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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 97(1): 1-13 URL http://hdl.handle.net/10291/17661 Rights Issue Date 2014-12-22 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

田中機械における労使関係-倒産・工場占拠・自主生 URL DOI...1976 春闘, 港プロック 1976.2 賃金遅配はじまる 1976.2 矢賀製作所倒産 15 ,820

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  • Meiji University

     

    Title田中機械における労使関係-倒産・工場占拠・自主生

    産にいたる経緯-

    Author(s) 平井,陽一

    Citation 明大商學論叢, 97(1): 1-13

    URL http://hdl.handle.net/10291/17661

    Rights

    Issue Date 2014-12-22

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • 田中機械における労使関係

    一一倒産・工場占拠・自主生産にいたる経緯一一

    lndustrial Relations at Tanaka Machinery Co., Ltd

    平 井陽一

    y oichi Hirai

    目次

    はじめに

    1.前史 1945~65 年

    2. 組合運動の高揚 1966~77 年

    3. 賃金遅配・自己破産・強制執行 1978~81 年

    4. 対立の構造 1982~89 年

    小結

    はじめに

    この小論は, 1970年代から 80年代にかけて,南大阪の金属産業を舞台に繰り広げられた労働

    組合連動を鳥蹴し,ここに示された労使対立の構造を整理することである。とくに桟目するのは

    田中機械(株式会社田中機械製作所,所在地大阪市港区, 1973年当時資本金 5億円,従業員 486

    人〉の労使関係である。

    この事例を重視するのは,第一に,研究対象とする労働組合が破産法による企業整理,具体的

    には従業員の解雇,破産管財人による会社財産の処分に抗しておよそ 10年にわたって争議を続

    けたこと。第二に,その間,組合が工場を占拠して生産管理がおこなわれていたこと。第三に,

    争議継続の旗印として,憲法にもとづく生存権と,労働組合法(組合にたいする不当労動行為)

    を掲げたこと。第四に,最終的に地労委(大阪府地方労働委員会)から解雇無効の救済命令を得

    たことによる。

    大正 11年に生まれた破産法は,労働組合にとって「戒厳令」といわれ,労働者の権利を配慮

    していないとされる。田中機械の破産管財人は,破産法の法理論を盾に組合との団体交渉を拒否

    し,労働債権を否認し,また組合が倒産を予測して経営者と交わした工場設備などの使用協定も

    無視し,工場からの退去を組合に追った。これからはじめようとしている一連の研究は,このよ

    うな対立構造にある労使関係を実証的に分析することによって,この組合が南大阪の地でなにを

    求め,なにを実現したかを検証することである。この小論は,その検証のための序章をなす。

  • 2 『明大商学論議』第 97巻第 l号 (2 )

    田中機械の労使関係の推移を時期区分すると, (1)終戦後から組合がストライキを打てるように

    なるまでの前史 (]945-65年), (2)組合が地域の労働運動の拠点となって多彩な運動を繰り広げ,

    多くの成果をあげる時期(1966-77年), (3)倒産をめぐる攻防や工場占拠・自主生産がはじめら

    れる時期(1978-81年), (4)工場占拠・自主生産をつづけながら,裁判所と地労委の場での争い

    が繰り広げられ,さいごに地労委の救済命令を得て組合が勝利する時期(1982-89年)に分か

    れる。

    研究対象の舞台となる問中機械は,同社の『経歴書』によると,おもに製精機,化学機械,起

    重機を製造し,大阪ではクボタ,栗本とならぷ二部上場企業であったω。

    いっぽう労働組合は,正式名称を全国金属労働組合間中機械支部と称し(以下,出中機械支部

    あるいは単に組合という),金属関係の産業別労働組合である全金(全国金属労働組合)のー支

    部をなす。全金は労働組合の全国組織である総評(日本労働組合総評議会)の傘下にあった。

    1.前史 1945......65年

    田中機械支部の運動を中心とした時期区分を示せば,岡表 1のようである。

    終戦直後,岡中機械の労働組合はいくどか所属する全国組織を変えるが, 1961年に総部傘下

    の全金加盟に務ち着く。全金加盟の直後に組織分裂を経験するが,組織再統ーの後,とくに 1970

    年代に入ってから,組合は南大阪における地域労働組合運動の一大拠点となる。これらの経緯の

    なかで・もっとも注目されるのは,大和田幸治という類まれな組合指導者の存在である。彼は次章

    で述べる「闘争拡大期」以降の全期聞を通じて所属組合の,また地域労働運動の司令塔となるω。

    なお,田中機械の労働者たちは,戦前の文献によると,すでに 1920年(大正 9年〉の八幡製

    鉄所の大争議, 21年の神戸三菱造船所や川崎造船所のストライキに触発されて, 21年 6月には

    労働条件改善などの要求をめぐる労働争議を起こし,解決するという歴史をもっていた(村島

    (1) この会社の歴史は古く,明治 44年に田中岩吉が製糖機械の研究をし,田中工務所として設立された。

    当時,産業機械は海外に依存していたため,会社は日本で最初の本格的な製糖機械のメーカーとなった。

    1913年(大正2年〉に田中機械製作所と改称し,運搬機械の製作にも着手した。 1919年(大正8年)

    に資本金 100万円で株式会社に改組した。 1938年(昭和 13年)には,園内最大の起重機メーカーとなっ

    た。戦中は三菱化工機株式会社と合併し,同社大阪製作所として軍需生産をおこなっていた。戦後は

    1949年に三菱化工機から分離し,田中機械として独立した。 1961年に資本金を 5億円に場資し,国内

    では北海道,東北,九州、1,南西諸島で製糖プラントを建設し,海外ではエジプ卜,タイ,ベトナム,マ

    レーシア,フィリビン,イラン,パナマ,ボリビアなどでも製糖プラントを建設したり,輸出したりし

    ていた。メインバンク l士三菱銀行,三井銀行,三和銀行などである。工場敷地約2万平方メートル,工

    場の建坪 1万 6,000平方メートルである (1最終陳述書J3-4頁および「会社更生手続開始申立書J1-3 頁より)。

    ( 2) 大和田幸治の略歴はおよそつぎのようである。 1927年,大阪(天王寺)に生まれる。親は「家で‘小

    さな鉄工所」を経営。 1944年,工業学校時に軍需工場(住友プロペラ)に動員され零戦のプロペラ造

    りにも従事した。 1946年2月,三菱化工機(のちの田中機械)に仕上げ・組立工として入社する。そ

    の後組合の職場代議員.執行委員,副組合長,青年婦人対策部などを歴任する。 1964年に組合は全金

    に加盟し,田中機械支部委員長に就任する。以上,大和田『企業の壁をこえて』による。

  • (3)

    前史

    1945-65

    田中機械における労使関係 3

    図表 1 時期区分(田中機械支部の運動を中心として)

    総評,全企など 田中機械支部・港合同

    1945産別会議に加盟

    旧中機械,管財人など 地労委,裁判所,財界など

    1949産別会議を脱退

    1962.3田中機械労組,総同盟加入1963田中機械労組春闘で 14日スト1964.3同盟金属を脱退し全金田中機械支部を結成

    1949三菱化工機から分離1950レッドノぐージ

    1960橋上社長就任

    1965.4田中支部,夏季一時金 1965浅田,労務担当に就任と浅田就任反対でお日スト 1965.8ロックアウト→第2組1965.9国中支部,夏李闘争妥合結成結大和田委員長暴力団員に襲撃さる

    運動の高 I 1966.71布地協,田中文部支援揚 |の残業llii!f闘争1966-77 I 1966.8全金南大阪地協.田中

    支援の 1時間連帯統一スト

    遅配・破

    産・強制

    執行

    1978-81

    地労委等

    での争い

    1982-1989

    1966.10.21国際反戦デー開始1967.8田中支部,第2組合を 1967目7第 2組合幹部 25名を解体し組織統一 解雇

    1970大阪港軍港化阻止闘争 1970港プロック,春闘で 3 1970年代初頭から関経協「春闘研究集会」開催1971日経辿,金金大阪を批判

    開始 万円獲得相次ぐ

    1972.7 F1本共産党,細川前で全金批判のピヲ配布

    1972.8金金大阪,共産党止の

    1971.5細川支部,ガードマン闘争 ~1973.8

    1973秋,第一次オイルショック

    協力関係打切り 1974年以降,港ブ口ック日支部倒産攻撃受ける

    1975春闘で令余南大阪 3万 1975.2大原社長就任 1975日経連, 15%のガ115円賃上げ イドライン設定1975公労協スト権スト 1975.4大阪亜鉛倒産

    1977.1第 l回全国労働者討論集会(大阪集会)

    1979.1 食会問中機械支部闘争勝利決起集会(大阪集会)

    1979.12 r金金田中機械と共に闘う会」結成

    1975関経協, I全金対策部会」を設置

    1976春闘, 港プロック 1976.2賃金遅配はじまる 1976.2矢賀製作所倒産15,820円(ガイドゾーン突破)

    1978.9.25団結権確保総決起集会

    1978.11.2大阪地労委に救済申立(解雇無効等)

    1978.9.13大阪地裁に自己破産'11立1978.11.4従業員全員解雇1978.1218破産宣告1979.3日第 1国債権者集会1979.6.22管財人,強制執行 197日第二次オイルショツ

    7 1979目8右翼玄洋社.ビラ撒き

    1980.3社会党,国会で田中間 1980.2学術調査団 1980.12.17管財人,否認権提題追及 1980.9.13自己破産申立 2周訴(建物退去など)

    1981.6.17大阪総評.田中機械支部支援の集会(国労 202億円損害賠償支援と〉

    1986.10社会党,同会で強制執行の暴力団関与を追及

    年抗議集会(以降毎年〕

    1982.12.11管財人に鍋害賠償 1982.6.22管財人,支部届出請求裁半IJを鑓訴{強制執行に 債権を全面否認 1983.7道下主主宇1J1r,額国対し) 製作で不当労働行為

    1983ふ17大阪地労婆に救済申立(管財人の団交tti:a) 1984.1 0.12管財人,中労委へ 1984.9.14大阪地労委.1985.1.1宮崎管財人宅抗議行再審申立 破産管財人に団交応諾命動(以降毎年) 令1985矢賀製作所支高官勝利1986.10.8民事 6部に 6.22執行補助者名簿の提出要望 1987.11大原社長,組合に謝 1987.8.18大阪地労委,

    罪文 解雇無効の救済命令

    1989.10総評解散 11迫合発 1989.9田中機織闘争勝利報告足 集会

    注:大阪地労委「命令書J,田中機械支部「最終陳述書J,大和田前掲審などより作成。

  • 4 『明大商学論叢』第97巻第 1号 (4)

    31-32頁)。

    (1 ) 特異な経営者の景場

    戦後,田中機械の労働組合は運動方針のことなる上部組織を幾度か変えたが,個別田中機械内

    部の労使関係は比較的安定していた〈針。しかし, 1960年に炭鉱の経営者であった橋上保久が社

    長に就任してから,労使関係に変化がおこる。

    福岡県の日本炭業という炭鉱の経営者であった橋上は,田中機械の発行株式の約 40パーセン

    トを保有し,役員として乗り込んできた(当初は監企役として,のちに社長)0I橋上は製糖機メー

    カーの経営の経験がなく令く畑違いの出身であったことから,社長としてふさわしくないのでは

    ないかJ(田中機械支部5頁)等々,社内では不安制されていた。また粗暴な!陀絡の持ち主でも

    あった。たとえば 1963年の争議では.rストライキをするとロックアウトをうつぞ」と脅すのはともかく, ピケを張っていた大和田に暴力をふるい. r二部上場の会社の社長が先頭に立って組合に脅迫や暴行を加えるというのはまことに異常J(同)であると批判されている。

    後に,その強引な労務管理の手法によって橋上は社長の座を追われることになる。しかし,そ

    の後も大株主として会社に大きな発言力を持ち,組合の抵抗によってその影響力が衰えると,こ

    んどは,会社が所有する資産の取得を目的として会社ごと組合を潰そうと画策する。問中機械の

    労使関係は,極論すれば橋上保久と大和田幸治の対収納を中心として展開することになる。

    (2) 全金ヘ加盟

    橋上社長の強引な労務政策への反発もあって, 1964年 3月,田中機械の労働者は労使協調的

    な上部組織を脱退して全金に加盟し,大和田が組合の委員長に就任する。全金加盟と大和田の委

    員長就任によって,問中機械の組合運動は急速に活性化することになる。全金加盟後に臨時工

    60人を正社員化したり,男女賃金差別を撤廃したことなどが成果の一例である。

    組合が全金に1111盟したのちに会社側が取った対策は,組合分裂・第二組合の結成という常套手

    段であった。 1965年 6月,会社は元総評大阪地評(地方評議会)の争議対策部長であった浅田

    二郎を総務部次長として採用した。「浅田はいわゆる労務屋で,就任前にも他の会社で労務担当

    として争議の弾圧に活躍していたJ(田中機械支部 5頁)。橋上の子分として,浅田は以後 2年

    間にわたる組合分裂策動の先兵となった。 65年の夏季一時金闘争の最中の 8月にロックアウト

    が打たれて,第二組合が結成された。暴力団の介入もあったが, しかし,組合は少数派組合には

    ならず夏季闘争は妥結した。妥結の際,委員長が暴力問に襲撃される事件が超った。以降,第二

    組合を上回る一時金の獲得など組合の運動の成果があり,これらの経緯を経て,組合の運動はつ

    ぎの「闘争拡大期|を迎える。

    (3) 橋上以前の経営者は理系出身者が多い。たとえば 1952年の同社の『増資目論見書」によると,当時の社長岸田東次郎は海軍機関学校を卒業し,海軍機関少将の経歴がある。 No.2の常務北島信夫は九州帝国大学工学部機械科.No.3の常務石川芳次郎は大阪市立工業学校機械科の卒業である。

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    、田中機械における労使関係 5

    なお, 1960年代のはじめ,組合のある大阪市港区で金金最大の組織は大阪亜鉛支部であった。

    のちに大阪亜鉛支部は,港地域の労働運動の「生みの親j,田中機械支部は「育ての親」と言わ

    れるようになる。 1963年の春闘で大阪亜鉛支部は 60日聞を超える無期限ストを打ち,まだ全金

    に加盟していなかった田中機械支部も呼応して, 14日間のストで「賃上げ 3,000円,時短 3年で

    l時間j(大和田 26頁)を実現している。

    2.組合運動の高揚 1966"""77年

    この時期,田中機械支部は,組合の組織統一(第二組合の解散〉を契機に,これまで地域の支

    援を受けていた組織から脱皮して,地域の運動をリード、する拠点組合へと変身する。この時,地

    域の労働組合運動は,(1)細川鉄工への暴力ガードマンの介入に対してたたかわれた地域闘争, (2)

    「使用者概念の拡大闘争j,(3) r西高東低」といわれた関西全金の高額賃上げ闘争など盛り沢山であった。地域闘争がいっきょに花開いた。しかし,それはつぎにくる破産攻撃の前哨戦ともなっ

    た。

    (1 ) 地域闘争の拠点組合へ

    田中機械支部にとって運動の転機は 1966年に訪れる。この年,組合は組織が分裂した状態で

    夏季一時金闘争をむかえ,これを全金南大阪地協(会金大阪地本南大阪地区協議会)ω の52支

    部が支援の決起大会,いっせい残業拒否, 1時間地域統一スト(終業時刻前)などで支援した。

    翌67年,会社は組合側の攻勢に耐えきれず,第二組合幹部 25名を解雇するまでに追い込まれて,

    最終的に第二組合は解体し,組織の統一が実現する。この時から田中機械の労使関係は組合に有

    利に逆転する。組織分裂から 2年間の闘いの後に生まれたスローガンは「受けた連帯は運動で返

    すj(大和田 82頁)というものであった。このことを契機として田中機械支部の運動領域は地域

    に拡大してゆく。

    組合員全員が「昼休みや定時(終業時刻〉後に地域に出ていって組合づくりをしたり,組合が

    できた場合には結成にかかわった組合員がその後の活動の支援や世話をするようになりました」

    (同)。その結果,港地域には多くの労働組合が誕生し,田中機械支部が港合同支部の事務局となっ

    て世話をするようになる。春闘や一時金闘争の時,毎日ピラをっくり,昼休みに「田中機械支部

    の労働者がビラを各職場に届けるという行為が,港の労働者の心をつなぎ合わせj(同 88頁)て

    ゆき,港合同という地域組織が連帯する「芽生え」となったという。

    (4) 金金は中央本部一地本(都道府県単位の地方本部)一地協(地区協議会)一支部が「指揮伝達ラインJである。また少人数の支部を集めて合同支部を地協の下に編成している。大阪地本のばあい,堺,西北,北摂,奈良,城北,東大阪,南大阪の 7つの地協があり,南大阪地協には,全金に独特な「地域合同労組方式」という西成合同支部,大正合同支部,住吉合同支部,港合同支部の 4つの合同支部がある。田中機械支部は,大阪地本内の南大阪地協の傘下にある溶合同支部のメンバーで・ある(大和田 84頁,要

    167頁より)。

  • 6 『明大商学論叢』第 97巻第 l号 (6 )

    このような地域闘争の典型的な事例は,細川鉄工支部でのガード、マン闘争であった。 1967年,

    大阪市港区にある細川鉄工(従業員 400名〕の 16名が全金に加盟して少数派組合である細川鉄

    工支部を結成した。 1971年 3月,会社はこれに対して「特別防衛保障」という右翼ガードマン

    を導入して少数派組合員を「本社立ち入り禁止」とする措置を取った。支部が勝利する 1973年 8

    月 6日までの 863日間,地域の男女労働者 300-400名が「大雨の日も,炎暑の夏にもJ(同 95

    頁)一日も欠かさず昼休みに細川鉄工に駆けつけてジムザグデモや昼休み集会をおこない,参加

    労働者は延べ 32万人に達したとされる。

    (2) 使用者概念の拡大闘争

    使用者概念の拡大闘争とは,経営の直接の当事者だけではなく,倒産の原因をもたらした上部

    資本や金融資本の責任をも追及する運動である。全金がはじめて使用者概念の拡大を考えたのは

    11963年から 64年にかけての東京発動機の解雇反対闘争であるJ(戸塚 59頁)とされている。

    金金南大阪のばあい,港区にある九条シャーリング支部の闘争がその先駆である。 1971年の

    春闘時に九条シャーリングは企業を閉鎖して全員を解雇した。この企業のよ部資本は住友金属系

    の住金物産であった。港合同支部は「攻撃の根源を見極めて闘うという闘い方J(大和田 107頁)

    によって住金物産が所在する御堂筋の住友銀行ビルを取り囲んで団交を実現し, 1住金物産の責

    任において会社を創設するという確約を取って,争議は完全に勝利J(同 105頁〉している。

    協約の内容は「住金物産の責任で新会社を創設し,そこに雇用を引き継ぐ。社長は住金物産か

    ら派遣するJ(同 107頁〉というものであった。使用者とは親会社,金融資本だけでなく「団結

    権・生活権の破壊をねらう者,あるいはそれに影響力をもっ全ての者は不当労働行為の当事者で

    あり,労組法上の「使用者」であるJ(同 108頁)とした。この使用者概念の拡大争議の解決例

    は,矢賀製作所支部の倒産・自主生産争議(却をはじめ 1970年代以降,港合同では港相互タクシー,

    協和起工,新和工業,大阪事務能率,鋼管商事,大鋼シャーリングの支部でみられた。

    これらの争議の解決と地域における港合同支部の組織化運動によって,この地域の労働組合運

    動は飛躍的に発展したと L寸。このようにして, 1960年代後半から 70年代にかけて田中機械支

    部は地域の拠点となっていったのである。しかし,港合同の地域運動が活性化するのと比例して

    経営側の攻勢も強まってゆくことになった。

    (3) r西高東低」の高額賃上げ

    日経連は 1971年の春闘で,賃上げが関西地方で成功していることについて「西高東低現象の

    震源は南大阪の全金労働運動にあるJ(大和田 93頁〉と批判し,高額賃上げをする企業への仕事

    (5) 矢賀製作支部の「使用者概念拡大闘争」は,上部資本トピ一実業を相手に,堂島にある大阪支庖への抗議行動をつづけ, 1975年4月に勝利した。詳細は矢賀製作支部『砂をかんでも闘い抜くぞ.]1991年を参照されたし、。

  • (7) 田中機械における労使関係 7

    の発注や金融支援の停止を決定した。 1973年のオイルショック以降,関経協(関西経営者協会)

    による全金の巡動にたいする労務政策がより一自強化された。これは「明らかに個別企業の労務

    政策ではなく,日経連が指導し,関経協が直接乗り出した系統的かっ集中的な労務政策J(同 113

    頁)であったという。大和田によると, 70年代初頭から関経協主催の「春闘研究集会」が開催

    され,各企業の労務担当者を集め,関経協お抱え弁護士,関経協出身の地労委使用者側委員が講

    演したり, 1975年の春闘の時には関経協内に「全国金属対策部会」を設置し,模擬団交,組合

    対策などがおこなわれた(同 114頁)。

    しかし,南大阪の金金組合は, 1975年の春闘では日経連が設定した 115%のガイドライン」

    を突破し, 76年の春闘でも港フ会ロックは 1万5,000円台の賃上げを獲得して「一桁のガイドゾー

    ン」を突破した。金金南大阪が「階級対立の重要なー接点となってきたJ(佐野 75貰)のであ

    る(九 1978年におこる田中機械支部への攻撃は,ここに遠因があったとされている。

    3. 賃金遅配・自己破産・強制執行 1978""'81年

    この時期は,田中機械支部の倒産争議をめぐって労使の攻防が激しく展開される。とくに破産

    管財人が争議の前面に登場して組合側と対立するととになる。経営側の攻撃は賃金の遅配にはじ

    まり,その後自己破産を申請し,倒産後は破産管財人らによる攻撃とつづいた。とれに対して組

    合側は,倒産する以前においては,会社を倒産させないために資金繰りに協力した。問時に,倒

    産後に備えて工場設備や機械類について経営者と使用協定を締結した。協定を結ぶに際して賃金

    の遅配,資金援助などによって生じた労働債権が武器となった。倒産後は強制退去への防御とし

    て工場泊り込み態勢をつくり,また工場を占拠して自主生産をおこなった。闘争を裁判所や地労

    委での争いにのみ頼るのではなく,実力で継続するためであった。

    (1 ) 賃金遅配

    田中機械で従業員への賃金の遅配や欠配がはじまったのは, 1976年のはじめからであった。

    78年には 13月期決算では累積欠損金が 15億円に達しJ(地労委 6頁),会社は, 3月に「株式

    上場の維持を断念する旨公表したため,その後は,新規受注はほとんどなく,取引銀行から融資

    も得られなくなったJ(同〉のである。

    田中機械の倒産原因についての分析は別稿の課題であるが,ここではメインパンクである三菱

    銀行の貸し渋りと,新日鉄の発注停止についてふれておきたい。当時田中機械ば三菱銀行をメイ

    ンパンクにし,三菱グループの傘下にあった。しかし橋上の登場後,三菱銀行と田中機械の関係

    は悪化した。理由は銀行が「橋上の労務政策や前近代的経営感覚では,会社の経営状態、を改善す

    ( 6) この聞の金金の地域春闘については,佐野稔「全金南大阪の地域闘争J,要宏輝『正義の労働運動ふたたび』を参照されたL、。

  • 8 「明大商学論叢」第97巻第 l号 (8)

    る事は不可能であるとJ(田中機械支部 18頁)していたこと,また「金融機関が最も嫌う暴力団

    関係者長谷を監査役に就任J(同)させていたことなどであったとされる。

    新日鉄による発注ストップも行われた。新日鉄は田中機械と共同特許をもっトング・クレーン

    の発注をストップし, 1975年には 100億円の引き合いがあったにもかかわらず, 77年には l億

    円に満たないものになった(大和田 150頁)。その結果,他行や他企業も田中機械との取引から

    撤退した。賃金の遅配は 1976年から倒産する 78年まで3年間つづいた。

    組合がこの間,会社に融通した資金はつぎのようである(田中機械支部 11-14頁による)。

    1974年 組合員一人当たり 5万円の闘争積立金合計 2,000万円のチェック・オフ分の

    支払を 75年 4月まで猶予

    1975年4月 会社の資金繰りが困難なため,大阪労働金庫から 9,000万円を借入れて会社

    10月

    11月

    12月

    1976年2月

    2月

    6月

    11月

    1977年3月

    に貸付け

    組合が労働金庫に闘争資金として積み立てていた 9,700万円を担保に 9,500

    万円を会社に貸付け

    会社の再三の要請により l億 500万円を労働金庫より借入れ,会社に貸付け

    同じように 9,500万円を労働金庫より借入れ,会社に貸付け

    3,000万円を労働金庫より借り入れ,会社に貸付け

    賃金の遅配がはじまる

    会社の要請により,夏季一時金を猶予する

    冬期一時金を猶予する

    76年 11月分の賃金の一部と,同年 12月から 77年3月分の賃金支払の「棚

    上げ」と, 77年 4月からの賃金 30パーセントのカットを受入れ

    このように,組合は会社に多額の資金を貸し付け(1975年だけでも総額3億 8,500万円),賃

    金の遅配,欠配,カットも受け入れていたのである。

    なお,組合が大阪地労委(大阪府地方労働委員会)に提出した「最終陳述書J(23-24頁)に

    よれば,倒産時の田中機械の資産は 26億 2,172万円で,負債は 21億 8,525万円であった。未払

    い賃金など組合からの借入金は 14億 2,100万円である。これを入れると負債総額は 36億円であっ

    た。負債総額のおよそ 4割が組合からの借入れである。また資産中の有形固定資産は,簿価では

    10億 8,274万円であるが,これを時価にすると 19億円となるので,資産総額は約34億円であり,

    債務超過はわずか約 2億円であった。このような倒産を「強制倒産」という。会社の負債額はわ

    ずかであり, しかも組合は,会社を存続させるために,当面は未払い賃金はおろか労働金庫から

    の借入れ金も会社に早急な返済を求めていなかったのである。

    なぜこのような長期にわたる賃金遅配を受け入れ,貸付けもおこなっていたのか。その理由に

    ついて,大和田は「攻撃の矛先が「企業丸ごとの組合つぶし」であるならば,労働運動の拠点・

  • (9 ) 田中機械における労使関係 9

    組織防衛を守るために企業を存続させるという考え方のあるのではないかJ(大和田 156頁)と

    いう。労働運動としての組織防衛であり,会社の資金繰りを助けるなど「遅配のなかにあっても

    万ーの事態に備え, ~肉を切らして骨を断つ」方針を打ち立てていったJ (同 157頁〉とする。具

    体的には組合は「賃金復元協定」を会社と結んだ。「企業存続のためには賃金減額に協力するけ

    れども,業績が回復したとき,または経営者が責任放棄をしたり倒産など危機的事態に至ったと

    きには,減額分の賃金を返してもらうという協定J(同〉であった。会社にたいするこれらの貸

    付けが,工場などの使用協定の担保となり,倒産以降,自主生産を主張できる根拠としたのであ

    る(730

    (2) 自己破産申立て・強制執行

    1978年9月13日,田中機械は大阪地裁に自己破産を申し立てた。以下,前述の「最終陳述書」

    によって経緯をみるとつぎのようである。 11月4日にいたって会社は従業員全員を解雇した。

    これにたいして, 11月2日,組合は大阪地労委に解雇無効を申し立てた。 12月18日,大阪地方

    裁判所は田中機械にたいし破産宣告をした。同日,破産管財人に就任した弁護士坂口繁は,封印

    執行のため執行吏とともに会社を訪れ,組合に書類等の保管を依頼して平和裏に退去していった。

    しかし,翌 79年に破産管財人が代わるといっきょに事態が急変する。 6月15日,破産管財人

    が秘密裏に坂口から宮崎乾朗,田辺満両人に変更したω。6月22日両管財人は執行吏,機動隊,

    作業員(のちに彼らが暴力団員であったことが判明する〉を伴い,予告することなく田中機械に

    たいする強制執行をおこなった。執行によってトラック 4台分の関係書類が持ち出された。その

    際,工場内への組合の立入り禁止処分はなされなかったので,組合による工場占拠はつづけられ,

    自主生産も継続された。倒産前に会社と交わした工場の使用協定などが,立入り禁止処分にたい

    する歯止めとなったのである。

    これにたいし港合同各支部は泊り込み体制をとり,総評・全金等が裁判所や弁護士会へ抗議行

    動を繰り広げた。国会では,社会党議員が強硬執行について政府をただした。 1979年末には

    「全金田中機械と共に闘う会」が結成された。

    4.対立の構造 1982"""89年

    この時期は組合側が守勢から反撃に転じて,最終的に勝利するときである。 1982年に入って

    組合側の反撃が開始される。組合は,工場占拠と自主生産を続けながら裁判所と地労委を舞台に

    した運動を展開する。最終的には,地労委から二つの救済命令が出される。会社側が地労委の命

    (7) 組合は予測される倒産に備えて当時多くの協定を会社と結んでいる。それらは債権確認協定,退職金増額協定,使用協定(場所明記),占有協定,譲渡協定,生産設備使用協定などである。

    ( 8) 破産管財人の宮崎乾朗は「暴力団専門J,田辺満は「全金の葬儀屋」と言われた。ともに大阪弁護士会に所属する。

  • 10 『明大商学論議』第 97巻第 l号 、hノハUl

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    令を受入れたため,裁判ば双方が訴えを取り下げるとととなった。ここではおもに地労委での係

    争を扱う。

    (1 ) 対立の構造

    管財人,会社と組合側の対立の構造を整理して図示すれば,下記の図表 2のようである。

    憲法が保障する生存権と労働権,労働組合法によって,組合が地労委に救済を申立てたのは,

    おもに①倒産・解雇が無効であることと,②管財人が団交に応じる義務があるとすることであ

    る(九また裁判所に訴えたのは, 79年6月 22Rの強制執行によって組合が受けた損得賠償につ

    いてである。ここでは,主要な争点である倒産・解雇無効の救済申立について,地労委の「命令

    書」によって組合,会社,管財人の主張と地労委の命令内容をみる。管財人らの主張の根底にあ

    るものは,企業が倒産すれば労働組合は存在しないという論理である O なお,管財人が裁判所に

    訴えたのは,五件の否認権訴訟(1980年 12月 17日)であった(10)。

    (2) 破産申立について

    組合の主張はつぎのようである。①破産は事前協議・同意約款に違反してなされた。⑨会社は,

    再建の可能性があるのに何の努力もしなかった。③復元協定によって復元した未払賃金,一時金

    (9) 地労委が,管財人には団交応諾義務があるとの命令を出したのは,申立てから 1年4ヵ月後の 84年

    9月 14日であった。翌日の「毎日新聞」は, I破産管財人に団交に応じる義務があるとの判断を下した

    のは初のケース」と報じた。

    (10) その内容は,①建物退去・土地明け渡し(工場占拠の排除),②根抵当権登録抹消(労働債権確保の

    根抵当登記の抹消),③協定無効確認ならびに協定に基づく債務不存在確認(工場の使用協定などの無

    効),④売掛金議渡否認権行使(組合取得の否定),⑥土地所有権否認権行使(組合所有の土地の登記抹

    消)であった。のちにこれら五件の訴訟は一件にまとめられる。

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    田中機械における労使関係 11

    などについては,組合がただちに請求する意思がないのに,会社は逆手にとって破産原因となる

    債務超過を作り出した。ゆ会社は,過去何回も組合破壊,会社倒産を画策してきたことから,本

    件破産申立ては不当労働行為であるとした。

    会社は, I本件破産申立てを行ったことは認めるが,その他は争うJ(同 12頁〕とした。

    管財人は,①製糖業の構造的不況により年々経営が悪化したこと,②組合の反合理化闘争が強

    固で「大幅な人員整理を含む再建策も打ち出せぬまま遂に行き詰って倒産J(同)したので,破

    産申立は「不当労働行為ではなし、」と主張した。

    (3) 解雇について

    組合の主張。解雇は, I組合が本件破産申立てに反対しているにもかかわらず,事前協議・同

    意約款に違反して行われたもので,組合員を不利益に取り扱ったものであり,かつ,団結権を侵

    害したものであって,不当労働行為であるJ(命令書 12貰)と言うものである。

    会社の主張は, I組合と事前協議を行わず,同意を得ていないことは認めるJ(同)としながら

    も,会社は事態の収拾に努めてきたが,賃金の支払いができず,これ以上雇用関係を維持するこ

    とは不可能であるため「本件解雇は不当労働行為ではなLリとした。

    管財人の主張はつぎのようである。「本件破産申立て後直ちに破産宣告がなされ,般産管財人

    により従業員の解雇が行なわれると考えていたが,予想、に反して破産宣告が遅れたため,従業員

    の生活が困窮し,年末も近づいてきて,このまま放置できない状態となった。そこで,解麗によっ

    て,せめて従業員に雇用保険上の失業給付金を受領させるJ(同)などの理由で「解雇する外な

    いと考えたものである」という。

    (4) 地労委命令

    地労委は,会社の破産巾立てについてつぎのように判断した。すなわち,①倒産の原因は業界

    の構造的な不況にあったとしても, I大原社長や大株主である橋上らの行為にその大きな原因が

    あるJ(命令書 14頁)こと。②組合は,会社に多額の資金援助をおこなってきたこと。③組合は,

    会社が破産する以前に労働債権などの回収に性急ではなかったこと。以上のことから,会社が破

    産申立てをする「合理的理由はない」とし,会社と管財人の主張を退けた。

    解雇についても,地労委は会社と管財人の主張を認めなかった。すなわち, I会社は,事前協

    議・同意約款を無視し,事前協議を行うことなく,突然,一方的に本件解雇を行っており,その

    後,本件解雇についての団体交渉を拒否しているととから,当初から,組合の合意を得るつもり

    はなかったものと認められるJ(命令書 14頁〉と判断した。管財人の主張についても, I賃金支

    払いができず,失業給付手当等を受領させる必要があるため本件解雇を行ったとの点については,

    会社経営維持のため資金援助を行ってきた組合が解雇に反対している以上,合理的な理由とはな

    らず,他に,緊急に本件解雇を行わなければならない特別な事情が認められなL、J(同 15貰)と

    した。そして,会社が破産を申立てたこと,および解雇をおこなったことは,労働組合法第 7条

  • 12 『明大商学論議』第 97巻第 l号 (12 )

    第 l号及び第 3号に該当する不当労動行為であると断じたU九

    組合にたいする救済方法については,すでに会社が破産宣告を受けているので,組合員の原職

    復帰は無理であるどした。そのうえで,会社ど破産管財人は「申立人組合員に対して,昭和 53

    年 11月4日付解雇がなかったものとして取り扱い,解雇の日の翌日以降同人らが受けるはずで

    ある賃金相当額及びこれに年率5分を乗じた金額を支払わなければならなL、J(同 l頁〉とした。

    また大原社長へは, I昭和 53年 9月 13日付で大阪地方裁判所に対して破産を申し立て,同年 11

    月4日付で貴組合員全員を解雇した行為は,大阪地方労働委員会においてゲ労働組合法第7条第

    l号および第3号に該当する不当労働行為であると認められましたので,ここに陳謝いたします。」

    (同)との文書を組合に手交することを命じた。

    結局,会社と管財人はこの地労委命令を受け入れたため,管財人が裁判所に提訴した否認権訴

    訟と,組合が提訴した強制執行による損害賠償請求は,ともに取り下げられた。そして大原社長

    は組合に謝罪した。組合の全面勝利であった。

    以上,倒産,解雇をめぐる労使対立の内容を,争点を整理しながら鳥敵した。

    小結

    以上, 1945年から 1989年まで 40年以上にわたって,問中機械支部を中心として,金金南大

    阪で繰広げられた地域の労働運動を四つの時期に区分してみた。前史では,田中機械支部の組合

    運動が胎動を始めた時期であることを,運動が高揚する時期は,地域の拠点組合として企業内か

    ら企業の外へ運動の領域を拡大したことを,破産攻撃がかかる時期では,会社,破産管財人によ

    る倒産,解雇にいたる過程を,さいごの章では,組合が倒産と解雇をめぐって裁判所,地労委で

    経営者や管財人を追求し,最終的にかれらの不当労働行為を認定した地労委命令を得たことをみ

    fこ。

    この小論で外観しただけでも,ここに示された労使関係の事例は,労働組合運動にたいする豊

    富な実証研究の題材を提供している。これからの研究課題は,組合についての分析では,彼らが

    求めた地域労働運動がどのようなものであったのか,その内実を知ることである。また工場占拠・

    自主生産は具体的にどのようにおこなわれていたのか,その過程で組合が直面した課題も知りた

    い。経営側についての研究では,橋上社長をはじめとする経営陣についてと,倒産に至る企業の

    経営分析,そして破産管財人が果たした役割についてとりあげたL、。

    (11) 労働組合法第7条は「使用者は,左の各号に掲げる行為をしてはならない。」とし,第 1号は「労働

    者が労働組合の組合員であること,労働組合に加入し,若しくはこれを結成しようとしたこと若しくは

    労働組合の正当な行為をしたことの故をもって,その労働者を解雇し,その他これに対して不利益な取

    扱をすること又は労働者が労働組合に加入せず,若しくは労働組合から脱退ことを雇用条件とすること」

    (但し書省略〉。第3号は「労働者が労働組合を結成し,若しくは運営することを支配し,若しくはこれに介入すること,又は労働組合の運営のための経費の支払につき経理上の援助を与えることJ(但し書省略)としている(~六法全書』有斐閣昭和 53 年版より〉。

  • 03 ) 田中機械における労使関係

    引用文献

    大阪府地方労働委員会[命令書J昭和 53年(不)第 106号事件,昭和 62年8月 18円

    大和田幸治『企業の壁をζえて 港合同の地域闘争』昼妥社, 2001年

    大和田委員長追悼集刊行委員会「団結こそ命,闘いこそカ」三一書房, 2012年

    要宏輝『正義の労働運動ふたたび』株式会社アットワークス, 2007年

    13

    佐野稔「全金南大阪の地域闘争J(労働運動研究者集団編「企業倒産と労働運動」日本評論社,昭和 53年

    所収)

    田中機械株式会社『増資H論見書』昭和 27年 9月22日

    間『経歴書』昭和 48年(後定)

    同「会社更生手続開始申立書」年月日不明

    田中機械支部「最終陳述書j昭和 59年8月 28日

    戸塚秀夫「企業倒産と中小企業労働運動J(労働運動研究者集団編『企業倒産と労働運動』日本評論社,

    昭和 53年所収)

    「毎日新聞J1984年 9月 15日村島蹄之編『日本努働総同盟 大阪機械労働組合運動暮史 一九ニ二年版』大阪機械労働組合,大正十一

    矢賀製作支部「砂をかんでも闘い抜くぞJl1991年

    『六法全書』有斐閣,昭和 53年版