Upload
others
View
2
Download
0
Embed Size (px)
Citation preview
i
目次
第 1章 はじめに 1
1.1 何はともあれ,使ってみる . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1
1.2 オイラー数 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4
1.3 ホモトピー . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6
1.4 なぜホモロジーか? . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8
第 2章 ホモロジー 11
2.1 群論ほんの少しだけ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11
2.2 単体複体 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 18
2.3 複体とそのホモロジー . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20
2.4 写像のホモロジー . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 23
2.5 相対ホモロジー . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26
2.6 ホモロジー計算のアルゴリズム . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 28
2.7 モース理論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 29
第 3章 力学系への応用 33
3.1 ホモロジーと力学系 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 34
3.2 コンレイ指数 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 38
3.3 計算機によるコンレイ指数の計算 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 42
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 47
第 4章 センサーネットワーク 57
4.1 センサーネットワークの被覆問題とホモロジー . . . . . . . . . . . . . . 57
4.2 被覆のための簡単な十分条件 H1(R) = 0 . . . . . . . . . . . . . . . . . 60
4.3 Mayer-Vietoris 完全系列を用いた分散計算 . . . . . . . . . . . . . . . . 62
参考文献 65
1
第 1章
はじめに
1.1 何はともあれ,使ってみる突然だが,次の 2つの迷路を考えよう.違いがわかるだろうか.
計算ホモロジー理論を使えば簡単に違いがわかる.まずは計算ホモロジー理論を実装したソフトウェアパッケージ CHomP を http://chomp.rutgers.edu/ からダウンロードしてみよう.左の迷路は CHomPの example ディレクトリに入っているビットマップ画像maze.bmp で,右の迷路はそれを少し変形したものである.CHomPのディレクトリにはビットマップ画像を CHomPの入力形式のテキストファイルに変換するコマンド bmp2pset が入っているので,
bmp2pset maze.bmp maze.cub
としてビットマップ画像を CHomPの入力形式 maze.cub に変換し,次にホモロジー計算コマンド homcubes を
homocubes maze.cub
と実行してみよう.何やらターミナルに文字列が沢山出力されるが,その最後の部分を抜き出すと
2 第 1章 はじめに
Computing the homology of X over the ring of integers...
Reducing D_1: 0 + 2981 reductions made.
H_0 = Z
H_1 = Z
Total time used: 0.19 sec (0.003 min).
Thank you for using this software. We appreciate your business.
となっている.これはこの迷路の壁(黒い線)がなす空間を X すると,この空間 X の「ホモロジー群」が
H0(X) = Z, H1(X) = Z
であることを示している.ここで H0(X),H1(X) は空間 X の 0 次元と 1 次元のホモロジー群であり,Zは整数の集合
Z = {· · · − 3,−2,−1, 0, 1, 2, 3 · · · }
を表す記号である.Zでは最も基本的な群の例である.群の定義は後の章にまわすが,ここでは群とは「足し算と引き算が出来る集合」だと思って欲しい.ホモロジーとは何か,という疑問はとりあえず置いておいて,同じ計算を右の迷路に対しても実行してみよう.今度は結果が
Computing the homology of X over the ring of integers...
Reducing D_1: 0 + 5748 reductions made.
H_0 = Z
H_1 = Z^4
Total time used: 0.21 sec (0.004 min).
Thank you for using this software. We appreciate your business.
と出力される.これは,右の迷路を Y とすると
H0(Y ) = Z, H1(Y ) = Z4
ということを示している.こんどは Z4 というものが現れたが,これも群である.整数の
4つ組Z
4 = {(p, q, r, s) | p, q, r, s ∈ Z}
を考えて,それぞれの成分ごとに足し算や引き算をすることで,群になる.4次元の実ベクトル空間 R
4 において,座標が整数値の格子点だけ考えたものだと思ってもよい.これらの計算結果から,迷路X と Y は 1次元のホモロジー群として違うものが現れるということがわったが,これにはいったいどういう意味があるのだろうか.実は n次元ホモロジー群というのは,空間に
n次元の穴がどれだけ空いているか
より正確には
1.1 何はともあれ,使ってみる 3
n次元の独立な要素がどれだけ存在するか
をはかる指標である.空間に互いに独立な 1 次元の穴が k 個あれば,その 1次元ホモロジー群は Z
k という群になるのである.H1(X) = Z = Z1 なので X には 1次元の穴が 1
つしか空いていない.実際,X の壁をぐにゃぐにゃと変形していくと,最後には円周 S1
に変形できる.それに対して,H1(Y ) = Z4 なので,X には 1次元の穴が 4つもある.実
際,迷路 X には部屋が 1つしかないの対し,Y には図のように 4つの互いに行き来できない部屋がある.
Y はどんなに頑張っても S1 に変形できないのである.X や Y のこれらの性質は,迷路の大きさを 10倍に拡大したり,縦横の比率を変えたり迷路を斜めにひしゃげても変わらない.また,真っ直ぐだった壁をぐにゃりと曲げて曲線にしても変わらない.「S1 に変形できる」とか,「4つの独立な部屋がある」といった迷路の性質は,壁の繋り方さえ変えなければ迷路をどう変形しても変わならいのである.こういった,長さや角度には関係なく繋り方だけで決まる空間の性質を研究するのが
「位相幾何学(トポロジー)」という学問で,ホモロジー群はその基本的な道具なのである.ホモロジー群で空間のかたちを見る例として,今度は次の図のような 3 次元空間のパターンを考えてみよう(図やデータは千歳科学技術大学の寺本敬氏の提供による).だい
たい左のパターンのほうが複雑だな,というくらいは目で見てわかるが,その違いを定量的に表現したい.これにも計算ホモロジー理論が使える.
4 第 1章 はじめに
これらのパターンを離散的なデータとして表現するために,まずはパターン全体を囲む立方体を縦,横,高さの各方向に分割する.この計算例では各方向が 64分割されているので,分割の要素である小さな立方体を 0 から 63 までの整数の 3 つ組,例えば (12, 8, 57)
などを用いて指定できる.この整数の 3つ組を用いて,パターンと交わる分割の要素を
(0,0,0) (0,0,1) (0,0,2) (0,0,3) (0,0,4) (0,0,5) ...
などと並べていけばよい.このテキストファイルを teramoto.cub としよう.先と同様に homcubes を用いて
homcubes teramoto.cub
とすると,この空間のホモロジー群が計算される.結果は左のパターン P1 に対しては
H0(P1) = Z2, H1(P1) = Z
18
右のパターン P2 に対しては
H0(P2) = Z2, H1(P2) = Z
6
となり,その違いは Z18 と Z
6 の肩に載っている指数の違いとして表現された.これは,左のパターンのほうがより多くの 1次元の穴を持っているということを意味し,直感的な観察を裏づけるものである.
1.2 オイラー数空間の性質のうち,点たちの繋り方だけで決まるものを調べよう,という発想の原点にはオイラー(1707-1783)によるオイラー数の理論がある.ホモロジー群をイメージするための導入として,この節ではオイラー数を考える.
まずは図のような,頂点と辺からなる 1次元の空間,すなわちグラフを考えよう.頂点の数を v,辺の数を eとすると,グラフが直線的な場合には
v − e = 1
グラフが閉じている場合にはv − e = 0
が成立していることがわかる.
1.2 オイラー数 5
グラフは 1次元の空間であったが,2次元の場合にはどうであろうか.図のように 4面体,6面体,8面体を考えよう.これらは全て,ぐにゃりと変形すれば球面 S2 になる.今度は頂点と辺だけでなく,面も空間を構成する要素として登場するが,面の数を f として
v − e + f
という数を考えると,4面体の場合は 4 − 6 + 4 = 2,6面体の場合は 8 − 12 + 6 = 2,8
面体の場合は 6 − 12 + 8 = 2とやはり同じ数 2 が得られる.実は,球面の分割のしかたによらず,この数は常に 2になるのである.次はトーラス T(ドーナツの表面,浮き輪のようなもの)を考えよう.T も様々な方法で多面体に分割することができるが,分割によらず
v − e + f = 0
となることが示せる.たとえば次のような分解をすると,v = 9, e = 27, f = 18 となる
(図は [4]より.展開図では上下と左右が同一視されることに注意).実はこれは一般の n 次元空間 X に対しても成立する法則で,空間 X が k 単体と呼ばれる k 次元の部品たちに分解されているとき,
(0単体の数) − (1単体の数) + (2単体の数) − · · · =n∑
k=0
(−1)k · (k 単体の数)
といる数を考えると,これは X の単体への分解のしかたによらず,また X をぐにゃりと連続に変形させても不変であることが示される.この数を空間 X のオイラー数と呼び,χ(X)と書く(次章参照).
6 第 1章 はじめに
1.3 ホモトピートポロジーといえば
コーヒーカップとドーナツは同じである
というような同一視を行なう数学だ,という言い方がよくされる.このようなかなり強引
図 1.1 コーヒーカップからドーナツへの変形
な変形をしても変わらない性質を研究するのがトポロジーである.もちろんこの種の変形で変わってしまう性質も多い.例えば,コーヒーカップにはコーヒーを入れることができるが,ドーナツにコーヒーを入れようと思っても,どこに入れていいやらわからない.コーヒーを入れられるという性質は,空間の距離や角度によって決まるもので,別の言い方をすると「幾何学的」な性質なのである.それに対して,コーヒーカップもドーナツも穴に糸を通してぶら下げることができる.この性質は「位相幾何学的(トポロジカル)」なものであり,空間をぐにゃぐにゃと変形しても変わらないのである.さて,この節では「ぐにゃぐにゃ変形」の意味をもう少し明確にしよう.コーヒーカップとドーナツが同じくらいだったら,ドーナツだって潰して丸めれば団子と同じだ,などと言い出したら何も出来なくなってしまうので,ぐにゃぐにゃ変形をきちんと定義したい.そのために用いられるのがホモトピーという概念である.なお,以下このチュートリアルでは「空間」といったら全て「位相空間」を意味する.ここでいう位相とは “topology” の訳語であり,物理で言う位相とは意味が異なるので注意されたい.位相空間の定義はしないが,点と点の間の距離が考えられるような空間は全て位相空間である.皆さんが通常イメージする空間は全て位相空間だと思ってよい.
定義 1. 連続写像 f : X → Y と g : X → Y がホモトープであるとは,ある連続写像
H : X × [0, 1] → Y
が存在して,任意の x ∈ X に対して H(x, 0) = f(x) かつ H(x, 1) = g(x) が成立することをいう.このとき H を f と g を繋ぐホモトピーという.
別の言い方をしてみよう.写像 ht : X → Y を ht(x) = H(x, t)で定義する.t ∈ [0, 1]
を時間だと思うと,ht は時刻 0では f だったものが時刻 1では g になっている.このように f を g に連続的に変形できるときにホモトープであるという.「写像の空間」で f と
1.3 ホモトピー 7
g を繋ぐ道がある,と言ってもよい.トポロジーでは f と g がホモトープであることを
f � g
という記号であらわす.f をぐにゃりと変形して g になる感じがよく出ていると思うのだがどうか.
例 2. Y = Rn のとき,X から R
n への全ての写像はホモトープである.実際任意のf : X → R
n は,X の全ての点を 0 ∈ Rn に写像する定数写像 c : X → R
n, c(x) = 0 とホモトープになる.ホモトピーとしては
H(x, t) := t · f(x)
とすれば,h1 = f かつ h0 = cである.任意の f, g : X → Rn が与えられたとき,f � c
かつ g � c より f � g となることがわかる(証明すべし).
f g
図 1.2 f, g : S1 → R2 \ {0} はホモトープでない
例 3. こんどはホモトープでない写像の例を挙げよう.空間は X = S1, Y = R2 \ {0}と
して,f は円周 S1 を R2 の単位円にそのまま埋め込む写像,g は S1 を R
2 の原点のまわりに 2回まきつけて埋め込む写像とする.上の例で見たようにに,もし Y = R
2 ならば f
と g はホモトープだが,いまは空間 Y に穴が空いているため,f を g に変形しようとしても出来ないのである.イメージとしては Y は原点に無限に高い柱が立っている平面で,そこに丸い縄をひっかけていると思えばよい.写像 f は 1回巻き,g は 2回巻きなので,縄を切らない限り変形はできない.
写像に対してその変形を定義したので,次は空間に対して変形を定義しよう.
定義 4. 位相空間 X と Y がホモトピー同値であるとは,ある連続写像 f : X → Y とg : Y → X が存在して,
g ◦ f � 1X , f ◦ g � 1Y
となることである.ここで 1X : X → X と 1Y : Y → Y はそれぞれ X と Y の恒等写像である.X と Y がホモトピー同値であることを X � Y と書く.
例 5. n次元円盤 Dn := {x ∈ Rn : |x| ≤ 1} は一点のみからなる集合 P = {p}とホモト
ピー同値である.f : Dn → P としては任意の xに対して f(x) = p となる写像を考え,
8 第 1章 はじめに
g : P → Dn としては g(p) = 0 とすればよい.すると,g ◦ f は Dn の全ての点を原点0 に写す写像となるが,例 2 と同様の構成により g ◦ f は恒等写像とホモトープになる.f ◦ g は P から P への写像なので,自動的に恒等写像である.
空間 X は一点集合 P とホモトピー同値になるとき,可縮であるという.上の例によりDn は可縮である.同様に R
n も可縮であることが示せる.このホモトピー同値という概念を使うと,この節の冒頭で挙げた文句は
「コーヒーカップとドーナツはホモトピー同値である」
と表現することができる.すなわちトポロジーとはホモトピー同値な空間は同じであるとみなし,ホモトピー同値な変形をほどこしても変化しないような空間の性質を調べる学問であると言うことができる.前節で考えたオイラー数もホモトピー同値で不変である.すなわち
X ∼= Y ⇒ χ(X) = χ(Y )
が成立する.これにより,オイラー数はトポロジカルな量であるといえるのである.
1.4 なぜホモロジーか?オイラー数はホモトピー不変なので,空間をホモトピー同値という関係で分類するのに役に立つ.前節の定理の対偶を取れば,空間 X と Y が与えられたとき,χ(X) = χ(Y )
ならば X と Y はホモトピー同値ではない,連続的に変形することが出来ない,ということがわかるのである.では,この逆はどうであろうか.すなわち,χ(X) = χ(Y )のときに,空間 X � Y だと言えるだろうか.残念ながら答えは NO である.例えば円周 S1 もトーラス T もオイラー数は 0であるが,これらの空間はホモトピー同値ではない.オイラー数は円周とトーラスの区別が出来ないほど弱い不変量なのである.そこで導入されるのがホモロジー群である.オイラー数は「空間 X」という,良くわからない対象に対して χ(X)という整数を対応させることでその違いを判別した.ホモロジー理論は空間に対して「群」という整数と比べると少し高級な数学的な対象を対応させる.数学者にとっては群というのは数と同様にたいへん馴染み深く,厳密な計算がやりやすいものである.ホモロジー理論により空間 X に対応する群は X のホモロジー群と呼ばれ,これもオイラー数と同じく,ホモトピー不変である.すなわち X のホモロジー群を H∗(X) と書くことにすると,X と Y がホモトピー同値ならば,H∗(X) と H∗(Y ) は「同じ」である.オイラー数では円周とトーラスを区別できなったが,H∗(S1) と H∗(T ) は「異なる」ので,ホモロジー群がホモトピー不変であることから,円周とトーラスはホモトピー同値ではないことがわかる.群が同じだとか異なるという概念は次章で定義する.実はオイラー数はホモロジー群から計算できるので,ホモロジー群が同じならば,オイ
1.4 なぜホモロジーか? 9
ラー数も同じになる.円周とトーラスで見たように,オイラー数が同じでも,ホモロジー群は同じとは限らない.せっかくオイラー数というわかりやすい数があったのに,なぜホモロジー群などという面倒なものを考えるのかといえば,このようにホモロジー群のほうがより精密な情報を持っているから,というのが 1つの理由である.ホモロジー理論を導入する理由として,それにより空間たちの間の関係を見ることが出来るという点も重要である.空間の性質を考えるときには,個々の空間を別々に考えるのではなく,ある空間が別の空間に含まれたり,ある空間が別の空間からの変形で得られたり,と様々な空間の関係を考えることが重要になる.構造主義的に言うならば,空間そのものよりも,空間たちのなす関係が本質的なのである.空間 X と Y のが何らかの意味で関係づけられている,という状況は数学的には写像
f : X → Y によって表現される.たとえば,X が Y に部分空間として含まれている状況は ι : X → Y という包含写像の存在に対応するのである.空間 X や Y はホモロジー理論によりホモロジー群 H∗(X)と H∗(Y )に変換されたが,実は f に対してもホモロジー群の間の写像 f∗ : H∗(X) → H∗(Y )を対応させることができる.オイラー数の場合は空間に数という単純な対象を対応させていたが,ホモロジー群の場合は,群というそれ自体が空間としての構造を持つ対象を対応させているため,このような構成が出来るのである.
Xf−−−−→ Y
ホモロジーをとる⏐⏐� ⏐⏐�ホモロジーをとる
H∗(X)f∗−−−−→ H∗(Y )
空間 X と Y が f によりどのように関係づけられているか,という問題が,f∗ によりH∗(X) と H∗(Y ) がどのように関係づけられているか,という問題に変換されたのである.空間の関係というと漠然とし過ぎていて捕みどころがなく難しい問題だが,それと比べると群の関係は数学的に扱いやすい.この変換によって一般に問題は簡単になっているのである.このように,数学的な対象たちのなす関係を別の言葉で表現するというのは現代数学で最も基本的な方法である.この考え方を発展させると,圏 (category)と関手 (functor)という概念に繋っていくことになる.
11
第 2章
ホモロジー
この章ではホモロジー群を定義し,その基本的な性質を見る.ホモロジー群の定義には様々な流儀があるのだが,われわれが採用するのはポアンカレが最初に考えたホモロジーの概念に近い「単体複体のホモロジー」である.ホモロジー理論を含む代数トポロジーの教科書は数多く出版されている.群の知識などを仮定せずに基礎から丁寧に解説した入門書として田村 [55] が定評がある.S. V. Matveev の最近の本 [34] は,100 ページに満たない短さに[55]と似た内容を簡潔かつ丁寧にまとめてあり,入門書としてこれも勧められる.本章の記述も [34] を参考にした部分が多い.より本格的な教科書としては A. Hatcher による [27]が幾何的なイメージがつかみやすく読みやすい.最近翻訳が出版された Seifert-Threlfallによる古典的な教科書 [49]は,古いぶん表現が若干まわりくどいが,現代的教科書よりも直感的なイメージが捕み易いところも多い.不動点定理に詳しく,力学系の研究でよく引用されるDoldの“Lectures on Algebraic Topology” [17]などもある.
2.1 群論ほんの少しだけまずは,ホモロジーを記述するための数学的な言葉である群というものについて簡単に触れよう.このチュートリアルにおいては有限生成アーベル群という,とても簡単な群しか登場しない.これはベクトル空間 R
k に少し毛が生えたようなものなので,恐れる必要はない.実用的には前章で登場した Z や Z
k といったものをイメージしておけば十分である.
定義 6. 集合Gに対して写像 ψ : G×G → G が存在して以下の条件をみたすとき,Gは群であるという.
(1) (結合律) 任意の a, b, c ∈ Gに対して ψ(ψ(a, b), c) = ψ(a, ψ(b, c)).
12 第 2章 ホモロジー
(2) (単位元の存在) ある元 e ∈ G が存在して任意の a ∈ G に対して ψ(e, a) =
ψ(a, e) = aをみたす(この eを Gの単位元という).(3) (逆元の存在) 任意の a ∈ G に対してある b ∈ Gが存在して ψ(a, b) = ψ(b, a) = e
をみたす(このとき bのことを aの逆元という).
さらに,群 Gが
(4) (可換性) 任意の a, b ∈ G に対して ψ(a, b) = ψ(b, a)
を満たすとき,Gはアーベル群と(可換群とも)いう.
この定義が何を言わんとしているのか,最初はわからないかも知れないが,足し算やかけ算といった基本的な演算が持っている性質を抽象化しただけの事である.実際,
ψ(a, b) = a + b
と写像ではなく足し算の記号で書き,単位元 e ∈ Gを 0と書くことにすると,上の条件は
(1) (結合律) 任意の a, b, c ∈ Gに対して (a + b) + c = a + (b + c).(2) (単位元の存在) ある元 0 ∈ Gが存在して任意の a ∈ Gに対して a+0 = 0+a = a
をみたす.(3) (逆元の存在) 任意の a ∈ G に対してある b ∈ Gが存在して a + b = b + a = 0をみたす.
(4) (可換性) 任意の a, b ∈ G に対して a + b = b + a
という,足し算ではいたって当たり前に成り立っている性質になる.以下ではアーベル群しか扱わないので,Gの演算は常に a + bと足し算の記号で書き,a の逆元を −aと書くことにする.
例 7. 整数の集合 Z はアーベル群である.単位元は普通の意味での 0 である.k 個の整数の組
Zk = {(p1, . . . , pk) | pi ∈ Z}
もアーベル群である.足し算としては単純に要素ごとに足せばよい.すなわち
(p1, . . . , pk) + (q1, . . . , qk) = (p1 + q1, . . . , pk + qk)
である.この群の単位元は (0, . . . , 0) ∈ Zk である.
この Zから Zk を作る操作を一般化すると,群の直和という概念が得られる.
定義 8. アーベル群 G1, G2 に対して,それらの元の組全体
{(g1, g2) | g1 ∈ G1, g2 ∈ G2}
に足し算を(g1, g2) + (h1, h2) = (g1 + h1, g2 + h2)
2.1 群論ほんの少しだけ 13
で定義するとアーベル群になる.これを G1 と G2 の直和といい,G1 ⊕ G2 と書く.
この記号を用いると,Zk は Z ⊕ · · · ⊕ Z という Zの k 個の直和になる.
アーベル群は,係数の割り算が出来ないベクトル空間であるという見方も出来る.線型代数において線形写像が果した役割を群の理論で担うのが次に定義する準同型写像である.
定義 9. アーベル群 G1, G2 に対して,写像 f : G1 → G2 が準同型であるとは,任意のa, b ∈ G1 に対して,f が群の演算を保つ,すなわち
f(a + b) = f(a) + f(b)
となることをいう.さらに f が写像として全単射になるとき,f は同型写像であるといい(このとき f−1 : G2 → G1 も同型写像である),また G1 と G2 は群として同型である(G1
∼= G2 と書く)という.
線型代数での部分ベクトル空間の概念も,群の理論に対応するものがある.
定義 10. アーベル群Gに対して部分集合H ⊂ Gが Gの足し算でアーベル群になっているとき,H は Gの部分群であるという.
例 11. G = Zとし,その部分集合
H := {p ∈ Z | pは偶数 } = {. . . ,−4,−2, 0, 2, 4, . . .}
を考えよう.偶数と偶数を足しても偶数なので,p, q ∈ H ならば p + q ∈ H であり,H
は Gの部分群である.H = {2n | n ∈ Z}とも書けることに注意して,H = 2Zと表記することもある.H は Gに含まれるのだが,f : G → H を f(p) = 2pと定義すると,これは同型になるので G ∼= H である.同様に整数 k に対して kZ = {kn | n ∈ Z}という集合を考えると,これらも部分群である.
例 12. G = Z2 に対してその部分集合
H := {(p, q) ∈ Z2 | q = 0} = Z × {0}
とおくとこれは部分群である.G ⊂ R2 と思うと H はその p軸上の整数点の集りである.
f : Z → H を f(p) = (p, 0) ∈ H と定義することにより H ∼= Zであることがわかる.同じ Gに対して
K := {(3p, 2p) ∈ Z2 | p ∈ Z}
とおくと,これも部分群である.R2 の原点から傾き 2/3の線を描いて,整数格子 Gと交
わった点がK である.やはりK ∼= Zである.では今度は
L := {(3p, 2q) ∈ Z2 | p, q ∈ Z}
14 第 2章 ホモロジー
図 2.1 白丸は Z2,黒丸がK
図 2.2 白丸は Z2,黒丸が L
を考えよう.K の場合と異なり,p と q が独立に動ける.Lは平面上に網の目のように 2
次元的に広がる格子点の集合である.このときは L ∼= Z2 である.
例 13. 準同型 f : G1 → G2 が与えられたとき,f によって 0 に写像されるような元の集合
ker f := {g ∈ G1 | f(g) = 0}
を f の核 (kernel) と呼ぶ.このとき ker f は G1 の部分群となる.なぜならば g, g′ ∈ker f ならば
f(g + g′) = f(g) + f(g′) = 0 + 0 = 0
なので g + g′ も再び ker f の元だからである.また,G2 の元 hで,ある g ∈ G1 によりh = f(g)となっているような元の集合
im f := {h ∈ G2 | ∃g ∈ G1 such that f(g) = h}
を f の像 (image)と呼ぶ.このとき im f は G2 の部分群である(証明せよ).
アーベル群 Gとその部分群 H が与えられると,Gの元を H で割った余り,というものが考えられる.
2.1 群論ほんの少しだけ 15
例えば最も簡単に G = Z,H = 2Zの場合を考えよう.この場合,p ∈ Gを H で割るというのは単に pを 2で割った余りを考えるということである.余りは pが偶数なら 0,奇数ならば 1の 2通りである.実は,この「割った余り」の集合が再び群になり,重要な役割を果たすのである.まずは,
偶数+偶数 = 偶数偶数+奇数 = 奇数奇数+偶数 = 奇数奇数+奇数 = 偶数
という法則を思い出そう.ここで大事なことは,偶数や奇数としてどのような数を選ぶか,たとえば偶数として 8をとるか 142を選ぶか,ということによらずに上の法則が成り立つということである.そこで,偶数の代表として 0,奇数の代表として 1 を選ぼう(別に奇数の代表として
2345を選んだりしてもいいのだが,後々見栄えが悪い).代表であるという偉そうな感じを出すために,代表としての 0や 1には [ ]を付けて [0], [1] と書くことにしよう.[ ]がついた 0は,0そのものではなく,「偶数」を意味する.違う代表,例えば偶数の代表として 128を選んだとすると,[128]もやはり「偶数」を意味するので,[0] = [128]である.この代表を用いて,上の法則の「偶数」という文字列を [0]で,「奇数」という文字列を
[1]で置き換えると,
[0] + [0] = [0]
[0] + [1] = [1]
[1] + [0] = [1]
[1] + [1] = [0]
という表が得られた.[1] + [1] = [0]というのが奇妙に見えるかも知れないが,1 + 1 = 2
かつ [2] = [0]であることを思い出せばよい.この表から新しい群の演算を定義することができる.
Z2 := {[0], [1]}
という 2つの要素だけを持つ集合を考えて,そこでの足し算を上の表で定義すると,Z2
はアーベル群になるのである.単位元は [0] である.Z2 を Z を 2Z で割った群といい,Z2 = Z/2Zと書く.同様に,nZ ⊂ Z を考えると,Z を nZで割ることができる.整数を nで割った余りを考えると,0, 1, . . . n − 1の n通りが考えられる.Z2 の場合と同様に,
(n で割って k 余る数) + (n で割って l 余る数) = (n で割って k + l 余る数)
という法則が成り立つことが基礎となる.「nで割って k余る数」の代表として kを選び,
16 第 2章 ホモロジー
「nで割って k余る数」のことを [k]という記号で書くことにすると,
Zn := {[0], [1], . . . , [n − 1]}
という集合に対して,先と同様に足し算が定義できるのである.この群を Zn = Z/nZと表記することも同様.さて,一般のアーベル群 Gとその部分群H に対して,H で割るという操作をどうやって意味づけたらよいだろうか.整数の割り算に立ち返り,
p と q は nで割った余りが等しい
という命題と
p − q は n で割り切れる(すなわち p − q ∈ nZ)
という命題は同値であることを思い出そう.この類推で,
g, h ∈ G は g − h ∈ H のとき,H で割った余りが等しい
と定義することにしよう.例えば G = Z2,
H := {(3p, 2q) ∈ Z2 | p, q ∈ Z}
とすると,g = (1, 2)と h = (7,−2)は H で割った余りが等しい.なぜなら
g − h = (−6, 4) = (3 · (−2), 2 · 2) ∈ H
だからである.元 g ∈ Gに対し,H で割った余りが gと等しくなるようなGの元たちの集合を g の同値類といい,g が入っている同値類を [g] と書く.例えば [(1, 2)] と [7,−2]
は同じ同値類に入っている.すなわち [(1, 2)] = [(7,−2)] である.ここで,g ∈ G を H
で割った余りのすべての集合は{[g] | g ∈ G}
と書けることに注意しよう.同じ余りを持つ元は沢山あるので無駄なようだが,g と g′
の余りが同じならば [g] = [g′]となるので,集合としてはこれでよい.この余りの集合をG/H と書く.ここで G/H の元に対して,
[g] + [h] = [g + h]
というルールで演算を定義すると,アーベル群になるのである.このルールでちゃんと足し算が G/H に定義でるためには,偶数と奇数の足し算の場合のように,代表の選び方によらずに演算が決まることを確かめなくてはならない.これを確かめてみよう.いま g とg′ は同じ余りを持つとしよう.すなわち [g] = [g′].同様に hと g′ も同じ余りを持つとする.g と hという組で足し算を定義すると,結果は [g + h]である.g′ と h′ という組で足し算を定義すると,結果は [g′ + h′]である.問題は
[g + h] = [g′ + h′]
2.1 群論ほんの少しだけ 17
かどうか,すなわち g + hと g′ + h′ はH で割ったときに余りが同じかどうかが問題となる.ここで
(g + h) − (g′ + h′) = (g − g′) + (h − h′)
であることと,仮定から g−g′ ∈ H かつ h−h′ ∈ H ことを思い出すと,(g+h)−(g′ +h′)
は H の元の和なので,やはり H に含まれる.これは g + hと g′ + h′ が同じ余りを持つということを意味する.以上の議論をまとめると,次の定義が得られる.
定義 14. アーベル群Gとその部分群H に対し,その商群 G/H とは GをH で割った余りの集合 G/H := {[g] | g ∈ G}に演算を [g] + [h] = [g + h] で定義したものである.
例 15. 先に見たように Zを kZで割ると Z/kZ = Zk となる.次に G = Z
2 の場合を考えよう.Z2 を
H := {(p, q) ∈ Z2 | q = 0} = Z × {0}
K := {(3p, 2p) ∈ Z2 | p ∈ Z}
L := {(3p, 2q) ∈ Z2 | p, q ∈ Z}
で割った群は何だろうか.まず Z2/H について先の定義に基づいて考えると,これは
(p, q) − (r, s) ∈ H
のときに同値であると考えた同値類なので,要するに Z2 において最初の座標を無視した
ものとなる.従って代表たちとして (0, q)という形のものを取れる.写像 ψ : Z → Z2/H
を ψ(q) = [(0, q)]と定義することにより,
Z2/H ∼= Z
であることがわかる.同様に代表をうまくとることによって
Z2/L ∼= Z3 ⊕ Z2
となることもわかる(証明せよ).さて最後に Z2/K ∼= Zであるが,この場合は座標軸に対
して斜めに Lが入っているため,考えにくい.そこで Z2の基底を {(1, 0), (0, 1)}からうま
く取り替えて綺麗な表現が得られないか試してみよう.まず f : Z → Z2 : f(p) = (3p, 2p)
という写像を考えるとK = im f であることに注意しよう.この写像を 2行 1列の行列
fA =(
32
)によって与えられる Zから Z
2 への線形写像だと思って,行列のスミス標準形の理論を用いると,求める基底が得られる.この場合は {(3, 2), (1, 1)} という基底が得られるが,基底変換を与える行列 (
3 12 1
)
18 第 2章 ホモロジー
は行列式が 1で,逆変換も整数値行列で定義されることに注意しよう.写像 f は
f(q) = q ·(
32
)+ 0 ·
(11
)をみたすので,この新しい基底の下で f を表現する行列は
fA′ =(
10
)である.このことから,Z
2/H の場合と同様に
Z2/K ∼= Z
となることがわかる.
アーベル群にもいろいろなものがあるのだが,このチュートリアルで扱う状況ではベクトル空間の場合の有限次元ベクトル空間に対応するような「有限性」を持つものだけを考えればよい.
定義 16. アーベル群 Gが有限生成であるとは,有限個の元によってGが生成される,すなわちある g1, g2, . . . , gn ∈ Gが存在して,任意の g ∈ Gが
g = k1g1 + · · · kngn
と書けることである.
定理 17 (有限生成アーベル群の構造定理). 有限生成アーベル群Gは次の形のアーベル群と同型になる.
G ∼= Zr ⊕ Zm1 ⊕ · · · ⊕ Zms
この表示は直和成分の順序の入れ替えを除いて一意的であり,Zr を Gの自由部分,r を
Gのランクという.また Zm1 ⊕ · · · ⊕ Zmsを Gのねじれ部分という.Gがねじれ部分を
持たない,すなわち G ∼= Zr となるとき,Gは自由であるという.
2.2 単体複体この節では,空間を簡単な要素に分解して組み立てる方法を考える.その部品となるのが単体である.
定義 18. RN 内の n + 1個の点 a0, . . . , an は,これらの点がどの n − 1次元の平面にも
含まれないとき独立であるという.この条件は n個のベクトル (a1 − a0), . . . , (an − a0)
が一次独立といっても同じである.
定義 19. RN 内の独立な n + 1 個の点 a0, . . . , an の凸包を n 単体 (n-simplex) といい,
点 a0,. . . , an をこの n 単体の頂点という.
2.2 単体複体 19
0単体とは単に点であり,1単体は線分,2単体は三角形であり,3単体は四面体であることがすぐにわかる.
定義 20. 単体 σ が頂点 a0, . . . , an で定義されるとき,頂点たちから k + 1個の部分集合を選び,その凸包を,σ の k 次元の面 (face)という.
例えば,2単体 σ が a0, a1, a2 という点で定義される三角形とすると,σ の 1次元の面は a0, a1 が張る辺,a1, a2 が張る辺,a2, a0 が張る辺の三本である.
k単体 σに対し,それを含む k次元アフィン空間が存在する.アフィン空間には 2種類の向きが入れられることを思い出そう.直線ならば,単純にどちらを正方向とするか,平面ならば時計回りか反時計回りかで向きが決まる.線型空間の向きは,その基底を順番を込みで指定すると決まる.k単体 σに対し,それを含む k次元アフィン空間にどちらの向きを入れるかで σの向きを定義する.0単体に対しても,形式系に “+”, “−”の 2種類の向きが考えられるとしよう.
定義 21. 単体 σ が向きづけられた n単体,ρがその n − 1次元の面とするとき,ρに σ
の向きから誘導される向きを決めることができる.その向きとは,ρの向きづけを定義する基底を v0, . . . , vn−2 とし,ρから σ の内部に向かう垂直方向のベクトルを vn−1 としたときに,v0, . . . , vn−1 が与えられた σ の向きと一致するような向きとして決まる.1単体からその両端の 0単体に対しては,その 1単体の向きが “+”から “−”に向かうように向きを誘導する.
例えば σ が図のように a0, a1, a2 で定義される三角形で反時計回りの向きを持つとしよう.このとき β を a1, a2 で定義される辺とすると,β の向きは図のように a1 から a2 に向かう向きとなる.また,β が σから誘導される向きを持つとき,β が a1, a2 に誘導する向きはそれぞれ “+”, “−”となる.
a
a a
0
1 2v
0
v1
σ
β
定義 22. RN に含まれる単体の集合 K は
(1) 任意の σ, ρ ∈ K に対して,σ ∩ ρ は空であるか,もしくは K に含まれる単体である.
20 第 2章 ホモロジー
(2) 任意の σ ∈ K に対して,σ の面は全てK に含まれる
の 2つの条件をみたすとき単体複体 (simplicial complex) であるという.K に含まれる単体のうち,最も次元の高いものの次元をK の次元という.
単体複体K に含まれる全ての単体 σ ∈ K たちを集めた集合
|K| :=⋃
σ∈K
σ ⊂ RN
を K の幾何学的実現という.K の要素は単体たちで,|K|の要素は RN なので,集合と
しては全く別のものであることに注意する.ただし,いちいち区別するのも面倒なので混乱の恐れのないときは K と |K|を同一視することもある.
図 2.3 単体複体の例
定義 23. K の全ての単体に対して,向きが与えられている(2種類の向きのどちらかが指定されている)とき単体複体K は向きづけられているという.
K の向きづけを与えるとき,単体がその面に誘導する向きを考慮する必要はなく,各単体の向きはまったく任意に選んでよい.
注意 24. この節では単体複体しか扱わなかったが,実は普通に目にする空間はたいてい単体複体とみなしてよい.例えば可微分多様体 M に対してはある単体複体 K が存在して M と |K| は同相,すなわち全単射連続写像 f : M → |K|であって逆写像も連続なものが存在することが知られている.同相ならばホモトピー同値になることに注意しよう.
2.3 複体とそのホモロジーK を向きづけられた単体複体とする.K の n単体 {σ1, . . . , σk}に対し,それらの整数係数の形式的な和の集合を Cn(K)と書く.すなわち
Cn(K) := {m1σ1 + · · ·mkσk | σ1, . . . , σkはK の n単体,m1, . . . mk ∈ Z}
2.3 複体とそのホモロジー 21
である.{σ1, . . . , σk}を一次独立な k個のベクトルだと思って,それらの張るベクトル空間を考えていると思ってもよい.図 2.3のような三角形に対しては
C1(K) := {m1α + m2β + m3γ | m1,m2,m3 ∈ Z}
となり,例えば α + β + γ とか 3α − 7β + γ といった形の和が C1(K)の元である.このような Cn(K)の元を以下では n次元チェインと呼ぶことにする Cn(K)のランクは K
の n次元単体の数となることに注意しよう.Cn(K) の要素,すなわち n 次元チェインに何らかの幾何学的な意味を持たせたいのだが,いったいこの形式的な和にはどのような意味があるのだかろうか.上の三角形の例でいうと α + β + γ は三角形を一周するループとして意味づけられそうなのに対し,3α − 7β + γ のほうは一体どういうものなのか良くわからない.この違いをみるために,次のように単体の境界をとる,という操作を考えよう.
a
a a
0
1 2
α
β
γσ
図 2.4 2単体とその面たち
準同型 ∂n : Cn(K) → Cn−1(K)を,各単体 σ ∈ Cn に対しては
∂n(σ) :=∑
δiは K の n−1 単体
εiδi
とおき,それを Cn(K)に線形に拡張したものとして定義しよう.ただしここで
εi :=
⎧⎪⎨⎪⎩0 δiがσの面ではないとき1 δiがσの面で,向きが一致するとき
−1 δiがσの面で,向きが逆のとき
であり,「向きが一致する」というのは,σ が δi に誘導する向きと,K の向きづけを決めるときに δi に与えた向きが一致する,という意味である.先の例では a0, a1, a2 に向き “+” が与えられているとすると,
∂1(α + β + γ) = (a0 − a1) + (a1 − a2) + (a2 − a0) = 0
∂1(3α − 7β + γ) = 3(a0 − a1) + 6(a1 − a2) + (a2 − a0) = 2a0 + 3a1 − 5a2 = 0
22 第 2章 ホモロジー
となっている.この例で見たように,∂n の作用で消えているかどうかが,幾何学的に閉じているかどうかに対応するのである.ここで,重要な性質として
∂n−1 ◦ ∂n = 0
が成り立つ.ただし準同型が 0であるとは,全ての元が 0に写像される,すなわちその像が {0}であることを意味する.再び 2単体 σ を考えると,
∂1 ◦ ∂2(σ) = ∂1(α + β + γ) = (a0 − a1) + (a1 − a2) + (a2 − a0) = 0
となってこの性質が確かに成立している.一般の次元の単体に対してもこの性質は成立するので(証明せよ),Cn(K)の任意の元 xに対しても ∂n−1 ◦ ∂n(x) = 0となる.これは幾何学的には
境界には境界がない
ということを意味している.このような単体複体が持っている性質を抽象化した概念が次に定義する「鎖複体」である.
定義 25. アーベル群の列 C = {Cn | n ∈ Z} とその間の準同型の列 ∂ = {∂n : Cn →Cn−1}
· · · −−−−→ Cn+1∂n+1−−−−→ Cn
∂n−−−−→ Cn−1 −−−−→ · · ·
の組 (C, ∂) が鎖複体 (chain complex) であるとは,任意の nに対して ∂n ◦ ∂n+1 = 0となることをいう.このとき Cn の元を n次元鎖 (chain)という.誤解の恐れがない場合には単に C が鎖複体であるともいう.また準同型 ∂n を C の境界準同型という.
C が鎖複体のとき,im ∂n+1 と ker ∂n は共に Cn の部分群である.この 2 つはどういう関係にあるのだろうか.いま g ∈ im ∂n+1 を勝手に選ぶと,像の定義から h ∈ Cn+1 が存在して ∂n+1(h) = g となっている.条件 ∂n ◦ ∂n+1 = 0により
∂n(g) = ∂n ◦ ∂n+1(h) = 0.
すなわち g ∈ ker ∂n.いま g は任意だったので,im ∂n+1 ⊂ ker ∂n となり,im ∂n+1 はker ∂n の部分群であることがわかる.これらの部分群は特に幾何学的な意味を持つので,
Zn(C) := ker ∂n, Bn(C) := im ∂n+1
という記号で表し,Zn の元を n次元サイクル,Bn の元を n次元バウンダリと呼ぶ.
定義 26. 鎖複体 C に対してその n次元ホモロジー群を
Hn(C) :=Zn(C)Bn(C)
=ker ∂n
im ∂n+1
2.4 写像のホモロジー 23
で定義する.全ての次元のホモロジー群の直和を H∗(C)と書く.すなわち
H∗(C) :=⊕n∈Z
Hn(C)
である.
単体複体K から構成した C(K)はもちろん鎖複体の例となっているので,そのホモロジー群が考えられる.これを複体 K のホモロジー群とよぶ.
定義 27. 単体複体K に対してその n次元ホモロジー群を
Hn(C(K)) :=Zn(C(K))Bn(C(K))
で定義する.またHn(C(K))のランクをK の n次元ベッチ (Betti)数といい,βn(K)で表す.
n次元ベッチ数は,空間 |K|に「n次元の独立な成分」が幾つあるのかを数える数である.例えば β0(K)は |K|の連結成分の数であり,β1(K)は |K|に(ドーナツの穴に紐を通すように)紐をかけたときに,互いに移り会えない独立な紐のかけ方が何通りあるかを数える量である.この節の最後に,前章で触れたオイラー数を単体複体の観点から見直そう.単体複体K
に対し,その n次元単体の数を sn(K)と書く.sn(K)は Cn(K)のランクと等しい.前節で考えた v − e + f といった形の交代和を一般化して,単体複体K のオイラー数を
χ(K) :=∑
(−1)nsn(K)
で定義する.実は,オイラー数は全ての単体を数えなくても,独立なサイクルの数,すなわちベッチ数だけから求めることができる.
定理 28.χ(K) =
∑(−1)nsn(K) =
∑(−1)nβn(K).
ベッチ数 βn(K) は Hn(K) のランクで,sn(K) は Cn(K) のランクなので βn(K) ≤sn(K).ホモロジーを取ることにより一般に βn(K) は sn(K)よりも小さくなっている.ところが,交代和を取るとランクが減った部分がうまくキャンセルして,同じ χ(K)という数を与えるのである.
2.4 写像のホモロジー前章の終わりに述べたように,空間だけでなく写像に対してもホモロジーを導入することで,空間たちの関係を見ることが出来るようにしよう.いきなり一般の写像に対して考えるのは難しいので,,まずは単体複体の構造を保つような写像に対してそのホモロジーを考える.
24 第 2章 ホモロジー
定義 29. 単体複体 K から Lに対し写像 f : |K| → |L|が単体写像であるとは,K の各単体 σに対し f(σ)が Lの単体であり,f の σへの制限が線形になってることをいう.ただし,ここで単体 σ から ρへの写像 f : σ → ρが線形とは,f が σ の頂点を ρの頂点へと移し,かつ σ を含む平面上のアフィン写像となっていることをいう.
単体写像 f : |K| → |L|が与えられると,Cn(K)の鎖に対して Cn(L)の鎖を対応づける写像 f� が構成できる.まず単体 σ ∈ Cn(K)を取ろう.このとき仮定から f(σ)は Lの単体なので,これを f�(σ)としたい.ただし,写像によって単体が潰れて次元が落ちている場合はこれを無視しよう.また,f が単体 σ の向きを反転させるような写像の場合には,この情報を入れて −f(σ)を像とする.まとめると,
f�(σ) :=
⎧⎪⎨⎪⎩0 dim(σ) > dim(f(σ))のとき
f(σ) dim(σ) = dim(f(σ))かつ,f が σ の向きを保つとき−f(σ) dim(σ) = dim(f(σ))かつ,f が σ の向きを反転させるとき
である.このような単体複体から単体複体への写像を抽象化したのが鎖写像という概念である.
定義 30. 鎖複体 (C,∂C)から (D, ∂D)への鎖写像 ψ とは,ψ = {ψn : Cn → Dn}という準同型の列であって,鎖複体の準同型と可換,すなわち ψn ◦ ∂C
n+1 = ∂Dn+1 ◦ ψn となる
ようなものである.このとき次の図式は可換である.
· · · −−−−→ Cn+1
∂Cn+1−−−−→ Cn
∂Cn−−−−→ Cn−1 −−−−→ · · ·
ψn+1
⏐⏐� ψn
⏐⏐� ψn−1
⏐⏐�· · · −−−−→ Dn+1 −−−−→
∂Dn+1
Dn −−−−→∂D
n
Dn−1 −−−−→ · · ·
鎖写像 ψ : C → D は,C のサイクルを D のサイクルに写像する.何故なら,g ∈ Cn
がサイクルならば,上の図式の可換性より
∂Dn (ψn(g)) = ψn−1(∂C
n (g)) = ψn−1(0) = 0
となるからである.同様に ψ は,C のバウンダリを D のバウンダリに写像する.あるh ∈ Cn+1 が存在して g = ∂C
n+1(h)のとき,
ψn(g) = ψn(∂Cn+1(h)) = ∂D
n+1(ψn(h)) ∈ im ∂Dn+1
となるからである.さて,いま Hn(C)の元 xを一つ選んだとする.この群は ker ∂C
n を im ∂Dn+1 で割った
ものなので,ある代表 g ∈ ker ∂Cn によって x = [g] と書ける.いま ψ はサイクルをサイ
クルに写像するので,ψn(g) ∈ ker ∂Dn である.よって ψn(g) が代表する Hn(D)での同
値類 [ψn(g)]を考えることができる.実は,この [ψn(g)]は xの代表 g の取り方によらないことがわかり,そのため次のようにホモロジー群からホモロジー群への写像を定義する.
2.4 写像のホモロジー 25
定義 31. ψ : C → D を鎖写像とすると,x ∈ Hn(C) に対してその代表 g ∈ ker ∂Cn を
選び
ψ∗(x) = ψ∗([g]) := [ψn(g)] ∈ ker ∂Dn
im ∂Dn+1
= Hn(D)
と定義すると,ψ∗ は Hn(C) から Hn(D) への準同型写像となる.この ψ∗ を ψ がホモロジーに誘導する準同型という.ψ∗ をどの次元で考えているか明確にしたいときは(ψ∗)n : Hn(C) → Hn(D)などと書く.
定義 32. 単体写像 f : |K| → |L|に対し,鎖写像 f� : C(K) → C(L)がホモロジーに誘導する準同型
f∗ : H∗(K) → H∗(L)
を写像 f が誘導するホモロジー準同型という.
さて,以上のように単体写像に対してはそのホモロジーを考えることが出来たが,実は一般の連続写像 f : |K| → |L|に対しても,それを単体写像で「近似」することで,ホモロジーを考えることができる.
定義 33. 単体写像 ψ : |K| → |L|と連続写像 f : |K| → |L|が与えられたとき,K の任意の点 xに対して f(x)と ψ(x)を同時に含むような Lの単体が常に存在するならば,ψ
は f の単体近似であるという.
単体写像 ψ : |K| → |L| が連続写像 f : |K| → |L| の単体近似であるとき,任意のx ∈ |K|に対して ψ(x) と f(x)は同じ単体の上にあるので,写像 F : |K| × [0, 1] → |L|を
F (x, t) = tψ(x) + (1 − t)f(x)
で定義することができる.よって ψ � f である.
定理 34 (単体近似定理). 任意の連続写像 f : |K| → |L|に対し,必要ならばK をさらに分割することにより,その単体近似を構成することができる.より正確には,f に対しある自然数 nが存在して,K に対して重心細分を n回施した単体複体を K1 とすると(|K1| = |K|),単体写像 ψ : |K1| → |L|が存在して f の単体近似となっている.
ここで K の重心細分とは,K の各単体をその「重心」で分割して得られる新たな単体複体のことである(図 2.4 参照).
命題 35. 連続写像 f : |K| → |L|と g : |L| → |M |に対し,それらの合成 h : |K| → |M |がホモロジーに誘導する写像 h∗ は,f∗ と g∗ の合成である.すなわち
(g ◦ f)∗ = g∗ ◦ f∗ : H∗(K) → H∗(M)
が成り立つ.
26 第 2章 ホモロジー
図 2.5 2単体の重心細分
定理 36. 連続写像 f, g : |K| → |L|がホモトープであれば,
f∗ = g∗ : H∗(K) → H∗(L).
すなわちホモトープな写像がホモロジーに誘導する写像は等しい.
この定理を使うと,すぐに次のことがわかる.
定理 37. |K|と |L|がホモトピー同値ならば H∗(K) ∼= H∗(L).
Proof. ホモトピー同値を与える写像を f : |K| → |L|,g : |L| → |K|とすると,g◦f � 1|K|かつ f ◦ g � 1|L| である.ホモロジーをとると
(g ◦ f)∗ = (1|K|)∗, (f ◦ g)∗ = (1|L|)∗
となる.ここで(g ◦ f)∗ = g∗ ◦ f∗, (f ◦ g)∗ = f∗ ◦ g∗
と恒等写像 1|K|, 1|L| がホモロジーに誘導する写像が恒等写像であることを用いると,このことは f∗ : H∗(K) → H∗(L)と g∗ : H∗(L) → H∗(K)が互いに逆写像となっていることがわかる.すなわち f∗, g∗ はホモロジー群の同型を与える.
この定理によりホモロジー群はホモトピーで不変である.すなわち空間をぐにゃぐにゃ変形をしても保たれる量であることが示されたのである.
2.5 相対ホモロジー空間の性質を調べるときに,その空間だけでなく,そこに含まれる別の空間も考えて,それらの間の関係が重要になることがある.このような状況をホモロジーで表現したのが「相対ホモロジー」である.
定義 38. 単体複体Lが単体複体N の部分単体複体であるとは,単体の集合としてL ⊂ N
であり,かつ L自身が単体複体となることをいう.
2.5 相対ホモロジー 27
単体複体 L が単体複体 N の部分単体複体のとき,Cn(L) は Cn(N) の部分群であり,また C(L)の境界準同型は C(N)の境界準同型の Cn(L)への制限となっている.このことから C(N)を C(L)で割った鎖複体 C(N,L)を
Cn(N,L) =Cn(N)Cn(L)
で定義することができる.Cn(N,L)と Cn(N)の大きな違いは,Cn(N)ではサイクルではなかった鎖が Cn(N,L)ではサイクルになることがある,ということである.
�
ab
N
L
例えば図のような 1 次元鎖 σ ∈ C1(N) を考えよう.Cn(N) においては,a, b に適当な向きを入れると ∂1(σ) = a − b = 0 となるので,σ はサイクルではない.ところが,a, b ∈ C0(L)なので,a − b ∈ C0(L).よって Cn(N,L)では [a − b] = 0となる.すなわち ∂1([σ]) = [a − b] = 0なので,[σ]はサイクルである.この複体のホモロジー群 Hn(C(N,L)) を単体複体の対 (N,L) の n 次元相対ホモロジー群と呼び,Hn(N,L)と書く.また,単体複体の対 (N,L)と (N1, L1) に対し単体写像 f : N → N1 が f(L) ⊂ L1 を満たすとき,f は対の写像 f : (N,L) → (N1, L1)を定めるという.このとき,f は相対ホモロジー群上の写像
f∗ : Hn(N,L) → Hn(N1, L1)
を定める.
注意 39. 対 (N,L)のホモロジー群は,N のなかで Lを潰した空間のホモロジー群だと思うこともできる.すなわち Lを一点に潰した空間を N/Lと書き,Lが潰れて出来る点を [L] ∈ N/Lとすると
Hn(N,L) ∼= Hn(N/L, [L])
が(ひどく奇妙な空間でなければ)成立するのである.ただし,この直感を正当化するには単体複体のホモロジーの枠組みから抜け出して特異ホモロジー理論などを用いる必要がある.
28 第 2章 ホモロジー
2.6 ホモロジー計算のアルゴリズムホモロジー群は
Hn(C(K)) :=Zn(C(K))Bn(C(K))
=ker ∂n
im ∂n+1
として定義されていたので,それを計算するためには ∂n : Cn(K) → Cn−1(K)の im やkerを求め,さらに商群を求める操作をしなくてはならない.例 15で見たように,商群を求めるためには加群の基底を上手くとりかえる必要がある.
定理 40 (スミス標準形). 任意のm行 n列の整数行列 Aに対してm次整数行列 S と n
次整数行列 T であって S−1 と T−1 も整数行列であるようなものが存在して
SAT =
⎛⎜⎜⎜⎝d1 O
. . . OO dr
O O
⎞⎟⎟⎟⎠という形に出来る.ここで d1, . . . , dr は 0 でない整数であり,各 di は di+1 を割り切る(1 ≤ i < r).また,O は成分が全て 0の行列である.この形を行列 Aのスミス標準形という.
スミス標準形という名前よりも単因子行列(定理に出てくる di を Aの単因子という)という名前のほうが馴染みがあるかも知れない.行列の基本変形を有限回繰り返すことで,実際に行列 S, T と標準形を構成するアルゴリズムが知られている(代数や線型代数のテキストを参照のこと.英語版 Wikipedia の Smith normal form の項にも解説がある).行列 Aは A : Z
n → Zm という写像だと思えるが,Z
n の基底の取り替えは Aの列に関する基本変形,Z
m の基底の取り替えは Aの行に関する基本変形と対応する.さて,このスミス標準形定理を用いると次のようにホモロジー群を求めることができる.以下では簡単のため Cn(K) = Cn と書く.計算は低い次元から進める.まず i < 0に対しては Ci = 0なので,ker d0 = C0 より
H0(K) =C0
im ∂1.
そこで ∂1 のスミス標準形を求める.この作業により,C0 と C1 の双方の基底が取り替えられることに注意しよう.求めた ∂1 の単因子を d1, . . . , dr とすると,行列が対角成分しか持たないことから,簡単に im ∂1 = d1Z ⊕ · · · ⊕ drZと計算できる.よって
H0(K) =C0
im ∂1= Zd1 ⊕ · · · ⊕ Zdr
⊕ Zs
ただし s は C0 のランクから r を引いた数,また di = 1のときは Zdi= Z/Z = {0} と
する.
2.7 モース理論 29
次に H1(K)を求めよう.今度は d2 に対してスミス標準形を求めることになる.すなわち C1 と C2 の基底を取り替えて ∂2 を簡単な形にするのだが,C1 の基底を取り替えたら,せっかく求めた ∂1 のスミス標準形が崩れてしまわないだろうか.実は以下で見るように,その心配はいらないのである.まず
∂1 ◦ ∂2 = 0
であることを思い出そう.すなわち,∂1 と ∂2 に対応する行列を A1, A2 とすると(∂1 のスミス標準形を求めるときに構成した基底を用いて表現する),A1A2 = 0でなくてはならない.A1 は先に構成したスミス標準形そのものなので,その最初の r 列は対角行列に0でない成分が並んでいる.よって,A2 の最初の r行の成分は全て 0である.このことから,∂2 のスミス標準形を求める操作において,最初の r 行は無視して,それ以外の行からなる行列に対して基本変形を行なえばよいことがわかる.∂2 : C2 → C1
なので,行に関する基本変形は C1 の基底の取り替えに対応する.そして C1 の基底の取り替えは ∂1 の列に関する基本変形に対応するのだが,A1 は最初の r 列以外は 0なので,この操作をしても影響を受けないのである.こうして,基底の取り替えにより d1と d2をスミス標準形に出来たので,ker ∂1と im ∂2
は簡単に求めることができ,よって H1(K) = ker ∂1/ im ∂2 が求められる.以下,d3, d4 と順に ∂n をスミス標準形に変換することにより,Hn(K)を求めてゆけばよい.このように,ホモロジー群を計算するアルゴリズムは,スミス標準形を求めるアルゴリズムの積み重ねなので,いかに効率良くスミス標準形を求めるかが,ホモロジー群の計算を実際に計算機で実行するときの重要なポイントとなる.残念ながら,スミス標準形の計算はそれほど速くなく,行列のサイズに対しておよそ 3 乗のオーダーの時間がかってしまう.そこで,CHomPに実装されているホモロジー計算アルゴリズムでは,実際にホモロジー群の計算を始める前に,幾何学的な変形を複体に施して出来るだけ行列のサイズを小さくする操作を行なっている [30, 41].写像 f がホモロジーに誘導する f∗ を計算するアルゴリズムについては触れられなかったが,これについても [30, 41] などを参照されたい.空間のホモロジー群を求めるアルゴリズムよりも f∗ を求めるアルゴリズムのほうが格段に複雑であり,また計算にかかる時間も圧倒的に長い.このため,f∗ を計算するアルゴリズムは現在でも様々な方法で改良が試みられている.
2.7 モース理論いままでは空間に単体複体という多面体のような構造を入れた上でそのホモロジーを考えてきたが,実はホモロジーの構成には単体複体を経由する方法以外にも様々な方法がある.この節では,考えている空間からの写像を微分することができる,すなわち空間が多
30 第 2章 ホモロジー
様体の構造を持つときに,多様体上の関数を用いてホモロジーを計算するモース理論の方法を紹介しよう.これは次章で触れるコンレイ指数という力学系の不変量理論の雛形ともなっている.考える空間を多様体 M とする.そのホモロジーを考えるとき,前節ではM と同相な単体複体 K を用意して,そのホモロジーを考えた.また,特異ホモロジーというホモロジーの構成も広く用いられるが,ここでは単体そのものの代わりに,単体からM への写像 ψ : σ → M を考える.これらは基本的には外側からM 全体を眺める視点といえよう.この視点とは双対的に,多様体そのものではなく多様体上の関数の特異点を眺めることによってもM のホモロジーを知ることが出来るというのがモース理論の主張である.モース理論では,M を知るために必要な情報が関数の特異点に集約されているという点が重要である.まず多様体M 上の関数 f : M → Rによって与えられる勾配ベクトル場
x = −∇f(x)
を考える(M は適当な計量によりリーマン多様体の構造を持つとする).このベクトル場の生成する流れを考えると,関数 f の値が減少する方向に全ての点が流れてゆくような連続力学系が得られる.これを f の生成する勾配流と言う.次にこのベクトル場の特異点,すなわち ∇f(x) = 0となるような xを考える.特異点が全て双曲型であるとき,f はモース関数であるという.またモース関数の特異点 xに対し,その不安定多様体W u(x)の次元を xの指数と呼ぶ.特異点の指数は,その近傍でのf の値のみで決まることに注意する.例えばトーラスM(中身のないドーナツ型)を地面に立てて,関数 f : M → Rとしては点 xの地面から測った高さを f(x)と定義してみよう.このとき f による勾配流は,M
の上を高いところから低いところへと,水のように流れ落ちるものになる.この流れの特異点は,地面に対して水平な平面とトーラスが接する 4点である.これらを上から順に p, q, r, sと名付けよう.すると流れが湧き出す pの指数は 2,流れの鞍点である pと r の指数は 1,流れが落ち込む先である sの指数は 0となる.
定理 41 (モース不等式). f を n次元多様体M 上のモース関数,その指数 k の特異点の数を ck とする.また多様体M の k 次ベッチ数を βk と書く.このとき k = 0, . . . , nに対し
ck − ck−1 + · · · ± c0 ≥ βk − βk−1 + · · · ± β0
が成りたつ.特に k = nのときは等号が成立する.
定理より特に ck ≥ βk が k = 0, . . . , nで成立する.すなわち,どんなモース関数に対しても,不安定次元が k である特異点が多様体M の k-次ベッチ数以上の個数存在する.先の例でいうと,c2 = 1,c1 = 2,c0 = 1となり,これらはトーラスのベッチ数と一致するので,これ以上特異点を減らすことはできないことがわかる.
2.7 モース理論 31
証明は,多様体を f の値で輪切りにし,特異点のところでの変化を見るということをする.もう少し詳しくいうと,Ma := {x ∈ M : f(x) ≤ a}という集合を定義し,f−1([a, b])
に特異点がなければ Ma とM b の間には大きな違いはなく,また特異点のところで起きる構造の変化は,「ハンドル」の張りつけにより記述される,という議論をする.トーラスの例で Ma の絵を描いてみるとわかりやすい.詳しくはたとえば Milnor の “Morse
theory” [36] を参照されたい.古典的なモース理論は上のモース不等式を基本定理とするが,近年では以下で紹介するようにWitten複体(Morse-Conley-Witten複体とも呼ぶ人もあり)という複体を経由した議論をすることが多い.Witten 複体により,フレアーホモロジーなどの無限次元で定義されたホモロジーと多様体のホモロジーとの関係が見やすくなるというのが理由の一つであるが,力学系への応用においても以下の見方は重要となる.
f をモース関数とする.さらに f の勾配流はモース・スメール条件を満たす,すなわち,特異点の任意の組 p, q に対し,W u(p) と W s(q) は横断的に交わるとする.任意のモース関数 f は,いくらでも小さい摂動でこの条件を満たすようにできる.先ほどのトーラスの例では,トーラスが地面に対して鉛直なときはモース・スメールにならないが,ほんの少し傾ければ条件を満たすようになる.全ての特異点 xに対しW u(x)の接空間に向きを 1つ決めておく.f の指数 k の特異点たちを生成元とする自由加群をCk で表す.特異点 xが生成する加群を Z〈x〉と書くことにすると,
Ck =⊕
x は指数 k の特異点
Z〈x〉
である.Ck のランクは指数 k の特異点の数であり,上のトーラスの例で言えば,
Ck =
⎧⎪⎪⎪⎨⎪⎪⎪⎩Z〈p〉 k = 2Z〈q〉 ⊕ Z〈r〉 k = 1Z〈s〉 k = 00 その他
となる.例えば C1 には 3q − 2rといった形式的な和が含まれていると考えるのである.この Ck たちの上に,次のようにして境界作用素 ∂c が定義できる.y ∈ Ck を Ck の生成元としよう.境界作用素は次数が −1 なので,∂c(y) ∈ Ck−1
となるはずである.Ck−1 の生成元は指数が k − 1 である特異点たちなので,そのような特異点 x ∈ Ck−1 のそれぞれに対して ∂c(y) の Z〈x〉 成分を定めてやればよい.この成分を ∂c(y) = n(y, x) ∈ Z〈x〉 と書くことにしよう.いま dimW u(y) = k,dimW s(x) = dimM − dimW u(x) = n− k + 1であり,また仮定からW u(y)とW s(x)
は横断的なので,W u(y)∩W s(x)は 1次元の多様体となることがわかる.W u(y)∩W s(x)
は流れで不変なので,けっきょくW u(y) ∩ W s(x)は何本かの軌道の集合となる(少し議論をすると有限本であることがわかる).
W u(y) ∩ W s(x) から軌道を 1 本選び注目する.W u(y) 内において,この軌道の接線
32 第 2章 ホモロジー
の直交補空間を取り,それを Eu(y) とする.Eu(y) には軌道の接線の向きと Eu(y) の向きから決まる向きを入れる.dim Eu(y) = k − 1 = dimW u(x)であり,流れに沿ってEu(y) の向きを流したときに,それが W u(x) の向きと一致するか,逆になるかに応じて +1 か −1かを決める.この ±1を y と x を結ぶ全ての軌道について和を取った数をn(y, x)と定める.作用素 ∂c はこれを用いて
∂c(y) =∑
x∈Ck−1
n(y, x) · x
と定義する.この作用素を本当に「境界作用素」と呼ぶためには,∂c
k−1 ◦ ∂ck = 0 が必要である.こ
の性質があるからこそホモロジー群が計算できるのであった.次の定理は,実際に ∂c が境界作用素であることと,さらに ∂c から計算されるホモロジーが実は M のホモロジーと同じものであるということを主張する.
定理 42 (R. Thom, S. Smale, J. Milnor, C. Conley, E. Witten). 任意の自然数 kに対し
∂ck−1 ◦ ∂c
k = 0
が成立する.よって (∂c, {Ck})は鎖複体であり,そのホモロジー群は多様体M のホモロジー群と一致する.すなわち
Hk(M) ∼= ker(∂ck−1 : Ck → Ck−1)
im(∂ck : Ck+1 → Ck)
.
が成立する.
多様体M のホモロジーの定義にはモース関数は関係しない.それは単体複体のホモロジーや,特異複体のホモロジーとして定義されるものである.それにも関わらず,モース関数の特異点と,その間の軌道の様子から構成した「ホモロジー」が多様体のホモロジーと同型になるのである.まったく別の定義から同じ群が計算されることが,この定理の面白さであり有用性でもある.この定理を誰が最初に認識していたかは議論のあるところだろうが,本稿では D. Salamon の論説 [48]に従い上の 5 人を並べた.現在ではこうして作られた鎖複体は一般にWitten 複体と呼ばれ,トポロジーを始めとする広い分野で用いられている.証明にはいくつかの方法が考えられる.先に挙げた Salamon の論説 [48]では,コンレイ指数の考え方を用いてモース理論からフレアーホモロジーまでに統一的な証明を与えている.これを力学系的な証明法とするならば,対照的に静的な証明法としてはスペクトル系列を用いたものが考えられるが,これについては例えば [24]などを参照されたい.
33
第 3章
力学系への応用
力学系理論とホモロジー理論は,その現代的な意味での創始者が Henri
Poincare であるという共通点がある.エントロピー予想やアーノルド予想など,力学系の重要な問題がホモロジーの言葉を用いて表現されることも多い.しかし,力学系を応用する立場からは,この二つの分野の関連が強く意識されることはあまりなかった.その一つの原因は,ホモロジー群が持つ情報が本質的に大域的なものであるため,ホモロジー理論により何かを示せても,それが相空間のどこで起きているのか詳しくはわからないという点であろう.これでは応用には使いにくい.また,ホモロジー群をコンピュータで計算する手法がなかった事も原因としてあげられる.複雑な力学系を研究する場合に,全ての計算を手で遂行するのは不可能である.これらの問題の前者を解決したのがコンレイ指数理論であり,後者を解決するために生まれたのが計算ホモロジー理論である.ホモロジー理論と力学系の関係を考える上で重要なできごとを時系列に沿い並べると次のようになる.
1900年ころ H. Poincareによる力学系とホモロジー理論の創始1920年代 S. Lefschetzによる不動点定理 (§3.1)1930年代 M. Morseよるモース理論 (§2.7)1970年代 M. Shub らによるエントロピー予想 (§3.1)1970年代 C. C. Conley によるコンレイ指数理論 (§3.2)1990年代 計算ホモロジー理論の整備が始まる (§3.3)21世紀 ~ 計算ホモロジー理論の応用が広まる? (§3.4)本章はこの時間的な発展の順序を追うように構成されている.
34 第 3章 力学系への応用
3.1 ホモロジーと力学系この節では,ホモロジーを用いた力学系研究の源流とも言える話題を簡単に紹介する.個々の定理の証明は述べないが,証明において重要な考え方には触れる.本節の話題に関して,より詳しくは John Franks によるその名も “Homology and Dynamical Systems”
という素晴らしい本 [21]があるので,そちらを参照されたい.コンレイ指数の普及以前の本ではあるため,コンレイ指数については触れられていないが,力学系のゼータ関数とホモロジーゼータ関数の関係など,本章では触れられなった話題も多く扱われている.
3.1.1 不動点定理
写像 f の不動点とは f(x) = xとなるような点 xのことである.力学系的な言い方をすれば不動点とは f による時間発展の下にいつまでも動かずにいる点であり,静的な視点からは不動点とは方程式 f(x) = xの解であるといえる.数ある不動点定理のなかで,基本的かつ応用範囲の広いのは以下で述べる Lefschetz-
Hopfの不動点定理であろう(簡単のため,ここでは有限単体複体上の写像で考えるが,一般に「コンパクト ENR」くらいの設定で成立する [17]).また,以下本章ではホモロジー群のねじれ部分は無視して自由部分のみ考え,準同型も自由部分から自由部分への成分のみ考える(ホモロジー群が自由加群となるような空間のみを扱うと仮定するか,もしくは係数付きのホモロジー群という概念を用いて体係数のホモロジー群を考えればよい).
Lefschetz-Hopf の不動点定理. f : |P | → |P |を有限単体複体 P 上の連続写像とする.このとき f がホモロジー群上に誘導する f∗ : H∗(P ) → H∗(P ) の Lefschetz 数が 0でないならば,f は不動点を少なくとも 1つ持つ.
ここで Lefschetz数とは次のように定義される数(値をK にとる)である.
定義 43. 次数付き加群 E = {En}n∈Z の準同型 L = {Ln}n∈Z に対し,その Lefschetz
数をλ(L) :=
∑n∈Z
(−1)n tr(Ln)
と定義する.ここで tr(Ln)は準同型写像 Ln : En → En を,ねじれ部分を除いて行列表現したもののトレースである.
なぜ素直に全ての次数のトレースの和を取らずに,(−1)n などという係数をかけるのか.それは交代和にすることにより,ただの和では成立しない次の重要な性質が得られるからである.
命題 44. 鎖複体 C = {Cn}n∈Z 上の鎖写像 L = {Ln : Cn → Cn}n∈Z がホモロジー群上
3.1 ホモロジーと力学系 35
に誘導する準同型写像 L∗ : H∗(C) → H∗(C)に対し
λ(L) = λ(L∗)
が成立する.
鎖写像 Lとそれが誘導する準同型 L∗ は,そもそも定義される空間からして異なるのだが,それにも関わらず,トレースの交代和は等しいという強い性質が成り立つのである.命題の証明は述べないが,そのアイディアは最も簡単な鎖複体
0 −−−−→ Cn∂n−−−−→ Cn−1 −−−−→ 0⏐⏐�Ln
⏐⏐�Ln−1
0 −−−−→ Cn −−−−→∂n
Cn−1 −−−−→ 0
の場合を考えるとわかりやすい.いま Cn たちは自由加群なので
Cn = ker ∂n ⊕ Cn
ker ∂n= Hn(C) ⊕ Cn
ker ∂n,
Cn−1 = im ∂n ⊕ Cn−1
im ∂n= im ∂n ⊕ Hn−1(C)
という直和分解を選ぶことができる.次にこの直和分解に応じて Ln のほうも分解しよう.Lは鎖写像なので
Ln(ker ∂n) ⊂ ker ∂n, Ln−1(im ∂n) ⊂ im ∂n
が成立する.これと,準同型定理により ∂n が Cn/ ker ∂n と im ∂n の間の同型を与えることを用いると Ln および Ln−1 は
Ln =(
(L∗)n ∗0 L′
), Ln−1 =
(L′ ∗0 (L∗)n−1
)という形に書けることがわかる.(L∗)n と (L∗)n−1 はホモロジー群上に誘導される写像そのものであるが,L′ という写像が良くわからない(ホモロジーを取ると消えてしまう情報に対応している).良くわからないのだが,n次と n − 1次との差を取ることにより上手くこの余分な部分がキャンセルして
tr(Ln) − tr(Ln−1) = {tr((L∗)n) + tr(L′)} − {tr(L′) + tr((L∗)n−1)}= tr((L∗)n) − tr((L∗)n−1)
となり命題の性質が示される.一般の鎖複体の場合の証明も今述べた場合に帰着される.位相空間とその上の連続写像からホモロジー群上の準同型を取り出す手続きは,鎖複体と鎖写像を経由していた.連続写像から直接得られるのは鎖写像であるが,そこからホモロジーを取るときに一般には情報が抜け落ちてしまう.Lの個々の固有値の情報も消えてしまうのだが,トレースの交代和を取った Lefschetz数に関してはホモロジーを取っても変化せずに情報が保たれるという点が重要な訳である.
36 第 3章 力学系への応用
この命題を準備をすれば不動点定理の証明は簡単である.
Lefschetz-Hopf の不動点定理の証明のあらすじ.不動点がないと仮定する.いま P はコンパクトなので,ある δ > 0 が存在して任意の x ∈ P は f により距離 δ 以上は移動するとしてよい.重心細分をとることにより,P の各単体の直径は δ/2 よりも小さいとする.単体近似定理によれば,P の細分 P ′ と単体写像 g : P ′ → P で,f : P → P の単体近似となっているものが得られる.いま α : C(P ) → C(P ′) をホモロジー群の同型α∗ : H∗(P ) → H∗(P ′)を誘導する鎖写像とすると,
C(P )
α
g◦αC(P )
C(P ′)
g
という図式が得られ,定義により f∗ = (g ◦ α)∗ である.よって仮定より λ(g ◦ α)∗ = 0
となり,命題 44より g ◦ α : C(P ) → C(P ) の Lefschetz数も 0ではない.従ってある P
の単体が存在して g ◦ αにより自分自身に移るが,これは δ の取り方に矛盾する.
この証明法は Hopfによるものである.元々の Lefschetzの証明は,直積集合 P ×P の中で f のグラフ {(x, f(x)) | x ∈ P}と対角線 {(x, x) | x ∈ P} の交点を向きつきで数え挙げるという方法をとる.Lefschetz の方法が静的かつ幾何学的なものであるのに対し,Hopfによる証明はより動的,力学系的であると言えよう.この Hopfによる証明には本稿で解説する計算ホモロジー理論の力学系への応用における典型的な考えかたが既に現われている.ポイントは
• 十分に細かい細分を取ることにより,写像 f : P → P の欲しい情報が f から誘導される鎖写像の代数的な性質として現われる.
• その代数的な性質がホモロジーを取った後の f∗ : H∗(P ) → H∗(P ) にも残っているので,f∗ の代数的な性質を知ると元の f についての情報が得られる.
という 2点である.さらに実際の計算に応用する場合には
• ホモロジー群上に誘導された準同型 f∗ はホモトピー不変なので,f についてのおおまかな情報だけで計算できる.
という点が重要になってくる.すなわち,f が扱いにくい難しい写像であっても,f とホモトープな g で f より簡単な写像を見つけることができれば,f∗ = g∗ なので計算は g で行なってよいことになる.後の節におけるコンレイ指数と計算ホモロジーを用いた議論も,単体近似とグリッドによる方体近似の違いはあるものの,基本的な考え方は同じである.
3.1 ホモロジーと力学系 37
3.1.2 エントロピー不等式
位相的エントロピーは,力学系の軌道の増大度を計る最も基本的な不変量であり,位相的エントロピーが大きいほど系はカオス的であると言える.重要な「不変量」と言ったが,ではここで不変とは何に対して不変なのか.その意味をはっきりさせるために,次の概念を導入する.
定義 45. 2 つの力学系 f : X → X と g : Y → Y を考える.ある全射な連続写像h : X → Y が存在して g ◦ h = h ◦ f を満たす,すなわち
Xf−−−−→ X
h
⏐⏐� ⏐⏐�h
Yg−−−−→ Y
が可換となるとき,f から g へ位相半共役があるという.hがさらに位相同型写像になるときは,f と g は位相共役であるという.
f と g が位相共役のときは,同相写像 hにより 2つの力学系を同一視できるという訳である.また半共役のときは,g の各軌道に対して f はその軌道と対応する軌道を少なくとも 1つは持つ,すなわち f の軌道は g よりは多様であるということを意味する.力学系に対して決まる量は,位相共役な系に対しては常に同じ値をとるときに位相不変であると言う.例えば n-周期点の数 (n ∈ N)は最も簡単な位相不変量である.紙面の都合から位相的エントロピーの定義はここでは述べられないが,次のような重要な性質を持つ.
命題 46. コンパクト距離空間 X 上の連続写像 f : X → X に対し,その位相的エントロピー htop(f) ∈ [0,∞]が定義され,以下をみたす.
(1) f が可微分写像ならば htop(f) < ∞.
(2) htop(fk) = k · htop(f).また f が同相写像ならば htop(f−1) = htop(f).(3) X = X1 ∪ · · · ∪ Xk を互いに交わらない閉不変集合への X の分割とすると
htop(f) = maxi
(htop(f |Xi)).
(4) 位相的エントロピーは位相不変量である.すなわち,f と g が位相共役のとき
htop(f) = htop(g).
(5) f から g へが位相半共役があるとき
htop(f) ≥ htop(g).
位相的エントロピーは重要な不変量ではあるが,有限個の軌道を追いかけるだけでは計算できず,また摂動に対して不連続に変化することがあるため,その値を評価することは
38 第 3章 力学系への応用
難しい.数値計算による軌道のプロットにストレンジアトラクターのようなカオス的な集合が見えたとしても,位相的エントロピーは 0 かも知れない.また逆に単純な挙動しか持たないように見える力学系の位相的エントロピーが正だったりする.例えば,精度を倍精度に固定した数値計算では倍精度で表現できる最小数よりも小さな不変集合は見えないが,そのように微小な集合の上で任意に大きなエントロピーを稼ぐ写像を簡単に作ることができる.このように評価の難しい位相的エントロピーであるが,次の定理が示すように,ホモロジー群への f∗ の作用からある程度の情報を得ることができる.
定理 47 (Yomdin [59]). 可微分多様体M 上の C∞ 微分写像 f : M → M に対し
htop(f) ≥ log s(f∗)
が成立する.ただしここで s(f∗)は f∗ のスペクトル半径である.
すなわち,ホモロジー群上に誘導された写像の固有値で元の写像の複雑さが下から評価できる.例えば f∗ が絶対値が 1よりも大きな固有値を持てば,定理より位相的エントロピーは正なので,写像 f は位相的エントロピーの意味でカオス的であるといえる.残念ながら,この定理はホモロジーの生成元が互いに絡み合って生じる複雑さのみしか捉えない.例えば f : R
n → Rn に定理を適用しようとしても,R
n は可縮なため f は恒等写像とホモトープになってしまい,log s(f∗) は 0 となって意味のある評価は得られない.この問題を解決するのが次節で導入するコンレイ指数である.なお,定理の不等式はM. Shub が 1970年代に C1 級の可微分写像に対して成立すると予想したもので,この元々の形の「エントロピー予想」はいまだ未解決である.
3.2 コンレイ指数前節で我々はホモロジー理論を応用した写像や流れの解析法をいくつか見たが,どれも主張は相空間の全体に関わるものであった.不動点定理は「空間のどこかに」不動点があることを主張し,モース理論はモース関数の特異点の情報と多様体全体のホモロジーとを関連づけるものであった.またエントロピー不等式も,空間全体を見たらカオス的であると主張するのであって,カオス的な不変集合の位置についての情報を与えるものではない.これはホモロジー群,もっと大きく言えばトポロジーという考え方の本質に関わる問題である.ホモロジー群の生成元は空間の中で連続的に変形しても同じ元を表すことに注意しよう.ホモロジーで考えるときは点(0次元ホモロジー群の生成元)や線(1次元ホモロジー群の生成元)の位置は気にしないのである.このように,物事をある意味おおらかにしか見ないことにより,座標にしばられていては見えてこなかった空間の本質的な構造を見い出すことに成功したわけである.局所的な情報にとらわれずに大域的な情報をとらえるというこのホモロジー群の性質
3.2 コンレイ指数 39
は,空間の分類や構造を考えるときには威力を発揮するが,我々のように力学系の解析に役立てようとする場合にはやっかいなものである.数理モデルを力学系で解析しているときに,「不動点がどこかにあるよ」とわかっても,それがいったいどのような意味を持つ点であるかわからなれば,モデルの記述する現象について理解が深まったとは言えないであろう.このような問題から,局所と大域を繋ぐような理論が必要となるのであるが,その基本的な考え方は既に前章で触れたモース理論,特にそのWitten複体を用いたホモロジー群の構成に現われている.モース理論の設定においては,不動点以外の点は全て不動点の間を繋ぐ軌道であった.そして不動点が持つ「指数」という局所的な情報を,その間を繋ぐ軌道たちを用いて代数的に関連づけてやることによって,空間全体のホモロジーが回復されたのであった.以下では考える力学系は局所コンパクト距離空間X 上の同相写像 f : X → X であるとする.点 x ∈ X の時間 n ∈ Z 後の位置が fn(x) である(簡単のため f を同相写像としたが,以下の議論のほとんどは単に連続写像に対しても成立する).モース理論に習い,力学系 f : X → X に対して X 全体における f の挙動を一度に考えるのではなく,不変集合(すなわち f(S) = S となる S ⊂ X)上での f のふるまいと,不変集合たちの間の軌道の繋がり方に問題を分割して考えてみよう.このような視点に立つとき,指導原理とも言えるのが「コンレイの力学系の基本定理」
[46, §10.1] である.力学系 f : X → X のカオス的な軌道は全て「鎖回帰集合」R(f)に含まれ,R(f)の外側では軌道の振舞いは勾配流のようにおとなしい,ということを主張する定理である.ここで鎖回帰集合とは周期軌道や非遊走点を全て含むある閉不変集合であるが,さらに鎖成分と呼ばれる不変部分集合への分解を持つ.各鎖成分を一点に潰してしまえば,残りの部分はまさにモース理論的な状況になっているであろうというのが基本定理の思想である.基本定理により鎖回帰集合の外の力学系は単純な構造をしているので,これらの鎖成分の全てを解析でれば,力学系の振舞いを理解したと言える.ところが,鎖成分そのものを対象として解析を行なうのは一般に難しい.それぞれの鎖成分は有限の大きさを持った閉不変集合であるが,それらが無限個連なって無限に微細な構造を構成していたり,また摂動により一度に無限個が消えてしまったりする.計算誤差により不変集合の構造が変化してしまう可能性を考えると,数学的に厳密な結果を数値計算から得るのは難しい.そこで我々は次のような「よい」不変集合のクラスを考える.これはモース理論での特異点に対応するような役割を以下で果たすことになる.
定義 48. S ⊂ X が孤立不変集合(isolated invariant set)であるとは,S のコンパクト近傍 N が存在して S が N の最大不変集合となる,すなわち
S = Inv(N, f) := {x ∈ N |任意の n ∈ Zに対し fn(x) ∈ N} ⊂ int N
となることである(int N で N の内点集合を表す).またこのとき N を S の孤立化近傍(isolating neighborhood)という.
40 第 3章 力学系への応用
コンパクト集合 N はその最大不変集合 Inv(N, f)が N の内点集合(intN と書く)に含まれるとき Inv(N, f) の孤立化近傍であると定義しても同じである.空集合も孤立不変集合の定義を満たすことに注意する.ここで重要なのは孤立化近傍であるという性質が微細な摂動に対し安定である,つまり N がある f に対し孤立化近傍であれば,f と十分(C0 位相で)近い gに対しても N は孤立化近傍であり続けるということである.摂動によって孤立不変集合は変化するので Inv(N, f)と Inv(N, g) の構造は一般に異なるが,N が孤立化近傍であるという性質は安定であり,それは計算機で検証することが可能である.このことから以下では孤立不変集合とその孤立化近傍に注目する.知りたいのはあくまで不変集合であるが,それは扱いが難しいのでまず大雑把にその近傍を観察し,そこで得られた情報から不変集合について何らかの結論を得ようという方針である.では具体的な力学系が与えられたときに孤立化近傍をどのようにして構成すればよいのか,また孤立化近傍からどのような情報を得ればそこに含まれる孤立不変集合上の力学系について理解できるのか.
S を孤立不変集合としよう.S とその近傍における f の挙動を理解するために,一旦 S
を X 全体から切り離すことを考える.
定義 49. S の index pair とは P0 ⊂ P1 なるコンパクト集合対 P = (P1, P0) で
(1) P1 \ P0 の閉包が S の孤立化近傍であり(2) f(P0) ∩ P1 ⊂ P0
(3) f(P1 \ P0) ⊂ P1
となるもののことである.このとき P1/P0 を P1 の中で P0 を一点に潰した空間とし(P0
を潰して得られた点を [P0] ∈ P1/P0 と書く),fP : P1/P0 → P1/P0 を
fP ([x]) :=
{[f(x)] f(x) ∈ P1 のとき[P0] その他
と定義すると fP は連続写像となる.これを index map と言う.
写像 fP は S の近傍での f のふるまいを記述していると考えられるので,ここから何らかの情報を引き出したい.位相幾何学的に言えば適当な関手により何らかの不変量を取り出そうという事であるが,具体例に応用するためには実際に計算できる関手でないといけない.第 2章で見たように,計算ホモロジー理論の発展により,ホモロジーならば計算機で求めることができるようになった.そこでこれを適用することにしようすると空間P1/P0 から加群 H∗(P1/P0, [P0])が,写像 fP から自己準同型
fP∗ : H∗(P1/P0, [P0]) → H∗(P1/P0, [P0])
が得られる.ここで H∗(P1/P0, [P0])は位相空間対 (P1/P0, [P0]) の双対ホモロジーを表わす.本稿で扱うような性質のよい空間の場合ならば H∗(P1/P0, [P0]) ∼= H∗(P1, P0) と
3.2 コンレイ指数 41
なる.またH∗(P1/P0, [P0])はHk(P1/P0, [P0])を直和した次数付き加群であり fP∗はその上の次数 0の準同型であるが,とくにある次数 k を指定して表示したい場合は
fP∗k : Hk(P1/P0, [P0]) → Hk(P1/P0, [P0])
などと表す.上のように定義した H∗(P1/P0, [P0])や fP∗k は S の近傍での力学系についての何らかの情報を持っていると期待できるが,index pairの選び方は無数にありH∗(P1/P0, [P0])
も fP∗ もその選び方に依存してしまう.そこで次のような同値関係を考える.
定義 50.(群の)準同型 f : X → X と g : Y → Y は,ある自然数mと準同型 r : X → Y ,
s : Y → X が存在して
r ◦ f = g ◦ r, s ◦ g = f ◦ s, r ◦ s = gm, s ◦ r = fm
となるときシフト同値であると言う.
任意の孤立不変集合 S に対してその index pair は必ず存在し,P = (P1, P0) とQ = (Q1, Q0)を S の index pairとすると fP∗ と fQ∗ はシフト同値であることが証明される.よって次のようにコンレイ指数を定義することができる.
定義 51. 孤立不変集合 S のホモロジーコンレイ指数とは,P = (P1, P0) を S の index
pairとしたときの fP∗ のシフト同値類のことである.
コンレイ指数から何がわかるのか.最も単純な結果は次のようなものである.
定理 52 (Wazewski principle [30, 40]). P = (P1, P0) を S の index pair とする.このとき fP∗ が 0 : {0} → {0}とシフト同値でないならば,S は空集合ではない.
前に述べたように,我々は直接 S を見ることができずその近傍しか扱えないのだが,もしその近傍から計算したコンレイ指数が 0とシフト同値でなければ,少なくとも S が空集合ではない,という情報は得られるのである.他にも様々な情報がコンレイ指数から得られるのだが,では具体例においてどのようにコンレイ指数を計算すればよいだろうか.まず必要なことはは index pair P = (P1, P0)
と index map fP : P1/P0 → P1/P0 の構成であり,さらにそのホモロジーも求めなくてはならない.次節ではこれらをいかにして計算機で実行するかを見ることにする.さて,この節の終わりにシフト同値類に関するある命題を述べておこう.実はシフト同値類はそんなに簡単に求めることはできないのだが,シフト同値類が違うことは簡単に判定できる場合が多いのである.準同型 A : Z
n → Zn を考える.A は n 次の整数行列であるが,これを複素行列だと
思ってジョルダン標準形を考える.ジョルダンブロックのうち,固有値 0 に対応するブロックを除いたものを非零ジョルダン標準形 (Jordan form away zero) と呼ぶことにしよう.
42 第 3章 力学系への応用
命題 53. 準同型 A : Zn → Z
n と B : Zm → Z
m がシフト同値だとすると,Aと B の非零ジョルダン標準形はジョルダンブロックの入れ替えを除いて一致する.
この命題により,例えば行列 Aと B が異なる固有値を持てばそれらはシフト同値ではない.また同じ固有値 λを持っても(
λ 00 λ
)と
(λ 10 λ
)は λ = 0ならばシフト同値ではないことがわかる.
3.3 計算機によるコンレイ指数の計算この節では X = R
n とする.コンレイ指数の計算を計算機に実行させるためには,R
n の部分集合を計算機で扱える形で表現しなければならない.様々な方法が考えられるが,最も単純に R
n を等しい大きさの n次元方体たちにより分割するという方法を採用する.分割の要素となる n次元方体の各辺の長さを di (i = 1 . . . n)とし,
Ω :=
{n∏
i=1
[kidi, (ki + 1)di] : ki ∈ Z
}
とおくと,Rn は Ωの要素により被覆される.方体の集合 B ⊂ Ωに対し,その実現を |B|
と書く.これは B に含まれる方体の和集合として表される Rn の部分集合である.前章
では頂点が整数となるような方体しか扱わなかったが,以下では di は任意の実数を取れるとする(ただし,ホモロジー計算をする段階で整数に変換する).次に f を計算機で扱える形に表現しよう.各方体 ω ∈ Ωに対してその像 f(|ω|)を知りたいのだが,丸め誤差などにより計算機では像を正確に求めることができない.ではどうしたらよいか.ここで写像 f に精度保証付き区間演算が適用でき,各 ω ∈ Ω に対して f(|ω|) を内点に含む方体を計算機で求められると仮定する.これは多項式や三角関数などの初等関数で書かれた写像ならば簡単に満たせる仮定である [2].例えば区間演算ライブラリ CAPD
(http://capd.wsb-nlu.edu.pl/)を用いればよい.この方体を f(|ω|) と書く.f(|ω|)は方体ではあるが Ωの要素の和ではないので,f(|ω|)と交わる Ω の要素を全て集めこれを F(ω)とおく.すなわち多価写像 F : Ω � Ωを
F(ω) = {ω′ ∈ Ω : f(|ω|) ∩ |ω′| = ∅}
で定義する.f(|ω|) ⊂ intF(ω)が成立することに注意する.f(|ω|)は正確に求めることができないので,それを外側から近似する F(ω) を求めていることになる.また実際の計算の場合には F は Ω全体で求める必要はなく,考えている領域の上で求めれば十分である.
3.3 計算機によるコンレイ指数の計算 43
図 3.1 左: 方体による R2 の分割,右: 方体 |ω|とそのの f による像 f(|ω|)
図 3.2 左: 区間演算による f(|ω|)の被覆 ef(|ω|),右: ef(|ω|)と交わる方体の集合 F(ω)
図 3.3 左図: 有向グラフGの頂点,右図: Gの頂点 ω から出る辺
Bを Ωの有限部分集合とすると,ω ∈ Bを頂点とし,ω′ ∈ F(ω) のときに ωから ω′ への辺が存在すると定義することにより有向グラフ Gが得られる.これは f : |B| → |B|の計算機による近似表現と考えることができる.近似とは言っても,精度保証がなされていることから,f の全ての軌道に対して,それに対応するGの道が存在する.特に次の主張は有用である.
命題 54. f が |B|内に k 周期点を持つならば Gは必ず kサイクルを持つ.
ここで k サイクルとは有向グラフの閉路で長さが k のものを指す(§3.4.2 も参照のこと).
44 第 3章 力学系への応用
グラフで表現することによりグラフ理論の高速なアルゴリズムを適用できるのがこの方法の一つの利点である.このようなデータ構造を扱うにはM. Dellnitzや O. Jungeらによって開発された力学系研究のための汎用パッケージである GAIO [18, 19]を用いると便利である.コンレイ指数を計算機で求めるためのステップをまとめると次のようになる.
ステップ 1. 孤立化近傍の候補となる集合 I ⊂ Ωをつくるステップ 2. 孤立化近傍の条件を満たすように I を修正するステップ 3. I から index pairを構成するステップ 4. ホモロジーを計算する
以下これらのステップを順に見ていこう.
ステップ 1. コンレイ指数を計算したい不変集合が存在すると予想される領域を被覆する方体の集合 I を構成する.これが孤立化近傍の第一近似となる.各方体が十分小さくないと以後のステップで計算が破綻する,もしくは自明な結論しか導き出せなくなってしまうが,単純に I の各方体を全て小さく分割すると,方体の数が増えすぎて計算時間が莫大になってしまう.そこでまず各方体を 2等分し,次に注目する不変集合と関係ない方体を取り除くという作業を各方体が十分小さくなるまで繰り返す.
ステップ 2. |I|が孤立化近傍となる,すなわち Inv(|I|, f) ⊂ int |I| が満たされるようにI を再構成する.B ⊂ Ωに対し
o(B) := {ω ∈ Ω : |ω| ∩ |B| = ∅}, d(B) := o(B) \ B
とおこう.|o(B)| は Ω の部分集合により表すことができる |B| の近傍で最小のものである.また Inv(B,F)を
Inv(B,F) := {ω ∈ B | ∃γ : Z → B s.t. γ(0) = ω and γ(k+1) ⊂ F(γ(k)) for all k ∈ Z}
と定義する.区間演算により f(|ω|) ⊂ intF(ω)が保証されていることから Inv(|I|, f) ⊂ | Inv(I,F)|が成り立つので,もし o(Inv(I,F)) ⊂ I が言えれば
Inv(|I|, f) ⊂ | Inv(I,F)| ⊂ int |o(Inv(I,F))| ⊂ int |I|
となって目標が達成される.そこで我々は I に方体を加減することで o(Inv(I,F)) ⊂ I を満たすようにしたい.そのためのアルゴリズムとして,o(Inv(I,F)) ⊂ I が成立するまで I から方体を少しづつ減らしてゆくアルゴリズム [52]と,逆に方体を付け加えてゆくアルゴリズム [29, 30]がある.前者では最終的に空集合になってしまうことも多く,面白い不変集合を捉えにくい.そこで本稿の計算例では主に後者を用いている.
3.3 計算機によるコンレイ指数の計算 45
ステップ 3. |I|が f の孤立化近傍のとき,B = Inv(I,F),
(P1,P0) =((d(B) ∩ F(B)) ∪ B, d(B) ∩ F(B)
)とおくと P = (|P1|, |P0|) が Inv(|I|, f)の index pairとなる [30, 52].
ステップ 4. 計算ホモロジー理論 [30]とその C++による実装 CHomP[45]を利用し,
fP∗ : H∗(|P1|/|P0|, [|P0|]) → H∗(|P1|/|P0|, [|P0|])
を計算機上での f の近似表現 F から計算する.単体近似定理の場合と同様に,各方体が十分小さく,F による近似が十分よいことが計算可能性の必要条件となるが,方体の数が多くなると計算に必要なメモリの量及び実行時間が大きな障害となる.この問題を回避するため,CHomPにはホモロジーを変化させずに方体の数を減らすアルゴリズムが実装されている.
例 55. CHomPの example ディレクトリに含まれている repeller を例として実行してみよう.
写像の情報は repeller.mapに含まれている.前章で述べたように CHomPにおける写像の表現形式には書式 1と書式 2があるが,repeller.mapは書式 1で書かれている.見やすくするために書式 1から書式 2へ
cnvmvmap repeller.map repeller.mp
により変換しよう.結果得られたファイル repeller.mpの内容は
(1) -> {(0)}
(2) -> {(0) (1) (2)}
(3) -> {(2) (3)}
(4) -> {(3) (4) (5)}
(5) -> {(5) (6)}
(6) -> {(6) (7) (8)}
(7) -> {(8)}
のようになっているはずである.これは方体 (1)が (0)に写像され,また方体 (2)は (0),
(1), (2)という 3つの方体に写像される,等の情報を書きくだしたものである.写像の定義域は (1)から (7)までの 7つの方体であるのに対し,値域は定義域を含む 9つの方体の和であることに注意しよう.このデータから index pair を得るには
indxpair repeller.cub repeller.mp repeller.q1 repeller.q0
46 第 3章 力学系への応用
を実行する.計算結果は repeller.q1には Q1 = {(2)(3)(4)(5)(6)} という 5 つの方体が含まれ,repeller.q0は Q0 = {(1)(7)} という 2つの方体の集合となっている.この
図 3.4 repeller.q0, repeller.q1
計算により得られた index pair は P = (Q0 ∪ Q1, Q0)という組である(図 3.3).最終的にコンレイ指数を計算するには
homcubes -i repeller.map repeller.q1 repeller.q0
を実行する.実行結果の最終部分を抜き出すと次のようになる.
Computing the homology of the graph of F over the ring of integers...
Reducing D_1: 0 + 2 reductions made.
H_0 = 0
H_1 = Z
Computing the homology of Y over the ring of integers...
Reducing D_1:
H_0 = 0
H_1 = Z
The map induced in homology is as follows:
Dim 0: 0
Dim 1: f (x1) = y1
The map induced in homology by the inclusion:
Dim 0: 0
Dim 1: i (x1) = y1
The inverse of the map induced by the inclusion:
Dim 0: 0
Dim 1: I (y1) = x1
The composition of F and the inverse of the map induced by the inclusion:
Dim 0: 0
Dim 1: F (x1) = x1
Total time used: 0.01 sec (0.000 min).
普通の数式で書くと,上の計算結果は
Hk(Q0 ∪ Q1, Q0) =
{Z (k = 1)0 (k = 1)
となることと,H1(Q0 ∪Q1, Q0)の生成元を x1と書いたときに index map による x1の
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 47
像は x1自身である,すなわち
fP∗ =
{id (k = 1)0 (k = 1)
を示している.
3.4 コンレイ指数の力学系への応用前節では,計算ホモロジー理論によりコンレイ指数を計算する方法に触れたが,実際の力学系研究において,どのような結果をそこから得られるであろうか.現在も新しい応用が盛んに研究されており,全てを網羅することは不可能であるが,そのうち基礎的なものを幾つか選んで触れることにする.
3.4.1 周期点の存在および非存在
コンレイ指数の基礎的かつ有用な応用として,まず周期点の存在検証があげられる.存在証明の原理は §3.1 で述べた Lefschetz の不動点定理であるが,コンレイ指数のみならず精度保証により得られた命題 54を最大に利用することも議論の要点である.すなわち,サドル型の周期点のように単純に軌道を追いかけるだけでは見つけることが難しい周期点であっても有向グラフを用いて確実に発見することができ,また逆に有向グラフに k-サイクルが存在しなければ,考えている領域には k-周期点は 1 つも存在しないことを厳密に示せるのである.
Lefschetz の不動点定理を index pair により局所化された力学系 fP : P1/P0 → P1/P0
に対して適用すると,次のコンレイ指数版不動点定理が得られる.
定理 56 (index pair に対する Lefschetz不動点定理 [30]). P = (P1, P0)を index pair とするとき,λ(fP∗) = 0 ならば S := Inv(P1 \P0)は不動点を含む.より一般に λ(fn
P∗) = 0
ならば S 内に fn の不動点が存在する.
例 57. エノン写像 Ha,b : R2 → R
2 : (x, y) �→ (a − x2 + by, x) に対して定理 56 を適用して周期点の存在を証明しよう.パラメータは古典的な a = 1.4, b = 0.3 を選んだ.図3.4.1は §3.3 の方法により構成した index pair であり,緑色の領域が P1 \ P0,黒の領域が P0 を表わす.CHomPによる計算を実行すると
fP∗1 =
⎛⎜⎜⎜⎜⎜⎜⎜⎜⎝
0 0 0 0 0 0 −1−1 0 0 0 0 0 0
0 0 0 1 0 0 00 0 0 0 0 −1 00 1 0 0 0 0 00 0 0 0 −1 0 00 0 1 0 0 0 0
⎞⎟⎟⎟⎟⎟⎟⎟⎟⎠: Z
7 → Z7
48 第 3章 力学系への応用
1 0.5 0 0.5 1 1.5
1
0.5
0
0.5
1
1.5
x
y
図 3.5 エノン写像のある 7周期点に対する index pair
となり,1以外の次数では fP∗ は 0であることがわかる.tr((fP∗1)7) = 7であるから定理 56より Inv(P1 \P0)は f7 の不動点を含む.P1 が f の不動点を含まないことは簡単に示せるので,結局 Inv(P1 \ P0)は 7周期点を含むことが証明された.
例 58. 今度は同じパラメータ a = 1.4, b = 0.3 でエノン写像の 5 周期点を探してみよう.先ほどと同様に GAIO を用いて 5 周期的な方体を探すと,じゅうぶん分割を細かくすると素周期が 5 となる方体は存在せず,周期が 1,すなわち像が自分自身と交わる方体しか存在しないことがわかる.いまエノン写像の二つの不動点は双曲型であり,
2 1 0 1 22
1
0
1
2
x
y
2 1 0 1 22
1
0
1
2
x
y
図 3.6 GAIOで探した 5周期的な方体 (left: depth = 16, right: depth = 18)
Hartman-Grobman の定理を成立する近傍の大きさを評価することで [5],周期が 1 のボックスの中には不動点しか存在しないことが示せる(実はコンレイ指数を用いることにより a = 1.4, b = 0.3のエノン写像は周期が 3と 5以外の周期の周期点は全て持つことが示されている [52]).
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 49
3.4.2 記号力学系・エントロピー
§3.1 で触れたエントロピー不等式にもコンレイ指数版が存在する [8].しかし,技術的な問題から(馬蹄形写像のコンレイ指数が消えてしまうことが原因)この不等式では有効な評価が得られない場合もあり,実際の応用では記号力学系への半共役写像の存在を証明するというより強い主張を経由してエントロピーを評価する方法をとることが多い.記号力学系の存在を Conley指数で証明する方法の基本的なアイディアは Szymczakの論文 [54]で与えられた.その後 Lorenz方程式における記号力学系の存在証明 [37, 38, 39]
などに応用が見いだされている.ここでは Day-Frongillo-Trevino の論文 [13] における定式化を簡単に紹介する.記号力学系は普通は行列を用いて定義されるが,ここでは定理の記述を簡単にするため,有向グラフを用いた表現を与える(グラフの行列表現を経由して 2つの定義は同値となる).頂点の集合 V と辺の集合 E を持つ有向グラフ G = (V,E)に対して
XG := {(vi)i∈Z | 任意の i ∈ Z に対し vi ∈ V かつ vi から vi+1 へ辺が存在する }
と定義する.すなわち,辺に沿って順にたどって行けるような頂点の無限列を全て集めたものである.XG に含まれる頂点の列で,周期的なものをサイクルと呼ぶ.これは文字通り Gの中でくるりと輪状に繋がった頂点たちである.集合 XG は距離
d((vi)i∈Z, (wi)i∈Z) :=∞∑
i=−∞
|vi − wi|2|i|
により距離空間となる.さらにXG 上に写像 σG を
σG((vi)i∈Z) = (wi+1)i∈Z
により定義すると連続写像となり,従って σG : XG → XG は離散力学系と見ることができる.σG のことを XG 上のシフト写像と呼ぶ.この力学系は代数的に構成されているため,様々な不変量を厳密に求めることができる.例えば位相的エントロピーも
htop(σG) = log s(TG)
と代数的に求められる.ここで TG はグラフGの行列表現,s(TG)はそのスペクトル半径である.
定理 59. 孤立化近傍 N ⊂ X が互いに交わらないコンパクト集合 N1, . . . , Nk の和であるとする.さらに有向グラフ G = ({1, . . . , k}, E) が存在して,G の任意のサイクルγ = a1 · · · am と fγ := f |Nam
◦ · · · ◦ f |Na1に対し Inv(Na1 , fγ)の index pair Pγ が存在
してλ(fPγ∗) = 0
50 第 3章 力学系への応用
を満たすとする.また Gの全ての辺に対し,その辺を含むような Gのサイクルが存在するとする.このとき ρ : Inv(N) → XG を
(ρ(x))i = j ⇐⇒ f i(x) ∈ Nj
と定義すると ρは半共役写像となる.
この定理から得られる半共役に対して命題 46の不等式 (5)を用いると
htop(f) ≥ log s(TG)
という f の位相的エントロピーの下からの評価が求まる.
証明のあらすじ.ρが連続になることと,可換性 σG ◦ ρ = ρ ◦ f をみたすことは構成から簡単に従う.問題は ρの全射性である.XG の周期点集合を P と書くと,Gの辺に関する仮定より P は XG で稠密,すなわち XG = cl(P ) となる.また Lefschetz 数の仮定により,P の各サイクルに対して,ρでそのサイクルに写像されるような f の周期点を定理56を用いて見つけることができる.よって im ρ ⊃ P である.いま Inv(N, f)がコンパクトで,かつ ρが連続なので im ρもコンパクトである.さらに XG はハウスドルフ空間なので im ρは閉集合.従って
im ρ = cl(im ρ) ⊃ cl(P ) = XG
となり,これはすなわち ρが全射であるこをと示している.
1 0.75 0.5 0.25 0 0.25 0.5 0.75 1 1.25 1.5 1.75 2 2.25 2.5 2.75 3 3.25 3.5 3.75 4 4.25 4.5 4.75 5 5.25 5.5 5.75 6 6.25
1
0.875
0.75
0.625
0.5
0.375
0.25
0.125
0
0.125
0.25
0.375
0.5
0.625
0.75
0.875
1
a
b
図 3.7 エノン写像の構造安定なパラメータ領域(の部分集合) [6]
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 51
図 3.8 Frongilloによるエノン写像のエントロピーの下からの評価 [22]
コンレイ指数は小さな摂動に対して安定なので,定理 59により発見される記号力学系もまた摂動に対して存続する.一般の力学系に記号力学系が構造不安定な不変集合として含まれている場合ももちろん考えられるが,そのような不変集合はこの定理では発見できない.ただし Katokの定理 [31]により,2次元の力学系に対してはその位相的エントロピーを双曲型の不変部分集合によりいくらでも近似できることがわかっており,このことから計算精度を上げれば定理 59による位相的エントロピーの評価は真の値に近づくと期待される.定理 59の威力が最も発揮されるのは,構造安定ではあるが,単純な馬蹄形でないために系の記述が難しい力学系に対してだと思われる.構造安定なパラメータ領域を求めるアルゴリズムが近年著者により開発されており [6],Frongilloはまさにこの 2つを組み合わせることでエノン写像の位相的エントロピー評価を広いパラメータ領域で得ることに成功した [22].そこでは [6]において “plateau” と呼ばれている一様双曲的なパラメータ領域たち(図 3.7)のそれぞれからパラメータが 1つづつ選ばれ,定理 59を用いて位相的エントロピーの評価が求められている.構造安定性により各 plateauでは位相的エントロピーは一定であることが保証されているので,離散的に選んだパラメータに対してのみ計算を行なっても,図 3.8のように広い範囲での評価を得ることができる訳である.
3.4.3 ホモクリニック接触
ホモクリニック接触や,より一般にホモクリニック分岐 [44]の研究は現在の力学系において中心的な話題の一つである.ホモクリニック接触の存在からストレンジアトラクター
52 第 3章 力学系への応用
[42]や Newhouse現象 [44, 47]の発生が導かれたり,また任意の力学系は双曲型の力学系かホモクリニック分岐を持つ力学系で近似できるという予想 [43]もあり,その研究はたいへん重要である.一方でホモクリニック分岐は本質的に大域的な現象であるため具体的な系に対しその存在を証明するのは簡単ではない.この節では,双曲型周期点におけるホモクリニック接触の存在をコンレイ指数と計算機を利用して検証する手法 [5]について解説する.不変多様体の級数展開を用いた解析的な議論により同様の結論を得ることもできる [20] が,解析的な写像以外にも適用できること,また議論の簡明さや高次元化の容易さが位相幾何学を使う手法の利点である.
図 3.9 エノン写像の不動点の不変多様体
以下では多様体M 上の可微分同相写像 f : M → M を考える.双曲型周期点 p ∈ M
は,その安定多様体W sf (p)と不安定多様体W u
f (p)が非横断的な交わりを持つときにホモクリニック接触を起こすという.図 3.9はエノン写像(a = 1.4, b = 0.3)が第一象限に持つサドル型不動点 pの安定多様体と不安定多様体を描いたものである.このパラメータの近くで pがホモクリニック接触を持つように図から読みとれるが,以下に解説する手法を使うとこの観察を次のように数学的に正当化することができる.
定理 60 ([5]). bが 0.3に十分近いとき,ある a ∈ [1.392419807915, 1.392419807931] が存在して pはホモクリニック接触を持つ.
接触の存在を議論するためには必然的に微分の情報が必要となるが,コンレイ指数は微分の情報は持たないのでそのままでは議論が展開できない.そこで f とその微分の情報を同時に含む力学系 Pf : PM → PM を以下のように定義する.
PM を接束 TM の射影化とする.すなわち x上のファイバー PxM が TxM の射影空
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 53
間であり,TM から誘導される局所自明化を持つM 上のファイバー束である.Pf は f
の微分 Tf : TM → TM が PM 上に誘導する写像とする.0 = v ∈ TxM の張る線型空間を [v] ∈ PxM と書くと Pf([v]) := [Tf(v)] ∈ Pf(x)M である.TM から PM への射影を π と書き TM → M の零切断の像とM を同一視すると,次の図式が可換になる.
TM \ MTf |T M\M−−−−−−→ TM \ M
π
⏐⏐� ⏐⏐�π
PMPf−−−−→ PM.
Tf からベクトルの長さに関する情報を捨て,ベクトルの張る空間の方向だけに注目した写像が Pf である.
p
u
M Wps
Wp
0
T Mp MpP
E pu
E pu
E ps
E ps
図 3.10 サドル型不動点 p
この構成により周期点のホモクリニック接触はどのように PM に持ち上げられるかを見よう(図 3.10 参照).p ∈ M を双曲型不動点, TpM = Es
p ⊕ Eup を対応する接空
間の分解とする.このとき安定部分空間 Esp と不安定部分空間 Eu
p を PM に射影したπ(Es
p \ {0})および π(Eup \ {0}) は Pf の孤立不変集合となる.記号の節約のためこれら
も Esp,Eu
p と書くことにする.
定理 61 ([1]). pを f の双曲型不動点とするとき,pがホモクリニック接触を持つ必要十分条件は Pf : PM → PM が Eu
p から Esp への connecting orbitを持つことである.
ここで集合 Aから B への connecting orbit とは,fn(x)が n → −∞で Aに収束し,n → +∞で B に収束するような軌道のことである.この定理によりホモクリニック接触を検証するという問題は connecting orbit の存在を検証するという問題に言い換えられた.ではどのようにして connecting orbit を見つければよいであろうか.
定理 62 ([5]). 孤立化近傍 N が互いに交わらない閉集合N1, N2 により N = N1 ∪ N2 と表され,f(N2) ∩ N1 = ∅と仮定する.P , Q, Rをそれぞれ N , N1,N2 の index pairとするとき,シフト同値類として fP∗ = fQ∗ ⊕ fR∗ ならば Inv(N1, f)から Inv(N2, f)へのconnecting orbitが存在する.
54 第 3章 力学系への応用
例 63. 定理 62 が適用できる典型的な状況が図 3.11 である.f(N2) ∩ N1 = ∅ は明らか.N1 のみに着目すると,図から Inv(N1, f) はサドル型不動点と同じコンレイ指数を持つことがわかる.すなわち fQ∗1 = 1Z : Z → Z で 1 以外の次数では fQ∗ は0 である.Inv(N2, f) も同様.よって fQ∗1 ⊕ fR∗1 は 2 × 2 単位行列 1Z2 : Z
2 → Z2
となる.Inv(N, f) 全体ではその index pair として図 3.11 の P = (P1, P0) がとれ,H1(P1/P0, [P0])のホモロジーの生成元を α, β, γ とするとそれらは fP∗1 により
α �→ −γ, β �→ α + β, γ �→ γ
と移される.よって
fP∗1 =
⎛⎝ 0 1 00 1 0
−1 0 1
⎞⎠ : Z3 → Z
3
である.簡単な議論によりシフト同値類として fP∗1 = fQ∗1 ⊕ fR∗1 であることがわかり,定理 62より Inv(N1, f)から Inv(N2, f)への connecting orbitが存在する.
コンレイ指数が小さな摂動に対し安定であることから定理 62で発見できる connecting
orbitは構造安定なものに限ることに注意しよう.我々は定理 62を Pf に適用してEup か
ら Esp への connecting orbitを発見したいのだが,この connecting orbitは構造安定で
はない.例えば dimM = 2で pがサドル型とすると PM 内で Eup は 1次元,Es
p は 2次元の不安定方向を持つサドル型不動点となる.このときW u
Pf (Eup )とW s
Pf (Esp)は共に 1
次元であり,3 次元の PM 内でこれらは横断的になれず,Eup から Es
p への connecting
orbitは構造安定ではない.これは周期点のホモクリニック接触が写像の摂動により壊れてしまうことからも明らかである.そこで以下では写像 f を固定して考えるのではなく,1パラメータ族の設定で問題を考える.「パラメータ区間のどこかでホモクリニック接触を持つ」という性質は 1パラメータ族の摂動に対しては安定(1パラメータ族が退化していなければ)なので,族全体を一個の写像として見て定理 62を適用しようという方針である.
Λを Rの区間,{fλ : M → M}λ∈Λ を λ に滑かに依存する可微分同相写像の族で,双曲型不動点の族 p(λ)を持つものとする.λを動かしたときに p(λ)がホモクリニック接触を持つ λが存在するかどうかを問題にしよう.この設定の下で
F (x, λ) := (Pfλ(x), λ) : PM × Λ → PM × Λ
Eup :=
⋃λ∈Λ
Eup(λ), Es
p :=⋃λ∈Λ
Esp(λ)
と定義すると Eup と Es
p は F の孤立不変集合となる.F はパラメータ λを保存するので,もし F の下で Eu
p から Esp への connecting orbitが存在するならば,ある λ0 ∈ Λに対し
Eup(λ0) から Eu
p(λ0) への fλ0 による connecting orbitが存在することになり,それは定理61により p(λ0)がホモクリニック接触を持つことを意味する.見つけたい Eu
p から Esp への connecting orbitは安定に存在すると期待できるが,まだ
定理 62 が適用できる状況ではない.Eup と Es
p の不安定方向の次元が異なることから例
3.4 コンレイ指数の力学系への応用 55
f ( )
N 1N 2
N 1f ( )N 2
��
�P1
P0
図 3.11 connecting orbitの存在が結論される典型的な状況
63 のような議論が成立しないのである.そこで Eup のホモロジーコンレイ指数が懸垂さ
れるように ∂Λ ∩ Eup の近傍で F を摂動して,定理 62が使える状況に持ち込む.この摂
動は Λを適当に取り直すことにより connecting orbitの存在に影響しないように行うことができる(詳しくは [5]を参照).
図 3.12 connecting orbitの被覆 I
さて,以上の議論をエノン写像 Ha,b に適用して定理 60を証明しよう.bを 0.3に固定し,Ha,0.3 を aをパラメータとして持つ 1パラメータ族と考える.Λを 1.4を含む適当な閉区間にとり PM × Λ ∼= R
2 × S1 × Λ の局所座標を (x, y, θ, a) と書こう.まず図 3.12
にあるように Eup から Es
p への connecting orbit を近似する 4 次元方体の集合を作る.各方体を 216 個に分割して近似を良くしたものが図 3.13 の集合である.分割しながら Λ
の不要な部分を捨てることにより,最終的には Λ = [1.392419807915, 1.392419807931]
とする.また分割により Eup と Es
p の近傍を十分小さくし,近傍内の最大不変集合が Eup
と Esp となるようにしておく(Hartman-Grobman の定理の応用).この精度が得られ
るまでに,最初の 1 個の方体は 2140 個の方体に分割されている.ステップ 2, 3 を実行して index pair を作り CHomP でホモロジーを計算すると,ある 59 × 59 行列 A により
56 第 3章 力学系への応用
図 3.13 分割により近似精度が改善された I
FP∗2 = A : Z59 → Z
59 と書けることがわるが,基底を適当に取り換えることによりシフト同値類として
FP∗2 =(
1 10 1
): Z
2 → Z2
となる.また Eup と Es
p は共に不安定方向が 2次元のサドル型不動点と同じコンレイ指数を持つことも CHomPにより示される.FP∗2 は 2 × 2単位行列とシフト同値でなく,またEs
p の近傍の F による像が Eup の近傍と交わらないことも簡単に示せるので定理 62より
Eup から Es
p への connecting orbitが存在する.これと定理 61 により b = 0.3 の場合にある a ∈ Λが存在してホモクリニック接触が起きることがわかるが,コンレイ指数の摂動に対する安定性から bが十分 0.3に近ければ以上の議論は全て同様に成立し,よって定理 60の主張が証明された.
57
第 4章
センサーネットワーク
この章では,計算ホモロジー理論の応用としてセンサーネットワークの被覆問題という工学由来の問題を考える.リップス複体という複体を経由することで,工学の問題がホモロジーで表現される.この方法には計算幾何学や確率論を用いる方法にはない利点があるのだが,以前見たようにホモロジー群を求めるには相当な計算量が必要となり,センサーのバッテリー容量などの現実的な制約から,この点が問題となる.本章では Mayer-Vietoris 系列を用いた分散計算によって,計算量を減らそうというアイディア [3]を紹介する.
4.1 センサーネットワークの被覆問題とホモロジーセンサーネットワークとは,空間に大量にばらまかれた小型のセンサーたちが,互いに無線で連絡して作り上げるネットワークのことである.例えば人間の存在を感知するセンサー,火災を感知するセンサーなど各種のセンサーがこのようなネットワークを形成する.少数の高性能なセンサーに頼る中央集権的な構成ではなく,安価な性能の低いセンサーを大量に用いて,センサーたちがネットワークで情報を共有することでそれぞれの非力さを補おうという考え方である.いわゆる「ユビキタスセンサー」の基礎をなす構造がセンサーネットワークである.センサーネットワークにおいて最も重要な問題の 1つがが被覆問題,すなわち我々が感知したい領域をセンサーたちがちゃんとカバーしてるかという問題である.領域内に感知できていない部分があると困るわけだ(図 4.1).被覆問題に対して幾つかのアプローチが知られているが,一般的なのは計算幾何を用いるアプローチと,確率的な議論をするアプローチである.これらのアプローチは数学的には有効であるが,実装においては様々な問題がある.例えば,計算幾何を用いるためにはセンサーたちの間の距離や角度を知らなくてはならない.そのために GPS を用いてセンサーの座標を求めたりするのだが,超小型のセンサーにとっては GPS 通信用のエネルギーが大きな負担となる.また,確率論的な
58 第 4章 センサーネットワーク
センサー 各センサーの感知領域 穴が空いてる!
図 4.1 センサーネットワークの被覆問題
アプローチをするためにはセンサーたちの分布を知らなければならないが,現実的な問題において分布を正確に知るのは大変に困難である.そこで我々はトポロジー,特にホモロジーがこの問題に使えないか考えてみよう.図
4.1を見ると,問題なのはセンサーたちが感知できる領域に穴が空いてるかどうかなので,何やらホモロジーが使えるのではないかという気がする.実際にホモロジーを用いてこの問題に挑戦したのが R. Ghrist らのグループである.彼らの定式化 [15] に従い,考えている状況を明確にしてみよう.
仮定 64. 以下本節では次の A1 から A4を仮定する.
A1 感知したい領域 D は R2 のコンパクトな部分集合である.センサーは有限個であ
り,その集合を P とする.A2 距離が rb 以下にある 2つのセンサーは互いに通信できる.A3 各センサーの感知領域はセンサーを中心とした半径 rc ≥ rb/
√3 の円盤である.
A4 領域 D の境界 ∂D (フェンスと呼ぶ)は有限な折れ線であり,折れ線の頂点にはセンサーが置かれている.フェンス上の隣り合うセンサー間の距離は rb 以下である.
以下で抽象的にセンサーの繋り方だけを考えるときには,センサーのことを「ノード」と呼ぶこともある.センサー v ∈ P に対して,そのセンサーを中心とする半径 rc の円盤を B(v; rc),それらを全て集めたものを
U =⋃v∈P
B(v; rc)
と書こう.U はセンサーたちが感知できる最大範囲だから,被覆問題は D が U に含まれているかどうか,すなわち D ⊂ U かどうかという問題として表現された.この問題をトポロジーを用いて考るために,リップス複体という概念を導入する.もと
4.1 センサーネットワークの被覆問題とホモロジー 59
もとは Gromov [26][57]らによって双曲群の研究などに活用されていた複体であるが,センサーネットワークという現実的な問題にも応用があることを Ghrist らが見い出したのである.
定義 65. Rn の有限個の点の集合 V と ε > 0に対し,そのリップス (Rips) 複体 Rε(P)
を以下で定義する.以下で d(p, q)は pと q の距離を表す.
• p ∈ V に Rε(P) の 0単体 |p| が対応する.• p, q ∈ V であって d(p, q) < ε となる組に対し,Rε(P) の 1単体 |pq| が対応する.• p, q, r ∈ V であって d(p, q) < ε, d(q, r) < ε, d(r, p) < ε となる組に対し,Rε(P)
の 2単体 |pqr| が対応する(図 4.1の水色の三角形).• 以下同様に互いに ε以下の距離にある V の k + 1個の点の組 vi0 , . . . , vik
に対し,Rε(P) の k 単体 |vi0 · · · vik
| が対応する(図 4.1の青色の四面体が 4単体の例).
図 4.2 リップス複体の例.線で繋っている頂点は互いに ε以下の距離にある.
要するに,互いに通信できる k + 1個のセンサーの組があったら,そのセンサーたちはk 単体を張る,として定義されるのがRである.このリップス複体における「単体」の意味は,第 2とは少し異なっている.第 2の単体複体では,単体たちは実際に幾何学的な実体を持つ存在であったが,このリップス複体では,実体を持つ幾何学的な存在という意味合いは薄れ,「辺」や「点」といった面が考えられる抽象的な構造として単体を捉えている.例えば,図 4.1における青い四面体は,3次元なので V の点が置かれている平面には埋め込めない.抽象的に 4個の頂点からなる四面体を考えて,それを平面に射影した領域を青で表示しているのである.この意味で,このリップス複体は単体複体ではなく抽象単体複体と呼ばれる複体の例となっている.(ただし,V を十分高い次元の空間 R
N に埋め込んで,そこでの単体複体としてリップス複体を定義することもできる).以下では簡単のために Rrb
(P ) を R と書くことにする.フェンス上にあるノードたち
60 第 4章 センサーネットワーク
の集合に対してもその リップス複体 F が考えられるが,仮定 A4 により F は R の部分複体になっていることに注意しよう.Rや F は鎖複体なのでそのホモロジーを考えることができる.また複体の対 (R,F) のホモロジーも考えることができる.実はこれらのホモロジーがセンサーネットワークの被覆問題に関して重要な情報を持っているのである.
定理 66 ([15]). ある [α] ∈ H2(R,F) が存在して H1(F)において ∂2[α] = 0 となるならば,D ⊂ U,すなわち被覆問題は肯定的に解かれる.ここで ∂2 は複体対 (R,F) に関する完全系列
−→ H2(F) −→ H2(R) −→ H2(R,F) ∂2−→ H1(F) −→
の連結準同型である.
この定理において重要なのは,ここで与えられている十分条件がトポロジカルなものであるという点である.すなわちセンサー間の距離や角度といった幾何学的な情報は不要で,単にセンサーたちが互いに通信できるかという組合せ的な情報だけで被覆問題が解決できるのである.
4.2 被覆のための簡単な十分条件 H1(R) = 0
定理 66は協力な十分条件を与えてはいるが,2次のホモロジー群が出てきたり,∂2 の像を考えなくてはならないのがわずらわしい.そこでこの節では,より簡単な被覆のための十分条件を考える.Rの各単体を,その単体に含まれるノードたちが R
2 で張る凸包にアフィンに射影する写像を p と呼ぼう.この射影による R の像を R のリップス射影と呼び,S で書くことにする.射影 p は基本群の準同型 π(p) : π1(R) → π1(S) を誘導する(基点は p により自然に同一視されるとする).
定理 67 ([10]). R を R2 の 有限個の点から生成されるリップス複体とする.このとき
π(p) : π1(R) → π1(S) は同型である.特に H1(R) は自由加群である.
ここでA1からA4に加えて,次の仮定A5を加える.これはリップス射影 S への射影をとるときに,境界でややこしい状況が起きていないという条件である(図 4.3).
A5リップス射影 S は Dに含まれる.
Fence
shadow path
D
vl1
vl2 vr2
vr1v
FenceD
図 4.3 左の図は仮定A5をみたす.右の図では壁にあるセンサーたちが領域D の外側で通信してしまっている(“pinching”)ためA5をみたさない.
4.2 被覆のための簡単な十分条件 H1(R) = 0 61
注意 68. A5 をチェックするのは,実はそんなに簡単ではない.そのため論文 [3] ではA5より少し弱いが局所的な情報だけで簡単にチェックできる条件 A5も考えている.条件 A5の下でも,以下の議論は A5を仮定した場合とほぼ同様に出来る.
この仮定を用いると,定理 66 で与えられた被覆のための十分条件は次のように言い換えることがきる.
命題 69. 仮定 A1-A5 の下で次は同値である.
1. ある [α] ∈ H2(R,F) が存在して H1(F) において ∂2[α] = 0を満たす.2. j1 : H1(R) → H1(R,F) は同型である.3. 包含写像 i1 : H1(F) → H1(R) は自明,すなわち i1 = 0.
4. H1(R) = 0.
ここで j1 と i1 は複体対 (R,F) の完全系列
· · · H2(F)i2
H2(R)j2
H2(R,F)
H1(F)i1
H1(R)j1
H1(R,F)
H0(F)i0
H0(R)j0
H0(R,F) 0
に現れる写像である.
証明.完全性から 2 ⇒ 3 と 4 ⇒ 1 は明らか.(1 ⇒ 2): im ∂2 は H1(F) ∼= Zの部分群なので im ∂2
∼= cZという形で書けるが,仮定より c = 0. すると
im i1 ∼= H1(F)ker i1
∼= H1(F)im ∂2
∼= Z/cZ ⊂ H1(R)
となるが,H1(R) は自由なので c = 1. ここから i1 = 0 が従い,よって j1 は単射である. さらに keri0 = 0 から ∂1 = 0 も従うので,j1 は全射である.(3 ⇒ 4): まずA5 より S ⊂ Dとなることに注意する.以下では背理法により S = D を示す.これが言えれば,π1(S) は自明となるので,定理 67より π1(R) も自明.Hurewicz
の定理(例えば [27] の §4.2 を見よ)より H1(R) は π1(R) を可換化したものなので,H1(R) = 0 が示せたことになる.では S = D とする.このとき p(F) = ∂D なのでフェンス F の影は H1(S)で非自明である.可換図式
π1(F) i∗−−−−→ π1(R) p∗−−−−→ π1(S)
ψ
⏐⏐� ψ
⏐⏐� ψ
⏐⏐�H1(F) i1−−−−→ H1(R) p1−−−−→ H1(S)
62 第 4章 センサーネットワーク
を考える.ここで ψ は Hurewicz 準同型(同じく [27]の §4.2等を見よ)である.フェンスサイクル F を π1(F)の元と考えると F の影が H1(S)で非自明であることから
ψ ◦ p∗ ◦ i∗(F) = p1 ◦ ψ ◦ i∗(F) = 0.
よってψ ◦ i∗(F) = i1 ◦ ψ(F) = 0.
となるが,これは i1 = 0 という仮定に反する.
この命題により,被覆問題の十分条件を
H1(R) = 0
という非常に簡単な条件で与えることができた.
4.3 Mayer-Vietoris 完全系列を用いた分散計算前節の命題により,被覆問題は 1次ホモロジー群の計算に帰着できたのだが,現実的にこの方法を実装しようと思うと,ホモロジーの計算のコストが問題になってくる.センサーの数が少ないうちはホモロジー計算は十分に高速だが,センサーの数が数千,数万となってくるとその計算コストは非常に高くなる.また「いったい誰がホモロジーを計算するのか」という点も問題である.リップス複体の全て情報を一旦どこかのコンピュータに集めて,そのコンピュータで計算するという方法は通信量や消費電力の問題から避けたい.そこで我々はデカルトに習い “divide and conquer” 作戦を取ることにしよう.すなわち,リップス複体を細かな部分に分解して,まずそれぞれの部分でホモロジーを求める.そして次にそれらの部分的な情報から全体のホモロジーを求めようという方針である.その数学的な基礎は次の命題である.ここで考えるのはリップス複体が 2つの部分複体
R1 と R2 に分割されている状況である.
命題 70. リップス複体R1,R2 が
H0(R1) ∼= H0(R2) ∼= Z, H0(R1 ∩R2) ∼= Zr, H1(R1) ∼= Z
n, H1(R2) ∼= Zm.
を満たすとき,R1 ∪R2 の 1次ホモロジー群は
H1(R1 ∪R2) ∼={
Zn+m−L (r = 0)
Zn+m−L+r−1 (r ≥ 1)
となる.ただし L はMayer-Vietoris完全系列
· · · −→ H1(R1 ∩R2)i1−→ H1(R1) ⊕ H1(R2) −→ H1(R1 ∪R2) −→ · · ·
に現われる写像 i1 のランクである.
4.3 Mayer-Vietoris 完全系列を用いた分散計算 63
証明.複体R1 と R2 に対する Mayer-Vietoris 完全系列
· · · ∂2H1(R1 ∩R2)
i1H1(R1) ⊕ H1(R2)
j1H1(R1 ∪R2)
∂1
H0(R1 ∩R2)i0
H0(R1) ⊕ H0(R2)j0
H0(R1 ∪R2) 0
を考えよう.ここから抜き出した完全系列
0 −→ imj1−→H1(R1 ∪R2)∂1−→ im∂1 −→ 0
は im∂1 が自由加群なので(自由加群H0(R1 ∩R2) ∼= Zr の部分群だから)分裂する,す
なわちH1(R1 ∪R2) ∼= imj1 ⊕ im∂1.
Theorem 67によれば H1(R1 ∪R2) は自由加群なので,imj1 も自由加群となる. 従ってimj1 を求めるためには,i1 のランクを求めればよい.すならち
imj1 ∼= (H1(R1) ⊕ H1(R2))/kerj1 ∼= Zn+m/imi1 ∼= Z
n+m−L.
となる.残りの im∂1 を求めよう.もし r = 0 ならば im∂1 = {0} なので命題は直ちに従う.次に r ≥ 1の場合を考える. この場合は H0(R1 ∩ R2) が非自明なので,R1 と R2
は少なくとも 1つの 0-単体を共有する.いま H0(R1) ∼= H0(R2) ∼= Z と仮定しているので,R1 も R2 も連結であり,よってH0(R1 ∪R2) ∼= Zが従う.Mayer-Vietoris 完全系列の最下行にこれらを代入すると
0 −→ im∂1 −→ Zr i0−→ Z
2 j0−→ Z −→ 0
となるが,ここから im∂1∼= Z
r−1 が示される.
なお,Theorem 67 によれば H1 は自由加群なので,命題 70 の仮定はA1 の下では自動的にみたされていることに注意したい.最後に,リップス複体がK 個の複体に分割されているときにこの命題 70を用いて全体のホモロジーを計算するアルゴリズムを与えよう.考える状況は R = R1 ∪ · · · ∪ RK という分割があり,各 Ri は十分に小さいので,非力なセンセーでも H1(Ri)を計算出来るとしよう.
アルゴリズム 71 (H1(R) の分散計算).
1. センサーたちが H1(Rk)を並列に計算する (k = 1, . . . ,K).2. Q = R1, k = 2 とおく.3. 命題 70 により H1(Q∪Rk) を求める.4. もし k = K ならば終了.そうでなければ Q を Q ∪Rk に,k を k + 1 に置き換えて 3 に戻る.
64 第 4章 センサーネットワーク
このアルゴリズムではR全体のホモロジー群 H1(R) を分解したそれぞれの複体のホモロジー群 H1(Rk) を順に積み上げることで求めている.これにおり被覆のための十分条件 H1(R) = 0 (命題 69)を並列計算で確かめることが可能になるのである.
注意 72. センサーが沢山ばらまかれている状況において,部分複体への分割が最初から与えられているとは考えにくい.この点を考慮して,論文 [3]においては分割を自動的に構成するアルゴリズムを構成している.Mayer-Vietoris 系列の計算に必要な情報をどのようにセンサー間で通信するかという問題もあるが,[3]においては分割を構成する際に同時に通信路も構築することでこの問題に対処している.
65
参考文献
[1] Z. Arai, Tangencies and the Conley index, Ergodic Theory and Dynamical Sys-
tems 22 (2002), 973–999.
[2] 荒井迅, 精度保証付き数値計算の力学系への応用について, 数理解析研究所講究録1485.
[3] Z. Arai, K. Hayashi and Y. Hiraoka, Mayer-Vietoris sequences and coverage
problems in sensor networks, preprint.
[4] 荒井迅, 國府寛司, 平岡裕章, 寺本敬, Pawel Pilarczyk and Marcio Gameiro, 応用数理サマーセミナー 2007 計算ホモロジーとその応用, Hokkaido Univerisity Technical
Report Series 124.
[5] Z. Arai and K. Mischaikow, Rigorous computations of homoclinic tangencies,
SIAM J. Appl. Dyn. Syst. 5 (2006), 280–292.
[6] Z. Arai, On hyperbolic plateaus of Henon maps, to appear in Experimental Math-
ematics.
[7] Z. Arai, W. Kalies, H. Kokubu, K. Mischaikow, H. Oka and P. Pilarczyk, Building
a databese for the global dynamics of multi-parameter systems, in preparation.
[8] A. Baker, Lower bounds on entropy via the Conley index with application to
time series, Topology and its Applications 120 (2002), 333–354.
[9] H. Ban and W. Kalies, A Computational Approach to Conley’s Decomposition
Theorem, Jouanal of Computational and Nonlinear Dynamics 1 (2006), 312–319.
[10] E. Chambers, V. de Silva, J. Erickson, and R. Ghrist, Rips complexes of planar
point sets, preprint.
[11] E. W. Chambers, J. Erickson, and P. Worah, Testing Contractibility in Planar
Rips Complexes, preprint.
[12] C. C. Conley, Isolated invariant sets and the Morse index, CBMS Regional Con-
ference Series in Mathematics, 38, American Mathematical Society, Providence,
R.I., 1978
[13] S. Day, R. Frongillo and R. Trevino, Algorithms for rigorous entropy bounds and
symbolic dynamics, preprint, 2007.
[14] S. Day, O. Junge and K. Mischaikow, A rigorous numerical method for the global
66 参考文献
analysis of infinite-dimensional discrete dynamical systems, SIAM J. Appl. Dyn.
Syst. 3 (2004), 117–160.
[15] V. de Silva and R. Ghrist, Coordinate-free coverage in sensor networks with
controlled boundaries via homology, Intl. J. Robotics Research 25 (2006), 1205–
1222.
[16] V. de Silva and R. Ghrist, Coverage in sensor networks via persistent homology,
Alg. and Geom. Topology 7 (2007), 339–358.
[17] A. Dold, Lectures on Algebraic Topology, Classics in Mathematics, Springer-
Verlag, Berlin, 1995, ISBN: 3-540-58660-1.
[18] M. Dellnitz and O. Junge, Set oriented numerical methods for dynamical systems,
Handbook of dynamical systems II, North-Holland, 2002, 221–264.
[19] M. Dellnitz and O. Junge, The web page of GAIO project,
http://math-www.uni-paderborn.de/~agdellnitz/gaio/
[20] J. E. Fornæss and E. A. Gavosto, Tangencies for real and complex Henon maps:
an analytic method, Experimental Mathematics 8 (1999), 253–260.
[21] J. Franks, Homology and Dynamical Systems, CBMS Regional Conference Series
in Mathematics, 49, American Mathematical Society, Providence, R. I., 1982.
[22] R. M. Frongillo, Topological Entropy Bounds for Hyperbolic Dynamical Systems,
http://www.cam.cornell.edu/~rfrongillo/dynamics/paper.pdf
[23] J. Franks and D. Richeson, Shift equivalence and the Conley index, Trans. Amer.
Math. Soc. 352 (2000), 3305-3322.
[24] K. Fukaya, シンプレクティック幾何学, 岩波講座 現代数学の展開, 1999, 岩波書店[25] R. Ghrist and A. Muhammad, Coverage and hole detection in sensor networks
via homology, Proc. IPSN, 2005.
[26] M. Gromov, Hyperbolic groups, Essays in group theory, Mathematical Sciences
Research Institute Publications 8. Springer-Verlag, New York, 1987, 75–263.
[27] A. Hatcher, Algebraic Topology, Cambridge University Press, ISBN-10:
0521795400, ISBN-13: 978-0521795401.
[28] C.-F. Huang and Y.-C. Tseng, The coverage problem in a wireless sensor network,
Proc. of the 2nd ACM international conference on Wireless sensor networks and
applications, ACM Press (2003), 115–121.
[29] O. Junge, Computing specific isolating neighborhood, Progress in analysis, Vol. I,
World Sci. Publishing, (2003), 571–576.
[30] T. Kaczynski, K. Mischaikow and M. Mrozek, Computational Homology, Applied
Mathematical Sciences 157, Springer-Verlag, 2004.
[31] A. Katok, Lyapunov exponents, entropy and periodic orbits for diffeomorphisms,
Inst. Hautes Etudes Sci. Publ. Math. 51 (1980), 137–173.
[32] H. Koskinen, On the Coverage of a Random Sensor Network in a Bounded Do-
67
main, Proceedings of 16th ITC Specialist Seminar (2004), 11–18.
[33] X. Y. Li, P. J. Wan and O. Frieder, Coverage in wireless ad hoc sensor networks,
IEEE Trans. on Computers 52, no. 6 (2003) 753–763.
[34] S. V. Matveev, Lectures on Algebraic Topology, EMS Series of Lectures in Math-
ematics, European Mathematical Society, Zurich, 2006.
[35] S. Meguerdichian, F. Koushanfar, M. Potkonjak, and M. Srivastava, Coverage
Problems in Wireless Ad-hoc Sensor Networks, IEEE INFOCOM (2001), 1380–
1387.
[36] J. Milnor, Morse Theory, Annals of Mathematics Studies 51, Princeton Univer-
sity Press, Princeton, N.J. 1963.
[37] K. Mischaikow and M. Mrozek, Chaos in the Lorenz equations: a computer-
assisted proof, Bull. Amer. Math. Soc. (N.S.), 3 (1995), 66–72.
[38] K. Mischaikow and M. Mrozek, Chaos in the Lorenz equations: a computer-
assisted proof. II. Details, Mathematics of Computation, 67 (1998), 1023–1046.
[39] K. Mischaikow and M. Mrozek, Chaos in the Lorenz equations: a computer-
assisted proof. III. Classical parameter values, J. Differential Equations, 169
(2001), 17–56.
[40] K. Mischaikow and M. Mrozek, The Conley index theory, Handbook of Dynamical
Systems II, North-Holland, 2002, 393–460.
[41] K. Mischaikow, M. Mrozek and P. Pilarczyk, Graph approach to the computation
of the homology of continuous maps, Found. Comput. Math., 5 (2005), 199–229.
[42] L. Mora and M. Viana, Abundance of strange attractors, Acta. Math. 171 (1993),
1–71.
[43] J. Palis, A global view of dynamics and a conjecture on the denseness of finitude
of attractors, Asterisque 261 (2000), 335–347.
[44] J. Palis and F. Takens, Hyperbolicity and Sensitive Chaotic Dynamics at Homo-
clinic Bifurcations, Cambridge Studies in Advanced Mathematics 35, Cambridge
University Press, 1993.
[45] P. Pilarczyk, et al., Computational Homology Project,
http://chomp.rutgers.edu/
[46] C. Robinson, Dynamical Systems; Stability, symbolic dynamics, and chaos, 2nd
ed., CRC Press, Boca Raton, FL, 1999.
[47] C. Robinson, Bifurcation to Infinitely Many Sinks, Communications in Mathe-
matical Physics 90 (1983), 433–459.
[48] D. Salamon, Morse Theory, the Conley index and Floer homology, Bull. London
Math. Soc. 22 (1990), 113–140.
[49] H. Seifert and W. Threlfall, 位相幾何学講義, シュプリンガー数学クラシックス,
シュプリンガー・フェアラーク東京, 2004.
68 参考文献
[50] E. Spanier, Algebraic Topology, Springer-Verlag, 1966.
[51] B. Srishnamachari, Networking wireless sensors, Cambridge University Press,
2005.
[52] A. Szymczak, A combinatorial procedure for finding isolating neighbourhoods
and index pairs, Proc. Roy. Soc. Edinburgh. Section A 127 (1997), 1075–1088.
[53] A. Szymczak, The Conley index and symbolic dynamics, Topology 35 (1996),
287–299.
[54] A. Szymczak, The Conley index for decompositions of isolated invariant sets,
Fundamenta Mathematicae 148 (1995), 71–90.
[55] 田村一郎, トポロジー, 岩波書店, ISBN 4-00-021413-6.
[56] Yuh-Ren Tsai, Sensing coverage for randomly distributed wireless sensor net-
works in shadowed environments, IEEE Trans. on Vehicular Tech. 57, no. 1
(2008), 556–564.
[57] L. Vietoris, Uber den hoheren Zusammenhang kompakter Raume und eine Klasse
von zusammenhangstreuen Abbildungen, Math. Ann. 97 (1927), 454–472.
[58] P.-J. Wan and C.-W. Yi, Coverage by randomly deployed wireless sensor net-
works, IEEE Trans. on Information Theory 52, no. 6, pp. 2658–2669, June,
2006.
[59] Y. Yomdin, Volume growth and entropy, Israel J. Math. 57 (1987), 285–300.
[60] H. Zhang and J. C. Hou, Maintaining sensing coverage and connectivity in large
sensor networks, Ad Hoc & Sensor Wireless Networks, 1, pp. 89–124, March,
2005.