29
1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆 髙橋琢磨 [email protected] 趣旨 アメリカの医療制度は、同じアングロサクソンのイギリスとは対照をなしている。その 違いは、ふたつから来る。一つは、機会均等に対して、イギリス人がその前提としての機 会均等が実現していないとみるのに対し、アメリカ人は人々が貧乏になるのは努力が足り ないから考えることが多いこと、今一つは、医療制度を費用(分母)対効果(分子)での 見方を徹底するという点では同じだが、イギリスでは、分母の方のコストを下げ、いって みれば医療制度をコストセンターの方向で徹底しているのに対し、アメリカでは医療を科 学投資の対象と見て、いってみれば RD センターで徹底していることであろう。 冷戦時代のアメリカの医療制度は冷戦時代には現在より比較的バランスが取れていたか に見えた。これは医療保険が民間で提供されるアメリカにあって企業の国際競争力が高か ったことによる。ところが、冷戦後は政府の志向が上記のような R&D センター志向となる 一方、企業の力が相対的に弱まったことで、高度な医療はあっても国民の多くはそれを享 受できないという、きわめて不都合な状況になった。 不都合な状況をめぐってアメリカ国民はイデオロギッシュになり分裂していた。その分裂 を憂い、分裂を救う手段としてオバマ大統領は国民皆保険をほぼ達成する医療保険改革法 を成立させた。これは歴代大統領が望みながら達成できなかったものである。 ところが国民皆医療保険が実施されることになれば、ますます大きな政府となり、税を引 上げざるを得なくなるとのキャンペーンが張られ、中間選挙では民主党は大敗北を喫した。 下院で多数を占めた共和党は、さっそくオバマ大統領が内政分野で最大の実績としている 医療保険改革法を廃止するための法案を上程したが、下院可決後、米上院での採決に回さ れ、賛成 47 と可決に必要な 60 票に届かず否決された。ティーパーティのデモンストレー ションである。そして議会勢力を握る共和党は関連の予算をつけないことで法が実質的な 効力を及ぼさないようしようとしている。 これに対し、オバマ大統領は、共和党に大統領候補が見出しにくくなっていること、医療 に対する対案がないことを見越して、医療の無駄を省き、医療サービスコスト低下の方策 を超党派で推進していくことを提案して、医療保険改革法を実施していこうとしている。 こうしたアメリカの経験が示唆することは何だろうか。高度医療が利用者に跳ね返ってい て、それが福祉医療システムでは対応しきれないアメリカ医療制度の経験は日本の医療の 成長戦略への巻き込みには慎重な見方をすべきということを示唆しているといえよう。

オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

1

15

オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

髙橋琢磨

[email protected]

趣旨

アメリカの医療制度は、同じアングロサクソンのイギリスとは対照をなしている。その

違いは、ふたつから来る。一つは、機会均等に対して、イギリス人がその前提としての機

会均等が実現していないとみるのに対し、アメリカ人は人々が貧乏になるのは努力が足り

ないから考えることが多いこと、今一つは、医療制度を費用(分母)対効果(分子)での

見方を徹底するという点では同じだが、イギリスでは、分母の方のコストを下げ、いって

みれば医療制度をコストセンターの方向で徹底しているのに対し、アメリカでは医療を科

学投資の対象と見て、いってみれば R&Dセンターで徹底していることであろう。

冷戦時代のアメリカの医療制度は冷戦時代には現在より比較的バランスが取れていたか

に見えた。これは医療保険が民間で提供されるアメリカにあって企業の国際競争力が高か

ったことによる。ところが、冷戦後は政府の志向が上記のような R&D センター志向となる

一方、企業の力が相対的に弱まったことで、高度な医療はあっても国民の多くはそれを享

受できないという、きわめて不都合な状況になった。

不都合な状況をめぐってアメリカ国民はイデオロギッシュになり分裂していた。その分裂

を憂い、分裂を救う手段としてオバマ大統領は国民皆保険をほぼ達成する医療保険改革法

を成立させた。これは歴代大統領が望みながら達成できなかったものである。

ところが国民皆医療保険が実施されることになれば、ますます大きな政府となり、税を引

上げざるを得なくなるとのキャンペーンが張られ、中間選挙では民主党は大敗北を喫した。

下院で多数を占めた共和党は、さっそくオバマ大統領が内政分野で最大の実績としている

医療保険改革法を廃止するための法案を上程したが、下院可決後、米上院での採決に回さ

れ、賛成 47 と可決に必要な 60 票に届かず否決された。ティーパーティのデモンストレー

ションである。そして議会勢力を握る共和党は関連の予算をつけないことで法が実質的な

効力を及ぼさないようしようとしている。

これに対し、オバマ大統領は、共和党に大統領候補が見出しにくくなっていること、医療

に対する対案がないことを見越して、医療の無駄を省き、医療サービスコスト低下の方策

を超党派で推進していくことを提案して、医療保険改革法を実施していこうとしている。

こうしたアメリカの経験が示唆することは何だろうか。高度医療が利用者に跳ね返ってい

て、それが福祉医療システムでは対応しきれないアメリカ医療制度の経験は日本の医療の

成長戦略への巻き込みには慎重な見方をすべきということを示唆しているといえよう。

Page 2: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

2

1.アメリカの医療制度を取り巻く環境

「平等」意識と医療制度

何年前のことであろうか、東京で開かれた全米研究創薬企業連合会のレセプションで、

筆者はアメリカ医師会(AMA)会長、上院議員などのテーブルに着いて会食をしたことが

ある。歴代で2人目だという女性の医師会会長の名前も思い出せないが、日本側から挨拶

をしたのが坪井榮孝会長であったから、すでにクリントン政権でヒラリー・クリントン大

統領夫人が医療制度改革に乗り出し、それが無残にも敗退した 1994 年をしばらく過ぎた時

のことである。したがって 2000 年の尐し前のことではなかろうか。医師でも、国会議員で

もない筆者がなぜ大業な席につけられたのか記憶していないが、レセプションを準備して

いたロビーストが英語でアメリカ人と話していたこと、厚生大臣を何度か務めたドン N と

親しげに話をしていたことで、多くの日本人の来客が通訳もつかない中で敬遠したためだ

ったのではないか。

全米研究創薬企業協会が、お金をかけたレセプションを東京で開くのは日本の管理的な

医療制度を変えさせ、薬価基準なる制度を廃止するよう働きかけるためでもある。日本の

大手の医薬品会社もそのメンバーになっている。筆者はその時、坪井会長の挨拶を承けて、

日本の皆保険制度を擁護した話をテーブルの話題にした。

医療・介護を成長分野として位置づけようとしている現在の政権もそうだが、政府が医

療を拡張しようとするときには、アメリカの自由市場型の医療をモデルとしてとりあげる。

その一方、医療を抑制しようとする意図があるときはイギリス型の管理医療をモデルとし

てきた(図表1)。坪井会長も、当時、日本の医療改革は、いつもイギリス型の管理医療

を推し進めようとする一派と、逆にこれからはアメリカの自由市場型の医療を目指さなく

てはならないという一派が議論し、この二つが混在してあたらしい医療を作ろうとしてき

た。どちらが優れているかではない。日本は、この2つのどちらにも属さない新しい形を

目指していると述べた。

筆者も、確かにアメリカの医療は値段を出せば最先端の医療技術を利用でき、薬価も自

由価格というシステムがあるがゆえに研究開発が進み、先端に立っている。だが、日本の

医療システムは、強者のためにだけ存在するのではない、医療を受けなくてはならない人

は生まれつき体が弱い人などになりがちであるため、皆が医療サービスにアクセスできる

図表1 医療制度比較:アメリカ型とイギリス型

管理型 手法

医療費を節約しようとする一派 イギリス型管理医療 総枞規制

医療を拡張する一派 アメリカ型自由市場医療 マネージドケア

(出所)坪井会長時代の日本医師会資料

Page 3: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

3

仕組みとして構築されたと説明した。それは、社会主義ではないかという上院議員に対し、

筆者はイギリスとは違うと、筆者がロンドン時代に2人のオックフォード大学出の外科医

がアナリストとして働きたいといってきた話をした。

現在、イギリスでは保守党が 60年ぶりの改革となる国営医療制度改革法案を提出してい

るが、医療サービスを完全に国家で受け持つという基本は変えないものだ。改革案では現

在特別な役所が予算を管理するシステムを末端のかかりつけの医師の手にわたして非効率

的なものを改善するとしている。だが、当時はその硬直的なシステムの下にあったため、

末端のかかりつけ医からまわってくる患者をみる医者の立場からすれば、どこに配置され

るか分からない、どの時間帯に手術を要請されるのか分からない状況にあった。待機患者

からすれば、いつになったら医療サービスが受けられるか分からないという状況があった。

このため、オックスフォード大というプライドの傷つけられた医師は人のために医術をほ

どこすという崇高な理念はもうよい、自分の為に働きたいというのだった。こうした事態

を回避するために、日本ではある程度の自由と市場制度を活用していると、日本の医療費

の分配、管理方法が日本社会のニーズに合致した制度だと説明した。

米英は本来同じアングロサクソン型の市場制度を持ち、同じく機会均等を唱えている。

にもかかわらず、医療に関しては、大きく異なるシステムができてしまったのである。ア

メリカとイギリス(ヨーロッパ)の違いはどこから出てくるのであろうか。二つの視点が

あるように思う。

一つは、機会均等に対して、人々がどんな信念なり、考え方をもっているかによって異

なり、機会均等を確保することは重要だが、現実に機会均等は存在しているのか、どうか

という判定いかんだといえよう。

人々が、機会均等は重要だと考えているが、その機会均等が実現していないと信じると

きに所得配分への欲求は強くなるのだ1。アメリカ人は人々が貧乏になるのは 60%の人が

「努力が足りないからだ」と答え、ドイツでは 70%の人が「社会的要因による」と答えて

いる。アメリカ人は 71%が貧乏から抜け出せるはずと考えるが、そう考えるヨーロッパ人

は 40%にとどまる。

今一つは、医療制度を費用対効果で見るという視点である。つまり、医療をどれだけの

「コスト、投資」(分母)をかけて、どれだけの「リターン、効果」(分子)を得るのか

というビジネス的センスである。アングロサクソン文化は、これを徹底して考えることに

特徴がある。イギリスでは、徹底して分母の方のコストを下げるという、言ってみれば医

療制度をコストセンターとして見ている。これに対し、アメリカでは医療を科学投資の対

象と見て、いってみれば R&Dセンターと見ていることになる。

確かに、分子・分母のどちらかだけにフォーカスしていけば効率があがるように思われ、

日本はその中間なので、どっちつかずの中途半端な位置にあるように思われる。だが、開

き直れば、ビジネスの世界では、この分母・分子の両面を見て、サービスを提供していく

1 Claudia Senik, ”Income Distribution and Subjective Happiness,” OECD Publishing 2009

Page 4: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

4

ことが当然だといえる。もしイノベーションのインセンティブをそれほど下げることなく

コスト削減がある程度低く良いサービスができればいうことがないではないか。

社会主義への対抗としての福祉・医療制度

さて、アメリカの医療制度が、初めから今日のように R&D センター志向で運営されてい

たわけではない。筆者が見るところ、フランクリン・ルーズベルト時代の余韻、そしてソ

連に対抗しなければならない冷戦時代にあって、アメリカでも福祉としての医療を提供す

る必要があるとの考えがあったからである。

こうしたアメリカ社会の成り立ち、国際政治情勢と整合性をもった福祉制度というのは、

民間の提供する福祉ということになろう。それは、下記にみる公的保険の補完はあるが、

基本は企業の提供する年金・医療保険であり、保険会社の提供する医療保険ということに

なるということだ2。そして 20 世紀のアメリカ経済が順調であり、アメリカ企業が抜群の国

際競争力をもっていたことによって機能していた。

また、アメリカでも多くが障害をもって生まれたとか、病気になった時などには、弱者

に援助し、結果平等になったとしてもよいと考えている。メディケア、メディケイドのプ

ログラムが開始されたのは 1966 年で、「偉大な社会」が唱えられたジョンソン大統領の時

代のことである。これは、格差が生じたのは個人の怠惰や不誠実のせいではなく、社会の

仕組が問題だとして労働者を救済しようとし、職を生み出すために公共投資が行われたフ

ランクリン・ルーズベルトのニューディールの流れの掉尾を飾ったともいえる。

その後もメディケイド、メディケアへの支持が国民全体として維持されてきている。こ

のことに関し、天野拓は共和党が受動的態度に終始してきたためであると推論しているが、

筆者はこれでは答えになっていないと考える3。ソ連への対抗という側面もあったからと考

えるべきで、それゆえに共和党も賛成したのであろうと推論するのが妥当ではないか。

今、経済自由度と一人当たり所得とを各国別にプロットすると、福祉規制のある先進諸

国よりも高くなり、それをプロットすると S 字型となる(図表2)。なぜそうなったのか。

冷戦体制の終焉が、先進諸国に、社会主義国との福祉レベルでの競争をやめさせたからだ

とも解釈できる。広井良典も指摘しているように、冷戦が終わって以後のアメリカは、か

つて自由、公平よりも「サイエンスとしての医療」「高度な医療」を志向するようになった

ということであろう4。

一方、冷戦後に台頭してきた諸地域ではどんなことが起こっていたのだろうか。アジア

諸国や東欧の移行経済などでは、まずは経済自由度を高め、先進国からの投資を呼び込み

自国の成長を図ろうとしてきた。中でも香港及びシンガポールという都市国家は、世界で

2 渋谷博史・中浜隆『アメリカの年金と医療』日本経済評論社、渋谷博史・中浜隆・編『アメリカモデル

福祉国家 2』昭和堂(2010) 3 天野拓『現代アメリカの医療改革と政党政治』ミネルヴァ書房(2010) 4 広井良典『医療保険改革の構想』日本経済新聞社(1997)

Page 5: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

5

図表2 経済的自由度と経済発展段階

( 注 )使用データのうち経済指標に関しては OECD(パリ)及び国際比較経済研究所(ウィーン)、経済

自由度に関してはヘリテージ財団(ワシントン)。

(出所)髙橋 琢磨「問われる構造・規制改革の意義」 『財界観測』 (1997 年 12 月号)

も最高レベルの経済的自由を享受したのである。

福祉制度の整わないアジアの中進経済国(NIEs)や BRICsが競争梩に入ってくると、

先進国と途上国の賃金と競争も激しくなって、賃金の平準化が起こった(バラッサ=サム

エルソン仮説)。その結果として、アメリカの医療制度に何が起こったのか。かつて中産階

級を創りだしたといわれる GM はそのレガシーコストによって倒産した。その一方、サー

ビス化の進んだアメリカ経済の中で、優良企業とされるウォルマートでは十分な医療保険

を提供する能力と意思を持たなくなっている。その他の新興企業でも同じである。近年、

アメリカ医療制度の「ウォルマート化」が叫ばれるようになったゆえんである。

長谷川千春が指摘するように、アメリカの医療保障にはメディケイド、メディケアのよ

うな政府管掌の医療保険もあるが、現在も、基本は人口の 62%が加入している企業が提供

する医療保険だといえそうである5。62%という数字もそうだが、アメリカ最大、最良の企

業医療保険を提供してきた GM が崩壊し、アメリカ国内最大の雇用をもつウォルマートが

医療保険に関して企業の責任を十分に果たせていないのだ。この二つの事象が象徴するよ

5 長谷川千春『アメリカの医療保障』昭和堂(2010)

Page 6: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

6

うに、今や企業の提供する医療保険が空洞化していると推定されよう。

問われることは、自由市場の「見えざる手」は研究開発を刺激し、新しい技術、新しい

医療サービスを開発してきたのか、それを安価に提供できる仕組みをつくってきたのか、

そして「見えざる手」の至らざるところを補って、医療サービスのコストとサービスレベ

ルを調節するはずであったマネジドケアシステムは機能したのかということであろう。「サ

イエンスとしての医療」「高度な医療」の成果が国民に還元できる仕組みが、アメリカは医

療サービスから消えていったのではないかとの疑問に応える必要である。

2.高度医療とアクセスをもたない国民というギャップ

高価な医療サービスを生み出した自由市場、研究開発

アメリカの医療費は高騰し、今や2兆 3387 億ドル、GDP の 16%にも達したが、この高

騰のために 5000 万人、17%の人が無保険のままに置かれている。オバマ大統領は、医療費

を抑えるためにも医療保険制度が必要だと国民皆保険を提唱した。医療制度改革に失敗し、

医療コストの増嵩に歯止めがかけられない場合には、経済成長がとまり、人々も低賃金に

甘んじなくてはならないなど、何兆ドルもの損失が生まれると警告し、議会に法案を通す

よう要請した。

アメリカの GDP 比 16%というのは、他の先進国と比べても極めて高いものであり、そ

の上昇スピードも際立っている(図表3)。その要因として、横目盛にとった高齢化という

視点からすれば、まず 65 歳以上の国民に提供されている社会保険としてのメディケアの費

用の増嵩について触れるべきであろう。移民も多く人口の高齢化が他の先進国よりも格段

に遅いテンポで進んでいるアメリカでも、1970年には人口の 9.5%に過ぎなかったものが、

2000 年には 12%となり、2030 年には 20%にも達すると見込まれ、費用は大きく膨らむと

見られるからだ。事実、メディケアの支出は 1967 年には 33 億ドルであったものが、10 年

後には 7 倍になり、20 年後には 25 倍の 810 億ドルになるなど急増した。直近の 2008 年に

は 4692 億ドルにもなって 99 年の 2128 億ドルから 2.2 倍になっている。

メディケアには、入院保険(パート A)、医師・医療関係者のサービス(外来診察、在宅

ケアなど)に対して年間 135 ドルを定額支給する補足的医療保険(パート B)から成るオ

リジナル・メディケアと、1997 年に導入され 2003 年以降、メディケア・アドバンテッジ

と呼ばれるようになったパート C、それに同年に制定されたメディケア処方箋給付(パート

D)の4つで構成されている。中核をなすパート A を支える社会保障税は、現役負担で賃

金の 2.9%を労使で折半負担する。メディケア・アドバンテッジは、パート A、B の対象の

サービスの高度化を狙った民間保険会社が提供する優遇版であり、追加保険料を払ってサ

ービスを受けるのが原則となる。

貧困世帯などを対象としてメディケイドも 1999 年の 1079 億ドルから 2008 年の 2013

Page 7: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

7

図表3

Page 8: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

8

億ドルへほぼ倍増している。メディケイドは 1998 年から子供を対象とした SCIP が始まり

08 年で 89 億ドルになっている。従業員の子どもがこのプログラムを使っている割合が高い

と、ウォルマートを非難する時に言及されたものだ。アメリカにはこの他にも州・地方政

府レベルで医療補助を行うシステムがあり、08 年には 2898 億ドルを支出している。

政府支出が拡大したことによって、一人当たりの政府支出額は国際比較上決して小さく

なくない。にもかかわらず、政府の負担は 47%にとどまっていて、他の先進国に比較しカ

バー範囲が狭いのだ。それだけアメリカの医療コストが他の先進国とくらべ高いのだ。

公的な保険のカバーが尐ない分、民間保険の負担が大きくならざるを得ない。事実、1987

年には、メディケアの対象にならない 65 歳未満の被保険者の 70%が自分の勤め先なり、配

偶者の勤務先なりで提供される保険の加入者であった。それでやっていけた。その意味で

は、長谷川が言うように、企業が提供する医療保険が基本だった。

だが、その基本であるはずの企業提供の医療保険の人口シェアは、2009 年では 59%と、

67 年と比較すると 11%ポイントも低下、空洞化を起こしている。長谷川の『アメリカの医

療保険』が1章を割いて雇用主提供医療保険の「空洞化」を論じなければならなかったゆ

えんである。

図表4は、非高齢者でありながら 21%、5600 万人が障碍、貧困などのためにメディケア、

メディケイドの受給者になっている実態を示している。無保険者は 2000 年には 3820 万人

であったものが、最近では 5000 万人に達するところにある。では、こうした状況にある人々

がどのような医療サービスを享受し、あるいは出来ないでいるのであろうか。

確かにアメリカでは、高度医療の発達や医療機器の進歩では世界一となっている。たと

えば、UCLA で内科の教授をつとめたことのある政策研究院大学教授の黒川清も紹介して

いるように、アメリカの病院では指名、紹介などによって最高の医療サービスが受けられ

る一方、選ばれた医者も歩合給で報酬を受け取り強いインセンティブシステムで運営され

図表4 65 歳未満の人口の医療保険加入状況推移 (単位:100 万人、%)

1987 1997 2000 2005 2007 2009

総数 221.4 (100) 236.2 (100) 244.8 (100) 257.4 (100) 260.0 (100) 264.7 (100)

企業提供保険 150.3(70.1) 156.9(66.4) 167.5(68.4) 161.3(62.7) 161.7(62.2) 156.1(59.0)

本人勤務先 73.5(34.3) 78.5(33.2) 84.6(34.6) 82.3(32.0) 82.9(31.9) 79.1(29.9)

家族勤務先 76.8(35.8) 78.4(33.2) 82.9(33.8) 79.0(30.7) 78.8(30.3) 77.0(29.1)

個人加入 15.0( 7.0) 17.1( 7.2) 16.0( 6.5) 17.9( 7.0) 17.7( 6.8) 16.7( 6.3)

公的部門 28.8(13.4) 35.3(15.0) 35.8(14.6) 45.5(17.7) 45.5(17.5) 56.0(21.1)

メディケア 3.1( 1.5) 4.7( 2.0) 5.4( 2.2) 6.4( 2.5) 6.5( 2.5) 7.3( 2.8)

メディケード 18.6( 8.7) 26.4(11.2) 26.2(10.7) 34.7(13.5) 34.9(13.4) 44.1(16.7)

無保険 29.5(13.7) 39.9(16.5) 38.2(15.6) 44.4(17.2) 46.5(17.9) 50.0(18.9)

(出所)Paul Fronstin, Sources of Health Insurance, EBRI Brief No.347 (Sep.,2010)

Page 9: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

9

ている6。トップクオリティの病院、たとえばマウントサイナイ病院で、脳外科手術を受け

れば、脳外科手術の専門家はもちろん視神経や言語中枢神経を傷めないよう 10 名近い各種

専門医が立会い、ベテラン看護師などの補助を受けながら細心の注意を払いながら施術が

行われる7。だが、それに伴なう医療費の高騰に悩まされ、医療保険とその受給者が必至に

対応を迫れているという構図になっている。つまり、医療保険と株式会社組織を含む医療

機関相互の競争など市場原理をもってしても制御できていない恨みがあるのだ。

企業の提供する保険のシェアは、1998~2005 年の平均の 26%から 2007 年には 24%に

下がり、08 年には 23%にまで低下した。これは不況で従業員が解雇され、それだけ対象が

減ったということもあることが、保険の内容が低下し、雇用者負担の部分を被雇用者に転

嫁したり、サービスメニューを減らすといったなどの手段で対処してきた結果である。ま

さに企業提供保険の空洞化の実態と医療費の高騰の傷跡を見たことになろう。

マネジドケアなど数々の医療 システム改革が行われてきたものの、限定的な効果にとど

まるのだ。その分、無保険者が直接自分の蓄えの中から支払う比率が高くなることを意味

する。2008 年における直接支払いは、2778 億ドル、12%を占める。多くは保険のカバー

が低くなっているために支払う自己負担分であり、無保険者が致し方なく病気になったら

自分で支払っている分といえよう。

だが、この中には世帯収入が 7 万 5000 ドルを超えながら医療保険に加入していない 928

万人が含まれる。つまり、無保険者の5人のうち1人は、民間医療保険を購入する資力が

ありながら自己判断で加入していない、いわば医療制度の悪用をしているとみられる層で

ある。このうち悪質なのは、救急病院に駆け込み、切羽迫った形で治療を受け、請求され

た額を交渉して値切ったり、支払いを免れて政府に負担してもらう人たちであろう。結果

として、救急、1件あたり 1000 ドルが政府の負担になっているとされる。

別の場合を考えると、保険なぞには入らなくとも、脳外科手術が必要になればマウント

サイナイ病院で自分のお金でゆうゆう払うことのできる富豪も含まれることになろう。だ

が、そうした中には、オバマ演説に出てくる5万ドルの子宮癌の手術のために自己破産し

た女性のような例もあろう。エリザベス・ウォーレンがいうところの医療費のために自己

破産する年にゼロコンマ数%の確率に当てはまるケースだ。

バイオ医薬での独壇場であるアメリカ

アメリカが提供できる先端医療は、どのようにして生まれたのか、それを振り返って見

ておこう。図表3で見た国際比較の医療費にはいわゆる研究開発費が含まれる。アメリカ

の保健省の発表している医療費には、研究費として 2008 年には 335 億ドル(医療費の1.

6 黒川清『大学病院革命』日経 BP 社(2007) 7 こうした姿は経営学者、故ピーター・ドラッカーが21世紀の専門家、プロフェッショナルのモデルで

もある。

Page 10: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

10

4%)が計上されている。これは、1999 年の 181 億ドルの 1.85 倍に当たる。すなわち、

アメリカの高度医療を支える技術基盤の一つ、創薬を支えるのは、NIH(米保健衛生局)、全

米科学基金などから支給される基礎研究費である。

創薬・医療技術などが、基礎研究の直接の恩恵を受けるようになったのは、バイオテク

ノロジーが科学の前面に出てきたことによって、基礎研究が創薬・医療などの応用と直結

するようになったからである。NIH 予算と医療費の構成項目と差が尐ないことに見るよう

に、日本と異なりバイオ関連の研究予算が NIH で総括的に扱われていることが効率的だと

の評がある8。すなわち、アメリカでは、政府の科学予算が国立衛生局(NIH)を通じて大

学、研究機関に配布され、その研究成果がベンチャー等によって開発され、それが FDA か

ら製造認可を受け、グローバルにマーケティングされ、それが収益、税として回収される

というバイオ産業のグローバル価値連鎖ができているのである(図表5)。

アメリカにリードされる医療制度は、新しい薬、あるいは医療機器といった「イノベー

ション」をどう広く普及させていくか、ということが重視されてきた。先ほど提示した分

子・分母論で言えば、有効性と安全性という「分子」の側が決定的に重要だということに

図表5 アメリカのハイテク産業のグローバル価値連鎖

(出所)髙橋(1999)

8 筆者は、『私家版 マニフェスト:土建国家から人を活かす創知情報化社会』の中で、これまでの各省庁

がばらばらに予算計上していたものを科学技術会議に権力を集中することを提案した。それゆえに同会

議の本所佑議員が『私家版 マニフェスト』を評価してくれたともいえるのかも知れない。医療イノベ

ーション会議では、厚生労働省下の癌研、循環器センターなどを糾合し、協同化、重点化が議論され、

癌とその周辺を当面の研究課題とすることが取り決められた。

大企業

資本市場

ベンチャーネットワー

ク FDA

グローバル市場

大学

デファクトスタンダード

NIH 政府

(収益)

シリコンバレー・モデル

Page 11: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

11

なる。その要に座るのが、新薬を認可する FDA ということになる。新薬製造の申請する際

に FDA の審査請求が一種の世界スタンダード化しており、最短の時間で審査請求に応える

システムに構築され、イノベーションに関しての政府の効率化が進んでいる。こうして産

み出される高度な医療サービスと自由市場がバイオテクノロジーと結びつけることによっ

てアメリカは創薬における覇権を確立したといってよい。

アメリカは医薬品においては自由市場を維持するほとんど唯一の国である。医薬品の価

格も需要が強ければ価格の値上げが可能だ。量産が進めば安くなるはずだと薬価基準を引

き下げる日本とは対照的である。このためアメリカ市場の世界シェアは 45%程度と飛び抜

けている。だが、これだけでは覇権とはいえない。覇権と言えるのは、バイオ創薬の出現

を契機に、これまでの長い歴史の中で培われた産業クラスターによって優位を保ってきた

ヨーロッパ企業の競争力を相対的に低下させ、アメリカのバイオ産業の軍門下においたか

らである。ヨーロッパでは消費者はバイオテクノロジー技術に警戒感をいだいていた。こ

れに対し、アメリカではバイオ研究を創薬に結び付けやすくするために、先進国における

特許法を製法特許から物質特許に変え、大学と企業の関係を整理するバイ=ドール法を導

入するなど、周到な用意をした上で人とカネをつぎ込んだのである。そしてアメリカの消

費者には科学を推進し、進んでその成果を受け容れるという土壌があった。バイオ創薬の

治験に対しても、進んでそれに応募する患者グループが存在したことの意味も大きい。も

ちろん科学の進歩を信頼する人ばかりではない。だが、見てきたようにそうした機会を利

用しない限り自己破産へ向かわざるを得ないという事情を抱えている人も尐なからずいた

という事情もあった。新しいものをこわがり、治験などとんでもないと騒ぎ立てる消費者

団体のある、日本やヨーロッパでは太刀打ちできない差ともいえる。

かくしてバイオ創薬の時代になって、世界の新薬(1988-2002)の販売開始に占めるアメ

リカの市場シェアは、なんと 70%にまで高まっている(図表6)。単に米国企業だけでな

図表6 新薬(1988-2002)の販売開始に占める市場シェア

(出所)全米研究創薬企業連合会資料(2004)

米国

70%

ヨーロッパ

18%

日本

4%

その他

8%

Page 12: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

12

く、日欧の企業の R&D 活動もバイオの時代になって米国の比重が高まり、新薬の開発も米

国で行われていることを示唆していよう。

事実、ヨーロッパ系創薬企業はまずは、近隣同士での合併を進め、米国系に対抗して遂

行できるクリティカルマスを達成すると同時に、アメリカのバイオベンチャーを買収し、

アメリカにグローバル市場への販売拠点を確保する動きがある。たとえば、スイスのチバ・

ガイギーがローヌプランを買収して生れたノバルティスも米マサチューセッツ州の研究拠

点に約1000人を配置、巨大市場の近くでバイオ医薬の研究開発体制を整え、40%の対米依

存度をさらに高めている。中外製薬の親会社のホフマン・ファロッシュも、アメリカのバ

イオベンチャーの雄、ジェネンテックを合併している。日本企業もこの後を追っている。

こうした動きは、今年になっても仏製薬大手サノフィ・アベンティス合併、米バイオ医薬

大手のジェンザイムに対して総額185億ドルの敵対的TOB(株式公開買い付け)を始める

など、依然として続いている。

日本の武田薬品も自社の FDA の対応が十分でなかったとして 2009 年に自社のグローバ

ルな開発本部をアメリカに移し、10 年にはアメリカの孫会社を本社所管の「武田ベンチャ

ー投資株式会社」と改称し、バイオベンチャーへの投資をこれまで以上に幅広くおこなっ

ていくとしている。武田のこうした決定は、アメリカで完成していたバイオ産業のグロー

バル価値連鎖に対して、日本のそれが十分な対抗力を持っていなかったことを意味する。

その原因の大なものとして、日本企業は本国での認可と、FDA の申請を先行させるかの

選択肢のなかで日本の厚生労働省の新薬認可システムが、時間的にも審査手続の点でもア

メリカに务っていた可能性が大きいことがあげられる。世界で唯一の自由市場たるアメリ

カ、そしてバイオでの研究集積からしてM&Aの動きによって、イノベーションの地理的

分布が米国に集中し、現在の先進地域と後進地域の差は一層拡大することになろう。

こうしたギャップは試作段階で患者にためして改良を重ねていくことが必要な人体埋め

込み型の医療機器でアメリカのリードはより大きくなる。たとえば心臓のペースメーカー

や血管のつまりを治療するカテーテルのステントなどだ。日本の得意とするロボットでも

手術ロボットのダビンチはアメリカ企業の手で実用化され発売されている。

ゲノム創薬に至る過程を歴史的に見る

では、なぜ先端技術がアメリカ医療に高コストをもたらしているのだろうか。そのことを

知るためには創薬のプロセスを特許との関連で見ておく必要がある。開発対象物の探索に始

まり、その候補を成長オプションと見立て、その成長オプションの育成、そして独占は「是」

というものを理解する上で、製薬企業の創薬プロセスは極めて有効なモデルといえよう。

新薬の開発は、これまで前臨床試験、臨床試験フェーズ1~フェーズ3の 4 段階の研究

開発のプロセスを、個々の製薬会社が一貫して行ってきた。前臨床試験とは、動物実験を

行い臨床試験の承認を受けるステップ、臨床試験フェーズ1は健常人を対象に毒性や治験

Page 13: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

13

を目的とする、臨床試験フェーズ 2 では、薬効の判断を行い、臨床試験フェーズ 3 では、

多くの患者を対象に薬効の統計的な優位性のテストを行い、段階が進むほど、テクニカル・

リスクは減尐していくといわれている。しかし、近年ではヒトの遺伝子情報から網羅的に

創薬のターゲットを探索する研究開発(いわゆるゲノム創薬)まで含めた研究開発チェー

ンを医薬品開発事業の創薬プロセス、つまりトランスレーショナルリサーチ、即、創薬と

考えるのがコンセンサスとなっている(山本, 2002)。

ゲノム創薬に移る以前の創薬の姿をベース調査によって見ると、前臨床試験の段階でテ

ストされた 1000 案件からようやく1件が臨床試験にあげられる。その臨床試験に付された

候補も、臨床試験のコストが高いこともあり、フェーズⅢに移る早い段階で3分の2が落

とされ、最終のフェーズⅢに生き残った5件のうち3件のみが認可になる。つまり、新物

質発見の 5000 件のうち1件、臨床試験に付されたものだけでも5件に1件のみが陽の目を

見るという構造になっていた。つまり、一つの新薬を出すには 3.5 億ドルを要し、時間的に

も 90 年代に上市されたもので 12.9 年であった。

従来の創薬プロセスの高リスク構造は、創薬候補探索の手順がランダムスクリーニングに

依存していたことにあった。ゲノム創薬になって、リスクはどう変ったのであろうか。

当初は、新薬の開発が成功するか否かは、基礎研究のブレークスルーに大きく依存するよ

うになって楽観論がでた。当初生まれた楽観論として、例えば、当時ファイザーの会長であ

ったスティアーの言がある。同氏は、新薬開発を行うか否かの最初の基準として「新薬開発

でわれわれが最初に調べることは、なぜどのようにその病気にかかるのか、に関する新しい

考え方、新しい知見があるか否かを調べ、もしも、その答えがノーであれば、その新薬の開

発に時間とエネルギーを費やすことはせず、分かっているところに集中すればよい。」と説

いた。つまり、レセプターや抗体の役割がはっきりしてきて、これまではやみくもに鍵穴(病

気)に合う鍵(治療薬)を探してきたが、鍵穴にあう鍵を狙って探しだすことができるよう

になったといえよう(図表7)。事実、ゲノム創薬への転換によって、それまで 13 年程度か

て見れば、学術的アプローチをしてコストはかかっても開発・承認の期間が短縮されること

によって、その分だけ創薬が特許によって保護される期間が長くなることを意味しペイして

いた。これは 80 年代のバイオ創薬がホルモンやインシュリンなど性質のよく知られた単純

な構造をもったものであったからだといえよう。そして EPO の創薬化では、バイオベンチ

ャーから出発して今や武田薬品を完全に凌駕する創薬メジャーになったアムジェンのよう

な企業を誕生させた。

だが、現在では楽観論は引込み、リスクの大きさが改めて強調されるようになった。昨今、

創薬関係者の間で 2010 年問題として話題になっているのは、大手製薬企業の収益構造を支

えてきた、年 10 億ドル以上の売上をもつ、いわゆるブロックバスターと呼ばれる多くの創

薬の特許がこの年に消滅する一方、その後継薬が登場する気配がないからである。1990 年

代半ばから高脂血症、高血圧症などいわゆる慢性病、成人病にあたる症状に適用される有力

商品が相次ぎ登場した。そのお陰で世界の医薬品市場は 2004 年までの 10 年でほぼ 2 倍に

Page 14: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

14

図表7 膜リセプター:鍵と鍵穴の結合の中心的存在

(出所)Goldberg, etc (2000), 新井・他(2001)などを参照

なる量的な拡大を達成することができた。グラボウスキー他は、90-94 年に上市された全

ての新規化合物 118 品目からのキャッシュフローを 1990-2000 年の式化合物のグローバ

ル販売額から類推したパターンに当てはめ、タフツの R&D 費用データとリンクさせて、リ

ターンを計算した。その結果、資本コスト 11%に対し、全体としてのリターンは 11.5%と

ペイしているが、利益は上位3分位に限られていることを示し、収益的にも著しくブロッ

クバスター依存が高いことを指摘した。

もっとも小型薬品でも患者が尐ないと予定されるときには、米国ではオーファンドラッ

グの認定によって競争を排除した環境が与えられる一方、限られた資源投下で行われよう

から、幾分かは割り引かなくてはならない。しかし、失敗したプロジェクトのコストをど

こかに割り振らなくてはならない以上、平均コストでカットオフしなくてはならないとい

う事情も理解できる。収益が上がっていないと推定されるものの中にも、FDA が重要新規

化合物と認めたものが、特殊な癌、エイズによって惹き起こされるカリニ肺炎治療薬、呼

吸困難症治療薬など、尐なくとも 14 品目あった。こうした収益構造は、ベンチャーキャピ

タルの収益が数例の大成功したプロジェクトに依存し、それほど儲からないプロジェクト

を支えている構造と類似している。

こうした分析が示すことは、創薬企業がブロックバスターのホームランに依存する形で経

リガンド:鍵穴に合致したリガンド(ホルモン、

サトカインなど)を投与すると

膜リセプター

細胞膜

核内リセプター

細胞の反応 癌細胞分裂、アポトーシスの死、免疫

応答、筋肉の収縮など

細胞内情報伝達経路

結合

Page 15: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

15

営を支えてきたということである。そのブロックバスターが市場から消え去ろうとしている

のである。慢性病、成人病といわれるものに適用する薬は今や十分良い薬になっており改良

改善でブロックバスターの後継を生む可能性が乏しくなったのである。

良い薬がふんだんにあるようになったことは消費者、患者から見ればよいことである。だ

が創薬メーカーにとっては重大な問題である。高コスト構造になった背景として、基礎研

究に基づく創薬が前面にでてきたため企業は基礎となるバイオ研究を必要とするようにな

り、企業全体での研究ポテンシャルを引き上げるためのイネーブルド・リサーチが研究費

の 15-20%を占めるようになったことがあげられる。大型合併が相次いで行われるようにな

ったのも、この増嵩する研究費を捻出するためと判断できる。

期待されるのがバイオ創薬であるが、最近ではイネーブルド・リサーチの必要性はなくな

った一方、ゲノム創薬は複雑な蛋白構造をもち、その性格も知られていないものが対象に

なっている。すなわち、1980 年には上位 20 社が 20 億ドル研究開発投資して 32 の創薬が

承認されたが、2001 年には 350 億ドルに増えた反面、25 の創薬にとどまった。その後も

この効率低下は回復出来ていないどころか低下している。

期待されるバイオ創薬にしても、近くの枝に大きな果実をつけた果実をもぎとってしまう

と、後は遠く高い枝についた、小さな果実を苦労して手に入れなくてはならなくなったと

表現されるようになった。つまり、EPO のような大型のバイオ創薬は考えられなくなり、

様々なタイプの癌に対して、最新の技術を駆使して研究を重ね、細心の注意を払いながら

臨床へもっていかなくてはならないようなものになっている。つまり、次の創薬をバイオ

に頼らなくてはならないという意味では、アメリカは世界をリードできる立場だが、経済

的な合理性が危うくなりつつある恐れが出てきているといえよう。

高騰する医療サービスに対応しきれないマネジドケア

自由市場という仕組みや先端医療への取り組みなどがアメリカの医療コストを引き上げ

てきたとして、高騰する医療費に企業提供医療保険を中心とする民間はどう対応してきた

のだろうか。企業の医療保険に焦点を合わせながら歴史を振り返ってみることにしよう。

アメリカの医療保険の提供業者は 2000 社を超えるとされるが、当初は FFS(Fee for

Service)とよばれる出来高払いで運営されていた。この方法では被保険者は医療機関のサー

ビスを自由に選び、かかった費用を還付してもらうということになる。しかし、医療費が

高騰する中で、この方法では保険会社は利益があげられなくなり、医療費を想定内におさ

めるべく 70 年代にマネジドケアという方法が案出され、注目されるようになった。

民間の医療保険の中心となる企業提供の医療保険では、大企業の場合、自家保険が主流

をなしていた。その理由として自家保険は準備金を内部に保有できて財務バッファーにな

ると考えられたこと、州法の適用除外にあたり州保険課税が課せられないこと、多くの州

が持つ州法定医療給付の義務を追わないことの3点が挙げられる。しかし、医療費の高騰

Page 16: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

16

はこうした企業の自家保険の財政も蝕み、企業は対応のためにマネジドケア・プランの導

入を余儀なくされてくる。GM がコスト抑制を図るべく医療給付改革を行ってマネジドプラ

ンを導入したのは 1985 年のことであった。Kaiser/HRET の被雇用者医療給付調査を見る

と、雇用者提供医療保険におけるマネジドプランの導入は 80 年代の後半から急に増え始め

93 年には FFS を上回り、今や 95%以上がマネジドケアを採用している。

マネジドケアというのは、大雑把にいえば、医療サービスへのアクセスや内容を管理し、

制限することで、医療コストを抑えながらある程度の品質を保ったサービスが提供できる

ようする工夫である。狙いとすれば、情報の非対称性をなくすような取り組みによって、

過剰受診、過剰治療を抑制し、効率的医療サービスを提供し、効果的な治療を受けるとい

うものになろう。

マネジドケア・プランは、大きく HMO(Health Maintenance Organization)プラン、PPO

(Preferred Provider Organization)プラン、POS(Point of Service)プランの 3 つのタイプに

分けられる。

HMO プランにも、HMO が複数の医療機関を直接持つようなものから、医療機関の方が

主体になって複数の保険会社と契約するものなど、いろいろなタイプがあるが、いずれも

保険者と医療サービス機関の間で契約が結ばれ、その特定された医療機関ネットワーク内

部でサービスを受けることが基本になる。つまり、お互いに外部を利用すれば、それだけ

ペナルティなり、特典の喪失なりがあるわけである。

これに対し、POS プランでは、ネットワーク内での医療サービスでは HMO の場合と同

じだが外部の機関を利用した場合には出来高払いでカバーされる。一方、PPO では、従来

の出来高払い制度を踏襲しながら、利用者である企業と被保険者の間に立って医療機関と

交渉し、値引きサービスを提供する組織である。

では、マネジでケアは、情報の非対称性をなくすような取り組みによって、コスト上昇

を抑制し、効率的医療サービスを提供することができたのか。

現実には医療費の高騰の前にまずは保険料の引き下げ競争で始まり、サービスレベルの

低下に対する反発を受け、次第に保険料率を引き上げることで対応してきたということで

あろう。だが、景気のよかった 2002 年から 04 年にかけては二桁の伸びを示したものの、

その後は異議申し立てや加入の減尐などどの抵抗にあい、次第に企業提供医療保険の保険

料の引上げは難渋しだしている(図表8)。

企業提供医療保険の保険料の引上げが困難になったということは、2000 から 08 年にか

けて企業が払い込んだ民間医療保険(PHI)保険料での拠出率が、74.7%から 69.8%に低

下していることにも現れている。

当然、被雇用者の負担も大きくなっている。果たして医療保険は費用対効果が見合った、

効果的なものなのだろうか。被雇用者が抱く、こうした疑問に応えたのが 1993 年に現れた

給付割合、定額控除、自己負担上限額を異にする3つのプランを提示した ’Signature

Benefits’なる給付プログラムであった。従来通りの真ん中の「竹プラン」を選択するもの

Page 17: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

17

図表8 引上げが困難になった企業提供医療保険の保険料

(出所)Kaiser/HRET

が多かったが、上のクラスにあたる「松プラン」を選択するものが 10%、下の「梅プラン」

を選択するものが 6%いた。これがカフェテリア・プランの嚆矢とされるものだ。このプラ

ンが出たことによって無保険という選択、モラルハザードが促進されたとの見方がある。

消費者に選択権を与えるカフェテリア・プランの盛行は、まさしくアメリカの医療保険

制度のウォルマート化を促すものであった。高騰する医療サービス価格にはアクセスを困

難にすること以外にでき

なかったわけだ。マネジドケアは当初の目的を果たさなかったことになる。

3.オバマ大統領の医療保険改革

アメリカには高度医療サービスが存在している。他方では基本的な医療サービスにもア

クセスできない貧困層がいる。医療費高騰のために、国民所得の 16%という OECD の中で

も群を抜く多くが医療費に注ぎ込まれている。被雇用者の医療費を、賃金・給与との対比

で見ても、その9.4%を占め、総報酬に対しても7.9%の負担になっている。にもかかわ

らず、このアンバランス、そして平均寿命も低いという状況は、先進国の中でも特異な存

在といえる。アメリカの「分子側重視パラダイム」の医療制度は、行き詰まったといって

もよいだろう。つまり、成果があがっていないというのは医療制度に欠陥があり、「コス

ト効率(分母)」重視の立場に立って解決しなければならないことの証拠に外ならない。

こうした問題点は、旧くから意識され、歴代大統領も改革を試みてきた。だが、いずれ

も失敗に終わっている。その結果が、75 年以降、国民一人当たりの年間の医療費(物価調

Page 18: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

18

整後)の伸びが、一人当たりの経済成長の伸びを毎年2.1ポイント上回ってきたと指摘す

る大統領経済諮問委員会(CEA)の報告書である。これもまた医療費の抑制がなぜそれ

ほど重要かを示したものだ。

天野拓の『現代アメリカの医療制度改革と政党政治』は、国民皆保険へ取り組んだが挫

折したクリントン大統領以降のアメリカの医療制度に係る政治的背景を論じている。だが

2010 年の出版にもかかわらず、オバマ大統領の改革にはせいぜいマサチュセッツ方式をな

ぞる程度ではないかとの示唆で終えている。挫折の歴史を知れば知るほど困難なことが感

じ取られたのだろう。

確かに、法案の成立過程を見ても綱渡りだった。下院こそかろうじて政府直営の新保険

制度の創設を決議していたが、上院の修正法案では大幅にダウングレードされ、無保険者

の受け皿として非営利の協同組合方式による低額保険を導入して今後 10年間で無保険の比

率を 17%から6%にまで引き下げるというものであった。

上下院の法案統合の過程で巻き返しができるチャンスが残されていたと見られた時に、

民主党のリベラル派、ケネディ上院議員の死去にともなうマサチュセッツ州の上院補選で

民主党が敗北をした。同州は民主党が強固な基盤をもつだけでなく、州独自での州民皆医

療保険(マサチュセッツ・モデル)を実現していることでも知られている。それだけに民

主党の後継候補が簡単に勝てる選挙だと見られていた。ところが、医療保険を提供してい

る保険会社グループが「オバマは大きな政府を目指し,税金を無駄遣いしている」「皆保険

で国民の選択を奪うな」とテレビ広告キャンペーンを張る一方、増税反対を旗印にボスト

ン茶会事件にあやかるティーパティ運動が盛り上がり、民主党は勝てると思われた選挙で

敗北を喫した。これによってティーパティ運動は一層の熱を帯びることになり、民主党は

共和党の議会ジャーゴンでいうフィリバスター(議事妨害)を阻止できるスーパーマジョ

リティを失った。

このため、オバマ大統領は上院案での統合で決着を図らざるを得ず、2010 年3月に下院

本会議で可決された医療保険改革法案(H.R. 3590)、そして保険加入が困難な低所得者層

への補助などを盛り込んだ修正法案(H.R. 4872)に署名した。

確かに、この二つの法が成立したことで救済されるのは、法案の基礎とされた 4600万人

の保険未加入者のうち 3,200 万人にとどまり、厳密いえば国民皆保険ではない。だが、国

民皆保険の実現を公約に掲げたオバマ大統領が、曲がりなりにも、これまでの医療制度の

流れを変える法案を成立させたことは、史上に残る偉業といってもおかしくはない。天野

が、『オバマ政治を採点する』(五十嵐武士編)で思い切り甘い「A」の評価をした。その

気持は筆者にもわからないでもない。

だが、11 月におこなわれた中間選挙は、これを否定した。尐なくとも否定するに近いも

のだった。つまり、直ちに法がなくなるわけではなく、共和党に対案があるわけでもない。

つまり政治情勢は混沌としているが、ここで、事実上の皆保険に向けて、具体的にどのよ

うな施策が予定されているかを見た後、共和党がどのように法の実施を妨害し、それに対

Page 19: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

19

しオバマ政権がどう妨害を乗り越え法の実施を進めようとしているかを見ていこう。

4.中間選挙敗北後に医療保険改革法の実施をめぐる攻防と検討され得る諸改革

アメリカは世界最高レベルの医療技術を持ちながら、それへのアクセスがない多くの国

民を抱えるという矛盾を抱えていた。そのアクセスを改善するためにオバマ医療保険改革

が行われた。国民が健康になれば、それは高い経済成長率、豊かな生活となって戻ってく

るというのである。

法の成立で、まず主な救済対象となっている個人業の低所得者は、各州で運用される医

療保険取引所を通じ、補助金を利用して医療保険を購入できるようになる。同様の取引所

は小企業向けにも設立される。また、メディケイド(低所得者向け公的医療保険)の適用

対象を拡大したり、メディケア(高齢者向け公的医療保険)の処方箋保険補償におけるギ

ャップを 2020年までになくすことも含まれる。このギャップとは、現行のメディケアでは、

年間処方箋費が 2,700ドルまでにとどまるか、6,100 ドルを超えると、メディケアから保険

金が給付されるが、その間の 2700~6100 ドルの場合には給付を受けられないという通称、

「ドーナッツホール」と呼ばれる制度設計上のミスを指している。これらに要するコスト

は 10年間で 9,400億ドルと推定されている。

さらに、保険会社に課せられた義務として、2014 年からは既往症を理由に加入を拒否す

ることはできず、扶養家族を 26歳になるまで親の医療保険プランに含めることを容認しな

ければならなくなる。他方で個人に課せられた義務は、2014 年までに全国民が医療保険を

購入しなければならないというものである。不履行の場合は一部の低所得者層を除き、年

間 695ドルの罰金が課されることになる。先に見た世帯収入が 7 万 5000 ドルを超えながら

医療保険に加入していない 928 万人に対して、フリーライドは認めないというのである。

また、新制度の実施に必要な財源として、国民への間接的な税負担も増える。 例えば、利

息などの不労所得をメディケア税の対象に加えたり、12,000 ドル以上の個人保険および

27,500ドル以上の家族保険である高額保険(通称「キャディラック・プラン」)に対するメ

ディケア税の増税などが導入される計画となっていた。

「兵量攻め」の共和党・ティーパーティ派とのたたかい

こうして、すべてのアメリカ人のために医療サービスを手頃な価格で提供していくため

には、今後 10年間に 1兆ドル単位の費用がかかると見込まれることが問題なのだ。オバマ

陣営の説明は、上記のような目的のために健康積立金なるものを設置し、今後 10年間で

6350億ドルを積み立てていくので財政赤字が拡大することはない。大変な額だが、イラク

での戦争のために使われている額と比べると比較にならないほど尐ないというものだった。

だが、中間選挙での答えは、保守勢力と中心にノーだったということだろう。医療保険

制度の専門家の間でほぼ一致している皆保険という考え方は、一般のアメリカ市民には、

Page 20: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

20

選択の自由を奪う強制加入と見なされる、あるいは自国の建国理念に反するように映って

いるのだ。それが税という一点になって、主張を先鋭化させてきたのが、ボストン茶会事

件を模して起こされた保守に拠るティーパーティ運動の担い手たちである。彼らは、税金

(=大きな政府)に強い嫌悪を示す保守系白人市民が中心になって「草の根」的に集まっ

て騒いでいるといった色彩が強かった。だが、ニューディール以後最大の景気回復策をと

ったが、景気の回復は思わしくなく、失業率も高いままだ。中間層の多くが政府の支出は

増やし過ぎだと見て、中間選挙では小さな政府への回帰をいうリバタリアン的な立場をと

った。実際、共和党に投票した人の実に 87%が、民主党でも 11%がオバマ医療制度改革に

反対をしたのだ。換言すれば、アメリカは 70 年代から保守派とリベラル派の対立が激しく

なってきていたが、その統合を掲げて当選したオバマが成果を上げ得なかったことで、か

えって分裂が激しくなったのである。いらだち、過激な言動の血祭りのターゲットとなっ

たのが医療保険改革法であったのだ。そして共和党は選択の自由をかかげてオバマ大統領

をたたき、中間選挙を勝利した。

したがってティーパーティ運動の担い手たちが掲げた、オバマ医療保険改革法を撤廃す

るという主張は、今や共和党としての主張に格上げされ、現に上院で否決されることがわ

かっていても廃案法案を上程した。予想通り上院で必要な 60票がとれなかったが、上程し

て気勢を上げることが目的なのである。つまり、共和党主流は彼らを他の議題、他の法案

での多数派に呼び込むために、オバマ医療保険改革法の撤廃を叫び続け、法は成立しても

予算をつけず、兵量攻めをしようというのだ。日本流に言えば予算関連法案は成立させな

いぞというものだ。中間選挙の結果は、オバマ大統領自身の指摘をまつまでもなく、大統

領が法案に署名しただけでは法は動かないことを明々白々にしたのである。

オバマ政権からの反論として、放っておくとどうなるのかといものがある。CEA の予想

は、60 年にはGDP(国内総生産)の5%だった医療費は現在ではほぼ 18%に達すると推

定され、2040 年までには 34%に達するというものだ。

では、オバマ改革ではどの程度節約になるのか。ニューズウィークのコラムニスト、ロ

バート・サミュエルソンのオバマ医療改革への評価は冷ややかである。それは、医療費が

膨張する主な原因を、国全体で見れば、病院と医者の報酬は患者に提供した個々の医療サ

ービスを積み上げる形で決まり、それに応じた額が政府や民間の保険から支払われるとい

うシステムになっているからだと見るからだ。こうした青天井の報酬システムでは、医者

も病院もより多くの医療サービスを提供する方がトクになり、患者もそれを期待する。新

しく高価な医療 技術も、たくさん使えば使うほど利益になる。オバマの改革は小手先のも

のでしかないので、いずれ CEA の予想のような線に向かっていくというものだ。

共和党も改革は何も節約にならないというばかりである。そして、ティーパーティ旋風

のために中道派をリーダーとして立てることが非常に困難になってきた。共和党の保守化

も必然になってきている。そのため共和党穏健派の居場所がなくなるおそれも出てきてい

る。それは、勝てる大統領候補がいなくなる恐れがでてきたことを意味する。

Page 21: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

21

オバマ大統領はそうした状況を読みながら、オバマも、共和党との妥協のため、医療費

の上昇分に当てるとしていた最高所得税率をレーガン時代のレベルに戻す案を引き込めた。

これにより 3000億ドルの財源不足となり、それだけ皆保険へのハードルを高めることにな

り党内の反発もあっても妥協を探ることが次に繋がると見たのだ。

予算教書でも、オバマ医療保険改革法によって増える財政負担増を減らすための手段を

ともに探し出そうではないかと、共和党に呼びかけた。つまり、共和党のいう「選択の自

由」というイデオロギーを貫徹するには、事実上、中産階級の選択の「自由」を奪ってい

るマネジドケア、さらにいえば医療制度全般の改善に目をつむるわけにはいかない。改善

というのは、無駄をなくすことであり、コスト削減であるから、同じ土俵で削減策を見出

してこうというのである。

それは、HMOなどマネジドケアができなかった情報の非対称性を克服するための手段

を医療制度全体の中に構築することに外ならない。一方は医療保険制度を撤廃せよといい、

一方は最大の成果としてこれを守りぬくといっているが、アメリカの医療制度の改革での

選択肢の幅は狭く、できることは限らえていることを理解していこうというのだ。それは

標準化、IT技術の最大限の利用などであり、それは単にオバマ医療保険改革を契機として

動き出すというものに過ぎないともいえる。

医療技術の標準化、簡素化:医療における破壊型技術の役割

では、アメリカの医療制度改革はどこに向かって動こうとしているのであろうか。筆者

はかつて医療サービスにおる情報インフラの重要性を訴え、カルテの電子化、検査の電子

化などを進め、医者、病院などのネットワーク間で患者履歴を共用することを提唱したこ

とがある。そのためには病気診断、医療技術など標準化といった作業も必要になるが、こ

れによって医療の高度化とコストダウンが同時に達成できる可能性が高いというものであ

った(「医療サービス充実のための高度情報インフラ構築」野村総研『日本の優先課題‘95』)。

医療 IT化促進に焦点を当てた米国経済再生法、オバマ大統領の医療改革に関しての一連の

演説などを吟味すると、アメリカはかつて筆者の提言とほぼ同じような政策を考え、実行

しようとしているように窺える。選択の自由をいう勢力も、この視点なしに医療制度を維

持できないのである。

オバマ大統領はいう。「アメリカの医学部にしろ、検査ラボにしろ、訓練機関にしろ、

世界最高だ。だが、最高のものがありながら、その恩恵が医療現場の隅々にまで行き渡っ

ていない恨みがある。このため、集団としての知識と経験は引き上げられず、医療の現場

で必ずしも非常に良いパフォーマンスをあげているとはいえない。学会誌に先端の医療技

術が現れてから医療の現場で標準的なものとして使われるようになるまで 17年もかかった

例もある。」

問題は、どの治療法が最も効果的であるか常に検討して行く必要があるが、そのために

使われる資金は医療費の 1%未満にとどまっていることもあって、医者が先端治療情報にア

Page 22: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

22

クセスできていないことにある。その結果、あまりにも多くの医師や患者が最新の研究成

果の恩恵なしに、日々の診断を行ない、治療を受けていることになる。たとえば、心臓・

循環器系疾患の治療のガイドラインを取り上げても、最新の科学的成果を踏まえて出来て

いる部分は半分にとどまっていることが判明している。このため、先に触れた日本では出

来ない、つまりアメリカの会社、ボストン・サエンティフィックの開発したステントをつ

かった簡単な手術で済ませることが出来るような症例でも、心臓バイパス手術をしてしま

ったり、薬を調合して高度な管理下に置いたりして、患者に資金的、身体的負担をかけて

しまうことも尐なくない。

そこで、直ちに実行する必要があることは、先の筆者の提言の中でも指摘したことだが、

どの治療法がどんなときに最も効果的であるかをしっかりと把握し、その最も良いと判断

された治療法をどんどん現場で使っていくよう奨励することだ。そのためには、様々な病

気に関して、様々な条件のもとでの最適な治療を識別するための研究が求められる。それ

は、使い勝手を良くするためにも、学会を中心に、医師自身が“治療内容と治療結果をど

う把握するか”という定義作りの中心にならなければならない。オバマ政権はその予算措

置をしている。

そして、こうした基礎をふまえて、病気診断、治療など医療システムの標準を作成する

必要がある。アメリカは訴訟社会であるために、医者は誤診、医療事故で訴えられないた

めに、過剰検査をし、過剰治療をする傾向がある。これが医療費の高騰の一因にもなって

いる。最も良いと判断された治療法をどんどん現場で使っていくということになれば、訴

訟リスクの問題も回避される可能性も高く、患者にも、医師にも良い結果となり得る。

医療の標準化で期待されるのは、まだ外交レベルでの合意ができただけで現場での進展

がないが、EUとの協調だ。というのは、ヨーロッパでは、単なる分子重視対分母重視の

議論から抜け出て、「患者にとっての価値」ベースの医療サービス(VBHC)が始まってい

るからだ。VBHCでは、まず、分母側を見る際に、単純なコスト抑制という立場ではなく、

治療結果(=分子側)と合わせた形で、最も望ましい治療が行われるような「メカニズム」

を取り入れるということ志向される。そうした観点からすると、新しい技術にも「患者に

とっての治療結果がどれだけ上がるか」という光が当てられ、オバマ演説でいう最新でな

くとも最適があり得ることになる。

こうした二つの基準に立ちながら、「どのような治療がなされたか」「その治療結果はど

うだったか」というデータの組織的に収集して、それを活用してきたのはスウェーデンで

ある。同国では 1970年代から、さまざまな疾病に関して「レジストリー(Registry)」と

呼ばれるデータ収集が始まっており、うち 22レジストリーでは全国の患者数の 85%以上を

網羅できるようになっている。

そしてレジストリー利用の効果をいうのに、登場する例が 小児の急性リンパ性白血病

だ。このケースでは、レジストリーのデータ収集が始まるまで、この病気と診断された患

者の 5年生存率は、12%に過ぎなかったが、その後、他の病院、医師の治療方法とその結

Page 23: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

23

果を、医師間で共有するようになったことで、データ収集開始後 10年間で、生存率は 47%

に上がった。スウェーデン国内での標準的治療方法が確立されてからの生存率は、87~89%

だ。国務省がEUとの協力を取り決めたからといってアメリカがスウェーデンのベストプ

ラクティスを直ちに取り入れるということはないだろう。それでも大いに参考になる。

国際比較から制度改善とともに、アメリカ自身が医療技術における標準化、その普及を

図っていくためには、医療技術の簡素化も欠かせない。破壊型技術を提唱して、経営者、

経営学者の間でセンセーションを起こしたことのあるクリステンセンは、最近では医療、

病院経営に興味と研究をシフトさせている。

では、破壊型技術、破壊的イノベーションというコンセプトとは、どんなものなのか、

クリステンセンはそれを図表9を使って説明している。ある時点で利用可能な性能の分布

は図表9の右端に示されている。つまり、顧客の要求は様々で分布の両端からはみ出すニ

ーズを持つものもいるかも知れないが、大方は中心にある。そしてメーカーは量産のため

にその中心部分に対応しようとしているから、顧客が利用または吸収可能な性能の進歩図

はその中心を辿った点線で示されることになる。

この中心線は多くの消費者にとって「十分よい」技術を示している。一方、持続的競争

は最高の顧客により高利益で売れるよりよい製品を作り出す競争なのである。これに対し

て、破壊型の新技術は登場した時には旧技術で提供されたレベルを下回っていたとしても、

たちまちのうちに通常の消費者の必要とする要求水準を上回るようなものになってしまう

のである。かくして、上記の最適技術の選択とも関連してくるが、図表9では技術進歩の

ペースは消費者が利用または吸収可能な性能の緩やかな上昇線を鋭く横切り右上がりに上

昇する線として描くことができる

図表9 破壊的技術とは「下からの攻め」

リーダー企業を失敗させ、新規参入者に成長の機会を与える

持続的イノベーション

破壊的技術

顧客が利用または吸収可能な性能

技術進歩のペース

顧客が利用可能

な性能の分布

新規参入者はほとんど常に勝利する

先駆者はほとんど常に勝利する

性能

時間

(出所)Christensen et al. (2001)

Page 24: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

24

それは完璧な合理主義的経営が企業を失敗に導くという逆説を示していたため、当初『ハ

ーバード・ビジネス・レビュー』が掲載を拒んだほどの衝撃をもって迎えられた。つまり、

顧客の声を聞き、より高い付加価値を加えて製品差別化をはかり、緻密なプロセス・マネ

ジメントを実行し、適切なサプライヤー関係を構築したものが失敗するとの主張だったか

らである(Christensen, 1997)。確かに、逆説であるが、筆者はこれを読んだときデジャブ

感覚に襲われた。よく考えたら筆者が日本の自動車産業の強みを説明するときに「下から

の攻め」と呼んだものに外ならなかったからである(髙橋、1994)。先行していたアメリカ

が、日本になかなかうまく対抗できないのも、高いところから低いものへ対応をしいられ

るハンディを負っているからだとしていた。残念ながら筆者はこれを十分に分析して示さ

なかった。クリステンセンはこれを客体化し、分析し、純粋化させた破壊的イノベーショ

ンとして紹介した(Christensen et al., 2001)。

さて、医学の世界に目をつけたクリステンセンは、医療技術ほど学習曲線がスティープ

なものはない、多くの破壊型技術を生む宝庫であると指摘している。つまり、新しい手術

の方法が開発され、試行錯誤の1回目の執刀から、2回目、3回目と進むに連れて手術時

間の短縮も、手術のリスク低下も急激に進むというのである。そして開腹手術が内視鏡手

術に代わり、心臓バイパス手術がステントの埋込みに代わるということは、まさに破壊型

技術そのものだ。人口心臓が対外型から埋め込み方へと小型化し、現在では 5 センチ前後

のものが開発されているのも、そうした例であろう。そして、アメリカの医療にはそうし

た破壊型医療技術を生み出す力があると指摘する。

破壊型技術は医療機器の分野でも生まれている。医療機器で世界トップの GE は、MRI、

超音波診断装置などをシステムとして世界の大手病院などに供給してきた。しかし新興国

市場を開拓するために新興国に開発拠点を移し、それまでの大型のコンピュータに依存す

る大型機ではなく、パソコンで動く超音波診断装置を生み出した。ところが、これは途上

国だけでなく、アメリカ国内でもコストパフォーマンスが高いとして好評を博し、市場を

拡大させている。GE ではこれをリバース・イノベーションと名づけたが、筆者の言う「下

からの攻め」、クリステンセンのいわゆる「破壊的技術」と同義であることはいうまでもな

い9。

特許で守られた処方箋薬がジェネリックに変わるのも、立派な「破壊型技術」になる。

創薬企業の立場からは、研究開発費を回収し、次の研究開発資金を捻出するためにはでき

るだけ長い期間にわたって特許で守られて欲しいことになるが、特許が切れることによっ

てジェネリック医薬になる。2400 品目のジェネリックの廉価購買権を「売り」にしている

ウォルマートの医療保険プランで見たように、医療アクセスに乏しい消費者にとっては福

音なのである。アメリカはジェネリック市場が発達していて競争も激しいが、最近では製

法特許の制度のもとで育った、製造技術にたけたインドの企業が参入して高品質、低価格

のジェネリック医薬が市場に出回るようになり、ジェネリックはまさに破壊型技術の性格

9 髙橋琢磨『現代経営戦略論』ダイヤモンド社、2011 年近刊

Page 25: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

25

を発揮していこうとしている。

ジェネリックの拡大策は、まさに「アメリカ医療のウォルマート化」ということになり

かねないが、政権内では重要な検討課題となっており、バイオ医薬の店頭で買えるジェネ

リック化も課題の一つとなっている。たとえば貧血症には EPO を適用できないかというの

である。だが、EPO は、シドニー・オリンピックで大量のドーピング違反者でたことを想

起させる。強力な造血作用をもつ EPO は、選手に大きな負担となる高地トレーニングと同

じ効果をもたらすので、選手が貧血を起こしたということにしてEPOを処方したのである。

EPO の店頭販売は、成長ホルモンほどの問題はないとしても、こうした乱用を促進するこ

とになろう。このため、創薬関係者や投資家の間では、医薬全体に日本の薬価基準のよう

な網をかぶせることもあり得ないことではないとの警戒感も広がっている。

オバマ大統領は、先の黒川の提言とは逆に、アメリカの医療教育の簡素化を推進すべき

だといっている。マネジドケアでは、先にも見たように、プライマリケアに焦点を当てて

運営している。そのためには、質の高いプライマリケア医を多く供給していく必要がある

が、政府は、プライマリケア医としてのキャリアを選択した医学生に対して奨学金やその

他のインセンティブを与え、より多くの医学生がこの分野を選ぶように仕向ける、そして

プライマリケア分野を選んだ医学生,看護師に対し、十分な訓練が施せるようその教育訓練

機関の強化を図るといった施策を検討している。

だが、正しい医療情報と適切な医療機器があり、その存在を知っていても、それを活用

しないケースもある。マネジドケアでは、決められた病気に決められた治療という組織の

あり方があり、その標準もあまり変えられなかった。このため、ネットワーク内の医師に

はよりよい医療技術を学ぼうとか、先端情報にアクセスするといったインセンティブに欠

けていた。また、医療保険が複雑になって医者は 2 割を保険のカバレッジと治療方法の説

明に費やさなくてはならなくなっているという。これを軽減するようなシステムが必要に

なろう。

ところが、実際の健康保険制度は非常に複雑であり、医学は常に進化している。より良

い医療を目指すと同時に、どこに無駄をあるかをチェックし、コストを削減し、品質の向

上とコスト削減を同時に進める努力を続けていく必要がある。よりよいパフォーマンスを

上げている病院のベストプラクティスを横展開できるような、取り組みが色々なレベルで

できるような仕組みも必要になろう。

古くは 1982年に PSRO(医療基準評価委員会)が設置され、メディケアの医療費節約を

目指した。近年の共和党が議会を牛耳っていた時代に、メディケア支出助言委員会なるも

のが設けられた。この委員会には医者もメンバーとして加わっており、法律にこそならな

かったが、約 2000億ドルを節約できるとする提案をしている。

オバマ大統領はこの提案をベースに超党派のコスト削減策をしていくことを呼びかけて

いる。吟味しながら採用すべきは採用していく必要があるが、メディケアアドバンテージ

に過払いをやめるという提言は採用すべきものの一つだ。それは、メディケアアドバンテ

Page 26: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

26

ージが伝統的な医療サービスで想定していたものをはるかに超えるようなプランになって

しまっているからだ。それは保険会社への補助金をやめるということでもある。

また、退院したメディケア患者の約 20%が、必要とする十分なケアが受けられなかった

という理由で、1ヶ月以内に再入院をみとめられている。これは病院がメディケアを悪用し

て儲けようとしている疑いがある。これは社会全体の医療費を引き下げようという目的に

違反しており、払戻制度を改善して必要最小限に抑える必要がある。そうした措置をとる

ことによって今後 10年間で 250億ドルの節約が可能になる。

オバマ大統領も、患者や医師にとっても良い健康保険制度つくりあげることと、医療費

を何千億ドルも節約することとは両立させることができると指摘している。

医療情報のIT化

「この国では、モノの動きは簡単に追跡できるシステムが整っているが、人の健康管理

履歴はそうなっていない」とオバマ大統領はいう。プライバシーを重んじるアメリカは日

本のように健康管理のための検診という考えも薄く、したがって制度もない。だが一連の

診察の記録は、そのまま健康管理のレコードだ。HMOや公的な機関などが人の健康管理

情報を EHR(エレクトリックヘルスレコード)として一元的に保管するようになれば、アメ

リカでも筆者が描いたような仕組みを実現できることになろう。

2009の米国経済再生法の第 13章は、経済的臨床的健全性のための医療 ITに関する法

(Health Information Technology for Economic and Clinical Health Act:HITECH法)

と名うって、医療のIT化促進に焦点を当てた。考えられているのは、医師や患者へ質の

よい医療情報がまんべんなく伝わり、その情報を活かしてより良い医療が施せ、受けられ

るよう構造改革を行ない、情報システムの向上を図ることだ。そのため、2014 年までに国

民すべてに EHRを提供する」という目標を掲げると同時に、EHRを活用するための基盤とし

て全国規模の医療情報共有インフラ構想「National Health Information Network(NHIN)」

の構築を開始した。そして、すでに 2009年のうちに予定通り実際の業務として利用する実

験が限定的なかたちで開始された。これらを利用して EHRを適切に活用した病院や医師に

対して総額約 200億ドルのインセンティブマネーが投じられることがミソである。

パイロットテスト第 1号は、社会保健庁とバージニア州が設けた HIE(Health Information

Exchange)のひとつ MedVirginia によるものである(図表 10)。このケースでは、SSAが

障害給付金の適性判断に必要となる申請者の医療記録を MedVirginiaの加盟医療プロバイ

ダーから NHIN経由で入手し照合するもので、申請 処理の時間短縮や正確性・効率性の向

上を目指している。2009年 6月から 11月のケーススタディの報告によれば、許可された医

療情報の要求・受領プロセスにかかった時間は約 2 分で、従前とくらべ処理時間が 42%短

縮できたという。この成功を基に SSAは 2010年には実験を全国各地の 15の医療プロバイ

ダ団体に拡大した。ARRAからの約 2億ドルのインセンティブマネーが支払われる予定だ。

Page 27: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

27

図表 10 保健省と HIEなど関連組織との関係

ONC が、NHIN 標準の仕様に関して米国商務省の国立標準技術研究所 (NIST: National Institute

of Standards and Technology) との調整に当たる。

医療 IT 政策委員会 (HIT Policy Committee) および医療 IT 標準委員会 (HIT Standards

Committees) は、ONC に標準に含める内容についてアドバイスを行うワーキング・グループ。

NIST は、実動システムを認定するために使用する試験材料 (アサーション、プロシージャー、メ

ソッド、ツール、データなど) を考案する役割を担う。

今一つが国防総省傘下の退役軍人局と米国の代表的な医療保険会社、Kaiser Permanente

によるパイロットである。このパイロットでは、NHIN 標準を利用し、素早い意思決定によ

る医療の質の向上を狙うものである。すなわち退役軍人局の EHRシステムと Kaiser

Permanenteの EHRシステム「HealthConnect」をつなぎ、そこに国防総省の EHRシステム「ALTA

system」を接続することによって、各組織の患者の医療情報を交換し、テストや診察の時

間短縮、リソース削減をめざす。このパイロットの成果を踏まえて、バージニア州タイド

ウォーター地域の民間病院と提携し、2010年内に新たなパイロットを開始するよていであ

る。これらのパイロットでは、患者のプライバシーとデータセキュリティを最優先とし、

パイロットへの参加を希望する患者のデータのみが交換されるようになっている。

退役軍人局の医療システムを管理運営しているのは、インターシステムである。同社は

金融の先端分野でのシステム構築に定評があったが、その実績を活かしてジョンホプキン

ス大学の癌センターなど医療システムにも展開している。退役軍人局には病院、診療施設

が 1300ヶ所あり、年間 540万人の患者が治療を受けている。その医療・EHRシステムの中

核をなすのが電子カルテであり、他の多くのアプリケーションとリンクできるようになっ

ている。たとえば、看護師が携帯端末を使って患者のリストバンドや薬剤のラベルをスキ

ャンすると患者に必要で適切な薬剤投与ができるといった応用である。今回の Kaiser

Permanenteの EHRシステム「HealthConnect」との接続もその延長線とも言える。

国土の広いアメリカでは IT技術を駆使した遠隔医療も進んでいる。それは野戦病院をも

つ国防総省でなおさらである。筆者も先の医療情報化の提言で取材したときに日本の癌研

陸軍病院とのハイビジョンをつかった遠隔医療の実験を見学したが、その後の IT技術の

Page 28: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

28

発展と実際の医療の経験によって格段に使いやすいものになったということもうなずける。

「2014年までに国民すべてに EHRを」という目標年に 5年を切った。 多額の連邦資金を

医療 IT分野に投入する ARRAに続いて今回の医療制度改革法案が成立したことの意義は、

医療 ITを単に経済回復の手段としてではなく、医療サービスの質向上とコストダウンを達

成するためと位置づけ、その目標に向かって動き出したことにあるのではないか。

5.結論に代えて.日本への示唆

アメリカの医療制度改革は日本に何を示唆しているのだろうか。政府は介護、医療などの

産業化に期待を寄せているが、果たして日本の成長を担い得るものになるのだろうか。

その後が問われる土建国家から保健国家への転換

筆者は 10 年以上前に日本経済の構造改革の一つの指標として、土建国家から保健国家へ

の転換を掲げた(髙橋、1997)。官主導の土建国家では政府が建設業を一つの巨大産業とし

て構成してきた。そこでは出稼ぎにでる夫は多尐とも高い報酬が得られたが、基本は単身

赴任で家族は取り残された。それを転換するには、保健国家に転じる必要があるというの

である。その象徴は医療・介護サービス業であろう。そうした者が象徴する社会では家族

は一つの塊として生活が可能になり、そこではライフワークバランスが図られ得るものだ

と考えたのだ。就業人員で見る限り、その目標は達成されている(図表 11)。

転換は、2000 年の政府による介護保険導入によって促された。10 年の試行錯誤の過程

をへたことで、介護サービス業は今や社会的な起業の臨界点に達している。現状をみても、

セントケア・ホールディングを初め、最大の介護サービス事業をもつニチイ学館など専業

といってよいグループだけでなく、ベネッセやワタミホールディングスなど異業種からの

参入組も収益化に成功している。それでも全国で介護施設に入居している高齢者は 110 万

人で、業界ではなお 30 万人が入居を待っている状況であると推定している。これは集約化

がむずかしかったり、不動産費などがかさんで大手が動きにくいところにあるためと考え

図表 11 建設労働者数を凌駕した医療・福祉の就労者 (単位:万人)

産業・計 建設業 製造業 金融・保険 医療・福祉

1988 年 4538 436 1245 216

1998 年 5368 548 1258 238 2003 年 469

2008 年 5524 437 1077 159 2008 年 565

1988-98 +830 +112 +13 +22

98―2008 +156 ―111 ―181 ―79 2003-08 +96

(出所)『労働力調査』

Page 29: オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆jtta.cocolog-nifty.com/blog/files/15.pdf1 15 オバマ医療保険制度改革の衝撃と反応、その日本への示唆

29

られる。逆に言えば、この潜在需要は、介護施設、その運営などでの規制緩和をしたり、

介護報酬をあげたりすれば、当然社会的な起業によって充足されるはずのものである。

では、共助の国家では、何がどう深化すればよいのだろうか。働く人をひとりでも増や

して安心をもたらすことを優先しなければならないとすれば、そして介護サービスで働く

ことがワークライフバランスを回復させる手段となるためには、民主党政権は、子供手当

てに所得制限をいれて、浮いた 2000 億円を介護の報酬を上げに使うと言う選択肢をとるべ

きだったことになろう。また介護に関連して規制緩和をすべきことになる。悪質な介護サ

ービスが生まれたのは、いってみれば供給を制限して消費者が介護施設を選ぶ権利を奪っ

てきらからでもある。大幅なサービス供給不足の中で消費者がやむにやまれず限界的なサ

ービスに飛びつかなくてはならない状況においたのは行政の過誤といってもよいだろう。

では、新政権の期待する医療産業の産業化はどう考えるべきだろうか。メディカル・ツ

ーリズムに期待を寄せている。この分野の先駆者には観光資源の多いタイやインドがあり、

株式会社組織の病院を中心にアメニティの高い施設を用意し、家族ごと受け入れるという

ものが主流だ(真野俊樹『グローバル化する医療』)。ことにインドでは英語圏というメ

リットを活かして欧米の一流大学の若手の医者の経験を積ませるためのプラットフォーム

と位置づけ、きわめてコストパフォーマンスの高いサービスを展開している。シンガポー

ルもアメリカからジョンズホプキンス大学の医学部を招致し、バイオ研究者のリクルート

などとあわせ、アジアのバイオ・医学の知的拠点建設の一助としたいとしている。

日本の医療の産業化のためには、マーケットメカニズムの導入も欠かせない。日本の医

療費の対 GDP 比率は8%、アメリカの比率は 18%であるから大きく拡大する余地があるよ

うに見える。だが、それは当然①国民の医療コストに跳ね返ってくる、②医療ユニバーサ

ルサービス論という平等の問題と関わってくることになり、混合医療は必然としても制度

設計にはあるていどの慎重さを要する。医療のIT 化、つまりカルテの電子化、レセプト

の電子請求などによって入口としてのホームドクターと専門医療機関との連携、検査の重

複の排除などを行い、専門医療機関の総合力アップのためにも医療行為のパラメディカル

への分業化も必然である(髙橋、1994b)。千葉県にある亀田総合病院ではシカゴにある国

際的な医療認証機関での認証をうけるなど効率的で先端的医療であるとの評判から国内の

若手医師からも研修、修行の場としての人気が出ている。国際水準の医療という売りは医

療ツーリズムの受入にも役立ち、好循環を生む可能性がある。その点で日本が医療ツーリ

ズム・マーケットに窓を開いておくことの意義は大きい。それによって、日本医療の強み、

顧客層の見極めができ、一種のマーケットメカニズムが反映されるからである。多くの海

外留学生を受け入れることで、国内需給で大学の医学部学生の数を決める国内計画経済志

向の考え方が改められることになるからである。

だが、アメリカの制度が示唆するものは、高度医療が利用者に跳ね返っていて、それが

福祉医療システムでは対応しきれないということだ。その点で医療制度のアメリカ化を招

き兼ねない日本の医療の成長戦略への巻き込みには慎重な見方をしなければならない。