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『HUG っと!プリキュア』における ジェンダー表象 16SG1212 堀 桃恵

HUG っと!プリキュア』における ジェンダー表象soc.meijigakuin.ac.jp/image/2020/04/2019-mh.pdf本稿では、『プリキュア』シリーズ15周年を記念して制作された『HUGっと!プリキュア』

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  • 『HUG っと!プリキュア』における

    ジェンダー表象

    16SG1212 堀 桃恵

  • i

    目次

    序章…………………………………………………………………………………………………・1

    第 1章 『プリキュア』以前の戦闘少女の系譜…………………………………………………2

    1-1.『セーラームーン』以前の「戦闘美少女」作品…………………………………………2

    1-2.革命的な『セーラームーン』……………………………………………………………・4

    1-2-1.『セーラームーン』の概要……………………………………………………………4

    1-2-2.『セーラームーン』のフェミニズム的な遅れ………………………………………5

    1-3.現代(2000年以降)の女の子の国・戦闘少女……………………………………………・7

    第 2章 『プリキュア』文化におけるジェンダー観……………………………………………9

    2-1.初代『ふたりはプリキュア』と『HUGっと!プリキュア』インタビュー比較………9

    2-2.現代のフェミニズム観……………………………………………………………………12

    2-3.制作側の主張を批判的に見るために……………………………………………………17

    第 3章 『HUGっと!プリキュア』におけるジェンダー表象─若宮アンリを軸に…………17

    3-1.男が担う「性役割」批判(ホモソーシャル)…………………………………………21

    3-2.添え物としての女性………………………………………………………………………25

    3-3.ジェンダーレス男子とカテゴライズ否定………………………………………………27

    3-4.「男の子のプリキュア」の社会現象………………………………………………………33

    3-5.第 3章総括─サブキャラクターがジェンダー要素を担う意味………………………37

    終章…………………………………………………………………………………………………40

    謝辞…………………………………………………………………………………………………41

    参考文献……………………………………………………………………………………………42

  • 1

    序章

    『プリキュア』とは、2004年の『ふたりはプリキュア』から始まったアニメシリーズであ

    る。今日に至るまで、15年間放送されている作品だ。1年ごとに物語が完結し、翌年新しい

    タイトルが始まる。大切なもの(作品によって異なる)を守るため、大切な仲間とともに、悪

    と戦うアクション作品というフォーマットの中で、毎年テーマを変えながら現在まで続い

    ている。今までのプリキュアの数は 60人で「アニメに登場する最も多いマジカル戦士の数」

    としてギネス世界記録に認定され、2019 年 9 月 14 日には NHK で「全プリキュア大投票」1

    と題し、映画も含めた 42 作品、プリキュア 60 人、プリキュア以外のキャラクター約 900、

    歌約 150曲のデータベ一スから、オーディエンスが投票する特番が組まれ、投票数が 613,524

    票集まるなど、社会の認知度は高い。

    女児向け作品でありながら、大人も魅了する『プリキュア』シリーズの特徴は、間接的に、

    時に直接的に社会的メッセージが含まれていることだ。作品ごとのテーマ設定からそのこ

    とを見出すことができる。例えば 2015-16年放送の『Go!プリンセスプリキュア』では、「プ

    リンセス」をモチーフに、王子様に依存せず、自らの手で道を切り開く強いプリンセス像を

    描き、「希望・夢」がテーマの話が描かれた。また、2019-20年放送の『スター☆トゥインク

    ルプリキュア』は「宇宙」がテーマになっており、プリキュアメンバーに史上初の宇宙人が

    いることなど、様々な「多様性」が描かれた。

    本稿では、『プリキュア』シリーズ 15周年を記念して制作された『HUGっと!プリキュア』

    のジェンダー表象について考察する。『HUG っと!プリキュア』(以下ハグプリと記述)は、

    2018-19 年に放送されたプリキュアシリーズ第 15 作目である。主人公の中学 2 年生の野々

    はなが、未来からやってきた赤ちゃんのはぐたんを守るために、時間を止めることが目的の

    敵組織「クライアス社」と戦い、なりたい自分を模索しながら日常を守る話だ。「子育て、

    応援、お仕事体験、自己肯定、15 周年」というキーワードを元にストーリーが組み立てら

    れている。

    『ハグプリ』の特徴的な点は、他のシリーズ作品と比べても際立つメッセージ性の強さだ。

    すなわち『ハグプリ』は、わかりやすい形でジェンダー表象が施されている。例えば、史上

    初の「男の子のプリキュア」が生み出されたこと、産婦人科でのお仕事体験中に「帝王切開

    1 NHK,2019,「全プリキュア大投票」

    (https://www.nhk.or.jp/anime/precure/index.html) 2020.1.6閲覧.

  • 2

    は立派なお産」というワードが登場したこと、専業主夫が描かれること、「男の子だってお

    姫様になれる」と主人公が断言したこと、性差別発言の否定などが作中で描かれていること

    が挙げられる。しかし、これだけの内容が扱われているのにもかかわらず、制作陣はインタ

    ビューで「ジェンダー論に斬り込むつもりはない」と述べている。ここには、「ジェンダー

    表象をしている」と断言しない側面と、断言できないジレンマの 2つの側面があるのではな

    いだろうか。そこで本稿では、ジェンダー論・フェミニズムについての現代社会の認識につ

    いて考察した上で、『ハグプリ』のアニメーションの中で、明らかにジェンダー論・フェミ

    ニズム的な要素が含まれている場面を分析することによって、『ハグプリ』におけるジェン

    ダー表象について考察する。

    本論に入る前に、「ジェンダー論」と「フェミニズム」の定義について触れておこう。フ

    ェミニズムとは社会運動・政治活動であり、そうした運動において掲げられる、あるいはそ

    れらを駆動する思想・理念であり、政治哲学であり倫理学である。他方ジェンダー論とは、

    広義的には、性別と呼ばれる現象の社会性―その意味はさまざまである―を解明する学的

    営みを指す。このようにジェンダー論とフェミニズムとはイコールではないが、世界認識の

    実践という点について見れば両者は大きく重なっている(加藤 2019: 130)。したがって、本

    稿では両者をあまり区別せずに用いて分析していく。

    第 1章 『プリキュア』以前の戦闘少女の系譜

    『プリキュア』のジェンダー観や独自性を際立たせるために、『プリキュア』以前の戦闘

    少女作品の歴史と系譜を振り返っておきたい。

    1-1.『セーラームーン』以前の「戦闘美少女」作品

    斉藤環は、「戦闘美少女」ジャンルの物語設定を 13 の系列に分類した。分類は「紅一点

    系」「魔法少女系」「変身少女系」「チーム系」「スポ根系」「宝塚系」「服装倒錯系」「ハンタ

    ー系」「同居系」「ピグマリオン系」「巫女系」「異世界召還系」「混合系」の 13系列である。

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    ちなみに、90 年代以降の主要な作品はいずれも「混合系」であり、過去の系列の引用とパ

    ロディ・オマージュで成立していると斉藤は分析している(斉藤 2000: 189)。

    これら 13系列それぞれの概要を時代の変遷に対応させて見ると、およそ以下のようにな

    る。1960年代は、戦闘美少女表現においては、「先史時代」にあたり、1960年代にほとんど

    の系列が誕生している。「紅一点系」と呼ばれる作品には、1964 年に週間『少年サンデー』

    誌上で連載が開始された石ノ森章太郎『サイボーグ 009』(1968年にアニメ化)がある。本作

    は SF 戦隊ものの最初期作品である。9 人のサイボーグ戦士には 1 人の「女性」も含まれて

    おり、ほぼこれ以降アニメであれ特撮であれ、戦隊ものには女性兵士が必ず参加するという

    設定が定番となった(斉藤 2000: 148)。石ノ森は 1966年から放映されたアニメ作品『レイ

    ンボー戦隊ロビン』にも作家の一人として参加しているが、本作にもリリという女性が登場

    する。女性(幼女)型ロボットという点では『鉄腕アトム』のウランに先例があるが、本作品

    は最初の紅一点系アニメであり、それゆえアニメに描かれた女性兵士というキャラクター

    も、リリをもって嚆矢とされている。『スタートレック』をはじめとする海外の SFドラマで

    の女性隊員は、しばしば通信担当など非戦闘員の地味な役割を与えられがちである。これに

    対して日本のアニメ、SF 戦隊ものの最初期に作られた作品に、すでに女性兵士が登場する

    ことは徴候的だ。リリは戦闘にも参加するが、主な役割は兵士たちの看護である。癒し手と

    しての戦闘美少女という、近年でも盛んに描かれるキャラクター設定もまた、この時点で完

    成していた(斉藤 2000: 149)。

    「魔法少女系」の始まりは『魔法使いサリー』とされている。「魔法少女系」は、現在に

    至るまで綿々と受け継がれてきた特異なジャンルのひとつである。1966 年には横山光輝原

    作のアニメ『魔法使いサリー』の TV放映が開始された。商業的に革命的な『美少女戦士セ

    ーラームーン』は、戦闘美少女であると同時に魔法少女でもあるという点で、クロスオーヴ

    ァーの極点(混合型)とも言うべき作品だった。この意味で『魔法使いサリー』は、戦闘美少

    女のもうひとつの原点とみなすことができる(斉藤 2000: 150)。「宝塚系」としては男装の

    美少女が戦う作品の『リボンの騎士』(1967)が挙げられる。また、「変身少女系」の始まり

    は、『パーマン』(1967)の「パー子」(斉藤 2000: 151)とされている。「スポ根系」には、バ

    レーボール少女たちが活躍した『サインは V!』(1968) 『アタック No.1』(1969)などの作

    品が挙げられる(斉藤 2000: 153)。

    1980 年代には、「チーム系」が 1 つのピークを迎え、多くの作品が制作された。「チーム

    系」とは、美少女のコンビ、トリオ、集団が、犯罪者や宇宙から来たモンスターを相手に戦

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    う作品だ。例えば、レオタードに身を包んだ美人三姉妹の盗賊が活躍するセクシーアクショ

    ンものである『キャッツアイ』(1981年)は、「ハンター系」かつ「チーム系」の系列を確立

    した。(斉藤 2000: 173)。続く 1990年代はアニメ再興の時代であり、国内外で成功した作

    品として 90 年代前半には『美少女戦士セーラームーン』、90 年代後半には『新世紀エヴァ

    ンゲリオン』が挙げられる。

    ここまで時代の変遷とともに 13系列について並べた。これをふまえて、戦闘美少女もの

    をフェミニズム的に読み解く視点を挙げておこう。斉藤美奈子は、60-90年代のアニメや戦

    闘少女作品を、「男の子の国」「女の子の国」と分類して分析した。2つのジャンルの骨格は

    ほとんど同じだが、意匠の部分が異なっている(斉藤 1998: 13)。「男の子の国」(男の子向

    け作品)は、未来や宇宙空間で、科学の力を結集し、総力をあげて敵=異質な物を撃退する

    ために直接戦っている(斉藤 1998: 23)設定が多く見受けられる。それに対し、「女の子の

    国」(女の子向け作品)は舞台が現代で、身近な問題を解決するなど大切な仲間や宝物(恋人)

    を守るために魔法で戦う(斉藤 1998: 23-30)設定が多く見受けられる。

    女の子の国/戦闘美少女作品の革命作である『セーラームーン』以前の戦う少女=紅の勇者

    には、さまざまな意匠がこらされている。『セーラームーン』以前の戦う少女として、2つ

    の路線が挙げられる。1つは、『リボンの騎士』(1967-68)『ベルサイユのばら』(1979-80)

    のような、男装して戦う少女像だ。戦後の日本で女の子を戦わせるためには「男のふりをさ

    せること」が必要だった。「戦い」と「恋愛」の両方を手に入れるためには、西洋風の舞台

    装置と男装という「非日常」が必要だったのである。2つ目は、『キューティーハニー』(1973-

    74)のような、女性性を誇張した戦う少女像だ。『リボンの騎士』が男装(女性性の隠蔽)によ

    って参戦権を得たのに対し、『キューティーハニー』はセクシー路線(女性性の誇示)をする

    ことで戦う権利を手に入れたのである(斉藤 1998: 126-129)。その後、チームで活躍する女

    戦士として『セーラームーン』が誕生する。

    1-2.革命的な『セーラームーン』

    1-2-1.『セーラームーン』の概要

    戦闘美少女史上最重要作品なのは「美少女戦士セーラームーン」シリーズである。『セー

  • 5

    ラームーン』とは、中学 2年の少女月野うさぎが、黒猫ルナから自分が選ばれた戦士である

    ことを告げられ、ルナから渡されたブローチと唱文によって美少女戦士セーラームーンに

    変身し、妖魔を倒す力を得て、5人の仲間とともに力を合わせて妖魔と戦う物語である。ピ

    ンチの時には謎の青年、「タキシード仮面(正体はうさぎの恋人の地場衛)」が現れて、彼女

    たちの戦いに力を貸す。悪を倒して、日常を守る物語である。

    『セーラームーン』は、メディアミックス戦略を明確に意図した混合系作品として企画・

    制作された。東映と講談社の協力体制のもと、月刊誌『なかよし』の連載とアニメ放映が同

    時期にスタートしていること、変身グッズをはじめノヴェルティ商品が大量に流通したこ

    となどがメディアミックス戦略である。その戦略により、本作は子どもから大人までの幅広

    い層から支持され、『セーラームーン R』『セーラームーン S』『セーラースターズ』とシリー

    ズを重ね、5年間放映された。また、欧米やアジア諸国にも輸出されて高い人気を集め、国

    際的な大ヒット作となっている。このように、アニメ作品の枠を超え、一種の社会現象にま

    でなりえた作品なのである。また、『セーラームーン』はきわめて作家性の高い作品でもあ

    った。例えば、セーラー戦士たちの通学する中学校とその近辺の地理に、原作者・武内直子

    の住む麻希十番の地名が引用されるなどが挙げられる。だが、「作家性」はこれに留まらな

    い。本作の人気はアニメ化によって決定的なものになったが、この時点でさらに複数の才能

    が投入されている。原作の絵柄をアニメ向きに消化し、「萌え」の要素を加味しつつキャラ

    クターをデザインした只野和子、その特異な演出で物語の幅を広げた幾原邦彦、月野うさぎ

    を好演し、そのキャラクターイメージを決定づけた声優・三石琴乃などの存在抜きには、本

    作の人気は語れない。本作は社会現象としての意味はもとより、重層的な作家性において後

    続作品に大きな影響を及ぼした(斉藤 2000: 196-198)。

    1-2-2.『セーラームーン』のフェミニズム的な遅れ

    一方で、斉藤美奈子は、女の子の国 30年の歴史ではじめて女の子だけで形成されたチー

    ムを立ち上げたセーラームーンを賞賛しながらも、批判的にも読み解いている。

    女の子の国/男の子の国とも、60年代末に方向性が決まり、70年代の初期にはそれぞれ

    のスタイルが完成していた。それ以降の作品は、それらが敷いた路線の上で、バリエーショ

    ンの開発に血道を上げてきただけ、と言っても過言ではない。13 系列の混合型ばかりにな

  • 6

    っているのである。だが、時を重ねる中で、潑刺とした小学生だったはずの魔法少女は、い

    つのまにか「わたしさがし」に明け暮れる悩み多きアイドル少女に変わり、男性チームの誇

    り高き紅一点の隊員は、気がつけば、パンチラ商売の風俗戦士になり果てていた。その行き

    詰まりを打開したのが、90 年代の女の子の国に颯爽と登場した『セーラームーン』だった

    ことはいうまでもない。『セーラームーン』は女の子が女の子のままで戦い得た、ほとんど

    はじめてのケースなのだ(斉藤 1998: 126)。

    斉藤によれば、『セーラームーン』は男の子の国の物語の大きな枠組みと、女の子の国の

    ディテールをハイブリッドした、「いいとこどり」のアニメである。『リボンの騎士』が男装

    し、『キューティーハニー』が脱がなければ戦えなかったのに比べると、女子中高生の制服

    をグレードアップしたセーラー服型戦闘服(ミニスカート、チョーカー、ティアラ等のアク

    セサリーつき)で戦えるようになっただけでも、格段の進歩といえる。魔法が使えることを

    親友にまで隠さなければならなかったかつての魔法少女の苦悩、男チームの紅一点として、

    いつも「女」の顔をしていなければならなかった紅の戦士の孤独を考えれば、女同士の友情

    をなによりも「大切なもの」として提示した『セーラームーン』は、画期的だった(斉藤 1998:

    138-139)。

    しかし、作中の魔法グッズが次々にパワーアップし、味方も敵も複雑に増殖していった

    「セーラームーン」は、徐々に矛盾も拡大させていく。「セーラームーン」はシリーズ 2作

    目にして、「母」の役割を持ち出さざるを得ず、女の子の国の世界に戻っていってしまった。

    例えば、劇場版の『セーラームーン R』では、「王子と愛し合うお姫様」「自己犠牲を払って

    戦う少女」「救済者としての聖なる母」という昔ながらの女の子の国のフォーマットに則っ

    た作品である。「戦って→殺す」という男の子の国のコンセプト自体が、女の子の国が伝統

    的に培ってきた「愛」(とは何だ)路線と矛盾する。そのために、敵対関係を解いて敵の心を

    癒すという展開が後半には多くなった(斉藤 1998: 136-139)。

    このように、国内外で大人気になった「美少女戦士セーラームーン」シリーズは、斉藤環

    が分類したこれまでの戦闘少女の系譜を踏まえると画期的な作品であった。しかし、涙を流

    して問題解決、「母」の役割が強くなる、ピンチの時には男性(タキシード仮面)が助けると

    いう観点から、ジェンダー表象としてはやや保守的な所もあったのである。

  • 7

    1-3.現代(2000年以降)の女の子の国・戦闘少女

    『セーラームーン』以後、現代の女の子の国の作品、女児向けのアニメ作品としては、『お

    ジャ魔女どれみ』シリーズ(1999-2003)、『とっとこハム太郎』(2000-2006)、『明日のナージ

    ャ』(2003)などが挙げられる。また、2004年の『ふたりはプリキュア』放送以降は、『プリ

    キュア』シリーズと平行して、アイドルアニメが流行している。元はカードゲームの『アイ

    カツ』シリーズ(2012-2016)、同じく元はカードゲーム「プリティーシリーズ」系列である

    『プリティーリズム』(2011-2014)『プリパラ』(2014-2017)『キラッとプリ☆チャン』(2018

    ~現在)などのアニメが主に挙げられる。一方、戦闘美少女作品は、ロボットアニメ、日常

    系、戦争系など、斉藤が分類した 13系列の無限大の組み合わせにより、様々なジャンルの

    作品が展開されている。

    現在の女児向けアニメは、様々な方面に配慮して作られる傾向がある。例えば、森脇真琴

    監督の『プリパラ』シリーズは「アニメとポリティカル・コレクトネス」という近年問われ

    る機会の多くなった問題を考察するうえで、最適なコンテンツの 1 つと捉えることができ

    る。なぜならば、『プリパラ』シリーズでは、性別・年齢・体型・容姿などを問わず誰もが

    輝くことができる世界になっており、ダイバーシティの理念が単なる当たり前のものにな

    っているという表象がなされているからだ。近年のフィクション作品では、前世紀と比べ表

    現面における様々な配慮、通称「ポリコレ」が前提とされている。この動きに対する日本で

    の評価は、手放しで肯定的に捉えるか、表現を萎縮させる悪しき障害と捉えるか、二極化し

    た膠着状態にある。そうした極端な二択状況を打開していくには、ディズニー作品の歴史的

    変容が有効な手立てになる。「プリンセス願望」に象徴されるような、過去のディズニー作

    品を特徴付け、今では保守的かつ差別的とされる要素に対して、近年のディズニー作品は極

    めて反省的な態度を明確に推し進めていて、いわゆる「ポリコレ」的な要求をクリエイティ

    ビティに巧みに変換している。例えば、『アナと雪の女王』(2013)や『ズートピア』(2016)

    は、ディズニーにおける「ポリコレ」表現の達成と呼べる。しかしこれらの作品に対しても、

    「ポリコレ」的メッセージ性に対し優等生的・道徳的・欺瞞的という声が上がり、拒絶を示

    す反応が多々生まれていた。

    しかし、『プリパラ』は「ポリコレ」をメッセージとしては表現しない。ダイバーシティ

    の理念が単なる当たり前の環境として、自然に存在している世界なのだ。『プリパラ』では、

    「プリパラ=すべての女の子がアイドルになれる空間」という平等原理が貫かれている。例

  • 8

    えば、レオナ・ウェストという「男の娘」がアイドルになることや、「ちゃん子」という力

    士体型のサブキャラクターにも 3DCGモデルが作られ、持ち歌とダンスが披露されるなどが

    挙げられる。このように、性別、年齢、体型(ルックス)などを問わず、誰もが輝くことが

    できる世界になっている。

    さらに、ポリフォニー的な表現になっている。日本大百科全書によれば、ポリフォニーと

    は、音楽において多声性のテクスチュアを形成する方式の 1つであり、ホモフォニーや和声

    (ハーモニー)がいわば縦の同時的な重音の効果をねらったテクスチュアであるのとは対

    照的に、ポリフォニーにおいては水平の線条的な旋律の運動をいくつか同時に絡ませるこ

    とによって、異なる音楽時間の重層構造を感じさせる効果をあげることができる2表現のこ

    とである。この意味合いを込めて、石岡は『プリパラ』をポリフォニー的な表現だと評価し

    ている。ここでの「ポリフォニー」とは、互いに齟齬をきたすような複数の相容れない登場

    人物が並立する形で、独立した複数の「声」を響かせることを指している。

    『プリパラ』では、キッズアニメとしてデフォルメされた世界観の中でギャグやコメディ

    のようなスタイルを取りながら、アイドルというシステムの正負両面を浮かび上がらせて

    いる。中心的なメッセージは「友情」や「団結」でありつつ、スキルを高めることを求める

    がゆえに主人公とは相容れない登場人物(たとえば 2ndシーズンの紫京院ひびき)の正当性

    もきちんと描いたうえで、最終的にはそうした齟齬を無理に解消させないまま共存すると

    いう、ポリフォニー的な世界としても読むことができる3。

    また、現在の戦闘美少女作品は、ロボットアニメやアイドルアニメなど様々な系譜がある。

    広義的に戦闘と呼べるであろう美少女作品の『ラブライブ!』『ガールズ&パンツァー』に

    ついて佐倉智美は、1自立した女性キャラの主体性、2女性ホモソーシャルな親密性、3女

    性によるリーダーシップのロールモデル、4ありのままの受容と自己肯定の物語、5男性ホ

    モソーシャル公的領域の撹乱という5つの観点でフェミニズムの立場から評価した4。この

    2 日本大百科全書(ニッポニカ)「ポリフォニー」

    (https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000213400) 2020.1.6閲覧. 3 石岡良治×高瀬康司,2019年,「第3回 なぜ批評家はこれほどまでに『プリパラ』を

    推すのか」(高瀬康司編『アニメ制作者たちの方法:21世紀のアニメ表現論入門』のため

    の補足資料)

    (http://www.kaminotane.com/2019/03/12/5031/) 2019.12.12閲覧. 4 佐倉智美のジェンダーあるある研究ノート,2016年,「ラブライブとガルパンをフェミ

    ニズムが評価すべき5つの理由:メディア・家族・教育等とジェンダー」

    (https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5) 2019.12.20閲

    覧.

    https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000213400http://www.kaminotane.com/2019/03/12/5031/https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5

  • 9

    ように、女性が活躍する作品の内容は進展している。斉藤環、斉藤美奈子が分析した 1960-

    90 年代の紅一点の時代の作品と現代のアニメ作品では、ジェンダー表象が大きく異なるの

    だ。

    第 2章 『プリキュア』文化におけるジェンダー観

    ここまで『プリキュア』以前の戦闘少女作品の歴史と系譜を振り返ってきた。では、2004

    年から現在まで続いている『プリキュア』シリーズでは、どのような表象がなされているの

    だろうか。第 2章では、初代『ふたりはプリキュア』生みの親の鷲尾天と『HUGっと!プリ

    キュア』制作陣のインタビューを比較することで、『プリキュア』におけるジェンダー観に

    ついて分析する。

    2-1.初代『ふたりはプリキュア』と『HUGっと!プリキュア』インタビュー比較

    初代『ふたりはプリキュア』を誕生させたプロデューサーと、『HUG っと!プリキュア』

    制作陣のインタビューには、「ジェンダー論(フェミニズム)的視点を入れている」ことを公

    言するかしないかという大きな違いがある。以下では、初代とハグプリのプロデューサーの

    インタビューを比較する。

    『プリキュア』シリーズを立ち上げた初代プロデューサー鷲尾天のインタビュー記事は、

    ジェンダー表象を意識的に主題化していると捉えられるタイトルになっている。このこと

    を示す実例として、「男女に差なんて、ない。プリキュア生みの親、秘めた信念」5「『女の子

    はこうあるべき』を変えたアニメ『プリキュア』制作現場を支えるクラウド」6「『マイノリ

    ティーの居場所を守りたい』女の子向けアニメの“常識”を覆した、プリキュア初代プロデ

    5 朝日新聞デジタル,2018「男女に差なんて、ない。プリキュア生みの親、秘めた信念」

    (https://www.asahi.com/articles/ASL2W65XCL2WUTIL04V.html)2019.9.30閲覧. 6 「女の子はこうあるべき」を変えたアニメ「プリキュア」制作現場を支えるクラウド』

    (https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1807/18/news001.html) 2019.8.29 閲

    覧.

    https://www.asahi.com/articles/ASL2W65XCL2WUTIL04V.htmlhttps://togetter.com/li/1277257)2019.9.30

  • 10

    ューサー・鷲尾天さんの原点」7という記事が挙げられる。

    鷲尾は、「女の子だって暴れたい」というフレーズから『プリキュア』は誕生したと述べ

    ている。「男の子だから」「女の子だから」という垣根をなくしたいと願っており、男女の差

    についての話は絶対に盛り込まないように作られた。プリキュアが成立するために必要な

    ことは、自分の足で立っていることだ。そのため、「誰かが助けに来てくれる、それが男性

    である」というストーリーにはなっていない。この構図だと男性が上位概念になってしまう

    ため、男性に助けを求めるイメージはつけないようにしたそうだ8。また、女の子たちが、

    凛々しく自分の脚で立つさまを表現するために、『プリキュア』の登場キャラクターは魔法

    のステッキなどを持たずに“徒手空拳”で敵と戦う9。

    鷲尾は、男女の差について、小さな子どもは男の子も女の子も変わらないはずだと考えて

    いた。『ふたりはプリキュア』の企画を考えた時、子どもは「女の子(男の子)らしくしなさ

    い」という教育で徐々に分化していくので、差異はないはずと考え、女の子向けアクション

    を提案したそうだ。また、「アニメのようなファンタジーの世界で、『男性に頼らない女性』

    が主人公のものが一般的なものになれば、実社会も変わってくれるのではないでしょうか。

    そう願っています」と述べている 10。

    このように『ふたりはプリキュア』では、これまでの戦闘少女像とは異なる意匠がこらさ

    れている。女の子の国ではヒロインの涙がポタッと垂れて、みんなの命を救ったり、敵の心

    をやわらげたりという展開が、最終回には少なくない(斉藤 1998: 27)。この伝統的なパタ

    ーンに対して、『プリキュア』は涙を流すことがあっても、涙を流すことで問題を解決する

    ことはほとんどない。涙を流しながら、自分の言葉で相手の心に訴えかけることで、問題を

    解決する。また、「女の子が女の子のままで戦い得た、ほとんどはじめてのケースだった」

    (斉藤 1998: 128)『セーラームーン』では戦闘でピンチの時はタキシード仮面という王子が

    主人公を助けるが、プリキュアは自分たちで敵を倒す。これらは鷲尾の「女の子が凛々しく

    7 加藤藍子,2019年「『マイノリティーの居場所を守りたい』女の子向けアニメの“常

    識”を覆した、プリキュア初代プロデューサー・鷲尾天さんの原点」

    (https://www.huffingtonpost.jp/entry/precure-washio-

    takashi_jp_5db3b61ee4b006d4916ee649) 2019.12.12閲覧. 8 「『プリキュア』15周年」特集

    (https://news.livedoor.com/article/detail/15451211/) 2019.8.29閲覧. 9「女の子はこうあるべき」を変えたアニメ「プリキュア」制作現場を支えるクラウド』

    (https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1807/18/news001.html),2019.8.29閲

    覧. 10 朝日新聞デジタル,2018「男女に差なんて、ない。プリキュア生みの親、秘めた信念」

    (https://www.asahi.com/articles/ASL2W65XCL2WUTIL04V.html)2019.9.30閲覧.

    https://www.huffingtonpost.jp/entry/precure-washio-takashi_jp_5db3b61ee4b006d4916ee649https://www.huffingtonpost.jp/entry/precure-washio-takashi_jp_5db3b61ee4b006d4916ee649https://www.asahi.com/articles/ASL2W65XCL2WUTIL04V.html

  • 11

    立っていること」「自分たちで解決すること」というプリキュアの理念が体現されているか

    らだろう。

    また、斎藤は「アニメの国のヒロインは男の視聴者のためのものだった」と述べている。

    70-90 年代のアニメでは、女性キャラは恋愛を描くためだけに存在していたり、主要男性

    キャラクターからスカートをめくられたり、胸やお尻を強調したボディスーツを着用する

    などのスケベ要員で存在していることが多い。そのため、大人の女性は概して少女アニメに

    は冷淡である。かつてそれに熱狂した自分を思い出すことはあっても、大人になっても女児

    向け作品が好きで好きでたまらないという人は少数派だ。なぜなら、大人になった女性にと

    って、女児向け作品で描かれてきた男親が望む少女像(魔法少女)や上司に都合のいい OL像

    (紅の戦士)は、うっとうしいものでしかないからだ。アニメのヒロインは、魔法少女であれ

    紅の戦士であれ、男の愛玩物であったことは否定できない。彼女たちは、男の視聴者を元気

    づけたが、歴代のヒロインが女の子の視聴者を力づけ、彼女たちに勇気を与える女性像だっ

    たとはいえない(斉藤 1998: 206-207)。だが、『プリキュア』では、「男親が望む少女像(魔

    法少女)や上司に都合のいい OL像(紅の戦士)」は描かれていない。これも、鷲尾が述べてい

    る『プリキュア』の理念とつながっている。以上から、初代制作の背景には「ジェンダー論

    (フェミニズム)」的観点が含まれているといえる。

    次に、『HUG っと!プリキュア』制作陣のインタビューについて考察する。シリーズディ

    レクターの座古昭史・佐藤順一、プロデューサーの内藤圭祐による『ハグプリ』制作陣のイ

    ンタビューの見出しは、「社会問題を斬ろうとする意識はない。『HUGっと!プリキュア』制

    作陣が伝えたいメッセージ」11となっている。

    インタビューの中で、3人は「意識して現代社会にある問題に斬り込もうとはしていない」

    「各々が感じているであろう世の中に蔓延する不寛容さがもう少しよくなるといいかな、

    くらいの感じはある」「社会を眺めたときに普段の僕たちが感じていることが、やっぱり少

    しずつ入ってきてるんだと思います」と述べている。佐藤は「ターゲットは未就学の子ども

    たちであり、ジェンダー(社会的な性別)の問題は子どもたちがどこかで通るかもしれない

    道だから、その子たちが大人になっていくあいだに体験するであろうこと、そこに対して、

    何かヒントになるものが提示できればいいのかな、と思っている」12と述べている。

    また、内藤のインタビューで「男の子だってお姫様になれる、ドレスを着たって良い」と

    11 「社会問題を斬ろうとする意識はない。『HUGっと!プリキュア』制作陣が伝えたいメッ

    セージ」(https://news.livedoor.com/article/detail/15451228/) 2019.8.29閲覧. 12 前掲 11, 2019.8.29閲覧.

  • 12

    いう内容を扱った 19話のジェンダー観(社会的な性別)について質問された時に、内藤は「あ

    くまで、自分を大切に、自分をもっと好きでいていい、やりたいことをやりなさい、それに

    よってちょっとつらいようなことももしかしたらあるかもしれないけど、それでも一歩踏

    み出して、未来、明日に進むっていうのがいかに素晴らしいかっていうのが作品の根底に流

    れるメッセージ、テーマではあります」13と述べ、「ことさらジェンダー論(フェミニズム)を

    意識して話を組み立てているわけではない」と述べている。

    「男の子のプリキュア」に関しては、「あくまで『HUG っと!プリキュア』のプリキュア

    は、いつもの5人です。そのプリキュアが若宮アンリに起こした、一度限りの奇跡であり、

    それ以上のことを明確にする必要はないと考えております」「このような奇跡が起きたこと

    は、これまでのシリーズにもありましたし、今回だけが特殊という意識はありません。『未

    来は無限大』という本作のテーマの表現のひとつであり、彼がプリキュアか否かは、受け手

    のご想像にお任せしたいと思います」14と述べている。

    以上から、ハグプリ制作陣から繰り返し主張されるのは、社会問題からとっかかりを得た

    ということはない/特に社会的背景は意識していないということである。

    2-2.現代のフェミニズム観

    『ふたりはプリキュア』を生みだした鷲尾は「ジェンダーを意識している」と明言してい

    る。それに対し、「男の子のプリキュア」「帝王切開は立派なお産」「性役割の否定」等を扱

    い、明らかにジェンダー表象がなされている『ハグプリ』の制作陣は「ジェンダーを意識し

    ている」と明言しない。これは、現代社会が「ジェンダー論」、特に「フェミニズム」に対

    して大事な概念と捉える反面で、否定的な印象を持っているからではないだろうか。この現

    象を読み解くために、フェミニズムの系譜を振り返っておきたい。

    近代の歴史におけるフェミニズムとは、20 世紀初頭に頂点に達した婦人参政権を求める

    第一波フェミニズムと、1960 年代以降に公民権運動、反戦運動、学生運動、新左翼運動な

    どと連係しながら各国で広がった、女性の社会的・文化的承認を求める第二波フェミニズム

    に大別される。これらフェミニズムの特徴は、「男の文化」を規定する同時代のリベラリズ

    13 「プリキュアが大切にする『多様性』と『自己肯定』 プロデューサー内藤圭祐氏にイ

    ンタビュー」(https://news.merumo.ne.jp/article/genre/7955190) 2019.8.30閲覧. 14 「男の子プリキュア『受け手の想像にお任せ』制作側」『朝日新聞』(2018.12.8夕刊).

  • 13

    ムとの対照関係において、それが定義され機能していった点にある(三浦 2013: 61)。具体

    的には、第一波フェミニズムは、参政権や財産権といった法的な面での女性の権利を獲得し

    ようという運動であり、運動の結果欧米の多くの国では 20世紀前半に参政権は獲得された。

    次の第二波フェミニズム(ウーマン・リブ)は、参政権といった法制度では覆いきれない女性

    の権利を問題とした。第二波フェミニズムも一枚岩ではなく多様であるものの、そこで問題

    とされたのは働く権利、職場での平等、主婦の権利、教育への権利、リプロダクティヴ・ラ

    イツ(中絶合法化など)であった(河野 2017: 23)。

    第一波フェミニズム・第二波フェミニズムの潮流を汲んだ現代社会のフェミニズムは主

    に「ポストフェミニズム」「第三波フェミニズム」の 2つの潮流があるとされ、複雑化して

    いる。

    ポストフェミニズムとは、「フェミニズムは終わった」という認識であり、また、フェミ

    ニズムが終わったとして「その後の女の問題」という意味でもある。90年代の「女らしさ」、

    女性の文化、そして、文化全体における女性表象の変化を総称してポストフェミニズムと呼

    ぶ。第二波フェミニズムに対して自身をその後の世代と定義する女性たちが、かつての性差

    別的な制度はもはや存在しない、よって、かつてのフェミニズムはもはや無意味だと宣言し、

    現代社会において、私は個人の力で生きていくことができるしそうやって成功する(かりに

    その過程で種々の問題や抑圧があったとしても、それは社会制度の問題であっても性差別

    の問題ではない)とするのが、ポストフェミニズムの特徴である(三浦 2013: 62)。ポストフ

    ェミニズムは、新自由主義やリベラリズムが台頭してきた時代状況における「文化」だ。女

    性の社会進出の達成を象徴すると同時に、社会運動を重視する連帯の精神としての第二波

    フェミニズムを批判し、市場における達成を重視して個人主義を称揚するものであり、政治

    的改革ではなく自己実現と「私探し」こそをゴールとする「文化」として広く受け入れられ

    たのである(三浦 2013: 66)。したがって、ポストフェミニズムとは、ジェンダーに関わる

    問題が女性/男性の問題としてではなく、個人の責任において向き合うべき問題とされる時

    代状況のことを指している。ただし、ポストフェミニズムは批判的に捉えられることもある。

    フェミニズム事典によれば、「ポスト・フェミニズムの現代の用法は、フェミニズムは単な

    る時的な流行にすぎなかったという敵意に満ちた願望を表したり、あるいはフェミニスト

    たちは『勝利をおさめた』のですでに歴史になってしまい、今日のポスト・フェミニズムの

    女性たちはフェミニストになる必要から解放されたという、悪意はないがまちがった考え

    を表す」とされている(タトル 1991: 302)。また、上野千鶴子は平成 31年度の東京大学学

  • 14

    部入学式祝辞で、女子学生の置かれている現実について述べつつ、「がんばったら報われる

    とあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだ

    ったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日『がんばったら報われる』と思

    えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持っ

    てひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです」15と述べている。これ

    は、ポストフェミニズムへの警鐘でもあるだろう。女性に関する問題が完全に解決したわけ

    ではないのに、所属した環境がたまたま恵まれていたため「フェミニズムとは無縁」「フェ

    ミニズムは終わった」という認識が持たれることこそがポストフェミニズムであり、このこ

    とは極めて危険だ、という見方もできるのだ。

    一方、第三波フェミニズムとは、1990 年代から現在まで、グローバル化と新自由主義イ

    デオロギーが蔓延する後期近代の時代に登場した新しいフェミニズムの潮流である。主な

    担い手は、一方ではいまだ達成されていないものも含めて第二波フェミニズムの理想が自

    明視されるポストフェミニズム時代に生まれ教育を受け、他方ではバックラッシュ期にフ

    ェミニズムと出会ったがゆえに自らをフェミニストであるとするにはいささかの躊躇いを

    感じ、後期近代の個人主義イデオロギーを無意識的に内在化しつつもその規範化に葛藤し

    続けている女性たちとされている(田中 2019: 165)。

    第三波フェミニズムは、1970-80 年代に隆盛した第二波フェミニズムを批判的に捉える。

    第二波フェミニズムは、家父長制的国家機関や性別役割分業に基づいて成立していた現代

    社会において、女性たちは性別に基づいて差別され、搾取されているという観点からさまざ

    まな対抗概念や対抗価値を創りだし、性差別的ではない新しい社会構築と社会認識を提起

    してきた。しかし、こうした提起が受けいれられ社会が改善されていくにつれて、徐々に、

    第二波フェミニズムの提起した目標の多くが、今日の若い女性たちのおかれている現状と

    ずれてしまっているという感覚も生まれるようになった。このような新しい感覚、第二波フ

    ェミニズムに共鳴しつつも抱かざるをえないかすかな違和感やためらいは、とくに若い世

    代の女性たちから数多くの局面で表明されるようになり、近年、そうした表明の動きは「第

    三波フェミニズム」と呼ばれるようになった(田中 2012: 5)。

    第二波・第三波には、マクロ・ミクロの視点の違いが挙げられる。女性の諸権利を求めた

    第二波フェミニズムが「個人的なことは政治的である」をスローガンとし、私的アジェンダ

    15 2019,「平成 31年度東京大学学部入学式 祝辞」

    (https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html) 2020.1.7閲

    覧.

    https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html

  • 15

    を公共の場での政治アジェンダに変えていこうとしたのに対して、第三波フェミニズムは

    情報技術とメディア環境の変化する中で、私的アジェンダを私的空間そのもので問い直す

    ことこそが集合的であり、政治的な解決へと結びつくとみなす違いがある(田中 2019: 169)。

    そのため、第三波フェミニズムでは、フェミニズムの言説空間がアカデミズム、運動、抗議

    行動などを飛び越えた、より日常的でポピュラーな空間へ広がった。今日、フェミニズムに

    関わる言論がもっとも広く展開されているのがポピュラー文化の領域である。例えば、女性

    誌、ドラマ、映画などのメディアにおいてフェミニズムに触れることは、今やその作品が注

    目を集め、人気を獲得するためのトレンドにすらなっている。同様にインターネット上のオ

    ンライン空間は、第三波フェミニズムの活動とコミュニティ作りが行われる新しい空間に

    なりつつある。オンラインの空間は、第三波フェミニズム以降の女性たちにとって、従来の

    社会とは異なる位置で言説と知識に介入できるような場として開かれている。

    ただし、これらの空間はバックラッシュとセクシズムが表出される現場にもなっている

    (田中 2019: 168)。ネット上の反フェミニズム的な言論は、1990年代後半にバックラッシ

    ュとして批判されたが、現在にまでそれはやむことなく増加しており、若い世代がジェンダ

    ーやフェミニズムについて情報を得る際にまず入手されるのはそのような言説であること

    が多い。背景の 1つには、マスメディアの「女性の活躍」言説が挙げられる。日本社会で一

    般に、「戦前は女性は差別されていたが戦後は女性の社会進出が進み、差別はほとんど解消

    された」というイメージがもたれていることが影響している。「フェミニズムは終わった」

    という認識が、インターネット上の言説空間に表れているのだ。そのため現在は、一見フェ

    ミニズムと見紛うような「女性の進出」を強調する言説やイメージがマスメディアや行政等

    の権威的存在によって発信される一方で、ネットなどのより身近な言説装置からは反フェ

    ミニズム的なメッセージが繰り返されるという、二律背反的な状況がある(菊池 2019: 80-

    83)。

    第二波フェミニズムの活動が革新的だったため、その反動でフェミニズムは過激だとい

    う印象があるのだろう。ポストフェミニズムでは、第二波フェミニズムのバックラッシュが

    強まり、そのバックラッシュを踏まえて第三波フェミニズムが誕生した現代社会が、「フェ

    ミニズム」という言葉を肯定的に捉えることは考えにくい。このことを示す実例として、イ

    ンターネット記事では、「フェミニズムとは何か?:なぜ女性の権利ばかりが主張されるの

  • 16

    か」16、「『フェミニズム離れ』する若い女子が抱いている違和感の正体」17などフェミニズム

    に関する誤解を解こうとする記事が多い。中でも、日経 doorsの「性別ってなんだろう」と

    いうコラムの連載を取り上げる。ここには「フェミニストは男嫌いのブスだと思っているあ

    なたへ」という項目がある。そこでは、「フェミニストというと、被害者意識が強く、男性

    を敵視して、女の権利ばかり主張するイメージがありませんか? ビジネスリテラシーの

    高い人でも、フェミニストという言葉を耳にするや否や、宗教と政治の話と同じジャンルと

    して、言及を避けているように感じます」という文章からコラムが始まり、フェミニズムの

    歴史に触れた後、エマ・ワトソンら現代の著名人の話を取り扱い、肯定的なまなざしを向け

    ようと読者に促している18。イメージ改善を促している時点で、フェミニズムが肯定的に捉

    えられているとは言いがたい。また、Twitterでは男性を貶めることで女性の権利を拡張し

    ようとする過激なフェミニズム“のような”潮流の「ツイフェミ(ツイッターレディース)」

    が広まった結果、SNS内でフェミニズムが誤解され、この分野を知らない人にフェミニズム

    が否定的に捉えられている傾向がある。

    以上から、フェミニズムに即した表現をすると、オーディエンスに受け入れられない可能

    性があると推測できるため、制作陣は「ジェンダー(フェミニズム)に斬り込む意識はない」

    と主張しているのではないだろうか。だがそのように主張しつつも、本編では間接的に(直

    接的な表現もあるが)ジェンダー論・フェミニズムに抵触した内容が繰り広げられているの

    だ。ここから、フェミニズムが嫌悪されている社会で、鷲尾が「ジェンダーを意識している」

    と明言したのは画期的なことだったと捉えられる。また、『ハグプリ』が抱えている「ジェ

    ンダー論・フェミニズム公言への躊躇」、「ポピュラー文化領域のフェミニズム要素」、「オン

    ライン上の議論」の点から、『ハグプリ』は第三波フェミニズム的な側面を持っていると捉

    えることができる。

    16 石田健,2019,「フェミニズムとは何か?:なぜ女性の権利ばかりが主張されるのか」

    (https://www.theheadline.jp/articles/198) 2019.12.25閲覧. 17 高橋幸,2019,「『フェミニズム離れ』する若い女子が抱いている違和感の正体」

    (https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65223) 2020.1.7閲覧. 18 日経 doors,2019,「フェミニストは男嫌いのブスだと思っているあなたへ:『女も男も

    自分らしく!』がフェミニズムの本質」

    (https://doors.nikkei.com/atcl/column/19/021300050/031100003/?i_cid=nbparia_sied

    _pol_oyalist) 2019.10.2閲覧.

    https://www.theheadline.jp/articles/198https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65223

  • 17

    2-3.制作側の主張を批判的に見るために

    現代のフェミニズム観になぞらえ、ハグプリ制作陣が「ジェンダー論(フェミニズム)に斬

    り込む意識はない」と方々で述べていても、その情報を鵜呑みにすることはできない。「制

    作者による公式見解=作品の唯一の解答」という方程式は成り立たないのだ。

    なぜならば、テクストはオーディエンスが受容し何らかの解釈を行うときにはじめて意

    味をなすものだからであり、ときには制作者が予想もしていなかった解釈を行い、作品の新

    たな可能性を開くことがあるからである。テクストの内容について考えるときには、オーデ

    ィエンスの存在を無視することはできない。スチュアート・ホールは、制作者がテクストに

    込めた意味を受け手がそのまま受け取るとは限らないこと、あるいは受け手の受け取り方

    の多様性を指摘している。この現論に基づいて調査を行ったのがデビッド・モーレーである。

    彼は、1976 年に放送されたニュース番組「ネーションワイド」の映像を 18 のグループに、

    おなじく 1977 年に放送された映像を 11 のグループに視聴してもらうという実験調査を行

    った。結果として、モーレーは受け手の職業や人種などの社会的属性によって番組の解釈が

    異なることを明らかにした。したがって、アニメの視聴者が作品から受け取る意味や、その

    解釈は多様性を持つ。解釈は個人的な嗜好によってのみ決定されるものではなく、その人が

    所属している社会の状況や、ある世代の成員としての記憶などが関わっているのである(池

    上 2014: 150-160)。

    作品は制作者の意図を越えて受け入れられ、意味づけられる。ゆえに、制作陣がインタビ

    ュー等で何を言おうと、「男の子のプリキュア」「帝王切開は立派なお産」「性役割の否定」

    等を扱った『ハグプリ』の内容には、今日のジェンダー状況に斬り込むメッセージが明らか

    である、と解釈することが可能だ。実際にどのような表象が行われたのかについて、象徴的

    なトピックを取り上げ次章から考察する。

    第 3章 『HUGっと!プリキュア』におけるジェンダー表象─若宮アンリを軸に

    制作陣は『ハグプリ』について「ジェンダー論に斬り込む意識はない」と主張するのだが、

    実際の作品では明らかに斬り込んでいる。『ハグプリ』におけるジェンダー(フェミニズム)

  • 18

    表象で象徴的なことは、女の世界である『プリキュア』で、サブキャラクターの若宮アンリ

    と愛崎正人の 2人(男)がジェンダー表象を担うことだ。第 3章では、『ハグプリ』本編の

    内容を扱い、①アンリと正人の対比(ホモソーシャル)、②添え物としての女性、③ジェンダ

    ーレス男子、④男の子のプリキュアの4つのテーマに分類し考察していくことで『ハグプリ』

    におけるジェンダー表象について検証していく。

    ここで、本論に入る前に、取り扱う 4人のキャラクターを整理しておきたい。

    主人公である野乃はな(以下はなと記述)は、中学 2年生の女の子だ。同学年の子と比べる

    と背が低く、子どもっぽい性格だが、イケてる大人のお姉さんになることを目指している。

    様々なことに興味をもってチャレンジするものの、ドジをして失敗することも多い。突然現

    れた不思議な赤ちゃん「はぐたん」を守りたいという強い気持ちによって、「キュアエール」

    に変身する19。

    若宮アンリ(以下アンリと記述)は、中学 3 年生の世界レベルのジュニアフィギュアスケ

    ーターだ。自分にも他人にも厳しく、周囲の空気に左右されずに自分の主張を通す性格だ。

    42 話で、史上初の男の子のプリキュア・キュアアンフィニに変身する。アンリが初登場し

    た 8話では、レディースの服を着て「似合っていれば問題ないでしょ」と主張し、「女神様

    みたい」と褒められると「よく言われるよ」と微笑みながら答え、「ハーフなんだね!」と

    言われると「ノン!大和撫子とパリジャンのダブルだからね」と答えるなど、既存の価値観

    に縛られない価値観を持っていることが表象されている。また、33 話では幼い頃からのス

    ケート仲間のほまれに対して「性別が違っても僕たちはライバルだから」とインタビューで

    答える。性別について言及することの少ない「プリキュア」シリーズの中で、敢えて「性別

    が違っても」とアンリに言わせるあたりからも、ジェンダー的なテーマを組み入れているこ

    とが分かる。

    愛崎正人(以下正人と記述)は、はなと同じ学校に通う中学3年生だ。個性的な愛崎家の中

    では最も常識人だが、妹のえみる20に対して、祖父から教育された保守的な思想を高圧的な

    19 東映アニメーション「キュアエール/野乃はな」

    (http://www.toei-anim.co.jp/tv/hugtto_precure/character/)2019.11.11閲覧. 20 ちなみに、愛崎えみる(以下えみると記述)は、愛崎正人の妹である。絶対音感の持ち主

    で音楽が大好きな小学6年生の女の子だ。歴史と伝統のある音楽一家「愛崎コンツェル

    ン」の令嬢である。兄の正人には理解してもらえないギターを、未来からやってきたアン

    ドロイドであるキュアアムール(プリキュアの名前)のルールー(変身前の名前)が受け入れ

    てくれたこともあり、ルールーに強い友情を感じている。ルールーと 2人で愛のプリキュ

    ア「キュアマシェリ」に変身する。

  • 19

    態度で強要する。しかしアンリやプリキュアたちとの交流を通じて、価値観の押しつけは相

    手の心にかせをはめることだと学び、態度を改める。厳格な祖父がえみるのアイドル活動を

    糾弾した際には正面から強く反論し、力尽くで祖父を抑え、えみるの心の自由を支えた(ア

    ニメージュ 2018: 96)。

    15話では、正人の保守的な思想が描写されている。「ギターは女の子らしくないからやめ

    なさい」と妹のえみるに高圧的に強要する場面を挙げる。

    正人の眼鏡の奥の目は映らずに、固く結んだ唇と硬い表情の上半身が映され(図①)、えみ

    るの部屋に入る。フレーム内の 2人の人物の描かれ方は均等ではない。部屋に入ってきた正

    人は「ダメだね、女の子がギターなんて」と、えみるに伝える。するとえみるは強張った表

    情になる。その困惑した顔(図②)だけが、正人が見下ろす目線で描かれる。ハイアングルで、

    えみるが見上げる視線で正人は描かれるため、正人が言葉を発していなくとも支配の印象

    を与える。

    続けて正人が「女の子は女の子らしく」と言うショットでは、正人の得意げな顔がアップ

    で映され(図③)、言いながら眼鏡を上げる仕草が描かれる。また、「らしく」と発言する部

    分のみ、正人の唇の動きのみが超クローズアップで描写される。その際、四隅は黒いもやも

    →東映アニメーション「キュアマシェリ/愛崎えみる」(http://www.toei-

    anim.co.jp/tv/hugtto_precure/character/chara06.php) 2019.9.3閲覧.

    図②

    図④

    図①

    図③

  • 20

    やで縁取られており、不穏な言葉であることが一目で分かる描かれ方になっている(図④)。

    アニメーションでキャラクターの口の動きをしっかりと描くことや、口のみをクローズア

    ップすることは稀なので、口の動きのみを切り取った描き方は言葉を強調する効果がある。

    言葉の重みを象徴的に表現されているため、正人の「女の子らしく」という言葉は、かなり

    誇張した描かれ方になっている。続けて正人は「ギターではなく、女の子はピアノやバイオ

    リンの方が似合っている」とえみるに告げる。えみるはハイアングル気味に、横から上半身

    だけ映り、目が描かれずに下を向いている。

    その後、正人はアンドロイドのルールー(紫色の髪の人)に「なぜですか、なぜギターはダ

    メなのですか」と質問される(図⑤)。正人は、表情のクローズアップショットで「かわいい

    えみるには似合わないから」「由緒ある愛崎家の令嬢にはギターは不釣り合いだと言ってい

    ます」と述べる(図⑥)。この言葉に対し、ルールーとえみるの 2人の全身が捉えられた後、

    ルールーは目元のみのクローズアップショットで「理解不能です」と抗議する(図⑦)。その

    後、眼鏡の片方の目しか映らずに、正人が部屋を出て行く所でこの場面は終わる(図⑧)。

    以上から、正人は保守的なジェンダー観を持った少年だとわかる。フレーム内の正人とえ

    みる、2人の写され方は均等ではない。正人がえみるよりも上の位置に描かれていることか

    ら、身長差による物理的な圧迫感に加えて、精神的な圧迫感も演出されている。身長の違い

    図⑤ 図⑥

    図⑦ 図⑧

  • 21

    を措いても、2人の大きさが異なるため、関係性が対等でないことが見てとれる。

    3-1.男が担う「性役割」批判(ホモソーシャル)

    『ハグプリ』で象徴的なことは、サブキャラクターの若宮アンリと愛崎正人の 2人(男)

    が性別の話をすることだ。アンリと正人は、役割意識を強く持ち葛藤する。古い価値観を持

    つ正人と、新しい価値観を持っているアンリの対比が描かれる。この対比には、「ホモソー

    シャル」な価値観が反映されている。2つの場面(19話)から検証する。

    1つ目は、学校の廊下ですれ違ったアンリに対し、正人がネクタイの締め方が女性的でお

    かしいと注意する場面だ。正人と友人の 3人の足元だけが映り(図⑨)、アンリに向かって歩

    み寄る。

    画面の中心に映った正人は笑顔で「いつも注意してるけど、制服、きちんとネクタイ結び

    なよ」とアンリに伝える(図⑩)。正人はYシャツの第一ボタンを留め、赤いネクタイを締め

    ている。一方アンリは、シャツの襟を開き、V字のネックラインを形成させ、赤いネクタイ

    をリボンのようにして首から下げている(図⑪、⑫)。首元の開閉具合は、正人とアンリの心

    理状況の対比になっている。正人のきつく締めた首は、規範に縛られていることの象徴で、

    図⑨ 図⑩

    図⑪ 図⑫

  • 22

    アンリの開いた首元は、すっきりとした印象に加え自由の象徴と捉えられる。その後、画面

    はスクロールしながら、アンリのネクタイ、顔の順に映す(図⑪)。アンリは「そんな校則、

    あったっけ?」とあきれ気味に伝え、正人は笑顔で「女子みたいだよ。君の格好。男子の中

    で浮いているのが心配なんだ」と述べ、アンリは「考えとくよ」と伝え立ち去る。

    この場面は、正人の保守的な思考と、アンリのジェンダーレスな思考が対立した場面であ

    る。リボンを「女子みたいだ」と述べる正人だが、この学園では女子学生もネクタイをして

    いるため、首回りには性差がない。正人が自己判断で、「リボン結び=女子」と捉え、アン

    リに伝えている。アンリのリボンは、男女共通のネクタイの制服からはみ出す過剰さ・ズレ

    を表している。これは、アンリが世界的スケーターで一般の学生とは立場が異なることと、

    性役割に懐疑的な人物という特殊な位置に置かれていることの現れでもある。

    正人が、「女らしい」服装をするアンリに対して執拗に憤るのは、ホモソーシャルな価値

    観があるからである。ホモソーシャルとは「性的であることを抑圧した男同士の絆」(上野

    2010: 25)のことだ。ホモソーシャリティとは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビ

    アによって維持される。言い換えると、男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた

    者と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだ

    けでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆

    弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明している(上野 2010: 29)。

    正人の「女子みたいだよ。君の格好。男子の中で浮いているのが心配なんだ」という言葉

    は、ホモソーシャルの概念に落とし込むことができる。上野によれば、「あいつ、おかまか

    よ」という表現は、男のあいだでは男性集団の成員資格失壁を意味する、最大の悪罵となる

    (上野 2010: 28)。男に値しない男を男の集団から放逐する表現が、「おかま」=「女のよう

    な男」という女性化のレトリックをともなっているのは象徴的である。逆に、「おかま」が

    自分たちの集団に潜在していることの怖れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、

    という主体位置からの転落の恐価でもある。だから、男の集団のあいだでは「おかま」狩り

    がきびしくおこなわれることになる。性的主体としての男性集団の同質性を保つには同性

    愛嫌悪が不可欠なのだ(上野 2010: 28-29)。

    したがって、─「おかま」と言ってはいないものの─正人が「女のような男」であるアン

    リを否定するのは、ホモソーシャルの強い意識が背景にあるからなのだ。正人が否定的に描

    かれ、アンリが肯定的に描かれるのは、ホモソーシャルの否定につながる。その点で、この

    場面は新旧の価値観の対比をするとともに、悪しき風習を否定的に描いているといえる。

  • 23

    2つ目は、「女の子もヒーローになれる」というテーマのファッションショーに出演する

    ことになったアンリ・えみる・ルールーが、趣旨に懐疑的な正人と対峙する場面を挙げる。

    ショーの直前に、正人がえみるを連れ帰ろうとするが、アンリに追い返される。

    正人は、えみるを出演させまいと会場に足を踏み入れる。出演者控え室のような廊下で、

    正人は「ファッションショーに出るなんて。帰ろうえみる。なにこれ?女の子もヒーローに

    なれる?おかしいよね?ヒーローって男のための言葉だよ。女の子は守られる側だよ。言葉

    は正しく使わなきゃ。女の子はヒーローにはなれない」と伝える。そこでは、えみるが正人

    を見上げる目線で画面が構成される。身長差を活かしたカメラワークで、精神的に追い打ち

    をかけているように捉えられる描かれ方だ。正人は目だけが笑っており、落ち着いた口調で、

    高圧的にえみるに言葉をかける(図⑬)。優越感と威圧感を表現するとともに、えみるに対す

    る正人の支配力が表象される。えみるは反抗できず、悲しそうな表情が映る。そして、正人

    に手首を握られ、連れて帰られそうになる(図⑭)。

    すると、これまでの話を聞いていたアンリが正人に対して「相変わらず君、つまらないこ

    と言うね」と言いながら、レディースの白いドレスを着て正人達の前に現れる。正人は小馬

    鹿にしながら、「何その格好?なんでドレスを君が着ているのか?」とアンリに伝える。2人

    を横から捉え、正人からアンリへショットが流れる(図⑮)。フレームが水平になり問答を受

    ける態勢が整う。アンリと正人が対等な目線で会話するのは、身長差がないという物理的理

    図⑬ 図⑭

    図⑮

  • 24

    由に加えて、同じ男として社会的に同じ土俵に立っているから、対等な目線で会話しようと

    する正人の心情を表しているとも捉えられる。

    アンリは毅然とした表情で「すごく素敵だって思ったからだ」と述べ、正人は苦い表情を

    しながら「君、男だろう?」と言い返す(図⑯)。それに対し、意を決した表情が正面からア

    ップで映されたアンリは「だから何?僕は自分のしたい格好をする。自分で自分の心に制約

    をかける、それこそ、時間、人生の無駄」と正人に伝える(図⑰)。

    すると、正人は驚愕し、これまでの冷静さを欠いた滑稽な表情をする。その顔がミディア

    ムショットで、左斜め下へ回転するように映される(図⑱)。アンリが正人の前を横切り、4

    人は正人の前から去っていく(図⑲)。斜め向きになることで、正面のショットよりも、正人

    の驚愕した表情が強調されている。傾いたフレームは、衝撃・脅威・恐怖など、平常心では

    いられなくなったキャラクターの感情を表現する場合に用いられることが多い(須川

    2014: 52)。正人は、今まで自分が受けてきた古い教育を批判されたことはなかったのでは

    ないか。アンリと接することで、自分の人生観や価値観が崩れた。傾斜のカットは、正人の

    心がアンバランスになったことを表象している。

    このショットでは、アンリの表情は毅然としている(図⑲)。アンリが正人の横を通る時に、

    敢えて顔を映し、斜めに前を横切ることで、アンリが自分の言ったことは正しいと思ってい

    ることを強調する効果がある。数秒のショットにもかかわらず、わざわざアンリの表情を映

    図⑯ 図⑰

    図⑱ 図⑲

  • 25

    すことで、自分の言葉に迷いがなく、正しいことを言い切ったという心情を演出している。

    最後に、画面中央に取り残された正人が、ロングショットで映され、1人取り残されたよ

    うな演出になっている。最後に心底悔しそうな表情のアップが映され、この場面は終結する。

    19 話の 2 つの場面を通じて、ホモソーシャルにより生じる「差別」の面から、アンリと

    正人を対比することができる。佐藤裕の『差別論』の定義を言い換えた上野千鶴子によれば、

    「差別とは、ある人を他者化することによって、それを共有するある人と同一化する行為で

    ある」(上野 2010: 34)。前者の「ある人」に女を、後者の「ある人」に男を代入すればこ

    のまま「性差別」の定義になる。例として「まったく女ってのは何を考えているのかさっぱ

    りわからないね」という発言を挙げる。これは男性 A が女性 B に向けて言った発言ではな

    く、男性 Cに対して女性 Bを共同して他者化することで、同じ「男たち(われわれ)」を構成

    することに同意を求めた発言である。この場に女性 Bはいなくても良い。男性 Cが「まった

    くその通りだ」と男性 Aに同調すれば(すなわち同一化すれば)、差別行為は完成する。男性

    Cが「いや、そんなことはありませんよ」と抗弁すれば、男であることの集合的アイデンテ

    ィテイの構成に失敗し、その困惑を隠すために、男性 Aは「なんだって、おまえ、それでも

    男かよ。」と、男性 Cを逸脱化するという反撃に転じるだろう。男でなければ女、女でなけ

    れば男、中間項を許さないこの屈強な性別二元制のもとで、男からの逸脱は「女性化された

    男」と同義である。男が「男になる」ための同一化と排除は 1人ではできない。差別するに

    は 3人の人間が必要になる(上野 2010: 33-34)。

    上野の理論に当てはめると、正人が男性 A、アンリが男性 Cにあたる。正人のホモソーシ

    ャルな振る舞いは、消極的な「男らしさ」に縛られた価値観の現れになっている。対比する

    アンリは、ホモソーシャルな関係を切り捨てるという点でも、新しい価値観を持っていると

    いえる。

    3-2.添え物としての女性

    『ハグプリ』におけるジェンダー表象の 2つ目は、「女(男)らしく」の言い合いに男女が

    交わらず、男 VS男(正人 VSアンリ)の言い合いが繰り広げられることだ。

    女子が言い合いに関わらないパターンは2つある。1つは、意図的に男女で言い合わない

  • 26

    パターンだ。例えば 19話では、正人が「ネクタイをリボンにするのは女の子みたいだから

    やめなよ」とアンリに伝えた時に、その場に同席していたはなが正人に文句を言おうとする

    と、アンリが手で止め、「考えておくよ」と述べアンリは退散する。古い価値観の正人と議

    論するのは生産性がないと判断したアンリは、喧嘩を買わなかった。この場面で戦っている

    のは、正人とアンリの 2人である。はなは意見を求められていない上、添え物のようになっ

    ている。

    2つ目は、正人が男尊女卑の価値観から女子の言葉を聞き入れず、アンリの言葉のみを聞

    き入れるパターンだ。これはホモソーシャルともいえる。例えば、15 話では、ルールーに

    「ギターが女の子に釣り合わないというのは理解不能」と言われると、正人は「助言しただ

    けだ」と言い退散するため、ルールーと言い合いにはならない。

    19 話では、ファッションショーの舞台裏で、性差別発言をする正人に、がに股歩きでや

    ってきたはなが怒る(図⑳)。カメラの位置が下になることで、背の低いはなが大きく見え、

    勢いのあるショットになっている。怒っているはなに「誰の心にだってヒーローはいるんだ

    よ!人の心を縛るな!」と言われる(図㉑)と、正人は「最悪だなえみる、友達は選べってお

    爺様からも言われているだろう?」とあきれ気味にえみるに伝え、連れて帰ろうとする場面

    が挙げられる。

    正人は、「女の子らしく」振る舞っていないはなの言葉を真に受けることはない。加えて、

    女性を対等な存在と捉えていないため、はなに反抗されても主張を受け入れない。これは祖

    父の教育である保守的な思考を実践している描写になっている。また、正人はホモソーシャ

    ルなキャラクターなため、同性のアンリの主張に影響される。白いドレスを着たアンリが

    「らしさ」へのこだわりを否定し「僕は自分のしたい格好をする」と伝えると、正人にとっ

    て効果が抜群になる。以上から、男がドレスを着るという概念がない正人にとって、アンリ

    のドレスのインパクトが強いことに加えて、女性の話は聞き入れないという男尊女卑的な

    思想が影響していることがこの場面から読み取れる。

    図⑳ 図㉑

  • 27

    一方で、はなの「人の心を縛るな」という主張が、一部の視聴者には「性格のきつい女の

    子」という印象を与えている。インターネット上の言説空間では、「説教臭く、話がただの

    主張にしか聞こえない」21、「自分の考え方を一方的に押し付け、相手を無理矢理矯正」22、

    「相手側の気持ちを考えずに、『私が』『仲間が』という主張をする」23という批評がある。

    正人の性差別的発言という「悪」に立ち向かい、異議を唱える「正義」のはなが賞賛され

    るべきだが、正人の「悪」より、はなの口調のきつさに注目する世論の構造がある。そのた

    め、はなはきつい性格のように見えてしまう。この現象を江原由美子は「女性に向けられる

    歪められた問いに答えるための過剰な主張が、他者の中に『悪意』『抑圧の意図』を読み込

    ませてしまうため、『好ましくない性格の人』というイメージを与えてしまう」(江原 1998:

    20)と述べている。はなには、同様の現象が起きているのだ。未来は無限で「なんでもでき

    る、なんでもなれる」と信じているはなに対して、正人は「女の子だからヒーローにはなれ

    ない」と告げる。自分の強い思いを性別のせいで否定されるのは理不尽なので、感情的にな

    ってもおかしくはない。逆に、はなが性差別を理不尽ではあるがしぶしぶ受け入れ(流す)、

    萎縮した描かれ方をした場合「反抗しない、男性に無抵抗の女性」像が描かれることになる。

    これはステレオタイプな女性像だ。そうではなく、明らかに差別的な発言に屈せず立ち向か

    う姿勢は、現代の価値観に沿った描き方になっている。そして、フェミニズム的な描写にな

    っている。これこそ、「自分の足で凜々しく立つ」「悪に立ち向かう」という初代から引き継

    いでいる「プリキュア」イズムなのだ。

    3-3.ジェンダーレス男子とカテゴライズ否定

    正人の旧時代的な価値観と対比されるように、アンリは新しい・先進的な価値観を持った

    少年として描かれている。アンリは価値観以外にも容姿や装い、振る舞いからも最先端の価

    値観を持っていることがうかがえる。8話では、アンリはレディースの服を着て「似合って

    いれば問題ないでしょ」と表現し、「女神様みたい」と褒められると「よく言われるよ」と

    21 前掲1,(https://togetter.com/li/1277257) 2019.9.1閲覧.

    22 (https://sakuhindb.com/janime/7_Hugutto_21_20Precure/2019-04-20T00_24_08.html)

    2019.9.3閲覧. 23 (https://sakuhindb.com/janime/7_Hugutto_21_20Precure/2019-03-11T00_22_45.html)

    2019.9.1閲覧.

  • 28

    微笑みながら答えた。また、19 話のファッションショーでは、白いドレスを着こなしてラ

    ンウェイを歩いた。このようなアンリの容姿や振る舞いは「ジェンダーレス男子」に近しい

    ものがある。奥野佐矢子によれば「ジェンダーレス男子」とは、「絶対的に洗練された消費

    者」「美への飽くなきこだわり」を持っている男、「そのポジションを維持するストイックな

    努力家」である(奥野 2018: 166-167)。

    ここで、アンリの容姿に焦点を絞って考察する。アンリは中性的で美しい容姿をしている

    ため、オーディエンスはアンリの白いドレスに違和感を持たず、「男の子もお姫様になれる」

    という発言もすんなりと受け入れることができる。19 話では、敵のクライアス社により巨

    大な怪物「オシマイダー」に変身させられた正人にアンリは捕まる。

    正人オシマイダーの右手に握られ、身動きが取れないアンリを助けにきたプリキュアた

    ちに、アンリは苦笑いしながら「遅いよヒーロー。これ僕、お姫様ポジションになっちゃっ

    てない?」と伝える(図㉒)。それに対し、はなは「いいんだよ!男の子だってお姫様になれ

    る!」と主張し、必殺技を決め、アンリは解放される(図㉓)。はなの「男の子だってお姫様

    になれる」発言は、お姫様という言葉の概念を揺るがす新しい価値観を提示する。この言葉

    をかけられたアンリは、否定も肯定もせず受け入れる。既存の価値観に拘束されないアンリ

    の新しい価値観から、オーディエンスは直接的なジェンダー表象を目の当たりにする。

    このシーンをオーディエンスが違和感なく受け入れられるのは、アンリが性別を越えた

    美しさを持つジェンダーレス男子であることが大きく影響している。「ジェンダーレス男子」

    は、一般に「“ジェンダーレス”という名前の通り性別の壁を越えた美しさを持つイケメン

    たちのこと」、「女性の美しさや男性の美しさが融合された新たな美しさを持ち合わせてい

    る」と定義されている24。ジェンダーレス男子は美麗でなければ成り立たないのだ。

    仮に、いかにも「男らしい」容姿の男子に対して「お姫様になれる」という言葉を用いた

    24「ジェンダーレス男子って何者!?知らなきゃダサい新しいイケメンの生態まとめ」

    (https://cremaa.com/news/339/) 2019.12.21閲覧.

    図㉒