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ブリティッシュ・レイランド・ モータ一社の成立 一一 BL 10 年史( 3 )一一 山本尚 1. はじめに 1968 年という年は,イギリスにおいて 60 年代の大合併ブームがピークに達 した年であり,接収に要した総支出は総粗国内固定資本形成を超過したが,そ のなかでもブリティッシュ・レイランド・モータ一社〈以下, BLMC と略記す る〉の成立が注目されたのは,つぎの理由によるものであった。まず第 1 に, それは当時アメリカ合衆国以外の 2 番目に大きな自動車製造会社で,イギリス の非固有企業のうち 5 番目の規模をもった点、である。合併の当事者は,おのお のすでに合併およびテーク・オーバーの重要な経験をもっ多合併企業であり, BLMC の設立はほぼ 8 つの民族系自動車会社の大同団結を意味した。この企業 合併の背後にあるそチベーション,原因および過程を分析することが本稿の第 1 の目的をなす。 この合併の第 2 の特色は,テーク・オーバーが労働党政府のコーポラチズム 的産業政策の一部としてアンソニー・ウエッジウグド・ベン (AnthonyWedg- wood-Benn)やハロルド・ウィルスン (HaroldWilson) のような政治家およ び産業再編成公社(l RC)からの重要な奨励があったことである。このように BLMC 設立のもっとも重要な局面は,経済的効率の次元を超える政治的なもの (1) Cowling KStoneman P Cubin J Cable J Ha l ! GDomberger S.. andDut- ton P(1980) Mergersand Economic R ω O Y1 nce (Cambridge University Press) p. 2 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

ブリティッシュ・レイランド・ モータ一社の成立shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/file/5288/20120430175702/AN00038281...まず,われわれはBMB ... 売上高・税引前利潤率(%)

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ブリティッシュ・レイランド・

モータ一社の成立

一一BL社10年史(3 )一一

山本尚

1. はじめに

1968年という年は,イギリスにおいて 60年代の大合併ブームがピークに達

した年であり,接収に要した総支出は総粗国内固定資本形成を超過したが,そ

のなかでもブリティッシュ・レイランド・モータ一社〈以下, BLMCと略記す

る〉の成立が注目されたのは,つぎの理由によるものであった。まず第 1に,

それは当時アメリカ合衆国以外の 2番目に大きな自動車製造会社で,イギリス

の非固有企業のうち 5番目の規模をもった点、である。合併の当事者は,おのお

のすでに合併およびテーク・オーバーの重要な経験をもっ多合併企業であり,

BLMCの設立はほぼ8つの民族系自動車会社の大同団結を意味した。この企業

合併の背後にあるそチベーション,原因および過程を分析することが本稿の第

1の目的をなす。

この合併の第 2の特色は,テーク・オーバーが労働党政府のコーポラチズム

的産業政策の一部としてアンソニー・ウエッジウグド・ベン (AnthonyWedg-

wood-Benn)やハロルド・ウィルスン (HaroldWilson)のような政治家およ

び産業再編成公社(lRC)からの重要な奨励があったことである。このように

BLMC設立のもっとも重要な局面は,経済的効率の次元を超える政治的なもの

(1) Cowling, K, Stoneman, P, Cubin, J, Cable, J, Hal!, G, Domberger, S.. and Dut-ton, P (1980) Mergers and Economic RωプOY1叩 nce(Cambridge, University Press), p.. 2

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-92ー 第60巻第l号 92

であり,いわば「固有化への序曲」をなすものであった。このイギリスにおけ

る巨大企業と闇家との独特な癒着関係を分析することが本稿の第 2の目的をな

す。

第 3に, BL社はイギリス病の古典的縮図とされ,その問題の複雑さと深刻さ

のゆえに多くのケース・スタディがおこなわれてきた。すなわち,時代遅れの

モデ、ノレ,奈落の生産性記録,衰退するマーケット・シェア,取締役会における

コンセンサスの欠如,劣悪な労使関係,政府の政策の逆効果など, さまざまな

原因が指摘された。しかし,いずれを根本的原因と見,他を第 2次的重要性を

もっ原因と見るかについては,その再建策のあり方とも絡んで論者によって異

なってしゐ。 K ウィリアムズ (KarelWilliams)は, BMCjBLMCjBLの失敗

の原因として市場の制度的構造を強調し,労使関係は総体的に BLにおいてあ

まり重要でなか、ったとし,決定的な問題はフォードと比較して BLが市場構造

における変化に対応で、きなかったことであると論じてい£われわれは BLの

破綻の根本的原因を市場の制度的特殊性に求める彼の所説を手がかりとしなが

ら,さらに BLの企業組織・管理と政府の機構・政策との関係や資本調達と金融

市場の機構・動態との関係や,さらに労使関係と労働市場・慣行との関係にも

分析を進めたいと思う。そして 1978年スピーク工場閉鎖に関連して発せられた

疑問 rBLを打ち壊したのは誰か」といういわば BLのミステリーにたL、する

私なりの解決をえたいと思う。

2. BMH社の経営危機とその原因

1968年 2月の BLMCの成立について語るためには, 4年前の 1964年にさか

のぼらざるをえず,その 4年間の BMCの営業成績を見なければならない(第

(2) Ibid, p., 190,

(3) Edwardes, M, (1983) Back斤omthe Brink ,. An Apoca,yptic Expe仰 nce(London,

Collins), p" 39 (4) Williams, K, Williams, J and Thomas, 0., (1983) Why are the Britぬhbad at Manu-facturing? (London, Rout1edge & Kegan Paul), ch 3

(5) Sunday Times, 19 February 1978

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93 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -93-

1表参照)。この表が示すように 1964年以降 BMCはすべての指標において停

滞の様相を示している。この停滞の要因として 1965年に始まったポンド防衛の

ための政府の経済政策を強調する説と 1960年代に乗用車市場の構造が小型車

から中型車に移行したが, BMCがその対応に失敗し,フォードとのそテール競争

に破れたことを本質的要因とする説の 2つの説が対立しているのでそれらを検

討してみよう。

まず,われわれは BMBとレイランド・モータ一社の合併を考察する上でポ

ンド防衛のために労働党政府が採った引き締め措置が新車販売に顕著な作用を

もったことに注目しなければならない。この点を中心に BMCjBMHの社長の

株主総会における事業報告を中心にみておこう。

CBMC第 15回株主総会, 1966年 12月 14日)Gゎ W ハリマン社長 「まる

12カ月にわたって政府はそのデフレ措置プログラムを追求し,経済のノミロメーナ ショナル・プ ラン

ターは低下し続けた。 7月に起こった台風は,ボンド危機であり,全国投資計画

およびその計画する年率 4%の国民総圏内生産物増加は事実上放棄され,われ

第 1表 ブリティッシュ・モータ一社の営業成績 〔百万ポンド〉

1962 1963 1964 1965 1966 1967

官?TI 上 高 311 378 444 484 526 467

税 ヲ| 前 利 潤 406 15 05 21 17 2278 2047 ム 323

売上高・税引前利潤率(%) 1 31 398 477 471 389 069

留 保 幸リ 潤 1..95 3 98 5..95 952 4 64 1092

従 業 員 数(人〉 80.000 87.000 93.000 100,000 120,000 114.000

株 主 数(人〉 104.000 106.000 106,000 108,000 133,000 150.000

生産(台数〕国 内 376,753 478,437 538,593 559,943 531,426 372,169

輸 出 223,526 270,033 320,182 326,134 314.191 321,795

生 産 言十 600.279 748,470 858,775 886,077 845.617 693.964

(注〉 年はその年の 7月29日に終わる 1年間の実績を示す。

(6) BMC (1966) Annual Report & BMH (1967) Annual Reportより作成。

(7) Dunnett, P J S. (1980) The Decline 0/ the British Motor Industry The Effects 0/ Government Policy, 1945-1977 (London, Croom Helm)十

(8) Wi1liams, K, op. cit

(9) BMC (1966) Annual Reporl, pp 17-20

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-94 第60巻 第Hヲ 94

われは急速に圏内市場を侵蝕する前例のない緊急性をもっ信用引き締めに直面

した。操業短縮および余剰人員は不可欠の結果であり,われわれはすべてそれ

に続く政治的,産業的ならびに社会的ストレスについて知っている。

この冷厳な脈絡においてさえわれわれは激励を見出した。けだし, 845,617台

の自動車を生産することにより前年の生産高の記録からの低下は, 46%のみに

とどめられた。 1 ゎ…この年の自動車生産高は,乗用車 697,409台,商用車 129,

814台およびトラクター18,394台てずあった。当年の大部分において販売は,注

文よりも供給の利用により大きく依存した。乗用車の圏内市場調達は, 418,794

台で主要製造業者乗用車登記の 40%を超え, BMCは首位を保った。その 15

8%のシェアをもっ 1100は,イギリス市場でもっとも人気のある単一モデ、ル!で、

あり続けた。

一般的に国内販売実績は,われわれが国民経済を支えるために当年中一貫し

て輸出拡大に優先権を与えたことにより影響され, 314,191台の自動車が世界

市場のために生産された。

BMCのヨーロッパ市場への輸出は, 141,843台を占めた。この合計のうち

68,444台は EE.C向けで, 55,675台は KF T.A.向けであった」。

このように 1966年の事業報告は,将来に疑問を投げかけながらも,なお「わ

れわれは現在ブリティッシュ・モーター持株会社にたいして BMCの時代を有

利にしたより以上の幸運を享受することを確信し,期待している」と楽観的な

調子で結ぶことができたのである。ところが 1967年の社長の事業報告は一変す

る。

(BMH社第 16四年次総会, 1967年 12月 18日JG..W.ハリマン社長 「ブ

リティッシュ・モーター持株会社の最初の営業年の始まる 9日前に政府は公定

歩合を引き下げ,割賦購入条件を引き締め,売上税を引き上げ,そして銀行貸

(10) BMCは1965-6年に PressedSteeI Co. Ltdおよび Jaguarを合併して 1966年 12月に

BMH (British Motor Holdings)を設立した。この経緯については,野村宗訪Irイギリス

独禁政策と『公共の利益』一-BMCとPSの合併事件をめぐって一一J r関西学院経済学研

究』第 16号(昭和58年 11月〉参照。

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95 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -95ー

付を規制した一一ーその結果自動車産業の国内市場の乗用車販売は,ほとんど 18

万台だけ低下した。

当年全体にとって自動車生産高は 693,964台に低下し, 46億 7,200万ポンド

の売上高をもたらした。すでに示したように 6カ月間のわれわれの営業成果は,

7,500万ポンドの損失を示したが,当年の後半に圏内市場の不況にもかかわら

ず,われわれは 4,300万ポンドの利潤を記録し,当年を 320万ポンドの損失で

終わらせた。

圏内市場不況は一般的であり,われわれの乗用車,商用車およびトラクター

にも同様に反映されたが,スポーク・カーは例外で,その生産高は 54%だけ増

加して 60,196台となった。

予想されるようにオースチンおよびウルズリ,ジャガーおよび夕、、イムラーの

大型モデ、ノレは,引き締めによってもっとも影響された。しかし実質数量のター

ムで競争がもっとも集中したのは nooc.. cから 1622c.. cの中型領域において

であった。他方,趨勢を無視してミニ・サルーンは前年よりもその生産量を増

加させ, fnooJから BMC内の主導権を回復した。しかし, rnooJの生産は 100

万台呂の車が昨年 3月ロングブリッジの組立てラインから出荷されたとき新記

録を達成した。

われわれの世界市場への調達は,よく維持され, 313,790台の乗用車,商用車

およびトラクタ一一ーそのうち 72,049台は海外生産一ーで 1965/66年のそれ

の4%以内の減少にとどまった。この数量によってわれわれは主要イギリス製

造業者の輸出船積の 35%以上を占め, 1億 4,700万ポンドの額にのぼる外貨を

稼いだ。」これが自動車産業が「歴代政府によってもっとも手頃な経済レギュ

レーター」として使われたことの帰結であった。

(11) 売上税の 27+%への増加,石油税の 3シリング 7ペンスへの増加,最低割賦頭金の 40%

への引き上げ,再支払期間の 24カ月への号|き下げとL、ぅ選択的措置をふくむものであった

(Central Policy Review Staff (1975) The Future of the B冗tishCar lndustη(London, HMSO), p.. 125)。

(12) BMH (1967) Annω1 Rψort, pp.. 16-19

自由 N ational Economic Development Office (1968) The ~ρct of Government Economic PoliのIon the Motor lndustη(London, NEDO)参照。

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-96ー 第 60巻 第1号 96

このように会社側は政府の引き締め措置に経営悪化の責任を帰しているが,

これにたいしウエールズ大学研究グループは異論を唱えているので以下その要

旨を紹介しておこれまず前稿で紹介した圏内市場=輸出市場論争についてこ

のグループはiBMCの圏内市場問題の現行の議論は,財政金融的ケインズ主義

の時代におけるストップ・ゴ一政策循環によってひきおこされた新車にたいす

る圏内需要の循環的変動の lつの問題に狭く集中されてきた」と述べ,政策指

導の変化の損傷効果をあまり大きく強調することを批判し i政策の変化は恐ら

く1960年代の 3つのより小さな下降の原因というよりむしろきっかけであっ

た」と断じ, iBMCの発展パターン」すなわち「小型車の低資本集約的発展へ

の BMCの固執」にこそ破綻の根本的原因があったとして「特殊 BMC的問題」

を強調する。すなわち「したがって真の問題はこうである。し、かに,そしてな

ぜBMCは,他の主要乗用車製造業者が生きのびた循環的変動によって損われ

たか。……特殊 BMC的問題は,乗用車市場が下降したときいつでも利潤がます

ます崩壊したことであった。利潤崩壊は 2つの企業固有の原因をもった。すな

わち,第 1に BMCはその輸出ビジネスを適切に発展させえなかった。したがっ

て圏内市場が下降したときそれにかわるべき市場にスウィッチすることができ

なかった。第2に,…ぃ"拡張生産設備における過小投資が収益性を損ったため

好況時においてさえ BMCのマージンは貧弱で悪化しつつあった」と。このよ

うに BMCの失敗について国内需要の変動に重点をおく考え方や資本利用・資

本ストックによる説明や労働力の不合理な行動を非難するマス・コミのきまり

文句を「不充分で不満足なもの」として,あくまで根本原因を市場制限一一一需

(14) このグループのリーダー格の K ウィリアムズ (WilJiams,K)は Iなぜ、イギリス人は製

造が不得手か」という問いに正統派応用経済学が充分に答えていないと批判し,新しい説明

土のフレームワークとして「企業計算の国民的諸条件」を強調する。それらは,(1)労働過程

にたいする経営管理, (2)市場構造と需要の構成, (3)企業の銀行および株式市場のような金融

制度との関係および(4)その経済政策が多くの点で作用する国家にたいする企業の関係,で

あり,とくに(3)を重視する (WilJiams,K, op cit, pp.29-30)。

(15) Ibid., p 230

(16) Ibid, p. 230

(1司 Ibid,p..220

(1助 Ibid,pp.. 230-1.

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97 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -97-

要の質又は構成のパターンに対する対応の遅れーーに求めている。 BMCにお

いて生産高の発展が収益性につながらなかった要因としてこのグループは国内

および海外における市場制限をあげている。

まず圏内における市場制限からみてゆこう。 1964年以降乗用車市場に劇的な

変化がおこり,社用の中・大型車販売が激増してきた。フォード・コーチナが

中型車セクターで成功したことを理解するためには新車にたいするイギリス市

場の制度的特殊性を理解することが必要である。イギリスにおいて 1960年代以

降所得税と所得政策制限を回避する手段として事業従業員はたとえ車を会社の

仕事で使わなくても役得として会社の車をますます与えられるようになった。

1970年代初めまでに補助されない私的買手による個人的購入は重要性を減じ,

新車販売の約 50%をしめるにとどまった。これに対応してフォードが成長する

会社セクターにサービスする販売網を開発したのに対し, BMCは伝統的事業

に固執し,その多くの小規模ディーラーは私的顧客に個人的に販売するように

仕向けられた。このようにセグメント間競争に敗れたことが BMCの失敗の根

本的原因であったと K ウィリアムズは主張するのである。

したがって BMCは輸出販売を至上命令として必要としたが,ここでも又そ

れは市場制限に遭遇した。 1950年代初期および中葉に BMCは連邦諸国にその

輸出のほとんどをおこなったが,オーストラリアのような連邦市場はますます

ローカル・コンテント規制によって損われた。その後北アメリカへの市場転換

は短期的には成功したが,やがてアメリカ自動車会社がコンパクト・カーを生

産しはじめ, 1962年に北アメリカ市場は 4万台の BMC車をしめるにとどまっ

た。 BMCは 60年代初めに西ヨーロ yパ市場に市場転換し,ここでも短期的に

成功を収めたが,貧弱な販売網のため発展できなかった。このように BMCが短

期的利潤に重点を置き,圏内および海外における市場制限についてのますます

さしせまった問題を無視した点に失敗の根本的原因があったと, このグノレーブ

は主張するのである。

(j骨 Ibid,p..233

(20) Ibid, pp.. 235-7

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-98- 第60巻 第1号 98

以上において, BMC側の見解(政策とくに 1966年の金融引き締め責任説〉

とそれを批判するウエールズ大グループの見解(市場のニーズに対応する製品

開発失敗説〉とを紹介してきたが,以下若干の私見を述べておきたい。このグ

ループの主張の特質は,フォードとの対比において「市場構造における変化へ

の対応」に失敗したことに本質的原因を求め,他の要因一一政府の金融引き締

め政策,資本スト γ クおよび資本利用の不足,劣悪な労働慣行などーーを「真

実であるが第 2次的重要性をもつにすぎなご1とする点にある。では果たして

フォードがポンド防衛のための引き締め措置による影響を受けなかったであろ

うか。第 2表でみるかぎり確かに 1100/1300がその売上高を 1966年の 151,

946台から 1967年の 131,382台へと 135%減じているのに対してフォード・

コーチナ/コルサーは 165,449台から 201,293台へと 21..7%売上げを伸ばして

いる。しかしその基礎的な理由の lつは, 1100/1300が旅行セールスマンにアッ

ピールする大きな荷物入れでデザインされていなかったことである。これにた

いしてコーチナは BMCのすぐれたデザイナーであるアレック・イシゴニス

(Alec Issigonis)がユーモアたっぷりに「販売の手品」とよんだ大きな荷物入

れでデザインされており,団体購入者に充分大きな刺戟をもっ芯

他方フォートアングリア/エスコートは売上高を激減させており(第2表参

照),利潤で見る限り BMCは税引前利潤でフォードより高利潤をあげており,

「利潤崩壊」はフォードが遥かに激しか、った。これに耐ええたのは,グノレーパ

ルに行動する多国籍企業固有の強靭さをフォードが持っていたためであろう。

したがって私は BMCの収益率悪化の基本的原因は附年引き締めぼ撃の

(21) Ibid, p.. 219 倒 Daniels,J (1980) British Lのlland... The Truth about the cars (London, Osprey), p 681より作成。

帥 Turner,opゎ cit,p 183ゎ BLが団体購入者にアッピーノレする大きな荷物入れでデザインされた車を開発したのは, 1971年に採用されたマリーナであった。もっともマリーナは漏れるという大きな欠陥があった CPryke,R (1981) The Nationalised lndustηes ... Poliαes and Peiformance since 1968 (Oxford, Martin Robertson), pp.215-6)。

制 r1966年7月のデフレ措置は,その消失をほとんど誰も悲しまない特定プランの放棄を意味するのでなく, 1962年に設定された計画の全政策を爆破した」と}レノレウェッツ(JLeruez)は述べている。 Gamble,A. M.. & Walkland (1984) The British Party System

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99 ブりティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -99-

第2表 イギリス市場における BLとフォードの特定車種の販売高 (台数)

1965 1966 1967 1968 1969

BL 、、、 104,477 91,624 82,436 86,190 68,330

1100/1300 157,679 151,946 131,382 151,146 133.455

フォードアングリア/エスコート 84,589 68,209 55,735 112,169 85.156

コーチナ/コノレサー 161,580 165,449 201.293 168.887 130.230

1100/1300に与えた打撃に求める見解に賛成する。かくして 1966年 7月 30日

-1967年 7月 29日の 1年間の BMH社の税引後損失は 4,279,000に達し,そ

のキャッシュ資金(銀行残高と短期預金〉は前年の 27,685,000ポンドから 14,

036,000ポンドに半減し,その銀行当座貸越は前年の 160万ポンドから 2,300

万ポンドへ上昇し詑かくして以前レイランドの分析者によって指摘された

「強力な流動性の状態」は、消失した。(28)

以上が 1966年 7月措置の BMH社の財務構造に与えた打撃で、あった。それ

は特にその主力車種 1100/1300に打撃を与えたけれども,なお立ち直りの機会

はあった。少なくとも労働党政府と産業再編成公社(IRC)はそう判断し,もし

ょく経営された会社(レイランドがそれで,そのIRCコード用語は「からし」

であった〉が悪く経営された会社 (BMHーコード用語は「たがらし」であった〉

をテーク・オーバーすれば悪く経営された会社は改造されうると考えた。

and Economic Policy 1945-1983: Studies in Adversary Politics (Oxford, Clarendon), p.. 125..

聞 この 7月措置はノレ.-;;社、に例外的なひどい打撃を与え !lライスラーによって買収された (Young,S and Hood, N.. (1977) Chrysler U K A Coゆoratiω2in Transition (Lon. don, Praeger Publishers), ch.. 8.)

目的 BMH (1967) Annual Rψort, pp..7-8

0司 Turner,op cit, p.. 118 側 議会において大蔵省代表も自動車産業を「短期の経済レギュレーター」として意識的に使

用したかという質問にたいして 70年代以降については否定したが, r1960年代初期にはその見解に若干の真理があったに違いないと思う J (House of Commons Expenditure Com.

mittee (1975) Fourteenth Rψort.' The Motor Vehicle Industry, VoL II, p..125)と証言

している。~9) Cowling et aL, op. cit, p.. 171

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-100- 第 60巻第1号 100

3 大合同一一開幕一一

BMCとレイランドの合併については,はやくも 1963年に議論されたが,な

おレイランドは明らかに下位のノξ ートナーであった。 BMCは資産および販売

高において 2倍以上の規模をもち, 1960年代央までなお高い利潤を維持した。

ところが 1967年夏までに新オースチン 1800の商業的失敗もあって事態は一変

し, BMHは損失を計上したが,レイランドは約 2千万ポンドへの利潤増大が予

想された。かくして合併のイニシアチブはレイランド側に移行し, BMH社長

ジョージ・ハリマン卿が辞任を強要され, さらに BMHの遅延された合理化に

着手したジョー・エドワーズ氏も辞職し, レイランドのドナルド・ストークス

卿が新設会社 BLMCの社長となった。このいわば「小魚が鯨を飲む」形での合

併の経緯を 1966年 12月に設立された IRCの活動との関連で見ておこう。

IRCは労働党政府によってイギリス産業の「再組織又は発展を促進しもしく

は援助する」ために設立されたもので i1964-70年の労働党政府の導入した経

済運営の革新のうちでもっとも重要で成功したもの」といわれた。その主たる

目的は合併の促進であり,その優先順位と基準は,国際収支状況に最高の優先

順位〈く経済的〉目的〉が与えられ,ついで地域的雇用バランスの配慮(く社会

的〉目的〉であった。その説得手段として資金を国庫から L5億ポンドまで引

き出すことができたが,双方の意志に反して 2つの会社の合併を強制する手段

はもたなかった。もし金融と産業との緊密な「協調」があったならば IRC設立

の必要性は起こらなかったであろう。 IRCはマックミラン報告,さらに最近で

はラドクリッフ報告以降繰り返して指摘された「金融上のギャップ」を埋める

(30) Ibid, pp 178-9 (31) IRCのイギリス労働党の産業政策における位置づけについては,高橋哲雄「イギリス労働

党の産業政策思想の転換一一1964ー 70年一一J,高橋哲雄他編『比較社会史の諸問題〔大野

英二先生還暦記念論文集Jj所収,参照。

(32) McClelland, W G. (1972) The Industrial Reorganisation Corporation-an experimen-tal prod, Three Banks Review, no..94, June, p..23

(ゆ Stacey, A. H (1966) Mergers in Modern Business (London, Hutchison)。小津修二訳

『現代の企業合併~ (969), 144ベージ。

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101 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -101-

ための決定的に有力な助力機関の役割を担っていたのである。すなわち,もし

国際収支危機に対応してシティ権益擁護のため採られた仮借なきデフレ政策を

労働党経済政策のハイド的側面とすれば, IRCはそのジーキル的側面を示すも

のといえよう。以下において,いわば IRCをレフリーとする BMHとレイラン

ドの聞の合併をめぐるゲームを G ターナー(G.Turner)の著書に依拠して

1967年 10月以前と以後に分けて考察しよう。前半においては合併は「個人的お

よび会社の観点」から商業的考慮によって進められており,その中心人物は

BMHの]エドワーズ(Joe Edwards)であり,後半の首相地方官邸での会合

以降は「突然まったくちがったルールでプレイし!て」おり,その主役はストー

クスであった。

まず, 1952年 2月にオースチン社とモリス社が合併してブリティッシュ・

モータ一社 (BMC)を設立して以来「合理イじ」にはほとんど見るべきものがな

かった点に注目したL、。もともと合併そのものが「水と油を混ぜ合わせるよう

なもの」であった上,新社長レオナノレド・ロード (LeonardLord)の合理化の

失敗から合併の利益は決して充分には実現されなかった。両会社の使用する主

要機械部品一一エンジン,ギア・ボックスなどーーのかなり急速な合理化があっ

たが,分散した工場の統合化はゆるやかなベースで進んだにすぎない。 1950年

代および60年代初めの売手市場と BMCの健全な利潤が改革を遅らせ,オース

チンとモリスの販売ネットワークは, レイランドとの合併時でさえ大いに別個

であった。同様にグループの組織も 1966年まで能率化されず, BMCは持株会

(34) Turner, op.. citターナーは BBC経済記者で本書の他にも自動車産業にかんする著書がある。 1974年BBCラジオ・プログラムでカウレイ・コンプレックスを「愚者の楽園」と述べ, TGWU地方書記0.パックノレ(0.Buckle)によって「愚かで、無責任な」発言であり,恐らく BLを来るべき総選挙に向けて「保守党のための政治的フットボーノレ」にするものであると批判された (FinancialTimes, 29 August 1974)。

開 Turner,op. cit, p.. 122. 自由 Ibid“, p.122 開 以下,本節および次節の叙述は,ターナーの著書(Turner,op. cit)およびその要点を示

す Hague,0.. and Wilkinson, G (1983) The IRC-An Eゅerimentin lndustrial lnterven-tion.: A History of the lndust均 1Reoγ-ganistation Corporation (London, George Allen & Unwin)に拠っている。

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-102- 第 60巻 第1号 102

社にとどまり,たとえばオースチンとモi リスは別個の取締役会と別個の帳簿を

もっていた。しかも会社内取引が発展したために経営に利用しうる財務情報は

しばしば不充分であった。その上経営上の内紛が絶えず, 1956年にロードが

BMCの製造担当重役であり,執行部のなかでもっとも有能な人材の l人であ

るJエドワーズを解雇したことはその典型であった。エドワーズは短い中断は

あったがオωースチンおよび BMCに27年間在職したが,ロードとの折り合いが

悪く,プレスト・スチール社に移り, 1966年両社が合併したとき再び専務取締

役として復帰した。同年 6月9日彼が BMCの専務取締役になったとき「確かに

鳩の群れの中に猫を置くこと」と評されたほど彼は病気がちのハリマンに代

わって事実上の BMHの最高管理者であった。

エドワ寸ズは専務取締役として復帰したとき BMCに基本的弱点を見出し,

その多くは短期的には治療ができず,この会社が生き残るためには抜本的改革

が必要であると考えた。まず第 lは労働力削減と経営陣の強化であり, 1966年

秋に 14,000人だけ会社の労働力を削減した後いくつかの中心部門の BMCの

経営を強化することに着手し,それぞれ購買責任者およびスタイリング担当取

締役となるべきバート・ウォーリング (BartWalling)およびロイ・ノ、インズ

(Roy Haynes)のような人材をフォー肝から雇ったが,労使関係担当重役の召

蒋には成功しなかった。

次のプライオリティは,早急なコスト節約が可能な分野を見出すことであっ

た。彼はこのグループにあまりに多くの工場があることを知っており,それら

の若干を閉鎖する計画を作成しはじめた。これらはコヴエントリのモリス・ボ

ディ工場,オックスフォードのモリス・ラジエーター工場,アビンドンの MG

コンブレ yクスの一部およびパーミンガムのカスル・ブロムウィッチのフッ

シャー・アンド・ラドロウ工場を含んだ。エドワーズはこれらの閉鎖が BMHの

水ぶくれした労働力をさらに 8,000人だけ削減しうると計算したι1967年秋ま

でにこれらの計画は完成されつつあった。

第3に,エドワーズは BMCの製品計画努力に批判的であった。食器棚はまっ

たく空ではないまでもニュー・モデ‘ノレをきわめてわずかにしかストックしてな

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103 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -103ー

いように思われた。彼は当時開発の後期の段階にあったマキシー(コード番号

AD014)の正面のデザインを嫌い,全体としてそれが魅力に欠けると批判した

が,不幸にもその予想は的中することになった。 1800;.:も週当たり 3,000台の販

売を達成するものと意図されたが, 1967年までに週当たり約 1,000台の率で売

れたに過ぎない。会社はそのモデルのおのおのに多種の車種一一ミニには 16種

類あった一一ーがあり,車種は多数のボディ・パネルを必要としたのでコスト節

約は達成できなかった。 1モデルの車種がすべ1て同じ工場で生産されてはおら

ず,エドワーズは 1100車種系列が 4つの異なった場所で生産されているのを見

出した。

これらの改革は 1967年秋までに進行中であり,ハリマンとエドワーズは時間

さえ与えられれば BMCは充分な健康に復帰しうると信じ,エドワーズはそれ

が 18カ月かかると考えた。ところが 10月初め政治家による決定的介入が生じ,

しかもトップ・レベルにおいてであった。ウィルスン首相がハリマンおよびス

トークスを首相地方官邸の晩餐会に招待したので、ある。このニュースを聞いた

ときエドワーズはこれまでの合理化努力が無意味となったと感じ,今や彼およ

び会社が「権力の回廊」にあると理解した。

4 大合同一一一権力の回廊一一

合併の話し合いが最初に始まったときレイランドは明らかにジュニア・パー

トナーであったが 1967年夏までに様相は大きく変わり, レイランドが今や「獲

物というよりはむしろ猟師」になった。 1967年に BMHが損失を計上したのに

たいし,レイランドは 1962-65年の 4年聞にその利潤を 4倍近く増大させ,

1966年に 1,643万ポンドとなり, 1967年にも 2,000万ポンドを予測した(第(38)

3表参照〉。その年までにレイランドの古L、3頭支配経営は解体し,レイランド

はドナノレド・ストークスであった。彼は印象深い公共の名声を獲得し,労働党

政府の産業顧問であり, IRCの理事会メンバーであった。もちろん,彼は彼の

側 L eylandMotor Corporation (1966) Rψort and Account, p. 15

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-104- 第 60巻 第1号 104

第3表 レイランド・モータ一社の営業成績 (百万ポンド)

1962 1963 1964 1965 1966

土7c 上 高 148 172 202 215 220

税 号1 前 手リ 潤 5 55 10 33 1783 2045 16 43

売上高・税引前利潤率(%) 38 6 0 88 9 5 75

留 保 来日 潤 069 307 6 45 9 44 4 17

従 業 員 数(人〉 48.500 51. 750 54,500 56.600 56.100

株 主 数(人〉 69,000 71.000 70,000 70,000 71,000

(注〕 年は,その年の 9月30日に終わる 1年間の実績を示す。

会社および競争者にかんする IRC理事会でのすべての議論から排除された。

IRCの最初のイエシアチブが座折したときストークスは不確かな同意され

た合併よりはむしろ BMHに対するテーク・オーバー・ピッドについて真剣に

考えはじめた。彼はビッドにたいする決定が最終的にとられるならば,その根

拠を準備するために 2つの行動をとった。第 1は, レイランドの株式構造の技

術的問題であった。レイランドは 1ポンド株5,000万以上をもったが, BMHは

ほぼ5シリング (25ペンス〉株式で2億 5,000万株をもった。レイランド重役

会は 1ポンド株を 4つに分割することを決定し 4対 lの仮株券発行をおこな

い,かくして BMHにおけると同数のレイランド株をっくり出そうとした。こ

れは 2つの利点をもっとみられた。第 lに,それはなんらかのビッドの技術を

より単純化し,条件をより容易に理解しうるようにするであろう。第 2に,よ

り重要なことにもしビッドのタイミングが正しければ,適当な利潤予測とそれ

が結合されうるので BMHのそれを越えたレイランドの市場資本化をよく行

いうる。したがって緊急の計画が株式分割を試みるためになされた。

第 2の準備行動は,政府とのグラウンドを明確にすることであった。それは

政府および IRCが合併を推進するにつれてほとんど必要とは思われなかった

が,スト}クスは BMHによって反対されたレイランドのテーク・オーバー・

ビy ドに異なった反動があることを恐れた。したがって 7月末彼は技術相のベ

ンに会い,政府が独占委員会にテーク・オーバー・ビッドを提訴しないという

非公式で暫定的な了解をとりつけた。これらの 2つの準備行動の後 10月初めに

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105 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -105-

トップレベノレの政治的介入が行われた。

首相の地方官邸における晩餐会はハロルド・ウィノレスンの考えであった。彼

はIRCがこの合同をきわめて重要なものと見なしており,それを進めるために

苦闘しているのを知っていた。地方官邸にハリマンとストークスの 2人の首脳

を招いて,合同は不可欠であり,ストークスに取締支配権を与えることによっ

てのみ成功するであろうとし、う政府見解をハリマンに伝えることにあった。ハ

リマンが後に述懐しているように「その夕方の全体の本質は合併を促進するた

めに首相の地方官邸の魅力を使うことで、あった」。

2つの会社の首脳が地方官邸において 10月20日に再び会合をもつことが同

意され,今やこの合併は個人的および会社の観点からではなく国家の観点から

「権力の回廊」を突き進むことになった。ハリマンは「首相が尋ねたとき否と

いうことは良いことではない。地方官邸の後,私は前進するために特別の強制

を感じた」と首相官邸の会合につづく雰囲気の変化について述べている。それ

以降すべての企業合併がそうであるように資本構造における合併比率および経

営構造における取締支配権をめぐって両社間で蟻烈な掛引きが行われることに

なる。

1967年夏までに BMHの圏内市場におけるシェアは 28%以下に落ち込み,

ほんのわずかフォードに先んじているに過ぎなかった。レイランドは, 2,100万

ポンドの利潤を予測したが, BMHは損失を計上しており, 10月20日に 2回目

の首相地方官邸での会合が持たれたとき,レイランド株の市場価値は BMHの

それを追い抜いた。その会合においてストークスは,第 1にBMHに対して一

方的なピッドは行わないことを了承し,第 2に議論が経営構造およびその他の

問題についての差異をめぐって泥沼におちこむように見えたとき, レイランド

は中立的裁定者iを立てることを示唆した。フ。ルーデンシヤノレ保険会社がレイラ

ンドおよび BMHの双方の大株主であり,ディールのための合理的な条件を示

す理想的な選択と思われた。

「プノレ」はその課題に接近し,取り組むことに同意した。 11月にそれが提案

をおこなったとき, BMHの当期の利潤と市場価値にたいするよりもその資産

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106- 第 60巻第 l号 106

価値と潜在的な回復力〈強気の予測によって裏打ちされた〉により大きなウェー

トを与えたことは明白であった。「フ。ル」の提案は BMHの株主に合同株式の

55%を, レイランド株主に 45%を与えるというものであり,マーチャント・パ

ンカーが前年春に示したよりも BMH~;こ有利であり,その相対的地位がそれ以

来大きく悪化しているにもかかわらずそうであった。

レイランドはし、かなる条件においても「フ。ル」の提案を受け入れる用意はな

く,レイランドのアプローチは失敗に終わったかに見えた。ところが 11月 18日

イギリスがポンドを切り下げたことが 2つの会社の比較上の展望を変え,結果

的にレイランドにもう 1つの武器を与えた。ポンド切り下げおよび新しい割賦

購入制限はレイランドよりはるかにひどく BMHに打撃を与えるであろうか

らである。同時に 11月末までにベンの政治的介入によって IRCが再び問題の

中心にカムバックし,その理事長カートン (FKearton)が調停者として行動

することになった。

IRC はし、くつかの重要な利点をもった。第 lに,政府の代理機関としてそれ

は,合併にたいして政治的圧力を行使することができるであろう。第2に,カー

トンと彼の執行部はウィルスン又はベンが交渉の詳細と長い交渉期間にたいし

てなしうるよりもより多くの時聞をさくことができるであろう。第 3に, IRC

は適当な条件のもとで資金を提供することができ,もし結合した会社が大きな

合理化と開発言ピ試みることになれば多額の資本投入を必要とすることが明白で

あった。 IRCの理事会メンバーとしてのストークスの立場も重要であった。

他方,経営構造および支配をめぐっても両社の見解は激しく対立した。 BMH

は持株会社のもとでの現存事業のルーズな同盟を欲したのに対し,レイランド

はストークスを経営取締役および首席エグゼキュティブとする明確で、強い命令

構造を主張して譲らなかった。この点で IRCが仲人役として大きな成果を生み

だすことになる。 1968年 1月8日に予備的な会合がすべての当事者の聞で、持た

れた。カートンは次に双方の会社における重要な人物のほとんどと個別に会合

した。 1月9日雪の中,ストークスはレイランド・モーターズのリパプール工

場訪問中のウィルスン首相と会合し,合併についての首相の支持をほぼとりつ

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107 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -107ー

けることができた。これらの根回しの後 1月4日土曜日の夕方ロンドンで双方

の会合がもたれたが,それは明らかに決定的会合であった。解決されるべき重

要問題はなお経営構造であったが,翌朝の 1時までにカートンの忍耐強い交渉

技術は 1つの協定を生みだすことをたす町けた。 BMHが当年その利潤予測を大

きく低下させ,その当座貸越が 5,000万ポンド以上に増加したため, IRCの資

金が合併ディールの重要な部分となることが明らかになった。

レイランドの定期取締役会が 1月 16日にもたれ,なされた進歩が再調査され

た。経営問題はハリマンを会長とするがストークスを経営取締役および有効な

首席エグゼキュティブとすることが満足裏に解決された。 BMHの予測の改訂

が新会社の半分以上を取得する BMHのいかなる機会も失わせ, 50対 50の基

礎が承認された。その夕方双方の会社の取締役が IRCで会合した。そして最終

的な発表の詳細が議論され承認された。新しい役員会にはレイランドおよび

BMHから同数の重役を任命し,会長はキャスティング・ヴオートをもたなかっ

た。ハリマンは常勤の会長であったが,彼の責任は専務取締役としてのストー

クスのそれとは全く異なっていた。新しいグループは持株会社としてではなく

単一の自治的単位として経営されることになり, これはレイランドの観点にた

いするもう 1つの勝利であった。主要な問題は BMHの財務状態の深刻さに

あったが,これにたいして IRCが承認されるべき条件のもとで 2,500万ポンド

の貸付を考慮することになった。

翌日 l時 45分に合併協定のニュースが株式市場に伝えられ, 10分後に報道

機関に伝えられた。今やイギリスは世界にたいして 1つの新しい巨大な自動車

会社をもつことになった。それは大胆な始まりであり,諸困難は終わったよう

に思われたけれども,事実それらはただ始まったばかりであった。

この協定は双方の会社の株主の承認を要し,それは 1968年 3月に計画され

た。その聞に BMHの財務状態の予想を上回る損失の結果が明らかになり,合

併は流産の危険にさらされた。ターナーによれば BMHの主力銀行からの勧告

は合併の条件には固執するが,経営については妥協するであろうということで

あり,ハリマンはこの勧告を受け入れる準備をした。ハリマンは 6カ月以内に

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-108- 第60巻第1号 108

社長を辞職し,ストークスが社長兼首席エグゼキュティブになることになった。

それは 1968年3月双方の会社の株主によって計画されたとおり承認され,かく

してブリテイグシュ・レイランドは誕生した。 BMHの経営取締役ジョー・エド

ワーズの辞任は不可避であり,彼自身もストーグスのナンバー 2を務める意志

がなく 4月に辞職した。したがってストーグスは結合された重役会に明白な

多数を確保し,テーグ・オーバーをおこなったのと同様に彼が欲したほとんど

すべての決定的な点を達成した。しかし彼は 1つの譲歩を喜んでおこなった。

これは BMHのジャガー子会社がその創設者ウィリアム・リヨンズ (William

Lyons)卿の経営のもとで大いに自治的な単位としてとどまるであろうという

点であった。

BMHの基本問題の 1つは低水準の投資にあったため合理化計画を押し進め

るためには IRCの資金を必要とした。 IRCはブリティッシュ・レイランドにた

いして 2つの重要な譲歩をおこなった。第 1にそれが提供した 2,500万ポンド

は無保証の貸付資本の形でなされることが同意された。第 2にそれは市場利子

率よりわずかに低い率でこれを利用しうるようにした。第 2の譲歩は異例のも

のであり, IRCがこの合併をし、かに決定的に重視したかを示すものである。

5、 むすび一一日産・プリンス合併との比較一一

ドナノレド・ストークス卿は, 1968年 1月24日のサヴォイ・ホテルの演説にお

いて次のように述べた。「ふくまれるすべての問題をきわめて注意深く考慮した

後われわれは正しい事は,われわれがすでに発表した条件で BMHを合併する

ことであると決定した。レイランドの現時点における利潤は明らかに BMHの

それよりはるかに大きいが,それにたいしてそれらは巨大な生産能力,大量の

のれんおよび将来にたいするきわめて大きな潜在力をもっ組織で、あり,合理化

された経営によってわたくしは主要自動車生産者の強力な世界的規模での競争

にたいして競争しうるであろうことに大きな希望をもっている。……それらが

イギリス製だからではなく,イギリス車が世界で最上の車だから人々がわれわ

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109 ブリティッシュ・レイランド・モータ一社の成立 -109ー

れの車を買うことを欲する」と。しかしこの「ストークスの夢」は不幸にも実

現されることなく 5年後に欠損を出し,ふたたびベンの手にゆだねられたので

ある。そこでその失敗の原因をほぼ2年前におこなわれた日産・プリンス合併

(以下. NP合併という〕と比較しておこなう。

両者を比較するばあい,まず日英両国の自動車産業の発展段階の違いに注目

しなければならない。 60年代において,イギリスの自動車産業が成熟段階に達

していたのにたいし, 日本では成長段階に入ったばかりであったことを反映し

てつぎのような差異が見出される。第 1に,日本経済も 1964-5年に国際収支

悪化によるドラスチ yグな引き締め措置によって不況局面を迎えたが「スト y

プ」期間は短期に終わり, 65年に経常収支は黒字に転じ,それ以後国際収支の

黒字基調が定着したのにたいし,イギリスでは不況局面が長引き,経常収支は

改善されず,遂に 67年のポンド切り下げ(ドルにたいして 144%)がおこなわ

れた。したがって政府の景気引き締め政策による打撃は, NP合併におけるより

もBL合併において,より本質的原因となった。

第 2に, NP合併は習熟局面を終えた日本自動車産業が園内市場から輸出市

場へ,法人需要から個人需要へ,後進国向けから先進国向けへ,中型車から小

型車への需要構造の変化のなかでおこなわれたのにたいし, BL合併がほぼそ

の逆の需要推移のなかでおこなわれたことである。プリンスは需要構造が中型

車から小型車へ,法人の営業用車から個人用自家用車へと変化したために強い

打壊を受けたのにたいし, BMHはその逆の需要推移に対応することができな

かったために破綻を示したのである。

第 3の BL合併と NP合併の相違点は,銀行の果たす役割の決定的ともいえ

る差異で勺ある。日本においては系列金融に加えて開銀による体制金融のノミグ

(39) Speech by Donald Stokes“Savoy Hotel-24th .January, 1968. (40) Dライダー(0..Ryder)は「私は 1968年の合併は正しかったと思う。合併の条件に問題

があったと信ずる」と述べ,ライダー・レポートが出るのが 7年遅かったと指摘している

(House of Commons Expenditure Committee, op. cit., p.. 59)。品1) Allen, G C (1980) 1注pan's EcQnomic Policy (London, Macmi1lan), p. 145 制 大島卓「日本自動車産業における成長過程の実証分析一一日産・プリンスの合併を中心に

一一J r季刊経済研究』第9巻第 1号 (986)

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-110- 第 60巻 第1号 110

ク・アップの下に技術革新,設備投資が急速に進み,合併がより大規模な合理

化を実施する手段としておこなわれたのにたいし, BL合併においては規模の

経済,能率改善,合理化,競争力強化,投資資本の利用増大といった目的が並

べられたが,実体は「救済合併」であり国家資金の導入によって危機を回避し,

市場支配によって利潤の回復を図ろうとするものであった。合理化志向派の J

エドワーズの退陣はその象徴であり,彼がブリティッシ a ・レイランドを去る

際にストークスに告げた「ドナルド,荷酷な運命は今やすべて君のもの芯と

いう言葉は,その後の BLの運命を暗示するものであった。

担割 Turner, op.. cit.., p.. 177.

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