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近江湖東における 3 世紀の拠点集落-稲部遺跡群の発掘調査-
令和元年 12月 17日(火) 彦根市民交流センター
彦根市市長直轄組織文化財課
1 遺跡い せ き
ってなに?
昔の人の生活の跡である遺跡の多くは、私たちのくらしの身近なところにあります。市内では、
みなさんの通う学校の校舎を建設するために工事の前に遺跡が調査されることもあります。また、
新しい道路やまちづくり、家の建設の前に調査をすることもあります。ときには大発見があること
もあります。市内には 204 箇所の遺跡が発見されており、こうした遺跡の発掘調査をするのは、
各自治体の文化財課をはじめとする機関の専門の職員です。
考古学こうこがく
は、昔の人が残した「遺物い ぶ つ
(土器や石器)」や「遺構い こ う
(建物跡や柱穴など)」を調べること
で、過去の人々の歴史を明らかにする学問です。これらの「物」や「建物跡や柱穴など」は、何ら
かの目的をもって人が作ったものです。それに様々な方向から光をあてることで、過去の人々がど
のような生活を送っていたのか、人々のくらしがどのように変化していったのか、知ることができ
ます。そのために発掘はっくつ
調査ちょうさ
という方法をとります。現在生きている私たちの生活のため、どうして
も壊れてしまう遺跡の記録を取るために発掘調査は行われているのです。とても重要な遺跡である
場合には、壊さずに大切に保存し、みなさんに活用してもらうようにすることもあります。
2 発掘はっくつ
調査ちょうさ
ってどうやってするの?
① 分布調査(田んぼや畑に落ちている土器などを調べます。)
⇒試掘調査(重機や人力で試し掘りを行います。)
② 重機よる掘削⇒人力による遺構の確認⇒人力による遺構の掘削
③ 土層観察・測量・図面作成・写真撮影
④ 整理作業:発掘調査は報告書の刊行によって完成します。調査後に遺物の洗浄・整理・実測・
写真、製図、執筆を行い、発掘調査成果を報告書にまとめます。報告書は図書館などで見るこ
とができます。整理した遺物は市民の財産として博物館などの展示に活用します。
横浜市歴史博物館 2002『たのしい考古学』より改変
3 稲部遺跡周辺の地理的環境
彦根市内には鈴鹿山地から流れる芹川、犬上川、宇曽川、愛知川の 4つの河川が流れ、扇状地せんじょうち
、
氾濫はんらん
原げん
、三角さんかく
洲す
、浜堤ひんてい
を形成しています。氾濫原には多くの自然堤防が展開し、稲枝では、遺跡の
多くは愛知川に沿った自然堤防上の微高地(周辺よりも地形の高い土地)にあります。宇曽川と愛
知川の豊かな水に恵まれ、両河川に挟まれた氾濫原中の自然堤防上において、縄文時代から遺跡が
確認されています。
現在の愛知川は、16 世紀の洪水によって変化したものと考えられています。これについては、
天文 13年(1544)7月の豪雨のよる洪水によって、氾濫した濁流が当時の支流であった現愛知
川に流入し、現在の川筋となった説が有力で、16世紀以前の河川とは場所が違っていました。彦
根市と東近江市の境を流れる現在の愛知川とは異なり、16世紀以前では、彦根市内を流れる文ぶん
禄ろく
川と来迎らいごう
川(不飲の ま ず
川)が愛知川の主流でした。また、この頃から、内湾だった大中の湖は琵琶湖最
大の内湖になったと考えられています。現在でも柳川町に残る湾入部や荒神山山麓の曽根沼がその
名残をとどめています。湖岸には浜堤という砂丘が発達しています。
4 稲部遺跡周辺の主な遺跡
縄文時代
屋中寺やちゅうじ
廃寺は い じ
遺跡(上岡部町):縄文時代中期末の集落
稲部遺跡・稲部西遺跡(稲部町・彦富町):縄文時代後期から晩期の集
落 竪穴建物
肥田城遺跡(肥田町):縄文時代晩期の集落
◎琵琶湖の貝や魚、山の動物、木の実を食料として生活し、主な交通手
段は舟で、丸木舟を使って琵琶湖を移動していました。
ヒスイという貴重な石を使ったアクセサリーを身に着けた人もいました。
弥生時代・古墳時代
稲里遺跡(稲里町):弥生時代前期の集落 炭化米、アワ、キビが出土
肥田西遺跡(肥田町):弥生時代中期後半の墓地 方形周溝墓
稲部遺跡・稲部西遺跡(稲部遺跡群)(稲部町・彦富町):弥生時代後期から古墳時代前期の湖東地
域の大規模拠点集落
普光寺ふ こ う じ
廃寺は い じ
遺跡(普光寺町・上西川町):弥生時代末から古墳時代初めの集落
芝原遺跡(本庄町):古墳時代前期の集落 竪穴建物(鍛冶工房を含む)
荒神山古墳(日夏町・清崎町・石寺町・三津谷町):古墳時代前期末の前方後円墳(墳長 124m)
出路遺跡(出路町):古墳時代後期の集落
芝原遺跡(本庄町):古墳時代後期の集落
荒神山古墳群(日夏町・清崎町・稲里町・石寺町・三津谷町・下岡部町・上岡部町):古墳時代後
期の古墳群 群集墳、横穴式石室
ゲホウ山古墳(普光寺町):古墳時代後期の古墳 鶏形埴輪
塚乞手つかごえて
古墳(肥田町):古墳時代後期の古墳 埴輪
◎縄文時代末頃から、琵琶湖に近い低湿地で水田稲作が始まり、川沿いには村のまわりに濠を掘
った環濠かんごう
集落しゅうらく
が営まれました。稲と青銅と鉄が朝鮮半島から伝わりました。村のお祭りでは、銅どう
鐸たく
という青銅の祭器などが使われました。村がまとまり、集落が大きくなってくるにつれて、首
長と呼ばれるリーダーが各地で登場してきました。
古墳時代になると、各地で有力者のための大きな古墳が築かれました。日本列島が一つの勢力とし
てまとまり、大和政権が誕生しました。やがて多くの渡来人が日本列島に移住してきました。
飛鳥時代・奈良時代・平安時代
国領こくりょう
遺跡(田附町):平安時代の集落
普光寺ふ こ う じ
廃寺遺跡(普光寺町・上西川町):神崎かんざき
郡の古代寺院(塔の心礎が現存)、平安時代の集落
屋中寺やちゅうじ
廃寺遺跡(上岡部町):愛知え ち
郡の古代寺院
下岡部西遺跡(下岡部廃寺)(下岡部町):愛知郡の古代寺院
芝原遺跡(本庄町):平安時代の集落
◎飛鳥時代には朝鮮半島を介して仏教が伝わり、各地で豪族によって寺院が建てられ、仏像が作ら
れました。また、中国から律令りつりょう
という法律も伝わり、平城京や平安京、紫香楽宮などの都が作ら
れました。地方には国くに
・郡ぐん
・里り
(郷ごう
)という行政組織が置かれ、これにあわせて、畿内、東海道、
東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の主要幹線道路が整備されました。国づくりが
本格的に進んだ時代です。
鎌倉時代・室町時代・戦国時代
国領遺跡(田附町):鎌倉・室町時代の集落 掘立柱建物、柿経
出路遺跡(出路町):鎌倉時代・室町時代の集落
肥田城跡(肥田町):室町時代・戦国時代の城館跡 高野瀬氏が築城、蜂屋氏の居城
◎平安時代には、荘園と呼ばれる有力な寺の領地がつくられ、土地の開発が進みました。東大寺の
覇流へ い る
荘や弘福寺の平流へ る
荘が知られます。その後、武士が登場し、中世城館も形成されます。文書だ
けでは知ることのできない中世村落や都市、城館の姿が、発掘調査によって明らかになっています。
5 稲部い な べ
遺跡い せ き
ってどんな遺跡?
弥生時代末から古墳時代初めにあたる 3 世紀前半は、日本に大和政権が生まれ、倭わ
国こく
(中国か
ら呼ばれていた日本の名前)が成立してくる頃の時代ですが、稲部遺跡は、近江湖東の地域勢力の
中心と考えられる重要な遺跡です。近年の調査によって遺跡の内容が明らかになってきており、そ
の重要性が知られています。遺跡全体のうち、ごくわずかな範囲のみが発掘調査されており、現在
も遺跡の内容を確認するための調査や開発に伴う調査が実施されています。
【稲部遺跡の特徴】
① 東西幅約 400m以上の大規模な集落遺跡。
② 紀元 2世紀~5世紀の約 400年間もの長い時代にわたって続く集落。3世紀に最も栄えます。
(なお、縄文人の先住者は、約3,000 年以上前の縄文時代に稲部遺跡で集落を営んでいまし
た。)
③ 奈良・鳥取・福井・岐阜・愛知・三重・静岡・南関東・朝鮮半島の各地の土器が出土。
→畿内と東海・北陸の間にある近江の交流・交易の中心地。渡来人と ら い じ ん
(大陸からきた人々)の存在。
④ 200棟以上とたくさんの竪穴建物が見つかっています(住居・工房など)。
⑤ 大型建物・超大型建物(儀礼に使う建物・祭殿・首長層(王のような人物)の居館)が建てられ
ます。桃の種の出土。
⑥ 鉄や青銅の武器・道具を作ったと考えられる建物(工房)や関連遺物が見つかっています。
⑦ 近くの荒神山には古墳時代前期末の大型前方後円墳である荒神山こうじんやま
古墳こ ふ ん
が築かれており、古墳時
代にかけても重要な地域であったことがうかがわれます。
⑧ 教科書にも載っている中国の魏ぎ
の国の歴史書 『三国志さんごくし
』「魏ぎ
志し
倭人伝わじんでん
」が伝える「邪や
馬ま
台たい
国こく
」
とほぼ同じ時代の集落です。「魏志倭人伝」に書かれる「倭わ
」には、「邪馬台国」という大きな
国があり、「卑弥呼ひ み こ
」という女王がいた、と書かれますが、その続きには倭わ
の中に邪馬台国の他
に魏と外交関係をもつ三十か国がある、とあります。これらの地域勢力との関係も想定されま
す。
6 おわりに
考古学こうこがく
は広い意味で歴れき
史学し が く
と同じように、人々の歩みを見つめてきました。かつて人々がどのよ
うな環境や社会の中で暮らしてきたのか、そこでどのような未来をつかみ取っていったのか、私た
ちは身近な遺跡や残された考古資料から考え、知ることができます。それは、私たち自身の未来を
大きな視点で選んでゆくために、とても大切な情報なのではないでしょうか。やがて来るみなさん
の未来を作ってゆくのはみなさん自身でもあるのです。その未来は、どんな色をしているのでしょ
うか。遠い昔のことを学びながら、遠い将来のことも、大切に考えていければと思います。
参考文献:横浜市歴史博物館 2002『たのしい考古学』、滋賀県立安土城考古博物館 2009『大型建物から見えてくるもの』、彦根市史編集委員会
2007『新修彦根市史』、滋賀県中学校教育研究会社会部会(編)2005『12 歳から学ぶ滋賀県の歴史』サンライズ出版ほか
年表 1 縄文時代から平安時代
(滋賀県中学校教育研究会社会部会(編)2005『12 歳から学ぶ滋賀県の歴史』サンライズ出版を改変)
600~700頃
年頃
稲部遺跡
荒神山古墳
屋中寺廃寺
普光寺廃寺
年表 2 鎌倉時代から戦国時代
(滋賀県中学校教育研究会社会部会(編)2005『12 歳から学ぶ滋賀県の歴史』サンライズ出版を改変)
図1 稲部遺跡と周辺の遺跡分布
図2 縄文人と弥生人の生い立ち
(武末純一・森岡秀人・設楽博己 2011『列島の考古学 弥生時代』河出書房新社より)
丁ちょう
田だ
遺跡(高宮町)は、縄文時代中期末
(約 4,500 年前頃)の犬上川流域の集落
で、竪穴建物(住居)が見つかり、縄文土
器、石器、ヒスイ製大珠が出土した。
穴に埋められていた深鉢形土器(左)は、
良好に形の残る優品である。
新潟県糸魚川で採れるヒスイを用いたヒ
スイ製大珠は、縄文社会では貴重なアクセ
サリーであり、県内唯一の出土例である。
埋設された土器とヒスイ製大珠
ヒスイ製大珠(彦根市指定文化財)
図3 丁田遺跡(高宮町)
図4 稲部遺跡(稲部町・彦富町)(『季刊考古学』第 140号 雄山閣より)
大型の掘立柱建物(上・左)
上の掘立柱建物は、平面積 188 ㎡で、
稲部遺跡では最も大きい建物。古墳時代初
めのものである。人の立つ場所が柱穴のあ
るところ。
左の掘立柱建物は、弥生時代末から古墳
時代初めのもので、同じ場所で 3棟以上が
立て替えられている。近くの大型の柱穴な
どから桃の種が出土し、建物の解体・放棄
に際して何らかのお祭りをしていたらし
い。
稲部遺跡では、他にも方形の区画溝やこ
れに伴うと考えられる大型の掘立柱建物が
見つかっている。こうした大型の建物は、
政治やお祭りなどに関わる集落の重要な中
枢施設とみられ、複数棟みられる遺跡はわ
ずかである。
図5 稲部遺跡・稲部西遺跡(稲部町・彦富町)(『季刊考古学』第 140号 雄山閣より)
青銅の鏃(左)と棒状製品(右) 金属の道具作りに使われた石器(作業台と
ハンマー)
炉跡 湿気を防ぐために炭を敷いて、火床として構築したもの
図6 稲部遺跡(稲部町・彦富町) 土器の出土した様子と復元された土器
穴に捨てられた状態で見つかった土器((『季刊考古学』第 140号 雄山閣より)
上の写真のように見つかった土器を整理すると、本来のほ
ぼ完全な形に戻すことができる土器もある。
これら 3 点の土器は、受口状口縁甕と呼ばれる近江産の土
器であり、食料の調理に使用された。黒く変色した部分は
煤の付着した範囲で、実際に煮炊きに使用されたことがわ
かる。
図7 荒神山古墳(日夏町・清崎町・石寺町・三津谷町)
荒神山古墳の想像図
広濱神社近くの集落内に残る礎石
土台として再利用されている。
広濱神社境内に残る塔の心礎 塔の中央の礎石で、塔が建立
された古代寺院の存在を物語る。
塔心礎 中央の丸い穴が柱を据える場所で、もともとは地中に設置されていた可能性が高い。
図8 普光寺廃寺遺跡(普光寺町・上西川町)
図9 出路遺跡(出路町)
出路遺跡は、鎌倉時代から室町時代
の集落で、平成 26 年の調査では、中
央の陸地を挟んで来迎川の支流とみら
れる 2本の河跡がみつかった。中世で
は来迎川の川港の近くで出路市が催さ
れたとされる。
河跡の北側では、周囲を石組で囲ん
だ壇状の遺構が見つかった。見つかっ
た状態(左上)から、現代までに動か
された石を取り除くと、(左下)の状態
になり、長方形に穴を掘り込んでから
周囲に石を組み、土を盛っていたこと
がわかった。
伝聞や記録と遺跡の調査成果をあわ
せて考えると、近くの集落内の本泉寺
に移築されたと伝わる石塔と関連し、
移築される前に石塔が立っていた場所
である可能性がある。
図 10 松原内湖遺跡の遠景と調査状況 昭和 62年度(松原町)
滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会 1992『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅱ』
より
■松原内湖遺跡(松原町)について
松原内湖遺跡は、彦根市松原町に所在する縄文時代後・晩期、弥生時代前期、弥生時代後期~
終末、奈良~平安時代の集落遺跡です。縄文時代の丸木舟などの木製品が多く出土したことで知ら
れています。昭和 59 年度から、東北部浄化センターの建設に先立って複数年度にわたる発掘調査
が行われてきました。
弥生時代後期後半の遺物としては、多数の土器のほか、小銅鐸と呼ばれる青銅製の遺物が出土し
ています。青銅製の鏃、銅鏃といっしょに出土しており、音を鳴らすために銅鏃を舌として使用し
ていたようです。
古墳時代初頭・3世紀の注目すべき遺物としては、木製短甲、蓋形木製品があります。木製短甲
は、体を守るために身に着ける木製のよろいです。儀礼の場で用いられた可能性があります。あわ
せて、蓋きぬがさ
形木製品とは、笠骨であれ、儀礼に用いられる重要な祭具であったと考えられています。
芹川流域の中核的な集落遺跡であったようです。
図 11 松原内湖遺跡の調査状況 昭和 60 年代(松原町)
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会 1992『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅱ』よ
り)
図 12 松原内湖遺跡 小銅鐸
青銅製の小型のベル(滋賀県教育委員会・
財団法人滋賀県文化財保護協会 1993
『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅰ』より)
図 13 松原内湖遺跡 蓋形木製品
漆塗りの笠形の木製品の軸棒
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護
協会 1992『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅱ』よ
り)
図 14 松原内湖遺跡 弥生土器 甕
近江型の煮炊き用調理具
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護
協会 1993『松原内湖遺跡発掘調査報告書Ⅰ』
より)
図 15 松原内湖遺跡 鍬 木製農具
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県
文化財保護協会 1992『松原内湖遺
跡発掘調査報告書Ⅱ』より)
図 16 松原内湖遺跡 木製短甲木製の身を守る武具
(滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会 1992『松原内湖遺跡発
掘調査報告書Ⅱ』より)