぐものであって、

時間の経過を追うものではない」注3)。

注2) 大作『時間と物語』の哲学者、ポール・リクールについては、すでに多くの優れた論考があるので参照していただきたい。『リクール読本』所収の諸論文の他にも、物語と自我について、リクールを含めた包括的な議論については福田(2014)を参照されたい。ベルクソンとリクールについては合田(2016)、藤田(2016)など。

注3) 『ファスト&スロー』下巻、276頁。

Page 3: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 39

むろん、物語が実際の経験の忠実な再現にはほど遠いことは誰でも知っている。

そこには常に意図的・非意図的な省略があり、誇張があり、編集がある。だが、カー

ネマンが述べているのは単にそういうことではない。彼が挙げる大腸内視鏡検

査の例を見てみよう。かつて麻酔なしで行われていたこの手術で、各時点にお

ける苦痛評価をリアルタイムで集計したグラフが示すもの(図2・1)と、記憶に

基づく事後評価との間には、逆転すら見られるという。カーネマンが指摘する

のは以下の2つの傾向である。

・ ピーク・エンドの法則――記憶に基づく評価は、ピーク時と終了時の苦痛の

平均でほとんど決まる。

・ 持続時間の無視――検査の持続時間は、苦痛の総量の評価にほとんど影響

を及ぼさない注4)。

見逃すことができないのは、後者の「持続時間の無視」と呼ばれる効果である。

図2・1にあるように、トータルではより多くの苦痛を味わったはずの患者Bよ

10

8

6

4

2

00 10 20

時間(分)

苦痛の強さ

患者 A10

8

6

4

2

00 10 20

時間(分)

苦痛の強さ

患者 B

図2・1注5)

注4)『ファスト&スロー』下巻、265-266頁。注5)『ファスト&スロー』下巻、264頁より転載。

Page 4: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近40

りも、激痛のピークで手術を終えた患者Aの方が、記憶による評価では悪い印

象を報告する。カーネマンが挙げる他の例、例えば二週間のバカンスと一週間

のバカンスでは、思い出される内容に大した違いが出ないため、仮に思い出す

自己の観点だけから判断するなら、バカンスに二週間を費やすことは無意味で

あるということになる注6)。しかし、言うまでもなく経験する自己にとっては、

二週間と一週間は大違いである。

2. 予見不可能な新しさ

ベルクソンが、1930年の論文「可能と現実」の冒頭で、時間のもたらす予見不

可能な新しさについて論じているところを引用しよう。今度は事後の記憶では

なく、事前の予測と比較されているが、論点は同じである。

私は以前に論じた問題、すなわち宇宙で続いていると思われる予見不可能な新し4 4 4 4 4 4 4 4

さの連続的な創造4 4 4 4 4 4 4 4

についてもう一度述べてみたい。自分のことを言えば、私はそ

れを絶えず経験していると思っている。これから自分に起こる事の細部をどんな

に想い描こうとしても不可能である。起こってくる出来事に比べれば、私の表象

はなんと貧弱で抽象的で図式的4 4 4 4 4 4 4

であることか。実現がもたらす予見不可能な「何

でもないもの」un imprévisible rienが全てを変える。例えば私がある会議に出席

するとしよう。私はそこで誰と会い、どんなテーブルを囲み、どんな順序で何を議

論するかを知っている。しかし、その人たちが私の思っていた通りに出席して議4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

論し4 4

、私の思っていた通りのことを述べたとしても4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、その全体ensembleはまるで

芸術家のオリジナルな一筆で今描かれたかのようにユニークで新規なunique et

neuve印象を私に与えるだろう。私が前もって抱いていた会議のイメージよさらば。

そんなイメージは既知の事物の予見可能な並置であるにすぎない。その場の情景

注6) カーネマンによる2010年2月の TED講演(https://www.ted.com/talks/daniel_kahneman_the_riddle_of_experience_vs_memory)参照。

Page 5: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 41

にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

かし、それは同様に予期せぬものであり、その意味において同様にオリジナルな

ものである。(強調引用者、PM, 99-100注7))

「予見不可能な新しさ」ということでベルクソンが述べようとしていること

を正確につかむ必要がある。彼の挙げる例に明らかなように、ベルクソンは決

して、「予想は常に外れる」ということを述べているのではない。むしろベルク

ソンが強調するのは、たとえ事態が予想どおりに起きたとしても、それでも現

実に生じる出来事には「予見不可能な」「ユニークで」「オリジナルな」何かが伴っ

ている、ということである。現に会議の例では、何が起きたか、誰が来て、何を喋っ

たか、という観点からすれば、予想されたとおりのことしか実際に起きなかった。

したがって、この「予見不可能な新しさ」は、時間の内容としての出来事4 4 4 4 4 4 4 4 4

には還

元できない何かである。ベルクソンはこの「何か」を示すタームとして、やや奇

妙な言い方ではあるが「予見不可能な何でもないもの4 4 4 4 4 4 4

」という表現を用いた(「何

でもないもの」と訳したrienは英語でnothingに相当する単語)。それは、この「何

か」が、出来事や事態の部分としてカウントできるようなものではないことを

示すためであろう注8)。その証拠にベルクソンは続けて、この新しさをあくまで

もより細部的な内容4 4 4 4 4 4 4 4

に還元しようとする反論を想定したうえで、こう述べている。

人はこう言うかもしれない。その場の状況の詳細を知らなかったのだし、その人

たち、彼らの身ぶりや態度まで事前にどうこうすることはできなかったし、全体

が新しさをもたらしたと言っても、それはこうした諸要素の追加分un surcroît d’

élémentsがまかなわれたせいである、と。しかし、私は、私の内的生の展開を前に

注7) 『創造的進化』にも同じ「予見不可能な何でもないもの」の表現を見いだすことができる。「具体的な解決がもたらすあの予見不可能な「何でもないもの」こそが、芸術作品の一切である。そしてその「何でもないもの」が時間をとるのだ」『創造的進化』430頁(EC, 340)。

注8) 「予想と異なることが生じる」ことを「予想外 imprévu」と呼ぶとすれば、ベルクソンは〈予想外imprévu〉と〈予見不可能 imprévisible〉は独立であると述べていることになる。この点について、Hirai (2014)で論じた。

Page 6: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近42

しても同じ新しさの印象を受ける。…(中略)…行動それ自体も、それが遂行され

る際に、欲せられたとおり4 4 4 4 4 4 4 4

、したがって予見されたとおりに実現しても4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、やはり4 4 4

リジナルな形を帯びている。(PM, 100)

内容ではない新しさ。原理的な一回性注9)としてのこの「ユニークな新しさ」は、

二次的・付随的なものであるどころか、この点にこそ、ベルクソンは時間の存在

理由・時間の実体性を認めているのである。有名な砂糖水の例のように、まんじ

りと待つという経験、行為で埋められていない時間、特段の変化も生じないよ

うな持続4 4

の経験を、ベルクソンが選んでいることは、こうした時間理解に秘め

られている意味について、ヒントを与えてくれる。

3. 経験の内容とそれが占める持続

私たちの人生の価値評価にかかわる重要な側面において、現実の時間のうち

には、物語に置きかえてしまうことができない何かがある。それは単に内容的

な編集・改変のことを指しているのではない。そうではなく、「何が起きたか4 4 4 4 4 4

」と4

いう内容の観点からはそもそも抜け落ちてしまう4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

ものが、あるということである。

そこにあるのは、単に経過時間の計量的な差異でもないことを見ておこう。

例えば一本の映画を1.5倍速で見るとしよう。十分にゆったりした映画であれ

ば、この高速化によって私たちの認知の時間閾値を溢れて見逃されるシーンは

ないだろう。等速で観た場合と比較したとき、この2つの映画鑑賞の間で、何を

観たか、つまり誰が登場し、何をどのような順序でしたか、という陳述可能な出

来事内容に違いはないだろう。物語は完全に同一である。それでも、私たちは、

両者の間に決定的な違いを見る。その違和は、1.5倍速で観たときに味わう「あ

注9) 物質の配列としてだけ見るならば、この宇宙が完全に同一の状態に回帰することは数学的には可能であると言われる。これが原理的な一回性であるためには物理主義的存在論をとらないことが必要である。

Page 7: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 43

るおかしな感じ」としてまずは顔を出すだろうが、そこから翻って、等速で観て

いるときにも「ある特定の感じ」を味わっているはずだということに気づかせ

てくれる。言われてみれば当たり前のことだが、私たちは出来事たちを、その都

度変動はするにせよ、常にある特定のペースで経験し4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、ある特定の持続を占め4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

る4

ようにして味わっている。その都度の特定の持続は、その「内容」をなす一連

の出来事に、ある独特注10)の質的相貌をまとわせるようなかたちで現れるので

ある。持続の量的な違いは、仮に内容が同一である場合でも、経験の質的違いと

して現象する。だがこれは、単に主観的な認知の話でもない。

40分かけて食事をとるとしよう。その食事を30分でも50分でもなく40分たら

しめたのは何だろうか。私たちは、つい、そこでなされた会話、料理、デザート

の有無、などの内容が時間を決める4 4 4 4 4 4 4 4 4

と考えがちである。しかしそれは、その各々

の会話・料理がどうしてその時間を占めるのか(例えばデザートはなぜ 5分かか

るのか)、という次元に問題を先送りしているだけだ(今話しているのは見積もり・

評価の話ではない。そうであるなら、それは要素的な事象の平均的所要時間か

ら推定するだけの話だ。しかし問題はそうではなく、ある特定の事態が実際に4 4 4

ある特定の時間を占めるということを引き起こしているのは何か4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

という話であ

る)。映画の例で見たように、「同一の行為内容が1.5倍の時間かかる」ことも可

能なのである。「何が起きたか」という内容的観点は、特定の持続を指定するの

に十分でない。現実の持続にとっては、どこまで細部に降りたとしても、出来事

系列として記述される物語は、やはり「抽象的で図式的」(形相的)なのである。

念を押しておくが、私たちの生きる時間にとって、これを折に触れて物語る(抽

象化する)ことは、むろん意義深いことである。物語ることによって初めて生ま

れる新しい質・価値・意味もやはりあり、それが翻って時間の経験をより豊かな

ものにしてくれる面もあるからだ。それを否定しようというのではない。だが、

私たちにとって、内容の順序配列だけでは確定されない、仮にすべての出来事

注10) この質の独自性(オリジナルさ)、一回性(ユニークさ)を表現するのに、(単独で類を構成してしまうという意味の)「独特なsui generis」というラテン語成句を用いるのも彼のお気に入りである。『試論』129頁(DI, 84)、MM, 207等、他多数。

Page 8: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近44

を網羅しても――それに経過時間を数量的記号によって併記したところで――、

なお再現することのできない何かを、実際の時間経験は伴ってくる。そしてこ

れこそが、現実の時間ボリュームそのものの実体をなす肝心なものなのではな

いか。形相的に把握された諸々の出来事に対して特定の時間的大きさを割り当

てている、言うなら「時間の詰め物」なのではないか。私たちはこれをさしあた

り「時間の第一質料」と名付けておいて、ベルクソンがおそらくは考えようとし

ていたこの着想の含意するところを、以下で辿り直してみたい。

4. 2つの計測不可能性と、質的計測

ベルクソンはその最初の著作から、時間計測にまつわるパラドクス、持続間

隔の把握に関する原理的困難を語っていた。一般に、空間的対象の二点間距離

を測る場合、計測される事物と計測する事物(物差し)を二地点において比較す

ることに基づいて計測はなされる。ところが時間の計測においては、計測され

る運動体と計測する運動体(時計)の二時点における比較に基づくことになるが、

この二度の比較が、まさに仮定によって同時にはなされえない。ところが求め

たかったのはこの2つの比較時点の間の時間間隔なのである。空間の場合は二

地点における比較同士が観測者にとって同時空間上に存在しているために、間

隔そのものを観察できる。ところがこれと同じ意味では時間間隔を(記号的置換、

すなわち「空間化」抜きには)直接観察によって計測することはできないという、

パラドキシカルな帰結が導かれる。

ただし、しばしば誤解されるところだが、この4 4

「計測不可能性」は、ベルクソ

ンが「主張」しているところのそれではない。むしろこちらは、誤った前提を立

てることに起因する誤った帰結だからである。ベルクソンはそもそも、時間間

隔なるものが客観的な(それゆえ同時的観察という意味での計測が可能な)量の

意味で実在するという前提を認めない(絶対時間の否定)。だから、この誤った

前提に依拠した誤った帰結を、自らの時間哲学のテーゼとして主張しているわ

Page 9: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 45

けではない4 4

。ところが、たいへん紛らわしいが、この前提の否定、すなわち「時

間間隔なるものは計測可能な量としては実在しない」(そうではなく持続の質と

してだけ実在する)という点は、彼の時間哲学の紛れもない主張である。これも

字面上は、「時間は計測可能なものではない」となるから厄介だ。計測を同時的

観察の意味で限定するならば、という条件付きである。

「並置」に基づく比較観察と対比して、ベルクソンは、内的持続との垂直的な

比較モデル(並置ではないので比較と呼ぶのは適切でないが)を提示する。これ

を仮に「質的な計測」と呼ぶなら、ベルクソンの主張は最終的には「時間間隔は

垂直的に・質的に計測されるものだ」という積極的な命題となる。例えば、何ら

かの運動を振り子時計で計るとしよう。振り子時計の一振りと次の一振りが時

間的に等間隔であるかを、振り子時計自身は計測することができない。そこで

振り子運動の斉一性を、別な時計の秒針で確認したとする(並置による計測)。

では今度は、この秒針のチクとタクが等間隔であるかをどう確認しよう。質的

には確認できる。しかし量的な確証が欲しい。ならば並置的計測を続けるか、

あるいは物性の仮定上の斉一性に投げる他ない。つまり、別な運動体との並置

による計測は、どこまでも「空回り」するように思える。だが、この空回り自体が、

第四次元方向に量としての客観的な時間間隔というものが実在しているという

(ベルクソンによれば)誤った仮定による描像に起因する。

そこで、2つの選択肢がある。時間が実在であること自体を否定して、時間に

ついての規約主義を採るか、あるいは、時間は実在であるが量ではないしかた

で実在すると考えるか、である。ベルクソンは後者である。

こうした時間単位は生きられた持続を構成していて、天文学者はこれが科学に何

ら手がかりを与えないという理由で好きなように処理しているが、これこそまさ

に心理学者の関心を惹くものなのである。というのも、心理学はもはや間隔の末

端にではなく間隔そのものにかかわるからである。なるほど、純粋な意識は時間

注11) 『試論』216頁(DI, 147)。他にも「間隔そのもの、持続および運動はと言えば、ひとことで言うなら、それらは必然的に方程式の外部に留まる」(『試論』135頁(DI,89))。

Page 10: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近46

を持続単位の総和の形では覚知しない。自分だけの力では、意識は時間を計測す

るいかなる手段も、いかなる理由さえも有さない。しかし、たとえある感情の持続

する日数が半減するとすれば、この感情は意識にとってもはや同じ感情ではない

だろう注11)。

5.心的時間とは何か ―― 進化におけるシステムの時間的拡張

時間間隔は、垂直的な質的計測においてしか実在しないとベルクソンは述べる。

ここから、彼の持続理論は、しばしば典型的な「心理的時間」の理説として受け

取られることになる。確かに、第一主著の段階では、そのように読める責任は哲

学者自身にもある。しかし、「時間が心理的にのみ流れている」ということは、「時

間はほんとうは4 4 4 4 4

流れていない」ということではない。時間の流れは虚偽でもな

ければ幻想でもない。むしろ彼は、心的時間経験を可能とするような意識構造

自体を、発生論的に4 4 4 4 4

解明することで、この質的持続そのものを現実的自然の一

部に組み込んでしまうのである。

第二主著である『物質と記憶』第一章から、早速彼はこの点の解明に取りかかっ

ている(MM, 15ff.)。アルキメデスの点となるのは、システムの時間方向の延長4 4 4 4 4 4 4

への着眼である。われわれ人間の身体は、進化のプロセスによって、高度に分業

化された「感覚-運動システムsystème sensori-moteur」(MM, 153, 169, 249,

etc.)の総体を組織し、後天的に身体能力を拡張しうる可塑的な脳を獲得するに

至った。これを時間的拡がりに注目して見れば、既定のプログラムにしたがっ

た逐次処理型のシステムだけから成る低次の生物に比して、相対的に時間方向4 4 4 4

に拡張したシステム4 4 4 4 4 4 4 4 4

を獲得した、ということになる。前者は刺激に対して採ら

れる反作用が躊躇の余地なく確定しているため、時間的に切り詰められた相対

注12)ヒトの「遅い時間」については、本川(1996)および井上(2008)、111-112頁。

Page 11: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 47

的に「速い」(時間的延長の乏しい)システムである。後者は可塑性と非決定性の

獲得と引き替えに「遅く」(時間単位が大きく)なる注12)。これは生存戦略の違い

であり、一概にどちらが優れているというものではない。現にベルクソンは『創

造的進化』では生物進化に2つの4 4 4

頂点を認め、一方を昆虫に帰している。

このようにして稼いだ時間的延長(最小時間単位を大きく取るという意味で

のタイムスケールのシフト)が、他ならぬ質的な流れ経験を可能にしたのであり、

そして、これがまさに心的意識の登場4 4 4 4 4 4 4

である、とベルクソンは考えるのである。〈心

が登場して、それが時間を認識するようになった〉のではなく、〈システムが時

間幅を稼いだことによって、その効果として心というものが成立した〉のである。

なぜなら、物質は最小の時間単位として定義されるので、この時間的拡張分は

本性上非物質的4 4 4 4

なものであり、クオリアはこうして拡張された時間内容の情報

圧縮の効果注13)としての質的符牒であり、その再帰的参照から合成されるのが

心イ メ ー ジ

的表象注14)だからである。〈心身問題を時間論で解く注15)〉というベルクソンの

アプローチの基本骨格が見て取れる。

心的なものは外界の「複写」として燐光のようにその都度明滅するわけでも、

ア・プリオリな世界の観察者として天下り的に存在するわけでもない。時間方

向に地歩を拡げていった生物システムが、ボトムアップ的に構造化してきた時

空的実在である。だから「時間は心の中にしかない」というのはベルクソンにお

注13) ベルクソンはこれを凝縮と呼ぶ。私の理解が正しいなら、拡張された現在を埋める物質の離散的反復(例えば一定数の電磁波の振動)を、時間分解能の制約のために単一の質へと符号化することで情報圧縮するのが、要素的感覚質としての〈クオリア〉の仕事であるとベルクソンは考えている。彼はエクスナーによる時間分解能の話を参照している(MM, 231)。そのためそれ自身は物質に新たに「追加」される「内容・構成素」ではなく、全体論的効果として「内容」に「浸潤」する。予見不可能な一回性は、まずはこの水準で確認できる。他方で、〈イメージ〉の構成については解釈が難しいが、今のところ次註のように解釈できると考えている。

注14) クオリアは、意識システムのメンバーとなる意識の瞬間、つまり意識にとっての最小時間単位に対応する。この水準においては、クオリアはその時間間隔を埋める一要素ではなく、全体に浸潤する質的相貌である。しかし、これが保持(a)ではなく保存(b)され((a)(b)については本文第6節を参照)、これを別のシステムが「参照」するときには、後者のシステムの内容・構成素になる。これは第二次元の時間的拡張、すなわち潜在的過去への時間的拡張を要求する。この再帰的参照は、かくしていくらでも機微に富んだ複雑な〈イメージ〉の生成を可能にする、と私は解釈しているが、この点についてのテキスト的立証については十分でないことを認める。

注15) 「主客の区別と合一にかかわる問いは、空間と言うよりもむしろ時間の関数としてen fonction du temps立てられるのでなければならない」(MM, 74)。

Page 12: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近48

いても正しいのだが、言わんとすることは物理主義者と逆転する。時間が心で4 4 4 4 4

できているのではなく4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、心が時間でできている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

のである。

時間は何をなし得るだろうか。…(中略)…時間は、すべてが一挙に与えられるの

を妨げている。時間は遅延させるIl retarde、というよりむしろ時間とは遅延であ

るil est retardement。…(中略)…時間が実在しているということは、事物のうち

に非決定性に属する何かが存在することの証明であり、時間はこの非決定性その

ものではないだろうか。(PM, 102)

おもしろいことにと言うか困ったことにと言うか、「物理的外界には時間の

流れはない」「時間の流れは意識的存在者にとってのみ存在する」という主張の

額面だけ見れば、時間の流れを主観的錯覚と見なす、いわゆるB理論と区別が

つかない。が、もちろん実態はまったくと言っていいほど別物である。違いは、

見てきたように、背景となる時間存在論の違いに起因する。

6.時間の流れとその度合い ―― 2つの時間的延長次元

さて、この時間的な延長については、ベルクソンは(a)近接過去方向のみならず、

(b)垂直的な、遠隔的過去への拡張も認めている(図2・3)。二次元時間論と言っ

て差し支えないと思う。「現在の幅」からなる「経験の流れ」そのものは前者の

時間的延長(a)によって成立する注16)。後者(b)は「イメージ記憶」を説明するも

ので、これを示すのが有名な逆円錐図である(図2・2)。詳論する場でもないので、

ポイントだけ確認する。面Pが現在空間、点Sは身体である(人間身体である以

上その近接的時間延長(a)はここに含意される)。底面ABが、システムが包含

する遠隔的過去の全体、すなわち(b)の拡張分を示している。

さて、円錐に描き込まれた複数の断面(A’B’、A”B”)が示しているのは、(b)

注16)「私の現在」は直接的過去と直接的未来に持続の厚みを有している(MM, 152)。

Page 13: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 49

A

A′ B′

B

A″ B″

P

S

図2・2 『物質と記憶』の「記憶の逆円錐」図

知覚空間

点S:身体

底面AB:純粋記憶

面P:現在空間=物理世界

要素的時間単位

時間的延長(b)(遠隔的過去)

時間的延長(a)(直接的過去)現在の幅=経験の流れ

図2・3 平井による再構成(S、P、ABは図2・2と対応)

Page 14: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近50

の(a)に対する統合のされ方が可変的で、度合いを容れるということであり、逆

円錐SABはその運動の全体を表す。例えば、私の心的実在が全的に現在の流れ

(a)に埋没している((b)が点S方向に縮退している)状態では、むしろ「経験の

流れ」は流れとしては経験されないことになる注17)。「自我は、過ぎ去っていく感

覚なり観念のうちに全面的に没入してしまう必要はない。なぜなら、その場合

には逆に、自我は持続することをやめるだろうからだ」注18)。これは具体的には、

目先の感覚-運動処理に認知リソースを使い果たし俯瞰的視点をもてない状態

に対応するので、経験にも整合的である。所謂「時間を忘れて」いた状態である。

時間的延長をもたない物質の時間は流れないが、だからといって時間的延長を

もつ私たちが時間の流れを常に経験しているわけでもないことを忘れるべきで

はない。(a)の延長がある以上経験の流れは常に成立するが注19)、システムの(b)

方向の伸縮によっては「経験の流れ」を保持したまま「流れの経験」を多かれ少

なかれ喪失するケースはある。

この論点を、時間の流れをめぐる英米系の時間哲学における争点と対照して

みることは興味深い。A理論とB理論の対立は、「主観的には時間は流れている

ように経験されるが、果たして客観的世界に時間は流れているのか否か」とい

う問題設定のもとにある。しかし、仮にA理論が正しく、世界の時間が流れて

いるとしても、それを経験する「主観」自身が等しく流れるその一員であるなら、

相対速度ゼロである流れをどうして経験できるのか。流れは流れの経験を含意

しない。つまり、問いは綺麗に反転して、「客観的世界に時間が流れていようが

いまいが、どうやって主観的に時間が流れているように経験されうるのか」と

なる注20)。経験そのもののうちに「構造」が備わっていなければならないのである。

ベルクソンの仮説は、垂直的構造のみならずその可変性まで組み込んでいる点で、

配慮が行き届いているように思える。単なる流動主義と一緒にするわけにはい

注17)恒常的にその傾向をもつ理念的極限を「衝動の人」と呼んでいる(MM, 170)。注18)『試論』115-116頁(DI,75)。注19) (a)の延長は生物種によりほぼ固定されているため、人間同士では時間経験の流れそのものの「速

さ」にほぼ度合いはないと想定される。しかし後述のように、想起における速さは多様でありうる。注20)先述のように、ベルクソンではそもそも心自体も客観的に構成されることはここでは措いている。

Page 15: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 51

かないのはこうした点である。

7. 速さ逆転問題 ―― イメージ記憶における時間の見積もり

前節の議論は〈経験する自己〉の時間の話である。一般に、「楽しい時間は速く

過ぎる」と言われるが、これを上述の議論から説明するなら、「システムの水平

成分(a)が(その個別内容ではなく)全体として帯びているはずの4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

〈流れの質4 4 4 4

〉に

対する認知リソースが割かれない」という意味である。「内容」の処理に追われ

る(そしてその意味で持続はしているのだが)があまり時間自体を見損ない、そ

れが「速さ」と表現される。

では「歳をとると時間が経つのが速くなる」(ジャネの法則)と言われる際の「速

さ」はどうだろうか。この場合「速くなる」のは高齢者が「楽しい」からではなさ

そうだ。例えば青山(2016)は、「過去について語る場合と、いまについて語る場

合では、時間の「速さ」と「遅さ」が逆になってしまう」注21)と述べている。つまり、

「楽しい時間」と異なり、経験ではなく記憶の話になっているということである。

ここで、カーネマンの分類を適用することができそうである。すなわちここには、

単なる対称的な逆転というより、〈経験する自己4 4 4 4 4 4

〉を扱うか4 4 4 4

、〈思い出す自己4 4 4 4 4 4

〉を4

扱うか4 4 4

、という2つの別個の問題があると考えられる。そして子どもにおいても

高齢者においても、それぞれで経験と記憶の2つの観点による分析は成り立つ。

では〈思い出す自己〉にとっての「速さ」は、何に起因するのか。一川(2015)や

青山(2016)は、「一定の時間内における、印象的な出来事の数の少なさ」に帰し

ている注22)。カーネマンが「持続時間の無視」を指摘していたことを思い出せば、

各出来事の持続ではなく数に訴えるのは整合的である。ただし、この数は何を

指しているのかについては、いくつかの整理が必要であると思う。一般的に言

注21)青山(2016)、174頁。注22)青山(2016)、173-174頁。一川(2015)、161頁も参照。

Page 16: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近52

うなら、この「少なさ」を論じるうえで、少なくとも以下の3つの段階を区別でき

る。(i)まず、経験の段階で、期間が同じとしても子どもと大人が同じ密度の時

間を過ごしているとは限らない。(ii)次に、経験が同じとしてもそこから同じだ

けの出来事が記憶に記銘されるとは限らない。(iii)最後に、保存が同じとして

もそこから同じだけの出来事が想起できると限らない注23)。では、ベルクソンは

これらの各段階についてどういう見解を採っているか。

(i)の点は、前節で見た、幅をもつ現在経験の構造から説明される。少し敷衍

しておけば、ベルクソンにとって、私たちの経験は機能的知覚と現象的知覚の様々

な配合から成っている。そして外界についての現象的知覚は、手持ちのイメー

ジ記憶の投影によって大幅に加工・編集されている注24)。言ってみれば私たち自

身が生きたプロジェクション・マッピング装置なのである。外界にあるのは物

理的振動の海だけであるから注25)、私たちが目にするカーテンや机やジャケッ

トといった知覚のイメージ成分はすべて私たち自身の認知システムの効果に他

ならない。さて、物質である脳が保持できるのは、知覚経験における物質成分(機

能的知覚)のみである。また物質である脳が産出できるのは、運動神経を介した

身体運動だけである注26)。とすれば、脳内痕跡の残存と別に、非物質的なクオリ

アとイメージの残存とその再利用を認めなければ、私たちが現に有している現

象的知覚の成立を説明できない。これが私たちのシステムが(b)側にも延長し

ているということである。

さて、幼児においては、現象的知覚の素材となるストック分のイメージ記憶

に乏しいため、多くの要素的クオリアを動員した新規イメージの描出作業に認

知リソースが割かれると予想できる。これに対し経験を重ねるごとに、出来合

注23)記銘と想起の間に保持を区別できるが、ここでは省略する。注24) ベルクソンは自動的再認(機能的知覚)と注意的再認(現象的知覚)に相当する二重視覚システムの

理説を『物質と記憶』第二章で展開しており、その現代的意義と、とりわけいかにしてクオリアが(a)の時間的延長の効果と考えられるかを、平井(2016)で詳しく論じたので、参照されたい。

注25) 『物質と記憶』第四章、とりわけMM, 220以降。第一章から、物理システムを描くのに彼が用いるタームは波や振動vibration, ébranlementである。

注26) 身体は過去を「表象するのではなく演じる jouer」(MM, 87)とはこの意味である。「説明ギャップ」のことをベルクソンは重く受け止めている。脳は「選択の器官」であり表象を「産出」することなどできないということは、『物質と記憶』全体を通じて飽くことなく強調されている。

Page 17: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 53

いのイメージ自体の使い回しが効率化するため、都度の認知経験における事実

上の新規構成分のイメージは減少するだろう。子どもに比して大人の経験密度

が減少するということは、元来は生態学的有用性という閉域からの離脱として

せっかく進化が獲得した時間的延長を、再び功利性のエコノミーのサイクルに

組み戻してしまうことによる。何を見てもどこかで見たような気になるわけで

ある。近年のマインドフルネスについての実践は、ベルクソン流に言うなら、惰

性化した現象的再認の発動を意識的に遅延し、持続の質的再建4 4 4 4

を図る行為とみ

なせるかもしれない。実際、「記憶力の幸福な性向」(MM, 170)は、功利的収縮に

絡め取られてしまうことなく逆円錐の拡張を浮動することに存する、と彼は言

うのである注27)。

(ii)はどうか。物質の配置による脳内痕跡と異なり、潜在的過去への時間的延

長(b)は保存についての量的制約がないため、経験における心的・非物質的構成

素については、ベルクソンはその全面的残存を認め、これを「純粋記憶」と呼ん

でいる(エピソード記憶に相当)注28)。その喚起形態が「イメージ記憶」である。

脳に保存されるわけでないため、「それ自体で保存される」(MM, 166)と記述さ

れる注29)。それゆえこの(ii)の点については子どもと大人の差異は認められない。

(iii)について。原子論的な記憶描像を前提する連合主義的心理学をベルクソ

ンは批判している。想起はバケツの中から目的のボールを取り出してくるよう

注27) ただし「良識ないし実践感覚」(MM, 170)、「正常な自我」(MM, 181)においては、現在状況への効率的適応が重んじられ、必ずしも創造的な豊かさが問題になっているのではないように見える。

注28) 記憶力の分類が、ベルクソンにおいては存在論的な意味を担っている点を確認しておこう。われわれの経験は時間的延長を有しているため、そのうちに物質に還元できない要素を含む。身体の物理的状態についてならば、生理学・物理学の知見を維持するから、物理的脳内痕跡の実在を肯定できる。これをベルクソンは身体記憶ないし習慣記憶と呼んでいる(現代の手続き型記憶に相当)。この痕跡の記銘の際に一定の縮減が生じることはしたがって想定できる。これに対し、経験を構成する残りの非物質的(非現在的)要素については、本文で述べたとおり、その全面的保存を認め、これを組み込んだシステムとして私たちの時間構造を描出するわけである。認識されない出来事の保存については解釈が分かれる。

注29) ベルクソンが、(i)システムの実在にかかわらずすべての過去事態の残存を認めたうえで、そのドメインから個別システムを構築しているのか(可能世界のライプニッツ的アプローチに似る)、(ii)個別システムに相関的にのみ、そのメンバーとなる過去事態の実在を認めているのか(ただしこの場合でも同一要素の複数システムへの帰属はありうる)、解釈上微妙な点がある。宇宙サイズの単一持続システムを考えるならば、実在を認められる要素の外延全体は一致することになるが、難しい点である。この点については、エリー・デューリングの論文(2016)を参照。

Page 18: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近54

な作業ではない。アクセス可能な潜在的過去の総体が私たちの「心」そのものの

質料であると捉えるのみならず、想起プロセスも常にシステム全体の変形4 4 4 4 4 4 4 4 4

とし

て記述されるということである注30)。また、同一の記憶群を様々な異なる解像度・

時間倍率で再現できることも経験的事実である(記憶の複数の「面plan」(MM,

189))。例えば修学旅行の3日間を全体として想起することもできれば、2日目の

夜の食事でなされた特定の会話を思い出すこともできる。さて、現在の状況に

有用な記憶を、この膨大なリソースの中から適確に見定め、ふさわしい拡張の

度合いで取り出すことを、子どもがはじめからできるわけではない。幼児に見

られる記憶亢進は、「彼らの想起は行動の必要によって制限されることがない。

幼児がいともたやすく保持するように見えるのは、それは、彼らが想起する際

の弁別において劣るからに他ならない」(MM, 171)。簡単に言えば、子どもは、

無駄に4 4 4

思い出すのである。つまり、大人が思い出さない術4 4 4 4 4 4 4

を身につけてしまっ

ているような、たいして重要でないこと、「印象的」でないことまで、思い出す。

かくして同量の経験と同量の保存を仮定しても、大人はより少ない出来事しか

思い出せないであろう。

とはいえ振り返って時間評価する場合には、想起そのものが目的でないから、

実際に個別の内容を想起したうえでカウントしているわけでない。つまり、ひ

とまとまりの一時期としてみられた過去が潜在的に含んでいる要素の豊かさを、

質的に値踏みしているはずである。離散的にカウントされないこうした様相を

ベルクソンは「相互浸透」と表現し、私たちの〈質的多様性〉という心的システム

の特徴づけに用いている注31)。潜在的であっても遠隔的過去は等質的に配列さ

れているわけではなく、様々な仕方で有機的に組織され複雑な構造体をなして

いるとベルクソンは考えており、もはや子どもvs.大人といった構図には還元

できないほどの多様性を想定していると思われる注32)。記憶に基づく時間の査

注30) 特定のイベントが想起される場合でも、残りの部分を背景化させるなどの「回転」処理を伴いつつ、あくまで記憶全体が「並進」するとベルクソンは説明する(MM, 188)。「私たちの全人格は、その記憶の全体を伴って、分割されないままに自らの現在の知覚のうちへと参入する」(MM, 184)。

注31)『試論』第二章。注32)『試論』に付した拙文「解説」276-278頁を参照していただければ幸いである。

Page 19: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 55

定に用いられるのは、「内容」の「数量」ではなく、「全体」が呈する独特のオリジ

ナルな質であり、そしてこの質のユニークさは、遠隔的過去システムの内的構

造化のされ方を反映するものである。

8. 遅延としての持続、待つこと ―― 物質の時間と意識の時間

2節で引用した「可能と現実」のくだりで、ベルクソンは、問題の予見不可能な

新しさは、物質だけの宇宙には備わっていないだろうと述べている。物質だけ

の宇宙ならば、決定論を認めてもいいとさえ述べている注33)。「無機的世界は無

限に速い一連の反復ないし疑似反復であり、それが総和されることによって可

視的で予見可能な変化となる」(PM, 101)。物質的宇宙は、最短の時間的外延だ

けを有するシステムであった。それは勝手に一次元に整列して時系列をなして

いるわけですらない。そのため「反復ないし疑似反復」と呼ばれる。直線状の時

間像は、想起と整序化を可能とする知性が登場して仮構したものだからである。

仮に時間が展開したとしても、それはなにも歴史に付け加えない。「自然法則と

呼ばれるものに適うよう、あらかじめ定まった、計算可能でさえある仕方で他

に影響する。…(中略)…選択の余地をもたないから、単に可能な複数の作用を

あらかじめ試してみる必要もない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

」(強調引用者、MM, 15)。この状況では、時間

は未展開である状態と展開済みである状態との間に実質的な違いをもたらさな

かったであろう注34)。

注33) ただし反事実的仮定として。この点には、時間描像の時間的変遷を語ることに伴う(メタ時間の)パラドクスを回避する配慮があると考えるが、詳しい検討は別の機会に譲りたい。

注34) 持続しない、すなわち現在しかない物質の時間が、「展開済み」という完了相とみなされる点は一見すると掴みにくいかもしれない。物質は持続しないが、まさにそれゆえに予見不可能性を含まず、したがって(現に展開されてもされなくても本質的な違いがないという意味で)「(可能的に)展開済み」である。この場合時間の仕事は、単に名目的な「現在の移動(スライド)」ということになり、ベルクソンはこれを実在的な「働き」とは見なさない。これに対し、持続する時間は、予見不可能性をはらむため、現に展開してみなければわからない(=展開を先取りできない)不確定性を本質的に含む。6節での引用も参照。

Page 20: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近56

しかし、6節に概観したように、進化の歴史は、有機身体の複雑化に伴って実4

在の水準で4 4 4 4 4

時間次元での拡張を果たし、この遅延の効果としてまずはクオリアを、

次いでイメージを、心的現象的意識の登場をもたらした。この獲得された時間

的延長を充実しているのは、功利性に切り詰められた時間がもちえなかったよ

うな、原理的に一回的な質なのである。

生命をもつ存在は本質的に持続している。それが持続するのは、まさに、新しいも

のdu nouveauを仕上げるからであり、さらに、仕上げは探求を要し、探求は模索

を要するからである。時間とはこの躊躇そのもののことだ。さもなければ、時間

はまったく何ものでもない。意識と生命を 宇宙から除去すれば、…(中略)…宇宙

の連続する諸状態は映写以前に映画フィルムの上に並置されているイメージと同

じようなものであることになり、したがって展開に先立って理論的に計算可能で

ある。しかし、それではいったい展開は何のためにあるのだろう。なぜ実在は展

開されつつあるのか。どうして展開されてしまってはいないのか。…(中略)…こ

れが私の思索の出発点であった。(PM, 101-102)

9.まとめ

ここまで、現代的な用語法を交えつつ再構成しながら、ベルクソンの議論を辿っ

てきたが、おわかりのように、このノーベル賞哲学者は、見かけに反してあまり

親切な書き手とは言えない。しかし、十分に分節するならば、客観的で壮大な進

化の時間から、普通主観的と言われる個人の幸福や記憶の存在意義を捉え返す

ことを促してくれる、ある宇宙論的な時間像を示していることがわかる。

ベルクソンが考える宇宙は、様々な時間的・空間的延長を有した局所的シス

テムの併存を認める宇宙である。物質は、「作用に対する既定の法則による反作

用」を繰り返すものとして、最短の時間的延長システムの貼り合わせとして描

かれる。これに対して進化を通じて「複数の反作用可能性(という意味での非決

Page 21: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

第2章 時間の何が物語りえないのか 57

定性)をもつ身体」を獲得した生命は、その〈感覚-運動システム〉における時間

方向の規模拡張を果たしてきた。これが、感覚刺激の情報圧縮としてのクオリ

ア一般、そして組織化されたクオリアを潜在的過去として再参照可能とするイ

メージ群、さらには、これら二次元の時間的延長の複合的な効果として、時間量

の質的把握としての時間の流れ経験をもたらした。私たちが時間の第一質料と

呼んだ、時間「内容」としては同定不可能な、持続の予見不可能性・一回性・独自

性は、ここに起因する。

環境に対する反応をあらかじめ決定しないというこの戦略は、生物個体とし

ては極めて無力な状態で生まれることを含意するから、短期的な功利性の観点

からは必ずしも最適なものとはいえない。しかし、その対価として得た、心的現

象的意識の、すなわちクオリア・イメージによる情報の圧縮・保存・再帰的利用

という手立ては、時間経験の質的把握として価値や意味と呼ばれるものを産出し、

宗教を産み芸術を産み学問を産んできた。産み出された質は、絶えずまた要約

され、綜合され、再参照されることで功利性の圧力のもとに縮減するから注35)、

持続の忘却はどこにでも口を開けている。様々な出来事に枠づけられる私たち

の人生が、形相的把握によっては見落とされがちな一回的で予見不可能な異質

性に彩られていることは、単に二次的な装飾的効果と呼ぶことはできない、あ

る本質的な意味を宿しているのである。

注35)7節の(i)で見たように。

略記号ベルクソン著作からの引用には、それぞれQuadrige版を用い、以下の略号で示した。訳は邦訳を参照したが、文脈上一部改変したところがある。

DI: Essai sur les données immédiates de la conscience .『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人・平井靖史訳)ちくま学芸文庫、2002年。

MM: Matière et mémoire .『物質と記憶』(熊野純彦訳)岩波文庫、2015年。

EC: L'évolution créatrice .『創造的進化』(合田正人・松井久訳)ちくま学芸文庫、2010年。

ES: Énergie spirituelle .『精神のエネルギー』(原章二訳)平凡社ライブラリー、2012年。

PM: La Pensée et le mouvant .『思考と動き』(原章二訳)平凡社ライブラリー、2013年。

Page 22: 第2章 時間の何が物語りえないのか - WordPress.com · 2019-01-28 · 第2章 時間の何が物語りえないのか 41 にレンブラントやベラスケスの絵画のような芸術的価値があるとは言わない。し

Ⅰ. 哲学・美学的接近58

参考文献

青山拓央(2016)『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版。

エリー・デューリング(2016)「共存と時間の流れ」平井・藤田・安孫子(2016)、pp. 270-305.

藤田尚志(2016)「リクールとベルクソン」『リクール読本』(鹿島徹・越門勝彦・川口茂雄編)法政大学出版局、pp. 229-242.

福田敦史(2014)「自我性を求めて」『シリーズ新・心の哲学II 意識篇』(信原幸弘・太田紘史編)勁草書房、pp. 225-270.

合田正人(2016)「記憶と歴史――リクールからのベルクソン再読」平井・藤田・安孫子(2016)、pp. 105-116.

平井靖史・藤田尚志・安孫子信編(2016)『ベルクソン『物質と記憶』を解剖する――現代知覚理論・時間論・心の哲学との接続』書肆心水。

平井靖史(2016)「現在の厚みとは何か――ベルクソンの二重知覚システムと時間存在論」平井・藤田・安孫子(2016)、pp. 175-203.

Hirai, Yasushi (2014)“Imprévisibilité comme liberté chez Bergson”in S. Abiko, H. Fujita, N. Sugiyama (éds.), Disséminations de L'évolution créatrice de Bergson , OLMS, pp. 85-94.

一川誠(2015)『大人になると、なぜ1年が短くなるのか?』宝島SUGOI文庫。

井上愼一(2008)「第5章 生物の時間・ヒトの時間」『時間学概論』(辻正二監修・山口大学時間学研究所編)pp. 89-117.

ダニエル・カーネマン(2014)『ファスト&スロー 上・下』(村井章子訳)早川ノンフィクション文庫。

本川達雄(1996)『時間―生物の視点とヒトの生き方』NHK出版。