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1 iPS 細胞の特許と日本の バイオ・イノベーションの方向性について 森   康 晃* A Study of the iPS Cell Patents and the direction of Japanese Bio Innovation Yasuaki MORI* 1 * 1 Division of Intellectual Assets and Socio-Industrial Policies, Faculty of Creative Science and Engineering, Waseda University 3-4-1 Okubo,Shinjuku-ku,Tokyo 169-8555, Japan Key words: iPS cell, ES cell, Patent, Intellectual Property Rights, Pro Patent Policy, Innovation, Bio Technology, Medical Treatment Patent 1. 緒言 不老不死や,時間を巻き戻すことができるというのは,少なからず人間の 夢の一つであろう。2007 年 11 月 20 日,京都大学 山中伸弥教授が米科学 Cell に,同日,ウィスコンシン大学のトムソン教授が,米科学誌 Sience に, それぞれ掲載された論文は世界を驚かせた。生命体の遺伝子の中に,老化し て衰弱したヒトの皮膚,臓器,神経などの細胞を,再生可能にする初期化を 実現するものが発見され,iPS 細胞(induced Pluripotent Stem Cells 人工 多能性幹細胞)として樹立され,日本と米国の同時の発表で全世界に明らか になったのである。筆者は,2008 年 3 月経済産業省の委託を受けた遺伝子

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

森   康 晃*1

A Study of the iPS Cell Patents and the direction of Japanese Bio Innovation

Yasuaki MORI*1

*1 Division of Intellectual Assets and Socio-Industrial Policies,Faculty of Creative Science and Engineering, Waseda University

3-4-1 Okubo,Shinjuku-ku,Tokyo 169-8555, Japan

Key words: iPS cell, ES cell, Patent, Intellectual Property Rights, Pro Patent Policy, Innovation, Bio Technology, Medical Treatment Patent

1. 緒言

不老不死や,時間を巻き戻すことができるというのは,少なからず人間の

夢の一つであろう。2007 年 11 月 20 日,京都大学 山中伸弥教授が米科学

誌 Cell に,同日,ウィスコンシン大学のトムソン教授が,米科学誌 Sience に,

それぞれ掲載された論文は世界を驚かせた。生命体の遺伝子の中に,老化し

て衰弱したヒトの皮膚,臓器,神経などの細胞を,再生可能にする初期化を

実現するものが発見され,iPS 細胞(induced Pluripotent Stem Cells 人工

多能性幹細胞)として樹立され,日本と米国の同時の発表で全世界に明らか

になったのである。筆者は,2008 年 3 月経済産業省の委託を受けた遺伝子

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チップ標準化の検討委員会に加わり,JIS 規格のテクニカル・スタンダード

の原案作りの作業に参加し報告書がまとめられたが,その際も日本のバイオ

産業政策の国際標準化の遅れと促進の必要性が指摘された。生命の誕生と宇

宙の誕生は科学が探求する壮大なテーマであるが,21 世紀初頭に機を一に

して天文学の分野では,暗黒物質,暗黒エネルギーの存在が明らかになって,

その謎をめぐって世界中の同分野の研究者の間で議論が盛んに行われている。

バイオテクノロジーの分野では,今回の iPS 細胞の研究の基になっている

ES 細胞(Embryo Stem Cells 胚性幹細胞)が,“生物の発生の過程は逆戻り

ができないという常識を覆す発見”として世界に衝撃を与えたが,倫理的な

問題が立ち塞がっていた。なぜなら ES 細胞の研究における生命の萌芽とい

うべき受精卵の胚を取り出すことになる行為が倫理的な反対をもたらしてい

たからである。今回の iPS 細胞の成功は,ES 細胞の場合と異なり受精卵の

胚を必要としない。ES 細胞に共通する遺伝子の中から不可欠な4つの遺伝

子があれば,皮膚でも何でもあらゆる細胞から iPS 細胞は作成できるため,

ES 細胞にとっては宿命である倫理的な問題の解決に導いた。(注1参照)

科学技術の進歩は,発見,発明であり,発明は自ら発明家でもあったリン

カーン大統領の名言にもあるように,利益という炎に油が注がれて産業化に

向かう。その発明に独占権を与えて,イノベーションを促進し,産業社会の

進歩を目指すのが特許制度である。2008 年 9 月 12 日,日本の特許庁は,約

3 ヶ月という例の無い迅速さで,山中教授発明の京都大学の iPS 細胞の製造

方法についての特許を付与した。

IT 革命や,遺伝子組み換えによるバイオ革命は,その産業化を経て,新

たな革命的なイノベーションの段階を創出しつつあるが,知的財産をめぐる

状況の現状と問題点を把握するのが本稿の狙いである。IT の世界において,

「初期化」がいとも簡単に行なわれるように,生命の細胞の「初期化」が行

なえることがマウスだけでなくヒトの実験で明らかになった。今後,我が国

としてはバイオテクノロジー分野において山中教授による iPS 細胞の画期的

な発明を産業化の成功に結びつけることができるかどうかが期待されるが,

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

その際,法制度やコンソーシャムなど今後の成り行きの成否が注目されてい

る。本稿においては,iPS 細胞をめぐる日米欧等の技術競争を俯瞰し,知的

財産の分野として,技術をイノベーションに結び付けるための現状と問題点

を取り上げる。100 年に一度といわれる米国発の世界金融・経済危機のさ中,

日本発の iPS 細胞による人類の難病等の解決と新たな産業創出への期待を込

めつつ,現在の日本の取り組みの問題点について論じていきたい。

(注1)ヒト受精卵を用いた ES 細胞に関する技術競争が話題になっていたが,倫理的な観点からの反対運動や韓国における ES 細胞研究論文捏造事件も大きくクローズアップされ,再生医療技術の研究の遅れへの影響を懸念する印象が 2005 年頃には出ていた。しかしながら 1 年後の 2006 年 8 月に山中教授によってCell誌に発表されたマウスの iPS 細胞作成は,ES 細胞と同じ分化能を有しながら,胚を使用しなくても可能になった。そのため,倫理的な問題もクリアーされたことによって,一気に,再生医療技術の確立の展望が切り拓かれた。

  ES 細胞においてなぜ倫理が問題になるかというと,以下の点である。すなわち,神経系が発達した以降の胚を生命の萌芽とみなす考え方もあるが,一般的には,卵子が受精して発生を開始した受精卵以降を生命の萌芽として,それらの研究は,生命の萌芽をないがしろにするものとして倫理的見地からの反対論である。そもそも出生に至る生命をいつから始まるかについて科学で定義することは困難であり,古えから世界各地で人類の哲学的,宗教的な命題とされてきた問題である。先進国においては,米国ブッシュ政権は,2001 年 8 月に公的研究費による新たなヒト ES 細胞の樹立に拒否権を発動し,抑止してきた。欧州でのカトリックの総本山バチカンはもとより,米国においても宗教的な観点から共和党の支持層の反対論をバックにした政策であろう。このようにいずれヒトになりうる受精卵を破壊することに対する倫理的問題から現段階でのヒト ES 細胞の作成を認めない政策が各国で広まっていた。一方,パーキンソン病などの神経変性疾患,脊髄損傷,脳梗塞,糖尿病,肝硬変,心筋症など根治の無かった疾患を将来的に治療できる可能性から,日本など限定的にその研究を認める国に対応が分かれている。

ヒト ES 細胞研究に公的研究費を使用させないブッシュ大統領の下,米国

では新たにヒト胚を破壊してヒト胚性幹細胞を樹立する研究や樹立されたヒ

ト胚性幹細胞を使用する研究には,NIH(National Institute of Health 国

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立衛生研究所) ファンドに代表される米国連邦政府の資金は供給されていな

かった。しかしながら,民間資金の供給についてまでは連邦レベルの規制は

なく,州政府資金の供給についても州政府の判断に任されている。すなわち

公的研究費を用いない形での研究がハーバード大学幹細胞研究所などで行わ

れており,カリフォルニア州においては,Burnham 研究所などについてア

ーノルド・シュワルツネッガー知事が認める方向を打ち出すなど一部に見直

しの動きが見られていた。このうち,米国連邦政府の資金供給についての枠

組みはブッシュ政権下では維持されてきたが,米国では NIH のトップの人

事なども政権交代があれば入れ替えがおこり,それによって大きく方針が変

化することも往々にしてある。ブッシュ政権も,iPS 細胞研究については,

ES 細胞に係る倫理的な問題を解決する方法の一つとして歓迎の意を表明し,

早くも 2008 年 11 月オバマ氏の大統領選挙決定後連邦予算支出の凍結を解除

する方針を発表するなどの報道がなされている。

2. 本文

(1)バイオ特許の考え方

そもそも細胞に特許が可能かというと,バイオテクノロジーの進歩によっ

て,物としての動植物,微生物,遺伝子が,次々に特許法の対象として認知

されてきた経緯がある。本稿において幾多の事例を詳述することはできない

が,そうした結論に至るまで欧米や日本などで連綿と判例をめぐる論争,政

策論争の所産である。既知の物質である化学物質も,人為的に遊離され,産

業有用なものであり,進歩性のある発明と認定,すなわち審査官によって審

査されるものであれば,特許になるが,バイオテクノロジーが台頭する以前

の 1960 年ないし 70 年代頃においては,議論の余地があり 1976 年までは日

本の特許法でも認められていなかった経緯もある。科学技術の進歩によって,

法律の規定,運用は改変を迫られるということであり,IT の分野も同様で

ある。2009 年 1 月 5 日に,従来ソフトウェアを「物」として特許の保護対

象としてきた方針を見直し,無体財産としての権利化をより強化しようとす

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

る特許庁の方針が報じられているのもその現れの一つであろう。

日本では,米国における微生物への特許が認められたことを背景として(注

2 参照),1979 年に特許庁の「微生物の発明に関する運用基準」が発表され,

天然物として存在する微生物中から人為的に単離して格別の有用性を見出し

た場合には,化学物質同様に特許が可能とされ,1981 年に微生物自体の特

許が認められた。また,動植物の交配などによって新たな有用性のある品

種を産み出した場合など特許を認めることになり,1985 年に回虫駆除薬サ

ントニンの高含有率ペンタヨモギについて植物自体の特許が認められ,1989

年には,受精卵が容易に採取できる子宮角短縮豚の特許,1991 年にはヒト

白内障に酷似する疾患を遺伝的に発病するラットの特許が成立している。遺

伝子についても,化学物質と同様に,その遺伝子の利用可能な用途が判明し,

実施可能であれば特許が可能とされている。

(注 2)生命体に対する特許も,同じく物質特許という意味で,それが生成され応用される分野が無限の用途に広がる可能性を有しているために,化学物質同様に慎重な反対論があり,初めて米国で,GE 社の研究者であったチャクラバーティ博士の発明による石油分解の機能を有する微生物の特許について1980 年に連邦最高裁判決(Diamond v.Chakrabarty,447 U.S.303(1980))で,5対 4 という僅差の判定で認められた。それ以降,バイオ革命を米国の新産業として,IT 革命と並んで,世界の市場を独占しようという意図のもと,法制度的に肯定され,それまで独占禁止法を重視して特許による独占排他権を規制していこうという方針を転換し,プロ・パテント(特許重視)政策が続けられてきている。

  なお,「遺伝子特許ブルース-特許庁はゲノム革命に対応する準備ができているのか?」(ニコラス・トンプソン著 ワシントン・マンスリィ 2001 年4 月号)に米国の論議の背景について印象深い記述があるので以下引用する。

「1980 年代までは生命体には特許は付与されないという条件があったが,最高裁は,ダイアモンド対チャクラバーティ裁判について,遺伝子を使って作成された石油分解機能を有する微生物についてGE社は特許を有することができると判決を下した。判決は,裁判官の 5 対 4 の票決で決定したが,『太陽の下で地上のあらゆるもの』は,4つの基準(新規性,有用性,自明性,未公開性)が満たされていれば特許になりうると判示した。もちろん,反対論者は,この判決を受け入れるとしても,遺伝子は既にずっと存在し,新規性は

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ないと反論するであろう。宇宙飛行士ニール・アームストロングは,月へ最初に足を下ろしたが,月に特許を与えるのか? と。しかし,法律家は,その反論を御する術を心得ている。自然界にそのままの遺伝子でなく単体で取り出し,手を加えて,意味の無い DNA の紐を取り除いて純粋な形にして改変した遺伝子は,裁判所や特許事務所にとっては,単なる化学的な合成物にすぎない。1998 年当時の米国特許商標庁長官 Bruce Lehman は,『我々は,生命に特許を与えているのでなく,技術に与えているのである。』と述べている。」(以上,筆者仮訳,引用。巻末の参考文献 URL 参照。)

チャクラバーティ判決について,生命体に特許を与えるべきでないとの 4

名の裁判官の反対意見について考慮する見解も見られるが,自然状態そのも

のではなく,人間の手によって抽出,精製されたものに特許保護の対象とし

ての意義を見出すということで政策的な結論が落ち着いた。

(2)iPS 細胞に関する特許出願の経緯と概要

iPS 細胞や ES 細胞は,体内から取り出されたヒトや動植物の細胞,たと

えばある特定の表面抗原を発現している細胞集団のように,自然界で存在す

る形態とは異なる形で取り出された細胞や,遺伝子導入などによって新規に

創出された細胞として,「産業上利用できる発明」であり,物の発明として

特許になり得る。2007 年 11 月 20 日に日米で同日にそれぞれ iPS 細胞につ

いて発表があって以降,日米政府,産業界は,その特許化を目指して,しの

ぎを削ってきた。各国政府は,自国の産業を発展させようとして懸命に取り

組むのが産業政策の所以である。日本では,2002 年に内閣に設置された知

的財産戦略本部が中心になって,知的財産基本法を成立させ,特許庁も,日

本の国際競争力強化のために,幾多の懸案の政策課題を解決すべく改革を推

進させてきた。重要特許の審査の迅速化もその一つである。iPS 細胞の特許

については,物の発明としてでなく方法の発明として出願され約 3 ヶ月と

いう迅速なスピードで審査が行なわれた。2005 年 12 月 13 日に京都大学は,

マウス iPS 細胞の樹立に基づいた基礎出願を行い,2006 年 12 月 6 日にヒト

iPS 細胞等の実施例を追加した PCT(Patent Cooperation Treaty 特許協力

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

条約に基づく手続きの加盟国間の国際的枠組み)出願を行なっている。

その後,PCT の手続きにおける国際調査機関の見解書で,「進歩性を有し

ない」との報告がある。京都大学の PCT 出願の前に,山中教授は ES 細胞

の特異的遺伝子の出願(WO2002/097090),核初期化物質のスクリーニング

方法の出願(WO2005/080598)を自ら行なっていて,この出願が,いわば

あだとなった形である。せっかく技術的に優れていても,特許出願前に自ら

発表したりして公知となれば,新規性が失われ特許を受けられなくなること

もある。自らが先に特許出願した内容によりそれが公開されてしまえば後に

別に出した特許出願が新規性や進歩性の観点から拒絶されてしまうこともあ

る。研究者・技術者としては,こうした特許の基本的知識を知らなければ,

不利になってしまうこともあることは要注意であろう。本件については,国

際調査機関の見解書では,「上記 WO2005/080598 に記載の核初期化物質の

スクリーニング方法を用いて,核初期化因子を得ることは容易であるとし,

進歩性を有しない」とされており,これは自分で出した出願によって進歩性

が否定されたような形である。しかしながら,日本で特許第 418372 号とし

て成立し,やはり山中ファクターの 4 つの発見は,進歩性があると見られる

とともに,USPTO(米国特許商標庁)や EPO(欧州特許庁)は,PCT の

国際調査機関とは独立した調査と審査を行なうので,今後の各国での審査に

は影響は少ないと見られる。筆者が,日本の製薬企業,バイオを専門とする

弁理士事務所にヒアリングを行なったところ,上記の見解書はあまり影響し

ないという回答であった。(注 3 参照)

(注3)山中教授による ES 細胞の特異的遺伝子の出願(WO2002/097090),核初期化物質のスクリーニング方法の出願(WO2005/080598)

 ・国際出願番号 : PCT/JP2002/005350 国際出願日 : 2002 年 5 月 31 日  国際公開番号 : WO2002/097090 国際公開日 : 2002 年 12 月 5 日  出願人 : 山中 伸弥 外 1 名 発明者 : 山中 伸弥 外 1 名  発明の名称 : ES 細胞特異的発現遺伝子  

本発明は,配列表配列番号 1,2,3,4,5,6,7 または 8 に記載の塩基配列からなる DNA のいずれか一つ,あるいは配列表配列番号 9,11,13,15,

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17,19,21,23 または 41 に記載の塩基配列からなる DNA のいずれか一つを含むことを特徴とする ES 細胞選択用プローブおよびそれを用いた ES 細胞のスクリーニング方法に関する複数の ES 細胞特異的発現遺伝子(ECAT遺伝子)を同定し,当該遺伝子群の塩基配列情報を用いることにより,ES細胞選択用プローブを作成することが可能となる。ES 細胞を効率よく選択することにより,再生医療への応用が期待される ES 細胞の大量の取得が可能となる。

 ・国際出願番号 : PCT/JP2005/002842 国際出願日 : 2005 年 2 月 16 日  国際公開番号 : WO2005/080598 国際公開日 : 2005 年 9 月 1 日  出願人 : 山中 伸弥 外 1 名 発明者 : 山中 伸弥  発明の名称 : 体細胞核初期化物質のスクリーニング方法

(a) ECAT 遺伝子の発現調節領域により発現調節を受ける位置にマーカー遺伝子を存在させた遺伝子を含有する体細胞と被験物質とを接触させる工程,および(b) 前記(a)の工程の後,マーカー遺伝 子発現細胞の出現の有無を調べ,該細胞を出現させた被験物質を体細胞の核初期化候補物質として選択する工程,を含む,体細胞の核初期化物質のスクリーニング方法等を提供する。

京都大学は,国際出願 (PCT/JP2006/324881,国際公開 WO2007/69666,

国際出願日 2006 年 12 月 6 日 ) から日本国に移行手続きをした特許出願 ( 特

願 2007-550210 号,親出願 ) をもとに 2008 年 5 月 20 日に分割した特許出願

(特願 2008-131577 号,分割出願)を行なった。特許はこの分割された特許

出願に対して付与された。この特願 2008-131577 号については分割出願と同

時に早期審査請求を行い,約 3 ヶ月で特許されるに至った。この特許は,4

つの遺伝子を体細胞 ( 例えば皮膚細胞 ) に導入する工程により iPS 細胞を製

造する方法に関するもので,この方法で製造された細胞にもその権利が及ぶ。

2008 年 9 月 12 日登録の特許第 4183742 号「誘導多能性幹細胞の製造方法」(特

許権者 国立大学京都大学,発明者 山中伸弥 京都大学教授)であり,同

請求項目は,「体細胞から誘導多能性幹細胞を製造する方法であって,下記

の 4 種の遺伝子:Oct3/4,Klf4,c-Myc,及び Sox2 を体細胞に導入する工

程を含む方法。」である。迅速な特許付与には,米国に負けぬ迅速さで特許

していこうという日本政府の知財政策方針が示されている。(図 1 参照)

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

(3 )特許第 4183742 号「誘導多能性幹細胞の製造方法」と他の出願との関

係について

ヒトの人工多能性幹細胞(iPS 細胞)を,バイエル薬品の研究グループが

山中教授より先に作成し,作成技術に関する特許も出願済みとみられたこと

に関し,京大は,マウスの iPS 細胞作成後の 2005 年に山中教授が出願した

特許が,ヒトの iPS 細胞作成でも基本となる技術を含むため,大きな問題は

生じないとの見解が示されていた。他方,田中秀穂 京都大学大学院医学研

究科客員教授「iPS 細胞の科学,技術,イノベーション」(日本知財学会誌

Vol.5 No.1 - 2008: 13-18)によれば,2007 年 11 月 20 日の論文誌日米同時発

表であっても米国の「Thomson 氏の論文が 20 日間も先んじていることは注

目しなくてはならない。」と指摘されている点は,他国と違って先発明主義

をとる米国特許法では注意を要するものと考えられる。

iPS に関する特許第 4183742 号「誘導多能性幹細胞の製造方法」は,方法

の発明として権利化された。他方,2008 年 12 月 25 日に公開されたバイエ

ル社による特許公開 2008 - 307007 号「出生後のヒト組織由来未分化幹細胞

ES細胞に関連する遺伝子山中教授によって発見された iPS細胞の<山中ファクター=4つ又はc-Myc を除く3つの遺伝子>

Oct3/4(体を作り上げる遺伝子)Sox2(ES細胞にあり,神経関連の遺伝子)Klf4(ES細胞の増殖遺伝子,癌にも関連)c-Myc →(Klf4 と同じだが,癌化率高い)

Nanog(山中教授が発見して注目していたが不要と判断した因子)LIN28(山中ファクターには入っていない因子) Oct3/4(山中ファクターと同じ)Sox2(山中ファクターと同じ)

ウイルスを使わない方法の開発に注力(神経幹細胞を使う方法や,山中ファクターを注入しないでも,ロックされた山中ファクターをアンロックする方法の開発など) 

Ecat11, Esg1, Fbx15, Nanog,Eras, Dnmt31, Ecat8, Gdf3,Sox15, Dppa2, Dppa4, Fthl17,Sall4, Oct3/4,Sox2, Rex1,Utf1, Tcl1, Dppa3, Klf4,?-catenin, c-Myc, Stat3, Grb2

2 万数千の遺伝子 → 24の遺伝子 → 特許第4183742 号 

トムソン教授の iPS細胞の遺伝子

山中ファクター iPS 細胞作成の問題点:3つの遺伝子の注入へのマウスのウイルス利用

図 1 ES細胞から iPS 細胞へ 日米のファクターの比較と今後の課題

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から誘導したヒト多能性幹細胞」は,物の発明として出願されている。ここ

で物の発明か,方法の発明か違いはあるが,この点についても特許の世界で

は,幾多の判例,議論の経緯がある。特許法上,物の発明か方法の発明か(方

法の発明の中に物の生産を伴う方法の発明と単なる方法の発明と分類),こ

の場合,物の発明は,生産されたり流通されたりする過程で権利侵害を食い

止め易く,権利として強い。それに対して,方法の発明は,権利侵害してい

る現場の工場などの工程に踏み込んでみない限り,立証が中々難しい。他方,

方法の発明も有効性が全く弱いかというとそうでもなく,同じような物だが

少し違えていても同じ方法で権利侵害しようとする相手に対して,間接侵害

を食い止めるという効果は有する。物の生産を伴う方法の発明で特許化され

た場合でも,当該方法によって製造された物自体の生産,使用のほか,その

物の貸渡し・輸入,さらに譲渡や貸渡しの申出までが保護の対象となる。し

たがって,京都大学の iPS に関する特許第 4183742 号「誘導多能性幹細胞の

製造方法」については,4 つの遺伝子を体細胞 ( 例えば皮膚細胞 ) に導入す

る工程により iPS 細胞を製造する方法で製造された細胞まで特許権の効力が

及ぶ。

また,バイエル社の特許公開 2008 - 307007 号「出生後のヒト組織由来

未分化幹細胞から誘導したヒト多能性幹細胞」については,2008 年 12 月

25 日に公開により明らかになったので,京都大学の iPS に関する特許第

4183742 号と比較して検討する。すなわち,①作成された iPS 細胞そのもの

の権利化を申請するもの(京都大学の特許は製造方法の特許),②ヒトの新

生児の未分化な臍帯や皮膚から iPS 細胞を作成したもの(京都大学の特許は,

成人の皮膚から iPS 細胞を作成。また,ヒト,動物に限らず。),③ iPS 細胞

を作成する際に用いた遺伝子ファクターは,山中ファクターと基本的に同じ

であること,④遺伝子ファクターを注入する際の方法として,マウスのウイ

ルスを用いたことは同じであるが,ウィルスベクターの種類が,レトロウィ

ルスベクターでなく,アデノウィルスベクターであることの 4 点について以

下,特許文献などをもとに考察する。(図 2 参照)

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

まず,①については,すでに京都大学の iPS 細胞の製造方法に特許が登録

されている状況において,iPS 細胞そのものに物としての特許付与が可能か

(注)レトロウィルスベクターは,RNA系であり目的遺伝子が宿主の染色体に組み込まれるのに対して,アデノウィルスベクターは,DNA系であり,自発的な染色体への組み込み能力はないとされる。このことをもって,ヒト iPS細胞に組み込む際に,アデノウィルスベクターが優れているかどうかはとたには判断できないが,応用面での課題の解決の一つを示すものと考えられる。

京大の特許(第 4183742 号)

バイエル社の出願公開(2008-307007号)(出願日 2007年 6月15日)(原出願日2006 年 12月 6日)

権利範囲

iPS 細胞の対象

iPS 細胞を作成するのに用いた遺伝子ファクター遺伝子ファクターを注入する方法(ベクター)

iPS 細胞の製造方法(方法の発明として出願)ヒトの成人の皮膚を用いて作成。対象は,ヒト,動物に限らず。(より広い)山中ファクター(Oct3/4, Sox2, Klf4, c-Myc)

マウスのレトロウィルス(注)

作成した iPS 細胞自体(物の発明として出願)ヒトの新生児の臍帯,皮膚などを用いて作成。対象は,ヒトの新生児の未分化細胞。(より狭く特定)山中ファクターと基本的に同じ

マウスのアデノウィルス(注)

(注)iPS細胞に関する京都大学の特許とバイエル社の特許出願・公開内容について

京都大学の特許第 4183742 号【特許請求の範囲】【請求項1】 体細胞から誘導多能性幹細胞を製造する方法であって,下記の 4種の遺伝子: Oct3/4,Klf4,c-Myc,及び Sox2 を体細胞に導入する工程を含む方法

バイエル社の特許公開 2008-307007 号要約 : 【課題】移植細胞の免疫拒絶を回避できる患者自身のゲノムからなるヒトの ES

細胞と近似した性質を有するヒト多能性幹細胞を,出生後のヒト組織に由来する細胞から樹立することにある。

【解決手段】様々な出生後のヒト組織に存在する Tert,Nanog,Oct3/4 及び Sox2の各遺伝子が後成的な不活性化を受けていない未分化な幹細胞に Oct3/4,Sox2,及び Klf4 の 3つの遺伝子あるいはOct3/4,Sox2,及び Klf4 の 3つの遺伝子及び c-Myc 遺伝子又はヒストンデアセチラーゼ(HDAC)阻害剤を導入することでヒト多能性幹細胞を誘導できる事を見出した。

図2 iPS 細胞に関する京大特許とバイエル社の出願公開内容の比較考察

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どうか議論の余地があろう。②については,従来の研究からは,成人の分化

した細胞から iPS 細胞を作成することは,胎児や新生児の未分化な細胞より

困難と見られる点と,他方,成人の分化した細胞からの iPS 細胞を作成する

効率の観点がある。京都大学の特許が,ヒト,動物いずれも iPS 細胞は作成

可能であり,胎児や新生児の細胞に限っていない点で,バイエル社の出願内

容はより狭く特定している。

バイエル社の出願の発明の詳細な説明の【0066】10. ヒト出生後の組織に

存在する未分化な幹細胞から誘導されたヒト多能性幹細胞の用いた疾患治療

の方法において,「ヒト出生後の組織に存在する未分化な幹細胞は若い個体

に高い頻度で検出されることから,細胞バンク用の未分化な幹細胞は臍帯血,

臍帯,胎盤,新生児から取得した皮膚などが有効である。また成人でも,ド

ナーの身体状況に応じて骨髄,脂肪組織,末梢血,皮膚などから細胞バンク

用の未分化な幹細胞を採取することが可能である。本発明の各ドナー由来の

未分化な幹細胞はそのまま凍結保存するか,あるいは上述した本発明の方法

に従い,ヒト多能性幹細胞に変化した後に凍結保存することができる。」と

いう点は,ビジネスモデルとしては,出生時に,細胞バンクとして登録・保

存するという点で,倫理的な観点からも自らのものである限りはクリヤーさ

れる。また実際のニーズに合致していると思われるが,特許性の判断におい

ては,技術的な自明性の有無が問われるであろう。

③については,遺伝子ファクターは山中ファクターと基本的に同じである。

遺伝子の働きを変化させる酵素阻害剤の機能については,iPS 細胞作成に与

える効果,技術的な自明性等の観点から検討が必要であろう。④については,

現段階で iPS 細胞作成に当たっては細胞への遺伝子注入にウィルスベクター

を利用せざるをえないという点である。京都大学とバイエル社は異なる2つ

のウィルスベクターのタイプを用いているが,特許性の判断としてはウィル

スベクターは,iPS 細胞の発明の本質的な部分なのかについて検討がなされ

る必要があろう。

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

なお,【0096】実施例 2. アデノウィルスベクターの調製では,「本発明では,

多能性幹細胞の誘導のためにヒト細胞へのガン遺伝子(c-Myc)を含む遺伝

子をレトロウィルスベクターによって導入することが必須であった。この場

合,ヒト細胞に感染するアンフォトロピック(amphotropic)レトロウィル

スベクターを用いて遺伝子導入すると,目的以外のヒト細胞への感染が懸念

される。そこで,実験の安全性を担保するために,げっ歯類の細胞に感染し

ヒト細胞には感染しないエコトロピック(ecotropic)レトロウィルスベク

ターとその受容体であるマウス由来カチオニック・アミノ酸・トランスポー

ター1 (mCAT1) 遺伝子のアデノウィルスベクターを組み合わせることによ

って,ヒト細胞への遺伝子導入を実施した。」と,記載されている。

細胞の初期化に不可欠な遺伝子を細胞に注入するのにウィルスベクターを

用いることについて,安全性の観点から数多くのチェックを要するだろう。

しかしながら,レトロウィルスベクターでなく,アデノウィルスベクターで

ある点について,後者のほうが,注入先の細胞の染色体に目的遺伝子が組み

込まれることはないという特性はすでに 10 年前以上に明らかになっている

と言われている。さらに,ウィルスベクターそのものを用いない iPS 細胞作

成方法についても,現在の研究課題となっている。この点で,もし今後例え

ばウィルスベクターそのものを用いない iPS 細胞作成方法について,特許が

成立するならば,再生医療の標準的な方法としては新たな基本特許になって

いくことも可能性としてはあり得るだろう。

以上のように,すでに特許登録された京都大学の iPS 細胞製造方法の特許

は,バイエル社の特許出願と比べて,出願日が,元の PCT 出願日(2006 年

12 月 6 日)が確保され,先願主義の下では,バイエル社の出願(2007 年 6

月 15 日)より早く,山中ファクターが基本的に同じものが用いられている

など,現時点で世界の頂点を占める基本特許の一つであるというポジション

に間違いない。この場合,バイエル社の特許出願については,新たな技術的

解決課題を提示したものとして審査されるならば,特許化される可能性はあ

る。他方,一般に特許戦略の基本として,いかにレベルの高い基本特許であ

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っても,実用化というプロセスに移行していくには,様々な応用特許との関

係でその後の影響力が変わってくるものである。すなわちバイエル社のみな

らず,現在米国等海外からの急激な巻き返しの特許出願戦略が繰り広げられ,

その中で日本一国の特許のみで世界のイノベーションをリードできるとは考

えられない。こうした観点から 2009 年 1 月 5 日の報道で京都大学が,パー

キンソン病について iPS 細胞を作成して成果を発表したハーバード大学との

協議に入る予定であることなどの動きも出ているものとみられ,日本が iPS

細胞に関するイノベーションにおいて,どの分野で標準化を形成するか,ど

の分野で特許権の優位性を確保できるのか急務の課題である。

(4)医療関連技術に関する特許の問題点

iPS 細胞を使って,今後様々な医療,創薬への用途が考えられ,日進月歩

で実用化を目指す研究成果が報道されている。マウスの脊髄損傷について慶

応大学で iPS 細胞を移植して 20%の改善が見られたり,マサチューセッツ

工科大学では,アフリカ系に多いヒトの鎌状赤血球症の治療を目指して,マ

ウスでの血液幹細胞を iPS 細胞で作った発表などである。ヒトの皮膚細胞か

ら作られることに成功した iPS 細胞は,ES 細胞のように受精卵を壊して使

ったり,他人の細胞を使うことによる拒絶反応がなく,自分の細胞を使って,

悪くなった臓器,筋肉,網膜,神経,皮膚,血液などあらゆる部位を取り替

えることができる再生医療の道を開いた。今後,医療関連技術における特許

の取得が,日米欧さらに新たに研究に注力しはじめた中国などでも産業競争

上問題になってくる。医療関連技術の特許をめぐる問題の前提として,バイ

オテクノロジーに関する特許や知的財産の状況を以下に述べる。まず,iPS

細胞は,再生医療技術を確立するものとして医療技術分野において,日米欧

等がその特許をめぐってしのぎをけずっている。知的財産には特許以外のも

のもあるが,iPS 細胞についてその画期的な技術について特許権による保護

が中心である。さらに特許権による保護とともに,あえて特許にしないが重

要な企業秘密,ノウハウ,応用・周辺技術も知財戦略上少なからぬ意義を有

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

する。なお,製品化に至っては商標権や意匠権などの産業財産権も重要にな

るが,これらは今の段階はまだ具体的な段階に至ってはいない。すでに,物

質特許や遺伝子の製造方法等についての iPS 細胞についての特許の経緯と概

要について述べてきたので,以下,今後問題になるべき医療方法についての

特許の状況を概観する。

医療方法は,日本で特許にならないが米国では特許になるというのは,原

則として特許法上(第 29 条第 1 項柱書)産業有用性のないものとして特許

庁の審査基準で取り扱われている。こうした背景には,第一に特許法が各国

で独立して存在し,特許独立の原則として,それぞれの国毎で特許をとらな

ければ対象国で保護されない事情がある。第二に,法律は成立した瞬間に,

新しい画期的な技術や経済,社会の変動に遅れをとってしまい,その後政策

論争を経て,改正されるという事情がある。

現在,日米欧の特許制度において,医療行為そのものを特許の対象にして

いるのは米国のみである。日本では,医療行為に特許を認めるべきかどうか,

医者の倫理や患者の医療を受ける権利との関係からもともと特許になじまな

いものとされて産業上の利用可能性がないものとして除外されてきた。しか

しながら近年,再生医療などにおいて遺伝子技術を使って医療行為に関する

産業上の有用性のある方法が注目されて,議論が起こり,部分的には見直し

が行われきている状況になっている。現行の特許庁の審査基準で,医療行為

がどのように位置付けられているか,特許・実用新案審査基準第Ⅱ部第1章

2.1は,下記のように規定している。

(以下,『 』内は,特許・実用新案審査基準第Ⅱ部第1章 2. 1 で,「産業上

利用することができる発明」に該当しないものの類型としての引用)

『 ⑴ 人間を手術,治療又は診断する方法

人間を手術,治療又は診断する方法は,通常,医師(医師の指示を受けた

者を含む。以下同じ。)が人間に対して手術,治療又は診断を実施する方法

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であって,いわゆる「医療行為」と言われているものである。医療機器,医

薬自体は,物であり,「人間を手術,治療又は診断する方法」に含まれないが,

医療機器(メス等)を用いて人間を手術する方法や,医薬を使用して人間を

治療する方法は,「人間を手術,治療又は診断する方法」に該当する。

医療機器の作動方法は,医療機器自体に備わる機能を方法として表現した

ものであり,「人間を手術,治療又は診断する方法」に該当しない。ここで

いう医療機器の作動方法には,医療機器内部の制御方法に限らず,医療機器

自体に備わる機能的・システム的な作動,例えば,操作信号に従った切開手

段の移動や開閉作動あるいは放射線,電磁波,音波等の発信や受信が含まれ

る。医師の行為 (例:医師が症状に応じて処置するために機器を操作する行

為)や機器による人体に対する作用(例:機器による患者の特定部位の切開・

切除)を含む方法は,ここでいう医療機器の作動方法には該当しない。人間

から採取したもの(例:血液,尿,皮膚,髪の毛,細胞,組織)を処理する

方法,又はこれを分析するなどして各種データを収集する方法は,「人間を

手術,治療又は診断する方法」に該当しない。ただし,採取したものを採

取した者と同一人に治療のために戻すことを前提にして,採取したものを処

理する方法(例:血液透析方法)は,「人間を手術,治療又は診断する方法」

に該当する。人間から採取したものを原材料として医薬品(例:血液製剤,

ワクチン,遺伝子組換製剤)又は医療材料(例えば人工骨,培養皮膚シート

などの,身体の各部分のための人工的代用品または代替物)を製造するため

の方法は,人間から採取したものを採取した者と同一人に治療のために戻す

ことを前提にして処理する方法であっても,「人間を手術,治療又は診断す

る方法」に該当しない。人間に対する避妊,分娩などの処置方法は,上記「人

間を手術,治療又は診断する方法」に含まれる。なお,手術,治療又は診断

する方法の対象が動物一般であっても,人間が対象に含まれないことが明ら

かでなければ,「人間を手術,治療又は診断する方法」として取り扱う。

①人間を手術する方法

人間を手術する方法には,外科的手術方法,採血方法などが含まれる。こ

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

れには,美容・整形のための手術方法のように,治療や診断を目的としない

ものも含まれる。また,手術のための予備的処置方法(例:手術のための麻

酔方法)も手術と密接不可分なものであるから,人間を手術する方法に含ま

れる。

②人間を治療する方法

人間を治療する方法には,以下のものが含まれる。

(ⅰ )病気の軽減及び抑制のために,患者に投薬,注射,又は物理療法など

の手段を施す方法

(ⅱ)人工臓器,義手などの代替器官を取り付ける方法

(ⅲ)病気の予防方法(例:虫歯の予防方法,風邪の予防方法)

   なお,健康状態を維持するために処置する方法(例:マッサージ方法,

指圧方法)も,病気の予防方法として取り扱う。

(ⅳ )治療のための予備的処置方法(例:注射部位の消毒方法),治療の効果

を上げるための補助的処置方法(例:機能回復訓練方法),又は看護のた

めの処置方法(例:床ずれ防止方法)

③人間を診断する方法

人間を診断する方法には,病気の発見,健康状態の認識等の医療目的で,

人間の身体の各器官の構造・機能を計測するなどして各種の資料を収集する

方法,及び人間の病状等について判断する方法が含まれる。

以下のものは,人間を診断する方法に該当する。

(ⅰ )病気の発見,健康状態の認識等の医療目的で,人間の内部若しくは外

部の状態,又は,人間の各器官の形状若しくは大きさを計測する方法。

例 1:X線により人間の内部器官の状態を測定する方法。

例 2:皮膚のただれ度を測定する方法。

(ⅱ )人間の各器官の構造・機能の計測のための予備的処置方法。

例:心電図をとるための電極の配置方法。

   ただし,病気の発見,健康状態の認識等の医療目的以外の目的で人間の

各器官の構造・機能を計測する方法自体は,ここでいう,人間を診断する

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方法に当たらない。

例 1:美容(手術によるものを除く)のために人間の皮膚を測定する方法。

例 2:服の仕立てのために人間の体格を計測する方法。

例 3:指輪を作るために人間の指を計測する方法。

(注 )医療機器の作動方法に該当する方法は,ここでいう「人間を手術,

治療又は診断する方法」には含まれない。

⑵ その発明が業として利用できない発明

市販又は営業の可能性のあるものについての発明は業として利用できる発

明に当たる。これに対し,次の(ⅰ),(ⅱ)は,その発明が業として利用で

きない発明であって,「産業上利用することができる発明」に該当しない。

(ⅰ)喫煙方法のように,個人的にのみ利用される発明

(ⅱ)学術的,実験的にのみ利用される発明

ただし,「髪にウエイブをかける方法」のように,個人的に利用されうる

ものであっても,業として利用できる発明であれば,「個人的にのみ利用さ

れる発明」に当たらない。また,学校において使用される「理科の実験セッ

ト」のように,実験に利用されるものであっても,市販又は営業の可能性が

あるものは,「学術的,実験的にのみ利用される発明」に該当しない。』

以上のように「産業上利用することができる発明」(特許法第 29 条第 1

項柱書)に該当しないものの類型のトップに「人間を手術,治療又は診断す

る方法」が規定されてきている。(注4参照)こうした日本の規定において,

再考を迫った判決があった。2002年4月11日のドイツ企業の国際出願(PCT)

経由の特許出願(特願昭 63-504700 号「外科手術を再生可能に工学的に表示

に対するための方法及び装置」)に対する拒絶査定を不服として当該企業が

日本の裁判所に拒絶審決の取消訴訟を提訴したが,医療行為は産業上利用で

きる発明ではないとの判決が東京高等裁判所において出された。但し,この

判決においても,医療行為に対して,「立法論としては,傾聴すべきものを

有している。」という評価を下し,以後の日本での検討に影響を与えた。こ

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

うした状況において,2002 年 7 月に公開された「知的財産戦略大綱」で「近

年進展の著しい再生医療及び遺伝子治療関連技術については,皮膚の培養方

法,細胞の処理方法等の新技術が生まれている。そのような技術開発の発明

を更に促進するため,特許法における取扱いを明確化すべく,2002 年度中

に法改正及び審査基準改訂の必要性について検討し,結論を得る。なお,本

検討に当たっては,医師による医行為等に影響を及ぼさないよう,十分配慮

する」との指摘がなされた。

これを受けて,産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会のワー

キング・グループでは,医療関連行為(医行為の他,医行為以外の医療関連

行為を包含する概念)一般について特許付与の対象としないとの現行の整理

を改めるべきかについても議論がなされ,医療関連行為一般を特許付与の対

象とする一方で,医師の行為は免責とするという所謂「川下規制」による整

理と現行の「川上規制」による整理の利点・留意点について議論が行われたが,

医療関連行為全般にわたって特許付与の対象とすることについては合意を形

成するに至らず,「人間に由来するものを原料又は材料として医薬品又は医

療機器(例:培養皮膚シート,人口骨)を製造する方法」については,同一

人に治療のために戻すことを前提とするものであっても特許付与の対象とす

るように特許庁の審査基準が改訂(2003 年度改訂)されるにとどまったが

一定の前進と言え,2008 年 6 月までの特許登録件数は 76 件となっている。

その後,2003 年の「知的財産の創造,保護及び活用に関する推進計画」に,

「患者と医師の信頼関係の下で等しく行われるべき医行為等に悪影響を及ぼ

さないよう十分配慮しつつ,患者がより先進的な医療を受けられるなど,国

民の保健医療水準の向上に資する有用で安全な医療技術の進歩を促進する観

点から,医療関連行為の特許法上の取扱いについて幅広く検討するための場

を設け,2004 年度中の早い時期に結論を得る。」ことが盛り込まれ,2005 年

度改訂では,複数の医薬の組合せや投与間隔・投与量等の治療の態様で特定

しようとする「医薬発明」,医療機器自体に備わる機能を方法として表現し

た「医療機器の作動方法」を特許の対象とされた。今後さらに,「人間に由

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来するものを原料又は材料として医薬品又は医療機器(例:培養皮膚シート,

人口骨)を製造する方法」については,同一人に治療のために戻すことを前

提とするもの以外についても特許付与の対象とするかどうかの議論や,米国

のような医療関連行為一般を特許付与の対象とする一方で,医師の行為は免

責とするという所謂「川下規制」による整理と現行の「川上規制」による整

理の調整についての検討が進むことが課題となっている。

(注 4)日米欧の医療行為に関する特許法上の規定の根拠条文 特許法 29 条 1 項柱書及び特許・実用新案審査基準 産業上利用することができる発明をした者は,……その発明について特許を

受けることができる。(特許法) 人間を手術,治療又は診断する方法は,「産業上利用することができる発明」

に該当しない。(審査基準)

 米国特許法 287 条 C 項  医師が侵害に該当する医療行為を実行した場合は,差止請求権,損害賠償請

求権,弁護士費用請求権の規定は,かかる医師又は当該医療行為に関与する関連医療機関には適用されないものとする。(C 項(1))

  「医療行為」とは,身体に大して医療措置又は外科的措置を施すことをいうが,……バイオテクノロジー特許に違反する方法の実施はこれに含まれない。(C項(2)(A))

 欧州特許条約 52 条 欧州特許は,……産業上利用可能性のある発明に対して付与される。(1 項) 外科術又は治療術により人間又は動物の身体を処理する方法及び人間又は動

物の身体に実施する診断方法は,産業上利用することができる発明とはみなさない。(4 項)

米国においては,もともと医療方法の発明を特許の対象とはなっていなか

ったが,1950 年代に医療方法も特許付与の対象とする運用となった。しかし,

その後,1993 年に医師が特許権の侵害で訴えられる事件が発生したことを

契機として法改正の議論が起こり,1996 年に,米国特許法が改正され医療

方法も特許保護の対象とする従来の原則が明文の規定化されたが,医師等に

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

対する特許侵害の免責規定が導入された。そのため,医師や病院などの医療

機関が特許化された医療行為(人体に対する医学的,外科的施術)を行なっ

ても,特許権の侵害であるとしても差止めや損害賠償の責任を問われること

はない。ただし,医療方法の実施が①医療機器や医薬品などの物の特許,②

医薬品の使用方法の特許,③バイオテクノロジーの特許を侵害する場合は,

免責の対象外となっており,免責の対象はある程度限定的なものとなってい

る(米国特許法第 287 条第c項(1)(2)参照)。③のバイオテクノロジー

の特許を侵害する場合については,幅広い解釈の余地があるが,遺伝子治療

のような技術を対象としているものと考えられ,米国のバイオ業界の要請を

受けた結果とも言われている。

(5)iPS 細胞に関するイノベーションの取り組みの状況

従来 ES 細胞が研究の主流であった細胞の初期化(リプログラミング)の

研究を一気にヒトの皮膚から iPS 細胞を作ることに成功したのは山中伸弥教

授であり,世界の研究は一変した。山中教授の使った皮膚の細胞は,36 歳

の白人女性の頬の皮膚の細胞であり,米国の会社で販売されていたものを使

ったということである。日本では,人間の細胞を使う研究は手続きに時間を

要するということであり,こうした点でも研究者が研究をし易い米国の環境

が窺える。2003 年に行なった米国の国立衛生研究所(NIH)の出身の日本

人研究者への調査で,メリーランド州にベンチャー企業を設立した方を筆者

が独立行政法人 産業技術総合研究所の調査チームとともに訪問した際も,

ベンチャー企業からの調達面でも,日本の大企業は,取引実績のないベンチ

ャー企業からの調達は,消極的であるとのインタビュー結果であった。ブッ

シュ政権は,宗教的な倫理上の観点から,ES 細胞の研究への連邦政府研究

費の支出をストップをかけたが,州政府や産業界の研究支援は,山中教授の

共著「iPS 細胞ができた」によれば 2 桁ほど日本より多いとの話である。同

教授の研究によって先駆けとなったものの,その後,米国の研究は,ウィス

コンシン大学のトムソン教授が,山中教授と同日にヒト iPS 細胞作成を発表

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(Sience 誌)し,それ以外にも MIT のマウスでの鎌状赤血球症治療(2007

年 12 月 6 日),ハーバード大学等のパーキンソン病患者のヒト iPS 細胞作成

発表,UCLA のヒト iPS 細胞作成(2008 年 2 月 26 日)など次々と発表され,

治療応用についても早くも成果が発表されるなど,米国の研究と医療産業応

用化の取り組みのレベルの高さと層の厚さが見られる。さらに,海外では,

中国で北京大学などの研究チームが,2008 年 12 月 4 日にサルの皮膚で iPS

細胞を作ることに成功している。

日本では,京都大学のほか,山中教授との共同研究をベースに慶応大学

(脊髄損傷),理化学研究所(網膜再生),東京大学(血小板)の 4 研究拠点

が 2008 年 2 月に文部科学省により発表され,政府の総合科学技術会議の作

業部会で,各機関の特許の一元的な管理についての枠組みの整備が提唱さ

れ,さらに同省は,2008 年度中に iPS 細胞の研究ネットワークの形成を進

めている。京都大学は,2008 年 5 月に大和証券グループ本社,三井住友銀

行などの協力で「iPS ホールディングス」を設立し,下部組織として特許管

理会社「iPS アカデミアジャパン」を置いた。大学主体でパテントプールま

で想定した会社を設立したことは,日本ではなく米国でも例がないとも言わ

れている。他方,特許庁は 2008 年 4 月までに「幹細胞関連技術」報告書を

まとめ,そこでは,iPS 細胞独自の技術体系ができるわけではなく,ES 細胞,

体性幹細胞などそれ以外の幹細胞の関連技術とオーバーラップしていく課題

を提示しており,今後京都大学が設立した iPS 細胞に関する持株会社,特許

管理会社が,どのように関連する幹細胞技術との関連において機能していく

のか注目される。筆者は,既存の TLO とのダブルスタンダードとなるから,

今回の京都大学の持株会社,特許管理会社が,問題であるとの批判は必ずし

も当たらないと考える。なぜなら,TLO を作ったからと言って,その TLO

が iPS 細胞の特許管理にふさわしいかどうかは,実効性の観点から判断され

ることがあっても組織の決定である限り,法制度上問題がなければ組織の自

由であるはずだからである。他方,京都大学だけにクローズにされることと

なれば,他の拠点とのオープンな連携にとってマイナスとなる可能性もある。

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

いずれにしても日本の政府の支援策だけでなく,新薬や医療方法の特許や,

薬価基準の問題など関係政府機関,産業界との調整等底流にある問題点につ

いても,日本初のバイオ・イノベーションを世界の標準化につなげていこう

という目的意識をどう実現していくか課題は多い。

 3.まとめ

今世界は 100 年に一度の経済危機に苦しんでいる。しかし目を世界の農村,

漁村に目を向ければ,100 年前と同じ暮らしをしている人々にはそう大きな

変化はないはずだ。エイズの薬を欧米の創薬メーカーが開発しても,高額な

特許料を上乗せした治療薬を途上国の人々は購入できない。先進国,なかん

ずく日本が得意とする環境分野での技術について,特許の独占排他権を主張

し,地球温暖化の国際会議で,イノベーションの促進の観点から特許権の保

護を主張しても,中国などが途上国の立場を代弁して,環境技術の無償開放

を主張したとき世界の世論はどう反応するだろうか?米国主導で日本もその

後塵を拝しながらプロ・パテント(特許重視)政策を突き進めてきて,産業

界もその旗印に従って研究開発,技術経営戦略を進めてきたが,IT でもバ

イオでも環境でも,プロ・パテント(特許重視)を否定するとまではいかな

いまでも,オープンソースの一層の重視や,プラットフォーム化とその上に

立ったアプリケーション戦略の見直しが急速に進められている。

本稿で取り上げた iPS 細胞の特許化とイノベーションの産業化について

も,今世界の市場は,単発の基本特許だけでマーケットが押さえられるほど

単純ではない。筆者は,2008 年に遺伝子チップの JIS(日本工業規格)の TS(テ

クニカルスタンダード)原案作成に携わった経験から,基本特許をもとにし

た標準化と,その上に立ったアプリケーション技術・特許の組合せには,米

国のリードは言うまでもないが,日本においても取り組みを官民で並々なら

ぬ意気込みで進めていかなければならないと認識している。こうした背景か

ら,iPS 細胞についての日本での特許が製造方法の特許という形にせよ早期

に登録されたのは大変評価されるべきだと思うが,各国における特許化はこ

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れからが勝負であるし,単発の特許だけでなく,プラットフォーム化につい

て,たとえば電子産業分野における,MP3 や次世代 DVD などの国際規格

前のパテントプラットフォームの国際的な取り組みの成功事例のように,バ

イオ・イノベーションの分野においても日本の産業政策の新たな柱として取

り組みがなされることが期待されている。(図 3 参照)

日本:2008 年 再生医療などのスーパー特区「先端医療開発特区」で予算重点配分決定(2008 年度以降 5年間で 100億円。)

   京都大学が大和証券グループ本社,三井住友銀行などと有限責任中間法人   「iPS ホールディングス」設立。その下に特許管理事業会社「iPSアカデミアジャパン」       今までの iPS細胞応用研究事例:マウスでの脊髄損傷への適用                   (慶応大学 岡野栄之教授)など。

米国:ブッシュ政権は,ES細胞への国家研究予算に拒否権発動。オバマ新政権は,iPS細胞研究支援に動くと見られる。

   州政府レベルでは,カリフォルニア州が,10年間で 30億円(3000 万ドル)など。   

今までの iPS細胞応用研究事例:マウスでの鎌状赤血球症治療(マサチューセッツ工科大学)など

米国の強み:国家予算のみならず,州政府,民間企業,個人の財政的支援,再生医療での層の厚い研究組織,人員の iPS細胞分野へのダイナミックな投入,試料等の規制の柔軟さ。

日本の現状:治療目的でのヒトクローン胚作成の許可制導入などの,先進的な政策の評価もできるが,実際の運用面での手続き,大学院生,博士課程などの研究参画の際の厳格な審査などにより広範な研究層の形成には不十分さもある。

日本の iPS細胞によるイノベーションとしては,再生医療の面に加えて,研究ツールとして,創薬,診断等への適用に可能性が大きいと期待される。日本の iPS細胞によるイノベーションとしては,再生医療の面に加えて,研究ツールとして,創薬,診断等への適用に可能性が大きいと期待される。日本の iPS細胞によるイノベーションとしては,再生医療の面に加えて,研究ツールとして,創薬,診断等への適用に可能性が大きいと期待される。

図 3 日本の iPS 細胞によるイノベーションの今後の課題

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iPS 細胞の特許と日本のバイオ・イノベーションの方向性について

(参考文献)1)Shinya Nakayama, “Introduction of Pluripotent Stem Cells from Adult Human

Fibroblasts by Defined Factors”, Cell 30 Nov.2007 Vol.131, Issue 5 Leading Edgde, p861

 http://www.cell.com/fulltext/S0092-8674(07)01471-7 参照2)James A. Thomson, “Induced Pluripotent Stem Cell Lines Derived from Human

Somatic Cells” Originally published in Science Express on 20 November 2007 Science 21 December 2007: Vol. 318. no. 5858, pp. 1917 – 1920 http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/318/5858/1917 参照3)Hideki Masakia, Tetsuya Ishikawa, Shunichi Takahashia, Masafumi Okumurab,

Noriko Sakaia, Megumi Haga, Katsuya Kominamia, Hideyuki Migita, Fiona McDonald, Fumiki Shimada and Kazuhiro Sakurada, “Heterogeneity of pluripotent marker gene expression in colonies generated in human iPS cell induction culture”,Received 21 December 2007; revised 9 January 2008,Stem Cell Research Vol. 1, Issue 2, June 2008, pp.105-115

 http://www.sciencedirect.com/science?_ob=Ar ticleURL&_udi=B8G43-4RR1P10-1&_user=10&_coverDate=06%2F30%2F2008&_rdoc=1&_fmt=high&_or ig=browse&_sor t=d&view=c&_acct=C000050221&_vers ion=1&_urlVersion=0&_userid=10&md5=c247c4e58ac8019b35ec58e6376911a5 参照

4)Nicholas Thompson, “Gene Blues – Is the Patent Office prepared to deal with the genomic revolution?”, Washington Monthly April 2001

 http://www.washingtonmonthly.com/features/2001/0104.thompson.html 参照5)産業構造審議会 知的財産政策部会特許制度小委員会医療行為ワーキング

グループ「医療関連行為に関する特許法上の取扱について」(2003 年 6 月)http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/toushintou/iryou_toriatukai.htm 参照

6)首相官邸「知的財産の創造,保護及び活用に関する推進計画」(2003 年) http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/030708f.html 参照7)総合科学技術会議 基本政策推進専門調査会・iPS 細胞研究 WG とりまとめ(2008 年 7 月 3 日) 

 http://www8.cao.go.jp/cstp/project/ips/ 参照8)特許庁 「特許・実用新案審査基準 第Ⅱ部特許要件 第 1 章 産業上利用

できる発明」 http://www.jpo.go.jp/shiryou/kijun/kijun2/pdf/tjkijun_ii-1.pdf 参照9)特許庁 HP 上の特許等検索データベース「特許電子図書館」 http://www.ipdl.inpit.go.jp/homepg.ipdl 参照10)内閣官房 知的財産戦略本部「知的財産推進計画 2008」 http://www.ipr.go.jp/sokuhou/2008keikaku.pdf#search 参照

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11)竹田英樹,壬生優子「再生医療関連特許と iPS 細胞」(2008 年 8 月),日本知財学会 Vol. 5 No.1-2008: 5-12, p5-12

12)田中秀穂「iPS 細胞の科学,技術,イノベーション」(2008 年 8 月),日本知財学会誌 Vol. 5 No.1-2008: 5-12, p13-18

13)畑中正一,山中伸弥 「iPS 細胞ができた」(2008 年 5 月),集英社14)矢澤寛茂「iPS 細胞が開いた日本の知的財産の地平」(2008 年 8 月),日本

知財学会誌 Vol. 5 No.1-2008: 5-12, p19-2615)八代嘉美「iPS 細胞」(2008 年 7 月),平凡社新書