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99 winnicott のシゾイド論 :偽 りの自己 - 1.シゾイ ドパーソナ リテ ィの位置づけ winnico t t,D.W.(1896-1972)は当初, クライン派 と近 しい立場 にあ ったが,のちに枚 を 分かち,独 自の説 を発展 させてい った。早期 の心 的発達 に関 して, meinの抑 うつ態勢の概念 は評価 し,この心理力動の詳細 を研究 したが,一方,妄想 一分裂態勢,死の本能,羨望 といっ た概念化 に関 しては認めがたい として,Fairbai m,W,R,D.(1952)以上に 「依存」 を重視す る発達論 ,治療論 を展 開 した。 彼 は小児科医 として出発 した。そ して精神分析家 になったのち も,それ と並行 して小児科医 としての臨床活動 を継続 した。そのため成人治療で再構成 される過去の母子関係のみならず, 現在進行 中の母親 一幼児関係 を臨床 的 に観察 し得 た。彼が治療 にあたった母子 は 6 万例 にのは る とい う。 こうした乳幼児,母子 を対象 と した臨床経験が,彼 の理論構築や治療技法 に多大 な 影響 を与 えた。 自立的で能動的 に環境 に働 きかける大人 と遠い,子 どもは他者 (母親)ととも にある存在であ り,外 的環境か らの影響 を被 らざるを得 ない存在 である。 この事実 によって関 係性のなか にあ る自己, 自己が存在す る場 に関す る思索が促 された。 winni。。 ttは外 的な環境要因 とくに母子関係 を強調 し,赤 ん坊 というものは存在せず,母親 と一緒 になった乳児,母親 -乳児のユニ ッ トがあるのみである とした。またクライン派 と相違 して Freud,S. の 1次ナルシシズムの考えを受け入れ,発達最早期 における自他未分化な母子 一体性 を成長過程 において重要視 した。 精神疾患 の病 因 に関 して も環境 要因 をきわめて強調す る。彼 は 「環境側 の失敗 thefailure 。fenvir。nment 」 とこれ を表現す る。精神 病 に関 して,端 的 に 「環境 欠乏病 environmental def iciencydisease (1953)であ る とい う見解 も述べ てい る。 こう した観点 は Bowlby ,J ・の 愛着理論 とも親和性 をもつ もの と言 える (Holmes1993) さて Winni。ott は, シゾイ ドパ ーソナ リテ ィの基礎 に以下の 2 点 をあげてい る。 (1) 自我 機構の歪曲。これは解離,分裂のことである。( 2 ) 自己 を保持す るための特殊 な防衛。つ ま り「世話役の自己 caretakerselfJ , 「偽りの自己 falseself 」の組織化。 自我 を分裂 させ,偽 りの 自己を組織化することは,環境側の失敗,つ ま り母親が子 どもの 自 我 をうま く支持 してやれなか ったことに起因 して生 じた, これ以上 「傷つかない ことへ 向けて の組織化」である, とWinnico ttは考える (1 967b)。 こうした環境側の失敗はシゾイ ドパーソナリティのほか,小児分裂病,早期幼児 自閉症,港 在性分裂病,偽 りの 自己 による防衛 といった人格 の障害 を引 き起 こす としてい る (Winnicott 1962a 以下,特 に引用 ・参考文献の著者名 を明示 しない ものは Winnicott のもの)。 従 って Winni。。tt は分裂病やシゾイ ドタイプの病理をある時期への病的退行 とは捉えな い。そ うではな くて 「分裂病 と,特 に境界例 とい う疾患 を洗練 された防衛組織化 sophisticated defenseorganizationとして理解」 (196 7b邦訳② pl13強調著者)す る立場 にたつo

winnicottのシゾイド論:偽りの自己 winnicottのシゾイド論:偽りの自己 高 森 淳 - 1.シゾイドパーソナリティの位置づけ winnicott,D.W.(1896-1972)は当初,クライン派と近しい立場にあったが,のちに枚を

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winnicottのシゾイド論 :偽りの自己

高 森 淳 -

1.シゾイドパーソナリティの位置づけ

winnicott,D.W.(1896-1972)は当初,クライン派と近しい立場にあったが,のちに枚を

分かち,独自の説を発展させていった。早期の心的発達に関して,meinの抑うつ態勢の概念

は評価し,この心理力動の詳細を研究したが,一方,妄想 一分裂態勢,死の本能,羨望といっ

た概念化に関しては認めがたいとして,Fairbaim,W,R,D.(1952)以上に 「依存」を重視す

る発達論,治療論を展開した。

彼は小児科医として出発した。そして精神分析家になったのちも,それと並行して小児科医

としての臨床活動を継続した。そのため成人治療で再構成される過去の母子関係のみならず,

現在進行中の母親一幼児関係を臨床的に観察し得た。彼が治療にあたった母子は6万例にのは

るという。こうした乳幼児,母子を対象とした臨床経験が,彼の理論構築や治療技法に多大な

影響を与えた。自立的で能動的に環境に働きかける大人と遠い,子どもは他者 (母親)ととも

にある存在であり,外的環境からの影響を被らざるを得ない存在である。この事実によって関

係性のなかにある自己,自己が存在する場に関する思索が促された。

winni。。ttは外的な環境要因とくに母子関係を強調し,赤ん坊というものは存在せず,母親

と一緒になった乳児,母親 -乳児のユニットがあるのみであるとした。またクライン派と相違

してFreud,S.の1次ナルシシズムの考えを受け入れ,発達最早期における自他未分化な母子

一体性を成長過程において重要視 した。

精神疾患の病因に関しても環境要因をきわめて強調する。彼は 「環境側の失敗 thefailure

。fenvir。nment」とこれを表現する。精神病に関して,端的に 「環境欠乏病 environmental

deficiencydisease」(1953)であるという見解も述べている。こうした観点はBowlby,J・の

愛着理論とも親和性をもつものと言える (Holmes1993)。

さてWinni。ottは,シゾイドパーソナリティの基礎に以下の2点をあげている。(1)自我

機構の歪曲。これは解離,分裂のことである。(2)自己を保持するための特殊な防衛。つま

り 「世話役の自己caretakerselfJ,「偽りの自己 falseself」の組織化。

自我を分裂させ,偽りの自己を組織化することは,環境側の失敗,つまり母親が子どもの自

我をうまく支持してやれなかったことに起因して生じた,これ以上 「傷つかないことへ向けて

の組織化」である,とWinnicottは考える (1967b)。

こうした環境側の失敗はシゾイドパーソナリティのほか,小児分裂病,早期幼児自閉症,港

在性分裂病,偽 りの自己による防衛といった人格の障害を引き起こすとしている (Winnicott

1962a以下,特に引用 ・参考文献の著者名を明示しないものはWinnicottのもの)。

従ってWinni。。ttは分裂病やシゾイ ドタイプの病理をある時期への病的退行 とは捉えな

い。そうではなくて「分裂病と,特に境界例という疾患を洗練された防衛組織化 sophisticated

defenseorganizationとして理解」(1967b邦訳② pl13強調著者)する立場にたつo

100 天 理 大 学 学 報

「なにが原因でシゾイド状態が生じたのか,またそれがどのような精神病理であるのかを研

究し,さらにまたシゾイド的な転移ないしは精神病的転移にはどのような固有の特徴がみられ

るのかをたどってゆくと,まさにこの原始的性質を帯びた防衛を再組織化 した状態にゆきあた

る。この病的な再組織化は,乳児期早期において深刻な混乱状態を体験したのちに生じたもの

である」(1969cp260),と述べる。

シゾイドパーソナリティについての記述として以上のようなものを挙げ得るが,Winnicott

の著述のなかで,直接シゾイドパーソナリティに関する心理力動として記述されたものは,実

はそう多くない。

シゾイドパーソナリティの基礎として上にあげられた 「偽 りの自己」の組織化に関しても,

シゾイドパーソナリティよりも 「境界例」と関連づけられることの方が多い。本当の自己と偽

りの自己という解離過程の発生に関する知見は,Winnicottが小児科医として母子に対応 して

きた経験,および境界例,とくに治療で深く退行 して依存的になるクライエントとの心理療法

での体験に基づいていると自ら述べている (1960b)0

「環境側の失敗によって自我の芽ばえが障害される。その障害のひとつの側面は,『境界

例』にみられるような,本当の自己と偽 りの自己との解離である。」(1965Intro.p9),と偽

りの自己を境界例にみられる現象として端的に述べている箇所もある0

そこで,Winnicottのなかでの境界例とシゾイドパーソナ7)ティの位置づけが問題 となる

が,まず以下の記述が参考になろう。Winnicottは 「成人症例についての私の臨床経験は,境

界例患者の,それも治療の過程で思いがけなくスキゾイドに移行 したと思われる患者たちの治

療に,好むと好まざるとにかかわらず巻きこまれていった,ある精神分析家のもの」(1967b

邦訳② plO7)だと述べる。

またWinnicottの共同研究者であったKhan,M,M,R.の 「シゾイドパーソナリティの臨

床的側面」(1960/1974)と題された論文では,逆にシゾイドパーソナリティを主題としながら

いわゆる境界例に関する記述が多々みられる。

「境界例」という概念は,今日では人格障害のひとつとして,概念の輪郭が明確化されてい

るが,それ以前では精神病と神経症の境界にある事例,一見神経症のようにみえて精神分析の

ような探索型の心理療法によって精神病的問題が露呈してくる症例を漠然と指 し示 しているこ

との方が多かった。Winnicottの使用する境界例の用語もこうした当時の慣用に従っていたと

考えるべきであろう。事実,障害の中核は精神病でありながら神経症的あるいは心身症的症状

を呈 している症例に 「境界例」の用語を適用するとしている (1969a)0

シゾイドについては,シゾイドパーソナリティとしてより,Fairbairn 同様,むしろシゾイ

ド状態,ある心的な心の布置として把握されていると見るべきであろう。

また 「『偽 りの自己』は疾患分類のうえで (classi丘catory),価値ある標識であると思う」

(1959-づ4p134)とも述べてお り,「偽 りの自己」がシゾイドパーソナリティに特異的な心の

動きであるというより,「偽 りの自己」を組織化する一群に,Winni。ottのいう境界例やシゾ

イドパーソナリティが含まれているという認識の方がより正確であるかもしれない。

こうした位置づけを念兎において,以下 「本当の自己」と 「偽 りの自己」の解離について述

べてゆこう。

Winnicottのシゾイド論 :偽りの自己 101

2.正常な発達過程

Winnicottは依存の観点から精神発達に (1)絶対依存の段階,(2)相対依存の段階,

(3)独立指向の段階の3段階を想定 し(1963d),また外的な対象との関係性から,(1)抱

え (holding)の時期,(2)母親と幼児とが (互いに独立した個人として)共に生きる時期,

(3)父親,母親,幼児の3者が共に生きる時期に区分する(1960a)0

これは大雑把にみれば,それぞれ1者関係,2者関係,3着関係に対応するとみてよいだろ

う。1着関係というのは母子未分化な原初的一体性,自他の区別のない1次ナルシシズムの時

期である。本当の自己と偽 りの自己の解離が生じるのはこの 「抱えの時期」においてである。

Winnicottの発達論の焦点は3者関係以前の母子関係にある。その有 り様の記述は2相的に

把握できる。環境側が子どもに適応する時期とその適応が漸進的に失敗する時期とである。こ

の2層構造性は 「錯覚」と 「脱錯覚」,「環境としての母親」と 「対象としての母親」などの村

概念にも反映している。以下それら2層を (A),(B)として記述する。

(A):彼の主要著書である 『成熟過程と発達促進環境』(TheMaturationalProcessandthe

FacilitatingEnvironment.1965)という表題にもあらわれているようにWinnicottは 「(坐得的なものすべてを含めて)個人の成熟過程は発達促進的環境 を必要 とする」(1959-一朗 p

135)と考える。つまり,子どものもつ潜在能力を肯定しつつ,その可能性を発現させうる環

境のあり方を記述することなしに子どもの発達を述べることはできないとする。「赤ん坊が絶

対依存に近い状態にある時には,環境というのはたいへん重要なものなので,環境のことを言

わずに赤ん坊のことを話すわけにはいかない」(1969C邦訳③ pll強調著者)。

正常な成熟過程では,母掛 ま赤ちゃんが誕生した後のしばらくは,自分固有の関心や欲求を

脇において,育児に一意専心 している。母親の関心が逸れることなくたえず赤ん坊に注がれて

いる,この状態をWinnicottは 「原初の母性的没頭 primarymaternalpreoccupation」と称

する。

この段階の乳児は,自己と非自己 (対象)の区別がついておらず (1次的ナルシシズムの状(I)

悲),従って自己と母親の区別も存在しない。身体的に分離 しているとはいえ,心理的には末

だ出生以前の身体的一体感から脱け出していないoWinnicottは繰り返し,赤ん坊というもの

は存在せず,母親と赤ん坊の対,つまり母親との関係のなかにある赤ん坊,母親に抱きかかえ

られた赤ん坊 しか存在 しないことを強調する。観点を変えてこれを 「環境 一個体の一体状況

environment-individualset-up」(1952,1954155)とも表現 した。この用語によって,個体(2)

と,個体が於かれてある場所との区別のない相互浸透的状態を記述した。

母親は,原初の母性的没頭のなかで自己同一性を喪失することなく乳児に同一化 (正確には

投影性同一視)して,乳児の要求 (ニーズ)を以心伝心,つまり共感によっていち早 く了解し

満たしてゆく。つまり赤ん坊が手を伸ばしてつかもうとするもの,見つけようとしているもの

を素早 く理解 して,それを手渡すなり,探 してきて見せてやったりする。

乳児の 「身体組織や心臓の活動や呼吸をふ くめた身体活動」,自発的な身振 りこそは,本当

の自己の源泉で,母親は乳児のこうした自発的身振 りや感覚的な幻想に応 じて,外界をその都

度適宜適応させる。この環境側の適応により乳児の思ったとおりの世界が現出する。乳児はこ

れを自身の創造であると 「錯覚」(illusion)する。つまり 「現実には発見されるべ く周囲に控

えているものを,健康な赤ん坊は自分で創 り出す。現実とは相反するのだが,健康な赤ん坊の

場合,その対象は発見するものではなく,赤ん坊が創 り出すものなのである」(1963ap181

102 天 理 大 学 学 報

強調著者)oこれは万能感に満ちた世界であり,自分の思念が実在を創 り出す一種魔法の世界であるo

Winnicottはこの万能感の体験・つまり彼の言う 「錯覚」を正常発達の母体として重視 し,

「万能感を体験 している幼児は,発達促進的環境の庇護のもと,対象を創造 し,再創造 してい

る」(op・cit・p180),として子どもの錯覚の体験を環境側が保護することの大切さを述べてい

る。

ナルシシズムという用語こそ使用 しないが,万能感の体験が自己の中核や創造性の源泉とな

るという見方は・‰hut派のいう健康なナルシシズムの達成に類似する,ナルシシズムの肯

定的評価 とみなせる。これは,専らナルシシズムを現実逃避的な防衛や退嬰的な自己欺臓とし

て処 してきた,精神分析の伝統的潮流に対立する,特徴ある見解である。

「赤ん坊はまだ形をなさない欲求に起源をもつ,漠然とした期待を発展させる。適応的な母

親は,その欲求にみあうように,ある対象を差 しだすなり,体の位置をかえってやったりす

る。すると赤ん坊はまさに母親が提示したものをほしがりはじめる。このようにして赤ん坊は

対象を創造 し,硯実世界を創造 しうることに自信をもつに至 り」(1962ap62),自分の万能感

と衝突しない外界の現実を信頼するようになる○そして外界に対 して自発性と関心をもって探

求するよう誘われる。

こうした過程にあっては,生得的な潜勢力は,外界の非自己からの刺激によって一体感が中

断させられ,それに反応するよう迫られることがないoただ存在しておればよく,悠悠自適に

「存在の連続性 continuityofbeing」(生の連続性 1ineoflife)が体験され,生得的な潜勢力

は 「それ独自のやり方と速さでパーソナルな心的現実とパーソナルな身体図式を獲得 し」(1960

ap46),中心的自己,本当の自己となり,自我は強化される。

本当の自己は実在感や現実感をもっことができ,本当の自己から自発性,創造性が芽生え

る。またこの過程で内的な幻想であったものが現実の対象になること,つまり両者の間に連関

ができることは象徴形成の基盤となる。

ここで少し注釈が必要である。

満たされるべき乳児の欲求は,空腹といった欲動的欲求 (イド欲求)ではなく,自我の欲求

である。自我は発達の最初期から存在する,とWinnicottは考えてお り,「人間の子どもの場

合・非常に早期の発達段階では,自我機能は個人としての幼児の存在という概念と不可分のも

のとみなすことが必要だ。 - ・自我以前にイドは存在 しない」(1962ap56)と言っている。

この早期の自我が問題とされているのだ。

また,「母親というのは,乳幼児が平静 (quiet)か興奮した状態にいるかに応 じて,2つの

機能を有する」(1954-55邦訳 p154)として,Winnicottは,関係のなかで投影を受けて,敬

望されたり憎悪されたりする 「対象としての母親」と 「環境 としての母親」を区別した。早期

の赤ん坊の自我に必要なのは後者,「環境としての母親」である。それは子 どもの存在を身体

的,情緒的に抱 きかかえて,その必要を意識させることなく満たす,於かれている環境そのも

のとしての母親である。

環境としての母親は,「赤ん坊をとりまく環境のいろいろな側面のうち,赤ん坊が投影と取

り入れのメカニズムを使って外的現実をコントロールできるようになる前に,実際に影響を及

ぼしたり,侵襲を与えたりするようなもの全部」(1963e邦訳③ p172)を意味す岩'.

それは 「人」ではなく,子どもが後に 「対象としての母親」と対象関係を切 り結ぶための舞

台のようなもので,この段階が問題なく通過されれば,後にそれは当然の前提 となり意識にの

Winnicottのシゾイド論 :偽りの自己 103

はることがない。それは生物をとりまく空気に類似 して,欠乏して初めて存在が認識されるよ

うなものである。また別の比倫でいうならば,観劇では舞台のうえで展開する人間 ドラマを見

るのが普通で,舞台の作 りがどうなっているかなど,通常はいちいち意識せず,それを意識す

るのは舞台自体に損傷があり,劇の上演に危難が伴う場合に限られるのと同様であろう。その

ため環境として母親の役割は,治療場面でもこれまで等閑視されてきた。

さて 「環境としての母親」との相互交流は愛憎の ドラマ (対象関係)とは直接の関係がない

「平穏な母親」(1954-55)との交流であり,そこには 「平穏なコミュニケーション」(1969C)

があ岩'oこうした幼児とその自我を支えてくれる母親 (ego-supportivem。th。,)とのあいだ

にある関係性は欲動とは関係のない 「自我 一関係性 ego-relatedness」である(1958)0

こうした環境 としての母親の特性は 「抱える環境 holdingenvironment」とも表現 され

る。「その主な機能は,幼児に反応を迫 り,その結果パーソナルな存在を消滅させる侵襲を最

小限に抑えることである」(1960ap47).

holdingは多義的で,文字通り赤ん坊を抱きかかえることから,制限,身体的な世話,また

外延には 「場を抱えるholdasituation」(1954-55)ことも含まれるO治療との関連を念頭に

おいていえば,それは箱庭療法でいわれる 「自由であると同時に保護された空間」(せeienund

zugleichgeschutztenRaum)(Kalff1966)の提供でもある。

母親からの自我支持という守られた環境のなかでなければ,子どもは自分のイド欲求を体験

することができない。当初,本能は内側から生じるものとして体験されず,雷などと同様に外

側から振 りかかる衝撃でしかなく,そのままでは,子どもにとって外傷となるものである。母

親が子どもの自我を支えることによって初めて,自己の一部として体験化され,この場合にお

いてはじめてその欲動体験は自我を強化する契機となる。

さらにこうした過程において,この自我を支える機能自体が,子どもによって次第に内在化

される。「次第に,自我支持的な環境はとりいれられ,個人の人格のなかに組み込まれる。実

のところ,そこで1人でいられる能力が実現する」(1958p36)。つまり環境 としての母親が

内在化することによって,1人でいても内的には2人であるため外的に1人でいることが可能

となる。

Winnicottは 「自己」という用語を自我と区別して使用するO自己は成熟への可能態に則し

た全体性をもつ 「わたし」である。同時に部分から構成されており,これらは抱える環境に促

進されて,成熟過程に沿って凝集してゆき,身体に自然な場所を得るのである (1953,1970)。

(B):さて,このように万能感が満たされ,母親との心的な未分離感が保証された後であれ

ば,子どもは環境側からの失敗も徐々に受け入れることができるようになる。

1次的ナルシシズムが満たされた状態 (万能感)が達成されていれば,環境の失敗は逆に

「非 一自己」としての対象,「自分ではない世界」(not-meworld)(1963a)を発見すること

を促す。

幼児を世話する場合,その欲求を理解するのに,以心伝心とでもいうべき共感にもとづいて

なされる母親の理解と,子どもが自発的に自分の欲求を表現 したものにもとづいてなされる母

親の理解がある (1960a)。子どもが成長するにしたがって,前者から後者-と微妙に移行 しIilてゆき,次第に後者が主流となる。

良すぎる母親は,欲望を先回りして適えてしまうために,乳児は自発的身振 りや泣き声で,

母親になすべきことの手がかりを与えたり,欲求不満の際に抗議する機会を奪われ,逆にこの

過程が遅滞してしまう (「母親がすでに子どもを数人育てあげている場合,母親は育児のこつ

104 天 理 大 学 学 報

を呑みこみつつあって,いつも正しいことを正しいときに行う。そのため母親から分離しはじ

めた幼児は,良い事はどういう具合にやれば生じさせることができるのか,自分で制御するよ

う学ぶ機会を逸してしまう」(1960ap51))0

一方,「正常にことが運べば,母親の適応はさらに,段階づけられた適応の失敗-とつなが

っていく」(1965a邦訳② p40)o幼児の耐えられる範囲内で生じる,環境1日Uの失敗は外傷とし

て自己体験化される。外傷に対 して子どもは怒りで反応するが,これは理想化の破綻を意味

し,子どもにとって良い対象を憎む体験となる。こうした過程が 「脱錯覚」である。ここでは

攻撃性を通じて,対象と関わることが重要である。

「健康な情緒発達では,良い対象あるいは満足を与えてくれそうな対象に関して,もっとも

重要な体験がそのよい対象を拒否することにある,という中間的な時期がある。よい対象を拒

否することは,それを創造する過程の一部をなしている」(1963ap182)。

失敗に対 して適切に怒ることができるのは,その事態に子どもが能動的に対処できている証

で,恐ろしさ (awfulness)ではなく,怒りによる反応は正常で健康なものであるというoそ

れというのも怒りは子どもの自我が生き延びている証拠であり,失望は満足させられた状態が

背後で保持されているために生じるものだからである (1963a,1967b)。

Winnicottが成熟過程を促す母親を 「ほどよい母親 goodenoughmother」というのは,錯

覚のみならず,脱錯覚を子どもの成熟に応じて適度に行える母親を意味するためであろう。ほ

どよい母親は万能的体験という 「錯覚」をまず与える。次いで万能的な世界の外に立つことに

よって子どもの耐性にあわせて,徐々に 「脱錯覚」を生じさせる。脱錯覚の過程は,実際の離

乳という漸進過程に並行するものであり (1952),心理学的にも離乳過程と等価であろう。

さてこの段階で子どもは 「平静な局面ではとても大事にされるこの母親が,興奮した局面で

はこれまで無慈悲に攻撃されてきて,そしてこれからも攻撃されるような人物だという事実」

(1954155邦訳 p154)に直面するOこの対象の同一性知覚の問題はmeinの抑うつ態勢と関

連するが,Kleinが欲求充足的な快の側面と欲求不満を喚起させる不快な側面の統合を問題に

するのとニュアンスを異にして,穏やかな心地よさの側面と本能的興奮のなかで欲望され攻撃

される側面の2側面が取りあげられている。

この段階で母親に要求される課題は,本能的な体験に巻きこまれながらも,「平穏な母親」

が 「状況を抱え」つつ 「生き残ることsuⅣival」である。「子どもの世話をする環境と興奮さ

せる環境 (母親の2つの局面)の間の分裂を,子どもの心の中で統合することは,ほど良い育

児 と一定期間を超えて母親が生き残ること以外には成 し遂げられない」(1954-55邦訳 p

l5'675.生き残るには,その存在が消えることなく (keepingalive),また子どもの攻撃に仕返しを

しないことが重要である。

子どもは万能的空想のなかで,自分の思い通りにならない母親を怒りに任せて攻撃し,破壊

しているのだが,現実の母親は消滅もせず,あるいは豹変して報復的な態度にでるといったこ

ともなく,以前と同様のあり様で接 してくれる。

このことは万能感に基づいた子どもの予期と相違するものであり,このギャップによって

「事実と呼ばれるものと空想との遠い,あるいは外の現実と内なる現実との遠い」(op.°it.p

157)が理解できるようになる。対象が破壊から生き残ることによって,主体の投影によって

構成された万能的制御の外側に,対象が位置づけられ (対象の外在性),対象は硯実性と独立

存在性を獲得する(1969a)。破壊的可能性を潜在させていた攻撃性 ・活動性は,対象が生き残

winnicottのシゾイド論 :偽りの自己 105

ることによって,その否定的側面が解毒されるo

「成長の重要な局面は,主観的対象に関係することから・万能感の領域の外にある対象を認

識するようになる変化で」(1964plOl)あり,対象を現実的に客観視できるようになること

である。

これは換言すれば,対象を自分の万能感的投影や欲望とは無関係でありうる,つまり対象

を,自分とは関係しない自己関心をもった,別の主体として認めることである。

そのため本能的な愛の結果について配慮がなく,「無慈悲 mthlesS」であった段階から・対

象に対する 「思いやり」をもっことができるようになり (「思いやりの段階」),かつ外在する

ものとしての 「対象を利用する」(1969a)ことが可能となるo

以上の良い対象を憎む体験によって,1・攻撃性と愛情は融合することが可能になり・2・

閉鎖的な空想的万能の世界 (主観的対象)から現実 (客観的対象)・つまりは他者性 (他者の

主体性)の世界へと開かれる。

正常な発達過程では,子どもが創 り出した主観的対象や錯覚の生じる領域は,創造性の源泉(8)

として部分的には終生にわたって温存されるが,全般的には客観的対象へとその座を譲る0

3.環境の失敗と 「偽りの自己」

一方,環境が適応に失敗する場合 「存在の連続性」は中断される。これをWinnicottは侵

戟 (impingement)と呼ぶ。たとえば,ほどよい母親でない場合・万能感の充足が必要な段

階で,母親は 「繰り返し赤ん坊の身振りに応答し損なうことになるo代わりに・赤ん坊が服従

してはじめて意味をもつような自分自身の身振 りで代用する」(1960bp145)oこうした侵襲に

ょって,生の連続性は損なわれ,「生命力は侵襲への反応の中に吸収され」(1950-55邦訳 p

89),自我は脆弱化を被る。

自己は存在に自足している代わりに,その侵襲- 「反応」しなければならなくなる。「存在

する自己」が 「行為する自己」に変貌するよう強要されるo侵襲がはなはだしい場合・侵襲の

結果生じる不安は,「想像を絶する不安 unthinkablea-iety」つまり 「壊滅 annihilation」

の危険にまで嵩じる。これはバラバラになる・無限奈落へ落下する,身体と遊離する・右も左

も分からないといった感覚を生じる (1962a)。

自己感覚を温存するために人格は分裂 (split)を生じさせる。そこで 「子どもは,人播の

分裂した一方の片割れによって,存在する対象と関係するoそこには・この目的のために私

(winnicott)が偽 りの自己,あるいは外界服従的 (Compliant)自己と呼ぶものが発達して

くる。かたや分裂した残りのもう一方を通じて,客観的に知覚される世界からほとんど影響を

被ることのない事象,つまり主脚 勺対象ないしは身体経験に根ざした単なる現象といったも

の,と関係する」(1963ap183)。

こうして外界からの要求に迎合する (Compliance)ことで,偽りの自己が組織化され・本

当の自己は解離して外界から隔絶して (insulated)しまギ'.この解離の程度はさまざまであ

りうる。偽りの自己とは 「示されているものが個人的な (individual)ものから生じたのでは

なく,幼児と母親という連結において母親の養育側から派生したという意味で,偽りなのであ

る」(1962ap58)0

これは一つの防衛であり,自己の中核,つまり本当の自己を隠蔽し擁護するように意図され

ている。本当の自己を秘匿することで,外界の予測不可能性 と侵襲のおそろしさ (awful-(1Q)

ness)によって自己が傷つくことがないようにするための自己防衛の組織化である。

106 天 理 大 学 学 報

偽 りの自己は外界への反応の集積,環境から寄せ集めた役立つパターンによって構成されて

いる。そしてそれは徐々に 「世話役の自己 caretakerselfJとなってゆき,本来ならば母親が

提供すべ きであった,抱える環境に相当するものを本当の自己に提供するようになる。

つまり偽 りの自己は,外的な 「抱える環境」が提供すべきであったものを自前で補填 したも

のであ り,「自己 一抱擁 self-holding」(1962a)の性質をもつ といえる.Winnicottは以下の

ように述べる。「順調な場合においては,偽 りの自己は,本当の自己に向けて固定 した母性的

な態度を発展させ,そしてそれは,1次的同一化からの分化と発現のまさに開始の時に母親が

子どもを抱えるように,本当の自己を抱えている」(1955-56邦訳 p200)0

「本当の自己は,反応することには巻き込まれず,それで存在することの連続感を保存す

る。 しか しながら,この隠された本当の自己は,経験のないことに由来する貧困化を被る」

(op.°it.p199)。従って偽 りの自己は本当の自己にとって防壁であると同時に障壁でもある。

偽 りの自己は原動力となるパーソナルな衝動性が欠如 しているために,実在感を感 じること

ができず,現実感も伴わない。「願望 しようとする個人の能力」は妨げられ,自発性の欠如が

前景化する。自己は身体性と切 り離され,知性の早熟化が しばしば招来される。

偽 りの自己は安定 し,外的な適応に優れた性質をもつため,世間はこの外見に欺かれて一子

どもの側からすれば,本当のところを理解 してもらえずにという表現が妥当だろうが-,偽 り

の自己を本当の自己ととり違えることとなる。偽 りの自己は実務上,効率的,機能的であ りう

るため,偽 りの自己を発展させた人は他人から重宝がられたりする。ここには他者にとっての

道具的存在,願望を暗黙に満たす奉仕者としての姿がある。

他者が評価 しているのは,自分が他者のために都合よく行 うことdoingであ り,そこでは

自分の 「存在 being」それ自体は決 して省みられない。存在を認められようと行為すること(ll)で,逆に他者の目はますます自分の 「存在」から脇へと逸れていく。

こうした過程で当初から存在 していた不毛感 futilityはいや増 しに増す。

Deutsh(1942)のいう 「as-ifpersonality」は,まさにWinnicottの言 う偽 りの自己の観

点から考えることができるであろう。

偽 りの自己が機能 している人格は,貧弱な象徴活動や文化生活 しか営めない。偽 りの自己と

本当の自己が解離することに加えて,心身活動 と知性が解離する。心身活動から解離した形で

知的機能が早熟に克進することがしばしば生 じることは,すでに言及 した。

社会的に成功する者も少なくないが,成功すればするほど,「ニセモノだ」という不毛感が

募ることとなる。またある者は,短期間,他人にとって,この上なくすぼらしい母親役を遂行

し,魔術的な癒 しの力を発揮することがある (19532)。こうした人格が昇華された場合,役者

を職業とすることもあるという。

一方,偽 りの自己の組織化は,「ある特定の環境の失敗に対 して.個人がその失敗状況を凍

結することによって自己を防衛」(1954b邦訳 p177強調は著者)している側面をもち,これ

は正常で健康なことと考えねばならない。それは本当の自己が,あたかも好ましい適切な環境

が現れてくるのを密かに待ち望み,そうした環境において,かつての環境の失敗を埋め合わせ

ようと,好機を期 しているかのようである。

Winnicott(1960a)がいうには,環境の早期の失敗について,子 どもはそのことをそれと

同定できていない。失敗の結果,自分に生 じたこと,つまり侵襲に対する反応は知っていて

ち,環境が失敗 したとは分かっていないという。そのため失敗の結果は転移に反映されるが,

環境の失敗自体は転移に現れない。Kleinの早期防衛機制の知見は,失敗の結果を,環境を抜

Winnicottのシゾイド論 :偽りの自己 107

きに個人の側から記述したにすぎないとする。

「根本的には偽 りの道筋を辿る中で,個体は本来自分に責任がないこの悪い環境に,責任を

感じたりするのである。そして,この悪い環境については,彼が (もし知っているなら)世界

に責任を負わせることが正当であったろうが,それはその個体の精神 一身体が憎んだり愛した

り出来るように十分組織される以前に,その悪い環境が彼の生得的な発達過程の連続性を掻き

乱したからである。これらの環境の失敗を憎むかわりに,この個体がそれによって解体 したの

は,その過程が憎むこと以前に存在 していたからである」(1953邦訳 p135f)。

そのため早期の絶対依存の段階では,侵襲は外傷体験ではなく,自我の歪曲を引き起こす。

ちなみに反社会的傾向は,絶対的依存に続 く自律性もでてきた相対的依存の段階で生じた環境

の失敗に由来するとする。そのため子どもは環境の適応失敗をそれと同定することができ,つ

まり外傷体験とすることが可能で,外傷を克服せんと,以前の,自分にとって望ましい状況を

再度獲得 しようとあがいているのだという。

ちなみに正常発達で偽 りの自己に相当するものは,社交術といったもので,妥協する能力で3‖i.6あると付言している。

4.偽 りの自己の治療

シゾイドの治療において Fairbairnが標準的技法を守 り,後年になってようやく寝椅子の

セッティングに関して修正を提唱したのに対し(Fairbaim 1958,Guntrip1975/1996),Win-

nicottは,偽 りの自己が成功をおさめているような事例では,標準型の精神分析治療を積極的

に修正 しなくてはならないとする (1962℃4)。そうした人たちには,然るべき早期のほど良い

養育体験が欠如しているからである (1964)。

そこでの治療関係は早期の母子関係に,治療的関与は母親の養育態度にパラレルなものとし

て考えられている。Winnicottはこのように述べる。

「治療者が患者のスキゾイド過程に一時的に巻き込まれていると感 じる時は,実際のとこ

ろ,それは母親と乳児のあいだで体験されるのと同じような現象を治療室の中で扱っているこ

とになる。治療者は依存状態にある乳児のものすごいニー ドに直面することになり,また自分

の中に反応が次々沸き上がるような逆転移の状態にとらわれることだろう」(1969C邦訳③ p

9f)。本論第2節で正常発達過程が2相として把握されたのに対応 して,治療過程も2相として理

解することができる。「この種の仕事にはいつの場合も2つの側面がある。その 1つは,転移

の中で患者が肯定的な体験を兄いだすことである。これは患者自身の過去の生育史,つまり母

親との最早期の関係の中では,抜け落ちていたり歪んでいた人生早期に属する体験の部分であ

るOもう1つは,治療者の技法上の失敗を患者が利用できることであるoこうした失敗に価値

があるのは,それが怒 りを生み,過去を現在に持ち込むことになるからである」(op.dt.p

16)。以下第2節 との対応を意識 しつつ,治療過程の2局面を (A),(B)として記述 してい

く。

(A):治療でまっさきに必要なことは,偽 りの自己を本当の自己と取 り違えることなく,そ(1S)の偽装を看破し,本当の自己が不在であると明らかにすることである。そうしなければ,偽 り

の自己を相手に治療もどきのゲームに終始することになる。しかし実際には,これが容易なこ

とではない。クライエントは治療者の期待に添う,よいクライエント役を演じ,治療者を楽し

ませ,あるいは癒そうとする (1969b)Q治療者が明敏でないならば,無自覚なままクライエ

108 天 理 大 学 学 報

ントのそうした態度に,のほほんと寄 りかかることとなる。つまりクライエントが治療者を

「抱える」状況ができあがりかねない。

介入全般に関しては・解釈よりもクライエントを 「抱えることholding」が一層重要である

という。「抱えること」という術語はWinnicott独自のもので,ほほ同義のものとして 「マネ

ジメ1 ト」の語 も使用する。また 「『設定』(setting)という言葉によって・・・(Winni。。tt7才・ジメント

は)取り掛 、のすべての詳細の総和を意味」(1955-1956邦訳 p200)している。

設定の提供は・発達早期の環境の提供に比せられるものであり,治療の時間的,空間的設定

に始まる治療者の恒常性や非侵襲的態度,利用可能性を合意する。これは,治療者の行為 (d。_

ing)よりも,在 り様 (being)を重視するものであり,それは,「対象としての治療者」より

「環境としての治療者」(治療が於かれている場所)が重要なのだ,と換言できる。

「シゾイド的なひとの治療では,提示された素材をどう解釈すべきかは,いつも知っておく

必要がある。しかし解釈を行うというわき道に逸れることのないようにすべきである。という

の も,解釈 を行 うことは不適切なのだか ら。不適切 だとい うのは,お もに必要なのは

(need),如才ぶらない自我支持,ないしは抱えること (holding)だからである。この 『抱

えること』とは,幼児の世話にあたっている母親が直面する課題と類似したものである。患者

に生じる解体,存在の終寓,永劫の落下への傾向を無言のうちにみとめることを意味する」

(1963bp241)。

治療の全経過を通 じて 「分析家の行動は,私が設定と呼んでいるものによって,つまりニー

ドへの適応 という事柄においてほど良くあることによって,代表される」(1955-56邦訳 p

200)oこうしたクライエントは 「分析医の人格を信頼する能力」に乏しく,設定の変化に対 し

て過敏に反応するため・治療者はクライエントの 「日掛 こ適応する (ego-adaptive)治療設定

を維持することが必須」 (1963bp240)であるO

Winnicottは 「設定」について具体的に12項目ほど挙げる (1954b)(それらは,本節でいう

治療局面 (A),(B)にまたがっている)。そうした 「分析の設定は,早期の,そして最早期の

母親的養育 motheringの技術を再現する。これは,その信頼性ゆえに退行を招 く」(op.cit.邦訳 p185)。

ある時点で,クライエントが治療者に,暗につぎのようなことを伝えてくる時期が到来する

という。「さて,あなたがとことんまでやるか,引き下がるかを決めるときが来ましたよ。出

来なくても気にはしません。でももしあなたがもっと先に進むのなら,私自身の何かをあなた

の手に委ねることでしょう。そして危険なまでにあなたに依存して,かりにあなたが失敗する

ようなら・深刻な問題となるでしょう」(1964p98)0

Winnicottは重要な治療的モーメン トとして 「依存状態への退行 regressiontodepend-(16)ence」をあげる。これは早期の絶対依存状態への退行である。

一般に退行には否定的,病因的な意味合いが込められているが,Wimi cottの場合,成熟過

程においてそれまで乗 り越えられなかった障壁,「つまり母親との最早期の関係では,抜け落

ちていたり歪んでいた人生早期に属する体験」(1969C邦訳③ p16)を克服しようという肯定

的な目的をもった,新たな試みとして目的論的に捉えられている。

「退行が環境の提供と関係 しているとき,患者の病はその人格の中の健康な要素が表現され

たものなのだ」(1967b邦訳② pl12強調著者)。そして臨床的には同じ状態である退行と引き

こもり (Withdrawal)を明瞭に区別し,「退行の中にあるのは依存であり,引きこもりの中に

あるのは,病的な独立である」(1965b邦訳② p44),とした。「分析者が,引きこもりの状態

winnicottのシゾイド論 :偽りの自己 109

が見られるや否や患者を抱えることができるならば,さもないと引きこもりのままの状態でい

たはずのものが,退行へと変わるのである。退行の有利な点は,患者の過去の生育史,すなわ

ち患者の幼児期の取り扱いにおける,ニー ド-の適応の不十分さを修正する機会をもたらすこ

とであるO」(1954a邦訳 p338強調著者上こうした依存-の退行が生 じるためには 「患者が,内在化された環境の重荷を分析医に手渡

すことができ,それによって極度に依存的で,正真正銘の,未熟なただの幼児になりうる情況

を提供することが必要である」(1959-づ4p134)。

こうした設定においてはじめて 「偽 りの自己の防衛は捨てられ,本当の自己が精神病的な転

移のなかで (大きな危険を賭 して)露わになる可能性」(1967b邦訳② p113)がうまれる。(18)ここで生 じる依存欲求に治療者は 「環境としての母親」と同様に適応 しなければならない。

それは 「シゾイドの患者または境界例患者が分析家に向ける依存はまさに現実そのもの」(1959

164p134)だからである。ここでいう満たされるべ き欲求とは,念を押すまでもなく,イド

欲求ではなく,自我欲求である。

上述の過程を次のようにも述べる。

「そうした症例で,もし隠されていた本当の自己が本来の姿をあらわしてくると,患者は治

療過程の一部として,精神的破綻をきたすことになる。そこで分析家は,患者の幼児としての

部分に対 して,母親の役割をひき受けることができなければならない。これは自我への支持

(ego-supp。,t)を大々的に提供することを意味する」(1960cp16(39)。

しかしながら,退行に応 じる治療者の負担が並々ならぬものであることをWinnicottは強(20)

調 している。病態が重度の場合 1人,そうでなくても3人を超えて同時並行で対応することは

全くの小町能事だとする (1964)oLたがって,その困難性ゆえに依存状態-退行するのを治

療者が容認できないとしても,その治療者は責められるべきではないし,また治療者ができな

いことを偽らない限りにおいて,クライエントもそのことに怒 りを感 じることはないという

(1964)0

以上の治療の局面は修正感情体験と近似するものだと言えそうだが,「修正体験の提供は,

治療 として決 して十分なものではない」(1963cp258)として次の局面の重要性を論 じてい

る。

(B):依存状況が達成されると次の段階へと進む。「スキゾイ ドの患者が,分析の長い準備

段階によって,積極的に利用でき,しかも信頼に足る何かがそこに存在 しているという感覚を

得たために,退行の段階を通過」(1967b邦訳② p113)し依存が達成されると,凍結していた

環境の早期の失敗状況が解凍される。

傷つくこと-の防衛であった偽 りの自己が放棄されるわけで,治療によってクライエントは

「傷つかないことを放棄して苦しむ人となる」(op.°it.p116)。この状況と比較すれば以前の

状態は一種,「正気への逃避」(1954b)と考えることができる。

環境の早期の失敗状況が解凍されるわけであるが,クライエントは,原発の外傷的な状況そ

のものは告発できない。それというのも本論の第3節で述べたように,その侵襲が生じた時に

は,自我機能が未成熟で,侵襲を侵襲として認知できていなかったからである。そのため,ヱ

ライエン トはそれとして知覚で きる治療者の失敗 を利用する (1954b,1955-56,1963C,1965

a,1965b,1967b,1969b)0

「分析家は私の情緒発達を押 し戻そうとしたがっている。生まれる前のお腹の中に私を戻そ

うとしている。私の成長点を壊 したくてあれこれやっているのだ」(1969b邦訳③ p6)など

110 天 理 大 学 学 報

と,敵意をもった存在として治療者を妄想的に体験する。

その体験は・「症例がうまく進んでいる場合には,患者は周囲にいるほかの人を利用するこ()Hとができ」(op・cit・p7),治療者以外のひとの悪口として表現される。あるいは自分の空想に

現実を合致させようと・治療者がクライエントを憎むように必死でしむける。

またよく生 じることとして治療者の失敗,それもしばしば実に些細な治療者の失敗をつかま

えて,クライエントは怒りを表現するoこうすることで,発達早期に生 じ,存在の連続性に中

断を生み出した・環境側の適応失敗に対 して,怒ることが初めて可能となる。クライエントは

強力な陽性転移の埼内で,傷つき・苦悩し,怒りを体験する。この怒りの体験は 「脱錯覚」の

過程で生じる怒りと同様の肯定的意味を有する。

脱錯覚の過矧司棟に・主体的に処理できる範囲内の外傷が,クライエントに主観的に体験さ

れるo「患者が私たちへ大々的に依存を成し遂げると,私たちの犯 した間違いや失敗が新しい

外傷となる」(1967b邦訳② p116強調著者)0「分析が成功するとすれば,それは長期にわた

るこれらの微小な外傷の連続のお蔭であろう。それは患者によって設定されたもので,また妄

想的な転移の段階を含んでいる」(1965a邦訳② p24強調著者)0

クライェントは無きに等 しい失敗を失敗として,問題になる程の失敗でないものを重大な失

敗として・いわば外傷を針小棒大化する形で自分で能動的に設定する。つまり外傷を創造する

ことで,当初・幼児の万能的支配の外側で生 じた環境の悪しき要因を投影,取り入れといったtZll

心理的権利で対応できる万能的支配の領域にもちこめるようになる。

Winnicottがここでいう外傷とは 「よい対象への憎しみなのだが,憎 しみとしては体験され

ずに,憎まれていることとして妄想的に体験される」(1965a邦訳② p42)Oクライエントは自

分が治療者に腹をたてているのではなく,治療者がクライエントに怒りを向けていると被害的(23)に体験 しがちである。それゆえ 「妄想的な転移の段階を含んでいる」と表現される。

こうした状況にあって,治療者は誤解されることに耐えなければならない。「もし分析家が

自分を守ろうとするならば・ちょうど初めて怒りが可能になってきたところで,患者は過去の

失敗について怒る機会を失うのであるJ(1955-56邦訳 p202).重要なのは 「妄想的転移とい

う極端な反応と,それにただ耐えることの必要性であるo自己防衛的に声高に何かを言うとい

うことを一切せずに,こういったすべてのことをただ引き受けるためには,人は自分自身に対

する非常に大きな信頼が必要となる」(1965b邦訳② p45).

そのことによって 「(m anのいう)累積性の外傷の代わりに私たちが得るものは,累積性

の怒りの体験であり,対象 (治療者と治療室)はその中から生き残るのである」(1967b邦訳

② p116)。

ここでは 「生き残ること」が必須の課題となるo治療者は攻撃の時期が終わるまで解釈を控

え,クライエントの挑発や操作に反応することなく,クライエントの攻撃性に対して目には日

をといった報復 (talion)をせずにいることが重要である。

クライェントは万能的空想のなかで自分の思い通りにならない治療者を破壊 しつづけている

のだが,現実の治療者は消減もせず,復讐にでるといった豹変もなく変わらず存在 しつづけ

るoこのことによって・クライエントには自分の空想や投影によって構成された万能的世界と

現実的・客観的世界との区別が可能となるoシゾイドパーソナリティや境界例では,この区別

が十分達成されていない。「対象の外在性」を獲得することで治療者を客観視することが可能となる。

以上のような怒りの体験によってクライエントは,依存から自立へと促される。またここで

winnicottのシゾイド論 :偽 りの自己 111

生 じる怒 りとは,良い対象を憎む体験であり,これによりクライエントはアンビヴァレンツに

達する。

治療過程の概要は以下のように要約される (1954b)0

1.信頼をもたらす設定の提供。これは抱える環境を提供することであり,クライエントの世

話役の自己を治療者が引き受けることでもある。

2.クライエントの依存への退行が生 じ始め,それに随伴 してクライエ ン トは危機感を覚え

る。

3.依存へと退行することで秘匿されていた本当の自己が自我全体に統合され,新たな自己感

覚が生 じる。中断されていた個人としての過程に新たな前進が生 じる。

4.環境の失敗状況の解凍。

5.強化された自我 という新たな態勢から,早期の環境の失敗に対 して怒 りが表出される。

その怒 りは現在の治療者の些細な失敗をつかまえて,治療者を憎む形で表現される0

6.依存状態への退行から自立に向かう動きが生 じる。

7.本能的な欲求や願望が正真正銘の生気と活力をともなって実現可能となる。

治療者を別の主体 として現実的に理解することが可能となり,治療者の被ってきた労苦を

理解 し,感謝することが可能となる。

むろん以上のプロセスが滞 りなくゆ くという保証はない。「偽 りの自己のケースでは,治療

によって社会的に成功 した人たちを病気にするということになる。そしてときに彼 らを病気の

まま放置せざるを得なくなることもあるのである」(1963bp231)0

(1) Little(1981)は,こうした根源的未分化状態を 「原初なる-」(basicunity)と称するC

(2) これは先の1次ナルシシズムの記述と同様に思われようが,大きな相違が存在するo前者

は,欲動であろうが愛着であろうが,いづれにしても志向される 「対象」との融合が問題にさ

れている。

後者では志向性とは無関係の,つまり対象ではない媒地としての場所,主体が住むというあ

り方で体験する場所を問題にしている。その空間は,主体を取り囲む周空間ともいうべきもの

で,水が魚を取り巻いて浸透しあい,大気が鳥の飛湖を支え,大地が万物を支え育むのに比せ

られる。Balint(1968)が環界非分化段階,一次物質段階,調和的相互港透的揮然体段階など

と言いかえて表現した状態に類似の概念を求めることができる0

winni。。ttは 「対象としての母親」と 「環境としての母親」を区別するが,以上のことを踏

まえればその差異は容易に理解できよう。この差異を理解することは,holdingの概念や 「設

定」,治療での退行における 「マネジメント」の重視を理解するうえで重要であるo

(3) Winnicottの 「ニード」という用法は,Freud,A・から着想を得ている (1956)。最初は身体

的ニードがあり,それらが心理的に彫琢されて自我ニードになるoニードはイド衝動の,満足

か不満足といったものとは相違して,応じてもらえるか,応じてもらえないか,という性質の

ものであるという。「欲動」という言葉が本能充足の領域で重要な意味があるのと同様,この母

子一体の状況では,「ニー ド」(必要,要求,生理的欲求,窮乏)という言葉が重要だとされ

る。それはイドの欲動とは無関係である。また 「願望wish」というのは,かなり高度なこころ

112 天 理 大 学 学 報

の動きで・発達初期のこうした段階にはふさわしくなく,ニー ドの用語がより適切であるとす

る (1969C)。

(4) この記述はwinnicottが自身の見解に引き寄せつつ,Searlesの 「ノンヒューマン環境」を

論評 したものである。 しかし 「ノンヒューマン環境」の説明というより,はるかに自身の 「環

境としての母親」の解説に近いものとなっているo「ノンヒューマン環境」,「環境 としての母

親」という発想は,ともに 「対象関係の理論からそれていく」(1963e邦訳③ p169)性格のも

のである。この点については本論の註2ですでに触れた。

投影の対象とは別の,こどもの世話をする 「環境 としての母親」は,自我でいうならHart_

manのいう葛藤外の自我領域に比すことができるとwinnicottはいう (1963e)。

「環境としての母親」 と 「対象としての母親」をつなぐ概念として,Bollas(1987)は 「変

形作用的対象 transformationalobject」というものをあげる。

(5) 北山 (1989)は 「私見であるが,彼の人間観では 体 当の自己』の中核には興奮する自分と

ともに,『沈黙する自己 silentselfAがあって,後者には 幡 かな母親 quietmothe,』との

陶 かな体剛 が保証されねばならないと考えているようである。それが心と体の未分化な水

準で静かに交流 して抱えられるとき,自己は居場所を得る」(p360)と述べているo

Pine(1985)は・子どもは対象との強度の情緒的交流よりもはるかに長い時間,対象や自己

と静穏な関わりをもって過ごしており・そこでは 「静穏な心地よさquietpleasure」が通奏低

音になっているという。この体験は,対象との強度の感情体験を前景とすれば,その背景と言

えるものだが,これこそが将来の精神的健康の基盤になる,と論じている。

(6) 言わずして共感によって察 してもらいたい欲求と自分の意思明示によって理解されたい欲求

との間で生 じる往復は,つぎのように記述されるo「ある瞬間,母親と合体 し共感を求めるかと

思うと・次の瞬間には母親から分離 して,もし母親が前 もって自分の欲求を知っているような

ら母親は危険である,つまりは魔女であると感じる」(1960ap51f)。

転移のなか,とりわけ境界例の治療で依存性が最高潮に達 したとき,これとパラレルな動き

が再現されるという。

(7) 環境としての母親が生き残った際,子 どもが主観的に体験すると思われる心のありさまが,

『ファウス ト』の第2部の冒頭部分 「風趣のある土地」によく表現されている。

第 1部のグレー トへン悲劇でファウス トは愛する対象に結果的に破滅をもたらし,「ああ,お

れは生まれて来なければよかった」と深い罪悪感に絶叫する。それをうけた第2部の開始点で

「大地よ,お前は昨夜も別に変わることなく,新たに元気づいておれの足もとに呼吸をし,は

やくも歓びをもっておれをとり囲みはじめるo」と語る。激動した対象関係の ドラマとは別に以

前と変わらず存在し支えつづける場所としての大地は,生き残る環境 としての母親を象徴する

ものであろう。

(8) 本節で記述 した (A)から (B)への移行過程への関心は,幼児の移行対象と移行現象の論考

から 「可能性潜在空間potentialspace」の議論へと結実 し,さらにこれをもとにして遊ぶこ

と・大人の創造的な遊びとしての文化的体験へとwinnicottは論考の射程を拡大するOこの業

績は主として論文集 F遊ぶことと現実』(1971)にまとめられている。

(9) winnicottは・偽りの自己と本当の自己が解離することで,自己の中核が隔絶 (insulated)

されるというが・一方で人間の本来的なあり方として 「個人の永遠の分立 permanentisolation

ortbeindividual」(1963ap189)を掲げる。

「分裂 した人格にみる本当の自己に相当するような,人格の中核が存在 しないならば,健全

とはいえないだろうoつまりこの中核部分は,知覚される対象の世界と交流することは,決 し

てないだろうし・一個人としてのひとは,それが決して外的現実と交流を持ったり,その影響

Winnicottのシゾイ ド論 :偽 りの自己 113

を被ってはならない,ということを知っているのだと思う- ・健康な人は交流 し,交流する

ことを楽しむが,もう一方の事実もまた,同程度に真実なのである。つまり各個人はひとつの

分立 したもの (anisolate)であるということだ。それは永遠に交流することなく,永遠に知ら

れることなく,それどころか未だ発見されてもいないのである」(op.°it.p187)0

Winnicottは,解釈とは治療者の理解の限界を示すためのものであるといい (1962b),2人

でいながら1人でいられる体験,1人でいられる能力 (1958)といったことを論 じるが,それ

らもこうした観点から理解されるべきであろう。

こうした姿勢は Hillman(1967)の 「距離を保つことは,秘密性の本性 と,秘密が要求する

ものを尊重することにふれるのである。魂は秘密をもっているばか りではなく,それ自身が秘

密である」(邦訳 p30)という言辞を想起させるO

母子の未分化な一体性を重視する治療者が,個 としての分立 Isolationを人間の本来的あり

かたと考えるのはパラドキシカルである。

依存とは人間の本来的な状態ではありえず,ある時期必要不可欠とはいえ,いずれ独立にと

って代わるべきものだという発想があるのかもしれないQこれはMalller,M.の分離 一個体化

論の暗黙の前提である。

あるいは 「どんな人間でも他人の哀しみすべてをおのれの哀 しみとすることはできない,と

いう相互の諦念の優しさのうちに,われわれは絶望よりも慰めを兄いだし,無理解よりも共感

をはじめて兄いだすことができる」(霜山 1979p49f)と考えているのかもしれない。

いずれにせよ,臨床的な態度 として,これはクライエントの他者性,独自性,自発性,プラ

イヴァシーを尊重する態度として現れる。古典的精神分析が目指 した,クライエントが自分自

身を知ることではなく,クライエントが 「自分自身になる」ことをより重視する姿勢といえよ

う。

(10) Ma6terSOn(1981)は,Winnicottの偽 りの自己と本当の自己を論 じて以下の様に述べてい

る。「子どもは,真の自己を隠すために偽自己を発達させるのではない。なぜなら,まだ真の自

己は現れていないからである。見捨てられ抑うつ,-何 よりまず,真の自己を発達させようと

する努力によって生じた抑うつ-,に対 して退行的な防衛をする適応機能を合理化 しようとし

て,子どもは偽自己を発達させる」(邦訳 p128)0

本当の自己が存在しないというのは,本当の自己を構造化された構造としてみれば,存在し

ないと表現できようが,生命の躍動性,無名の自発性である構造化する構造としてみれば.存

在 しているといえる。

その点はさておくとして,Mastersonは偽 りの自己は対象との心理的紐帯の役割を果たすと

いうOこれはWinnicottの見方を補う視点といえるOWinnicottは偽 りの自己を組織する目的

として,個人内の現象,つまり本当の自己を防衛することに比重をお く。 しかし,たとえば対

象との関係性,具体的には 「母親の病理と一致するようなや り方で振舞うことへの幼児への圧

力,そしてもしそれに合致しそこねたら,母親にとって自分が存在 しなくなるという常時の脅

威」(Ogden1982p16)などにも注目すべきかもしれない。Ogdenはこの圧力と脅威を,つぎ

のような暗黙のメッセージとして措 く。

「服従するようにという要求の背後にこの脅 しがあって圧力を加えている。つまり 『もし,

お前が私の必要としているようなものじゃなかったら,私にとっては存在 していないことにな

るよ。』これを換言すれば,r私はね,私がお前の中に投げ入れたものしか,見ることができな

いよ。それ以外だったらお前のなかの何も目に入らないよ』」(ibid.)0

(ll) ひとのために何かをしても,それが自分の本当の自己と関係せず,またひとは自分の 「存

在」そのものには目を向けず,自分の行為の結果 しか評価 していないことに気づいた,あるク

114 天 理 大 学 学 報

ライエントはこの状況を 「幸福になろう (人と親密になろう)とすればするほど,自分の中の

歯車がよけいに噛み合わなくなる」と表現したoそこではHeideggerのいう道具的存在者への

「配慮的気遣いBesorgen」と現存在への 「顧慮的気遣い Ftirsorge」の相違が痛感されている。

またこれより程度の軽い人では 「お客になることができない」状態として,苦衷を訴えた。

(12) 類似の現象に関して Miller(1994)の 「心理療法の状況」の節も参照せよ。

(13) シゾイド状態はKkinでは妄想 -分裂態勢に,Fairbaim では分裂態勢に固着や退行する結

果生じると考えられているが,偽 りの自己は早期段階への退行や固着ではなくて,自我の歪曲

であるとWinnicottが考える以上,それは正常な自我とは構造自体が相違するはずである。ゆ

えに健常者に偽 りの自己の相応物を想定する,この捉え方は必ずしも適切であるとはいえない。

(14) winnicottは標準型精神分析を修正すべき場合として,偽 りの自己が成功 しているひと以外

に,以下のような場合を挙げている (1962b)0

(a)発狂恐怖が前景を占めるとき

(b)反社会的行動や盗みなど母性愛剥奪の産物があるとき

(C)文化的生活が認められないとき (内的現実と外的現実の結びつきが希薄なとき)

(d)病的な両親像が前景を占めるとき

(15) 「偽りの自己」の偽りの,ニセの (false)という形容は定価的に受け取られる可能性がなく

はないo治療者もクライエントの偽 りの自己に対して,これは本物ではない,二七モノで,す

ぐさま放棄すべきものだという姿勢を取らないとも限らない。偽 りの自己もクライエントの一

部であり・その歴史の中で獲得 してきたものであるO十分に尊重されてしかるべきであろう。

それは,少なくともこれまでクライエントの安全感を保障してきた守りの盾であり,それに

よってやってこられたことを思うならば,ニセモノは捨てて本物をといった発想は単純に過ぎ

よう。

(16) 「スキゾイド的な現象についての私の研究において,私は依存への退行を意味するために

『過剰 という語を用いていたことに気づいた」(1967b邦訳② p112)という。

(17) Kernberg(1980)はWinnicottの治療者の 「抱えるholding」機能には,少なくとも以下の

3つの側面が含まれているとする。(1)治療者がクライエントの自主性を尊重すること。つま

り 「本当の自己」が生じるに際 して侵襲 しないこと。(2)クライエントの攻撃性,「無慈悲

さ」に直面しても堪えて 「生き残る」こと○(3)重大な退行の時点にあって,感情的な支えと

なる環境を提供し,治療者自身もまた共感的でクライエントにとって利用可能であること。

(18) 具体的な介入に関しては,必ずしも判然としないが,1953,1954a,1954b,1964,1969C,1972の論

文などで部分的に窺い知ることができる。

例えば 「極端な症例においては,治療者は患者のもとへと出かけ,積極的によい母親的養育

(mothering)を行い・患者には予想もつかなかったような体験を提供する必要が生 じる」(1954

b邦訳 p178)と述べるo通常の治療的関与からみれば,逸脱とされる介入も含まれていると見

てよく,「患者に直接触れるべきではないという精神分析上のモラルを堅く守っている治療者に

はここで述べていることがあまり分からないのではないかと思う」(1969C邦訳 p16)と述べ,

早期の欲動と無関係な母子関係的な身体接触,「身体を通した赤ん坊と母親のコミュニケーショ

ン」も介入に含めている。

その具体例として,両手でクライエントの頭を 「抱え」(holding)て何もせず じっとそばに

居つづけた様子について記述している(1969C)oこの治療例は Littleであって,1949年から1955

年にかけて行われた。治療過程に関してはLittle(1990)自身の著述に詳 しい。1953,1954

winnicottのシゾイ ド論 :偽 りの自己 115

b,1967aの論文で同一の中年女性の治療経過が断片的に紹介されているが,この症例 もLittle

ではないかと推測する。この治療ではクライエントは出生以前の状態にまで退行 して出生過程

を治療場面で再体験 しており,出産の際の頭部圧迫という過酷な体験を再演するには治療者

が,クライエントの頭を抱えて存在しつづける必要があったとされる (1953)o

いずれにせよLittleとの作業は,Ⅶnnicottが依存への退行という治療モデルを構築するう

えで,少なからぬ貢献を果たしたものと思われるo

(19) ここでは治療者の万能感が大いに喚起されるに違いない。細大漏らさず,クライエントのニ

ー ドを言語交流抜きで暗黙のうちに察して,これを充足すべきであり,またそれが自分には可

能だと思う。無意識において全知全能の自己イメージが鹿活される可能性が高いo

実際,Balint(1968)は,彼のいう 「基底欠損領域」,つまり排他的な融合的二者関係の領域

に到達 した確実な診断徴候のひとつに,退行 したクライエントに万能的に応 じようと,治療者

の心が始動することを挙げている。その上で Balintは,悪性退行を避けるべ く治療者が全知全

能の万能的な対象になることはもちろん,クライエントにとって万能者と映ることも避けねば

ならないとする。

分裂病治療のなかで生 じる,こうした治療者の万能感についてはSearles(1979)も 「献身

的医師」の問題,万能感に根ざした治療者の罪責感の問題などとして積極的に論 じている。

(20) 退行に肯定的な側面を見て取る治療者は,Winnicott以外 にもBalint(1968),Searles

(1960),Ben。d。tti(1975)な どを挙 げる ことがで きようcSchwing(1940),Sechehaye

(1947)ち.明確に述べてはいないが,退行には本来,肯定的,建設的な意味があると考えて

いたことが,その分裂病治療の実践からうかがえる。Sechehayeの 「象徴的実現」については

winnic。tt自身,乳児の万能感を満たす,「環境としての母親」を記述する際,言及しているO

退行 した患者において,言語的交流ではなく,ある程度具体的な行為や物を象徴として利用

し,言語では到達しえないこころの深みに接触する,象徴的実硯のやり方にWinnicottは少な

からず共感を覚えるようである。

退行に関する肯定的評価については共通であるが,しかし,各論者の臨床的態度を一括する

わけにはいかない。

Benedetti(1975)は分裂病の精神療法に関して,「精神療法的な退行」,「交流的な退行」を

議論 して退行の建設的な機能について 「あらゆる部分的退行は,自我形成に役立つのであるO

その理由は,何らかの重要な共人間的な場所で,以前は隠されていた支持を求める幼児的な側

面が交流的kommunikativに生きられると,患者のより自立的なおとなの側面がより強くな

り,より良く機能するようになるからである」(邦訳 p131)という〇

一万で人格全面に生じた退行と,患者の社会的自我が退行 していない部分退行を区別し・後

者の場合,「象徴的実現」による治療的試みは有効でないとする。この場合,患者の成長 した側

面との保証的なコミュニケーションを確立 し,まだ退行 していない自我を保護すべきだとす

る。そうすることで解離されていた退行的傾向が語られ,認識され,それらは成熟 した精神療

法的関わりのなかで部分的な充足を得る。

Benedettiはそのことをこう述べる。「おとなとしての敬意を払って貰えるというはじめての

相互的な経験の中で,乳児的な退行が,火の中の雪のように消えていくことがよくみられる」

(op.°it.p128)。Balint(1968)は,直接 Winnicottに言及している。自身の考えとの関連性を認めつつも,

winnicottの治療的介入に関しては,成功の見込みが少ないだろうと,示唆するo「退行を許容

されることは患者にとって自分のニセ自我の行う "職務代行"にたよる安全保障をあきらめる

ことになる。しかし,分析者が退行を承認 し,"退行の管理"によってニセ自我の "職務代行"

116 天 理 大 学 学 報

を引き継ぐことさえできれば,解釈が真の自己に到達 し理解され受容される雰囲気を創造でき

るように思われる。 - ・しかし退行患者はしつこく要求を展開するのが慣わしで,しばしば

噂癖類似状態の域に達する。 I・・退行患者の管理は,したがってパー トナー次第の微妙な仕

事になるo完全にやりとげるのはむつかしい仕事だ。」(邦訳 p148)。

これが困難なのは,成人の求めるものは乳児の欲求よりはるかに複雑であり,退行 した自他

融合状態では,ちょっとした敵齢が大悲劇として体験されて原外傷状況が再建するからである

という。

実際の子どもと成人の幼児的自己を同等祝 し,治療者の介入を母親的養育とパラレルなもの

とみるWinnicottの基本的スタンスがもっと検討されるべきであろう。

Balintは退行に対する自分の治療的スタンスとしてはつぎのように述べる。治療者は万能者

となることを回避 し,治療の場を対象の代用とする○治療者は不壊の一次物質に化 したよう

に・ともに存在 し,積極的にクライエントを荷おうとせず,水が泳ぐ人を支え,大地が歩む人

を支えるように,荷い支える。

BalintはWinnicottの治療態度と区別化を図るが,筆者がみるに,このBalintの治療的ス

タンスは,治療の設定を強調するWinnicottの態度とは少なからず重複するものがある。

日本では,入院治療ながら西園昌久らが中心となって行った 「依存的薬物療法」に治療のた

めの退行という発想をみることができる。入院治療下で,レボメプロマジンの投与によって退

行が誘発され,看護婦によって保護的看護が行われる。

(21) 進行する心理過程を直接的に治療者のことに関連づけて取 り扱わない態度が推奨されてい

るoこれはいわゆるhereandnowの転移解釈とは逆方向の動きである。類似の方向性はBalint

(1968)が対象関係論的転移解釈のもつオクノフイリア的偏向を批判する点にみることができ

る。

Winnicottはまた,「行動化はこの種の仕事においては容認されなくてはならない」(1954b

邦訳 p189)とも言っている。

(22) Kohutが自己愛障害の治療において展開した治療論は,Winni。。ttの指摘するものと近似す

るoKohutの自己愛障害の治療論では,クライエントのナルシシズム (自己愛)を共感的に保

護するよう努め,それによって自己対象転移 (治療局面 (A))が生 じる。しかし経過のなか

で,不可避的に共感不全が生じ,クライエントには自己愛的憤怒が喚起される。この自己愛的

憤怒に対して治療者が,さらに共感的な理解を差 し向ける (治療局面 (B))ことにより,治療

的機序が得られるとされる。

転移が過去の反復ではなく,成長への欲求をもった新たな試みとして,目的論的に捉えられ

ている点も (ornstein1985),Winnicottが依存-の退行は過去への固着ではない,修正体験

をもたらすための試みであると考えるのとパラレルである。

(23) この治療局面にパラレルな母子関係の様相に関連して,つぎのように記述している。

「環境の提供は,まず最初にこれ (子どもの信頼)に適合し,その後,適合に失敗するので

ある。このようにして,その防衛を突き破ることによって,環境は迫害者になるのである。乳

幼児ないし児童の反応的な憎悪は理想化された対象を崩壊させてしまう。そして,このことは

よい対象から迫害を受けるという妄想として経験されやすい。その反応が適切な怒 りや憎 しみ

である場合は,(信頼を損なうという意味での)外傷という用語は適切ではない。言い換えるな

らば,適切な怒りが表出されているときには,環境側の失敗は個人が自分自身の反応に対処で

きる能力の限界を越えるほどではなかったということである」(1965a邦訳② p41)O

Winnicottのシゾイ ド論 :偽 りの自己

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