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1 2014 10 25 日(土) 海外移住資料館 JICA 横浜・海外移住資料館・日本移民学会共同開催 公開講座「日本人と海外移住」 4 回「カナダへの移民」 河原典史(立命館大学地理学教室) はじめに―歴史地理学からのアプローチ― カナダ日本人移民史の概要 1877(明治 10)年 永野萬蔵(長崎県口之津出身)渡加 ビクトリアで美術商開業 1888(明治 21)年 工野儀兵衛(和歌山県三尾出身) スティーブストンでサケ漁 1891(明治 24)年 広島県、翌年福岡県からカンバーランド炭坑への契約移民 1896(明治 29)年 湖東水害による滋賀県からの移民増加 1906(明治 39)年 及川甚三郎(宮城県鱒淵村出身)密航船・水安丸で渡加 1907(明治 40)年 東京移民合資会社と日加用達会社による カナダ太平洋鉄道とカンバーランドヘの 1,500 人の契約移民 バンクーバー暴動の勃発 1908(明治 41)年 レミュー協定による移住制限 写真婚の増加と 2 世社会の形成 1941(昭和 16)年 太平洋戦争の勃発により日本人は敵性外国人 1942(昭和 17)年 日本人の内陸部への強制移動と帰国 1949(昭和 24)年 BC州へのカナダ国籍者(2 世・帰加 2 世)の帰還許可 1962(昭和 37)年 戦後移民(新移住者)の受入れ許可 1988(昭和 63)年 リドレス運動により日系人の戦後保証獲得 ワーキングホリデーの受け入れ バンクーバー万国博覧会 2010(平成 22)年 バンクーバー冬季オリンピック 2014(平成 26)年 バンクーバー日本国総領事館 125 周年 バンクーバー朝日軍結成 100 周年 バンクーバー日系ガーディナーズ協会創設 55 周年 カナダ日本人移民史の特徴 「江州ソーミル、熊本ヤマ、死ぬよりましかなヘレン獲り」 滋賀県出身者:製材業(Sawmill熊本県出身者:伐木業・鉱業(石炭・銅) 和歌山県出身者:漁業(サケ→ニシン(Herring))

第4 回「カナダへの移民」 河原典史(立命館大学地理学教室) · と塩ニシン製造業-」、立命館大学言語文化研究(査読なし)21-4、27-38、2010

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2014 年 10 月 25 日(土) 海外移住資料館

JICA 横浜・海外移住資料館・日本移民学会共同開催 公開講座「日本人と海外移住」

第 4 回「カナダへの移民」 河原典史(立命館大学地理学教室)

Ⅰ はじめに―歴史地理学からのアプローチ― Ⅱ カナダ日本人移民史の概要

1877(明治 10)年 永野萬蔵(長崎県口之津出身)渡加 ビクトリアで美術商開業

1888(明治 21)年 工野儀兵衛(和歌山県三尾出身) スティーブストンでサケ漁

1891(明治 24)年 広島県、翌年福岡県からカンバーランド炭坑への契約移民 1896(明治 29)年 湖東水害による滋賀県からの移民増加 1906(明治 39)年 及川甚三郎(宮城県鱒淵村出身)密航船・水安丸で渡加 1907(明治 40)年 東京移民合資会社と日加用達会社による

カナダ太平洋鉄道とカンバーランドヘの 1,500 人の契約移民 バンクーバー暴動の勃発

1908(明治 41)年 レミュー協定による移住制限 写真婚の増加と 2 世社会の形成

1941(昭和 16)年 太平洋戦争の勃発により日本人は敵性外国人 1942(昭和 17)年 日本人の内陸部への強制移動と帰国 1949(昭和 24)年 BC州へのカナダ国籍者(2 世・帰加 2 世)の帰還許可

1962(昭和 37)年 戦後移民(新移住者)の受入れ許可 1988(昭和 63)年 リドレス運動により日系人の戦後保証獲得

ワーキングホリデーの受け入れ バンクーバー万国博覧会

2010(平成 22)年 バンクーバー冬季オリンピック 2014(平成 26)年 バンクーバー日本国総領事館 125 周年

バンクーバー朝日軍結成 100 周年 バンクーバー日系ガーディナーズ協会創設 55 周年

Ⅲ カナダ日本人移民史の特徴

「江州ソーミル、熊本ヤマ、死ぬよりましかなヘレン獲り」 滋賀県出身者:製材業(Sawmill) 熊本県出身者:伐木業・鉱業(石炭・銅) 和歌山県出身者:漁業(サケ→ニシン(Herring))

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Ⅳ 海で活躍した日本人 1. サケを獲る人・運ぶ人 サケ缶詰産業の発展 三尾を制するものはスティーブストンを制す サーモン・キャナリーでの生活 運搬船を担う人 漁場の発見と日系漁業組合 2. 太平洋をめぐるニシン ニシンを見つける・ニシンを掬う 塩ニシンはアジアへ、ピクルスはカリブへ 3. クジラを獲らない日本人

クジラの発見・クジラの解体 鯨油の需要

Ⅴ 雪崩に散った若い命

1. 東京移民合資会社からの契約移民 限られた輩出地 鉄道保線工と炭鉱夫 密航か、それとも 移民政策か

2. ロジャーズ峠の悲劇 組長(ギャング)と少年 百回忌の開催

Ⅵ 庭を掃くかな伯耆人 1.日本庭園の模索 万国博覧会での展示 ビクトリアの日本庭園と岸田伊三郎・野田忠一 2.庭園業から造園業へ 庭を掃くかな伯耆人 新渡戸庭園の開設 新移住者による造園業とワーキングホリデー

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Ⅶ 日系二世の再発見―おわりにかえて― 参考文献(ご笑覧いただければ幸いです) 米山裕・河原典史編『日系人の経験と国際移動―在外日本人・移民の近現代史―』、人文書

院、所収)1-276、2007 河原典史編『カナダ日本人漁業移民の見た風景―前川家「古写真」コレクション―』、

三人社、1-197、2013 河原典史「カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者-忘れられたカナダ日

本人移民史-」、(吉越昭久編「災害の地理学」、文理閣、所収)193-210、2014 河原典史「カナダ日本人移民史研究における住所氏名録と火災保険図の歴史地理学的活用

-ライフヒストリー研究への試的アプローチ-」、移民研究年報 20、17-37、2014 河原典史「1920 年頃のカナダ・バンクーバー島西岸におけるニシン漁業の漁場利用―調査

報告書と古写真から―」、国際常民文化叢書1、173-184、2013 河原典史「カナダ・フレーザー川における日本人漁業者の漁場利用―日記と視察報告書か

ら―」、国際常民文化叢書1、185-194、2013 河原典史「20 世紀初頭のカナダ西岸における捕鯨業と日本人移民」、地域漁業研究 52-2、

65-83、2012 河原典史「ビクトリアの球戯とバンクーバーの達磨落とし―20 世紀初頭のカナダにおける

日本庭園の模索―」、(マイグレーション研究会編『エスニシティを問いなおす

―理論と変容―』、関西大学出版会、所収)249-265、2012 河原典史「『前川家コレクション』にみる女性と子供たち:カナダ・バンクーバー島西岸の

日本人」、京都民俗 28、111-130、2011 河原典史「太平洋をめぐるニシンと日本人―第2次大戦以前におけるカナダ西岸の日本人

と塩ニシン製造業-」、立命館大学言語文化研究(査読なし)21-4、27-38、2010 河原典史「第2次世界大戦前のカナダにおける日本人の就業構造」地理月報 501、1-4、2007 河 原 典 史(Norifumi KAWAHARA)

立命館大学文学部地域研究学域地域観光学専攻 603-8577 京都市北区等持院北町 E-Mail : [email protected]

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

Ⅰ.はじめに

第二次世界大戦以前、少なくない日本人が海外へ出稼ぎを試み、また移住を決意した。その主たる渡航先はハワイやアメリカ合衆国、やがてブラジルをはじめとする南アメリカであった。そして日本人(日系人)は、現地で農業に従事することが多かった。ハワイでのサトウキビ、アメリカ合衆国での野菜・花卉・果実、ブラジルでのコーヒー豆・綿花などの栽培や収穫は、その代表的なものである。それに対し、カナダではその地域性から、これらの国々とは異なる生業が選ばれた。

当時のカナダにおける日本人について、「江州ソーミル、熊本ヤマ、死ぬよりましかなヘレン獲り」という興味深い俗言がある。これは、日本の出身地とカナダでの職業との関係を示している。つまり、滋賀県出身者は製材所

(Saw Mill)、熊本県出身者は山奥の鉱山や伐木場で活動した。しかし、慣れない機械や倒木・落盤で怪我や命を落とすのなら、ニシン(Herring)・サケの漁獲やその加工に携わる和歌山県出身者の方が恵まれているかも……という、初期移民の記憶が表わされている。それら以外にも、日本人移民は多様な職業に就いていた。例えば、リトル・トーキョーと呼ばれたバンクーバーのパウエル街で同胞を顧客とする商業、フレーザー川中流域のイチゴ栽培などである 1)。これらの先行研究 2)に対して、著者は等閑視されてきた日本人

カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者─忘れられたカナダ日本人移民史─

河原典史

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Ⅲ.日本と海外の事例

漁業者の拡散的移動と転業について報告してきた 3)。しかし、拙稿も含めた先行研究において、新保 4)の紹介を除けば多くの初

期移民が就いた鉄道保線工については看過されてきた。その理由として、彼らの多くが契約移民としてカナダへ渡ったことがあげられる。前述した滋賀県や和歌山県人の多くは、移民契約会社を介さない自由移民であったため、カナダ日本人移民史研究では鉄道契約移民へ焦点が当てられてこなかった。内陸部の工事・保線現場へ派遣され、貨車を改良した住居での過酷な契約を終えて転業するため、これについて語るインフォーマントも多くなかった。そのため、鉄道契約移民の実態についての研究は、アメリカ合衆国における同種の事例研究 5)以上に乏しい。しかも、北方に位置するカナダならではの冬期の雪害をめぐる日本人保線工については、ほとんど紹介されていない。雪害だけでなく、これまで日本人移民史研究において、災害との関わりから論じられることはなかったように思われる。農業や漁業など、出稼ぎ・移住先で日本人が就いた職業と災害との関わりなどは、日本と同様にみられたはずである。しかし、それよりも排斥やアイデンティティーなどに研究テーマ

第1図 ロジャーズ峠とその周辺枠内の鉄道路線について、旧線跡は現在では道路(曲線の実線)、新線はトンネル(直線の点線)で描かれている。(Golden 1 :250,000、1976)

0      3㎞

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

が収斂してきたのであろう。そこで本稿では、これまで見すごされてきた日本人移民史と災害との関わ

りについて、カナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway、以下 CPR)の雪崩災害と、それに関わった日本人の実態を明らかにする。1910(明治 43)年 3月 4 日午後 5 時頃、ブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC 州)の内陸部のセルカーク山脈に位置するロジャーズ峠で雪崩が発生した(第 1 図)。CPRの除雪作業に携わっていた 70 余名のうち、午後 11 時頃に発生した大規模な

資料1 ロジャーズ峠の雪崩事故(1910年3月5日)(レベルストーク鉄道博物館所蔵)

資料2 CPRの日本人鉄道工夫(ノッチ・ヒル駅、1912年頃)(前列向かって左端が阿部正虎の次弟・正隆。阿部文生氏所蔵)

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Ⅲ.日本と海外の事例

第二次雪崩災害によって 58 名の鉄道工夫が落命した(資料 1)。そのうち 32名は日本人であり、彼らの多くは移民会社を介した契約移民として 3 年間の労働契約を結んだ、いわば出稼ぎ移民であった(資料 2)。この悲劇の解明は、新しいカナダ日本人移民史の 1 ページになる。

Ⅱ.ロジャーズ峠の雪崩災害

1 カナダ太平洋鉄道の建設とアジア移民

1881 年に創業された CPR では、同年にカナダ東部のモントリオールから横断鉄道の工事が着工された。やがて、それは西岸のバンクーバーからも着工され、1885 年に全通した。建設には多くの中国系移民が就いたが、全通後には過酷な重労働、冬季の除雪や春季の雪崩の危険性から、彼らは保線工から離れるようになった。また、牛頭税が課せられていた彼らの雇用を回避するため、CPR も彼らの離職を促進した。つまり全通したものの、その後の CPR には保線工の需要が必要不可欠であったにもかかわらず、その供給

第2図 東京移民合資会社による契約移民(1907年)外務省外交史料館所蔵「移民取扱人ヲ経由セル海外渡航者名簿」より作成

炭鉱夫 鉄道工夫

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

は不安定だったのである 6)。かかる状況に着目した東京移民合資会社 7)は、後述するカナダの日加用達

会社と提携し、明治 40(1907)年の 6 月から翌年 1 月にかけて約 1,500 名の契約移民をカナダへ送り出した。ただし彼らの出身地は、わずか 10 県に限定されていた。最も多いのは 400 名を輩出した鹿児島県で、全体の約 4 分の 1を占める。そして、266 名の熊本県と 175 名の宮城県に次いで、福井県から154 名がカナダへ渡った。ほぼ同数で沖縄県出身者がみられ、以下は福岡・静岡・岡山県と続き、そして神奈川県と栃木県となる(第 2 図)。

ところで横浜港を発った彼らは、およそ 1,000 名の鉄道工夫と 500 名の炭鉱夫とに大別できる。カナダ到着後に日加用達会社を経て、鉄道工夫はCPR の沿線、炭鉱夫はバンクーバー島のカンバーランドヘ送られた。最多の輩出地である鹿児島県は半数ずつであるが、熊本・宮城県でもそのほとんどは鉄道工夫である。そして、4 位の福井県は 154 名の全てが鉄道工夫である。つまり、当時のカナダでは保線にあたる鉄道工夫の需要が大きかったのである。

2 日本人移民の犠牲者

ロジャーズ峠は、バンクーバーより北東へ約 600㎞離れた標高 1,330 mに位置する。気候・地形的要因から、この峠付近では雪崩が発生しやすい。カナダ─アメリカ合衆国の数理国境となる北緯 49 度線付近では、太平洋からの偏西風が卓越している。海洋からの水分を含んだこの恒常風は、BC 州を南北方向に縦走する環太平洋造山帯の山脈列を超えるたび、風上の西側において冬季には降雪をもたらす。そして、フェーン現象によって東側には高温・乾燥風が吹き下ろすのである。その結果、乾燥したセルカーク山脈東麓では、落雷による火災が多く発生する。それによって植生が失われ、降雪時には裸地となった山の斜面に雪崩が発生しやすくなるのである。

3 月 4 日に発生したロジャーズ峠の雪崩災害は、3 月 7 日に日刊新聞のThe Vancouver Daily Province 誌に速報された(資料 3)。事故当日が金曜日の深夜であったため、翌週の月曜日が第一報となった。ここには 12 体の日本人遺体のうち、Hirano や Takeda など身元判明者が記されている。そして、

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Ⅲ.日本と海外の事例

翌 8 日には 4 枚の現場写真が掲載された。日本人保線工に関する詳細な記事は、バンクーバーの日本語新聞『大陸日報』に連載された。3 月 8 日には、すでに確認された遺体と、まだ発見されていない死亡者の氏名と出身県が報道されている(資料 4)。外務省外交史料館には、犠牲者と彼らの本籍地を記した資料が残されている。この『明治四十三年在外本邦人死亡雑件』に収められた「ロジャーズパスニ於ケル遭難者ノ原籍及氏名」について、犠牲者やその遺族に支払う補償金や弔慰金を整理したものが第 1 表である。それによれば犠牲者 32 名のうち、最も多かったのが静岡県出身者 7 名であり、広島・岡山県が各 5 名、宮城・福井・滋賀・鹿児島県が各 3 名、長野・山口・福岡県が各 1 名となっている。

資料3 �ロジャーズ峠の雪崩災害を伝えるThe Vancouver Daily Province(1910年3月8日)(ブリティッシュ・コロンビア大学所蔵)

資料4 �ロジャーズ峠の雪崩災害を伝える『大陸日報』(1910年3月8日)�� (ブリテッシュ・コロンビア大学所蔵)

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

これは、1923(大正 12)年当時におけるカナダ在留日本人の出身地と大きく異なる 8)。最多の 3,054 名を数える滋賀県出身者も犠牲者に含まれるが、第 2 位の 2,597 名の和歌山県出身者は 1 人も落命していない。第 3 位の広島県(1,758 名)以下、福岡県(1,375 名)・鹿児島県(854 名)出身者が亡くなっていることは理解しやすいものの、上位5県に入らない福井県出身者(第15位・

239 名)に複数の犠牲者がいることは注目すべきである。さらに、カナダ日本人移民史ではほとんど取りあげられなかった長野県出身者も犠牲になって

第1表 ロジャーズ峠の雪崩災害による日本人犠牲者名前 本籍地 出港日 渡航目的 契約移民会社 弔慰金 受取人(続柄)

小野寺 孟 宮城県登米郡石越村大字北郷字中央91 ─ 農業 東京移民合資 $350 小野寺治左右門(養父)

佐藤 賢次郎 宮城県登米郡米川村大字瀧沢59 1907年6月26日 鉄道工夫 東京移民合資 $150 佐藤市郎(後見人)鈴木/熊 谷 

正慶 宮城県登米郡上沼村43 1907年6月24日 ─ 東京移民合資 $350 熊谷たき(妻)

阿部 正虎 長野県小縣郡滋野村別府 1907年3月 研学 ─ $125 阿部宮吉(父)堀内 平吉 静岡県小笠郡垂木村下垂木1774 1907年8月19日 鉄道工夫 東京移民合資 $150 堀内おる/むる(母)石山 金作 静岡県小笠郡西郷村字上西郷160 1907年8月19日 ─ 東京移民合資 $150 中村重太郎(父)小林 幸一 静岡県小笠郡上内田村上内田83 1907年8月19日 ─ 東京移民合資 $200 小林龍蔵(父)池田 直作 静岡県安倍郡不二見村村松118 ─ 鉄道工夫 東京移民合資 $125 池田やす(実母)前田  寛十朗/

嘉十 静岡県駿東郡沼津町山王前 ─ ─ ─ $300 前田とみ(妻)

望月  安次郎/保次郎 静岡県庵原郡江尻村江尻54 ─ 鉄道工夫 東京移民合資 $150 望月源右ェ門(父)

竹田 泰治 静岡県安倍郡不二見村村松123 ─ ─ 東京移民合資 $125 竹田八十吉(父)今村 武房 福井県三方郡南西郷村大字大藪12−9 1907年9月4日 鉄道工夫 東京移民合資 $150 今村助次郎(父)田邊 銀蔵 福井県三方郡山東村大字坂尻17−4 1907年9月4日 鉄道工夫 東京移民合資 $150 田邊イト(母)大竹 喜三郎 福井県敦賀郡敦賀町三島1739 ─ 鉄道工夫 東京移民合資 $350 大竹しな(婦)

佐々木 喜太郎 滋賀県愛知郡稲枝村字金田 ─ ─ ─ $100 澤喜平の孫:澤喜三郎(甥)

辻村 千太郎 滋賀県犬上郡亀山村字棆15 ─ ─ ─ $300 辻村そと(妻)上野 継三郎 滋賀県犬上郡西甲良村大字下之郷3 ─ ─ ─ $150 上野徳兵衛(父)平野 信蔵 岡山県川上郡松原村大字神原1891 ─ 製材業 ─ $300 平野かつ(妻)三宅 来太郎 岡山県吉備郡総社町大字総社645 ─ ─ ─ $300 三宅初(−)水川 房吉 岡山県吉備郡呉妹村字尾崎東谷100番地 ─ ─ ─ $250 水川松(妻)坪井 源一 岡山県吉備郡岩田村大字上高田2142 ─ 鉄道工夫 東京移民合資 $215 坪井ふい(−)坪井/川 崎 

愛太郎 岡山県浅口郡寄島町中安倉 ─ ─ ─ $150 川崎園太郎(実父)

平野 勇 広島県安佐郡伴村大字伴673 ─ ─ ─ $150 平野徳八(−)金川 健一 広島県安佐郡狩小川村字狩留? ─ ─ ─ $125 金川吾平(−)笹木 成一 広島県安佐郡久地村401 ─ ─ ─ $125 笹木ロク(−)武田 徳一 広島県高田郡北村365次1番 ─ ─ ─ $150 武田清太郎(父)松本 清 広島県深安郡福山町船町 ─ ─ ─ ─ 林マチ(実母)和佐 音吉 山口県玖珂郡通津村 ─ ─ ─ $125 和佐ミツ(−)林田 松榮 福岡県嘉穂郡穂波村子椋本438 ─ ─ ─ $250 林田フユキ(妻)尾村 袈裟吉 鹿児島県肝属郡垂水村本城1409 1907年6月12日 ─ ─ $350 尾村ハル(−)迫田 彦八 鹿児島県肝属郡垂水村柊原121 1907年6月12日 ─ 東京移民合資 $150 山路彦次郎(叔父)山路 満之助 鹿児島県肝属郡垂水村柊原113 1907年6月12日 ─ 東京移民合資 $300 山路エタ(妻)

注:─は不明外務省外交史料館所蔵「明治四十三年在外本邦人死亡雑件 ロジャーズパスニ於ケル遭難者ノ原籍及氏名」「移民取扱人ヲ経由セル海外渡航者名簿」「海外旅券下附表」より作成

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Ⅲ.日本と海外の事例

いる。つまり、自由移民を中心とした先行研究とは異なるカナダ日本人移民史を紐解く必要がある。

Ⅲ.若者たちの活躍

1 福井県嶺南地方からの契約移民

東京移民合資会社による福井県出身者のカナダ契約移民について概観すると、嶺南地方出身者が圧倒的に多い。とりわけ、およそ半数を占める 72 名が三方郡出身である。郡内の契約移民数を多い順に並べると、北西郷村から14 名、南西郷村から 12 名となり、続いて山東村の 9 名、耳村の 5 名が続く。つまり、その過半数となる 41 名が現在の美浜町域の出身者である(第 3 図)。

美浜町域から多くの契約移民が輩出された理由の一つに、当地の経済的基盤が指摘できる。当時の美浜町域では、養蚕に関わる農家は少なくなかった。ただし、海外への輸出も多かった生糸は市場での相場変化が大きく、景気の変動に左右されやすかった。『福井県史 資料編 17・統計』9)に収められた三方郡の養蚕業を概観すると、1893(明治 26)年の飼育戸数は 1,474 戸であっ

第3図 福井県からの東京移民合資会社の契約移民中山訊四郎『加奈陀同胞発展大鑑・附録』(1922)外務省外交史料館所蔵「移民取扱人ヲ経由セル海外渡航者名簿」(1907)より作成

(人)

0 20㎞

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

た。しかし、1920(大正 9)年になると、それは 728 戸に半減している。掃立枚数も 2,331 枚から 1,529 枚へと約 7 割になり、明治末期に美浜町域の養蚕業は大きく衰退したのである 10)。

このような窮状に鑑みた南西郷村久々子の今村忠兵衛は同村長を歴任し、1899(明治 32)年にアメリカ合衆国への移住を斡旋した 11)。また、1870(明治 3)

年に耳村河原市に生まれた河崎清は、1898(明治 31)年に若狭商業銀行の河原市支店専務取締役となり、1906(明治 39)年には熊本移民合資会社の業務代理人となった。彼は、1912(大正元)年に高知県を拠点とする竹村殖民商会の業務代理人にもなった。彼らの活動が、美浜町域からハワイやアメリカへの出稼ぎや移民を輩出したのである 12)。

日本からの海外移民の実績は、太平洋を越えてアメリカ合衆国やカナダにも届いていた。敏腕な事業家であった福井市出身の後藤左織は、故郷の人々をカナダの鉄道工夫として送り込んだのである。前述した日本語新聞社・大陸日報社が 1922(大正 11)年に発行した『加奈陀同胞発展大鑑 附録』には、

「活躍したる人々」という項目がある。美辞麗句も並ぶ記述から後藤の活動を紐解くと、彼は福井市舘町で代々医業を営む家に生まれたと記されている。その後、彼は海外への雄飛を志して、アメリカ合衆国のサンフランシスコへ渡航した 13)。

当初、白人家庭でハウス・ボーイとして雑用をこなしつつ英語を習得した後藤は、1892(明治 25)年にサンフランシスコに渡った新潟県佐渡郡新町(現

在の佐渡市)出身の山本一郎とともに、アラスカでレストランの経営を試行した。しかし、それは徒労に終わり、一時帰国して鉱山事業へ参画した。その後、アメリカ合衆国へ戻った後藤はカナダ国境に近いタマコにて、熊本一二三なる人物に関わる熊本事務所に勤めた。そこで彼は、アメリカ横断鉄道の一つである北太平洋鉄道への日本人の請負事業に就いたのである。

その後、後藤は事務職から各地の支部長を任され、モンタナ・アイダホ・ワシントン・ユタ・オレゴン州などアメリカ合衆国各地をめぐった。そして、彼の活躍はシアトルに拠点を置く古屋商店の古屋政次郎の目に留まった。やがて後藤は、古屋商店の鉄道工事部の主任としてカナダに活躍の場を転じた。1905(明治 38)年に古屋商店の組織変更、そして翌年にバンクーバーに

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Ⅲ.日本と海外の事例

支店が置かれた後、彼は CPR の鉄道保線工の請負業を継続した。当時、開発の進むカナダ西部では、鉄道工夫や炭鉱夫などの労働者が慢性的に不足していた。そこに注目した後藤は、日本からの契約移民の渡航と入国後の斡旋業を計画し、1906(明治 39)年 12 月にバンクーバーに日加用達会社を設立した。各地の鉄道・道路工事、林業や鉱業に労働者を提供したこの会社では、カーデーナー・ジョンソンを社長とし、後藤は支配人として実権を握った。そして、翌年 7 月に同社は、移民を送出する東京移民合資会社と提携したのである 14)。

2 鉄道保線工の組織

CPR では沿線の要地に鉄道基地が設けられ、そこには日加用達会社の要人が赴任した。各地では、下部組織としてギャングと称された組がいくつか置かれ、一組は 20 人程度の保線工で構成されていた。ロジャーズ峠の周辺(第 1 図)には、グラシアーやゴールデンなどの基地が設けられ、セルカーク山脈の西方にあるレベルストークは、CPR の沿線で極めて重要地だった。レベルストーク鉄道博物館には、当地における各組毎の保線工への Payroll Records(給与記録)が残され、そこには氏名や役職が付されている。それらを整理すると、Bookman(組長)と彼に配属された Labour(組員)がわかる。

数多くある給与記録のなかには、ロジャーズ峠の雪崩災害で亡くなった福井県出身者、とりわけ美浜町域出身者の名前が見つかる。災害直前の 1910

(明治 43)年 1 月のものについて、『加奈陀同胞発展大鑑 附録』を併用すると当地域出身者は西山組と濱野組の二組に属していたことがわかる。前者の組長は広島県出身者で、配属された 17 人のうち 3 人が美浜町域出身者であった。他には鹿児島県出身者が 4 人、静岡県・広島県出身者が 3 人ずつから構成されていた。

それに対し、7 人の美浜町域出身者が配属された濱野組の組長は、濱野菊太郎なる人物であった。山口県大島郡蒲野村(現在の周防大島町)の出身の彼も雪崩の被災者だが、幸いにも生き残った一人である。33 名の蒲野村出身者とともに濱野は、岡山市を拠点とする帝国移民合資会社の契約移民として1899(明治 32)年 11 月 15 日にカナダへ渡った 15)。渡航時、「農業移民」とし

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

て契約した 16 歳の濱野は、この雪崩災害時には 27 歳になっていた。つまり、先達として英語を理解できるようになった彼は、後に契約移民として新しくやってきた日本人鉄道保線工のリーダーになったのである 16)。組長以下、27人からなる濱野組には福岡県出身者が 4 人、滋賀・岡山県からも 1 人ずついた。出身地の不明者が 8 人いるものの、組長と同郷の山口県出身者は 2 人しかいない。そうすると、濱野組を支えていたのは 9 人からなる福井県出身者、しかも 1 人の敦賀町を除けばすべて美浜町域出身者であった。そして、その多くが 16・7 歳の若者だったのである(第 2 表)。

第2表 濱野組のメンバー(1910年1月)

名前 出身地 年齢K.Yamaguchi 山口 熊吉 福井県三方郡南西郷村字大藪 19T.Imamura 今村 武房 福井県三方郡南西郷村大字大藪12−9 19Y.Wadata 和田多 儀太郎 福井県三方郡南西郷村字金山 20T.Yamaguchi 山口 豊吉 福井県三方郡南西郷村字大藪 20S.Utsunomiya 宇都宮 庄吉 福井県三方郡南西郷村字金山 32G.Tanabe 田邊 銀蔵 福井県三方郡山東村大字坂尻17−4 20Z.Tanabe 田辺 善吉 福井県三方郡山東村字山上 33B.Ugenoyama 上野山 辨蔵 福井県三方郡北西郷村字早瀬 19K.Otake 大竹 喜三郎 福井県敦賀郡敦賀町三島1739 24S.Miyamoto 宮本 惣十? 福岡県糸島郡雷山村字香力 26M.Hayashida 林田 松榮 福岡県嘉穂郡穂波村子椋本438 24

森門三作 福岡県京都郡仲津村 25S.Matsuo 松尾 三平? 福岡県W.Yashida 吉田 伊之助? 和歌山県日高郡三尾村 20

吉田 亀吉? 和歌山県日高郡三尾村 38Y.Takase 高瀬 半十郎? 山口県大島郡蒲野村K.Hamano 濱野 菊太郎 山口県大島郡蒲野村S.Hattori 服部 捨治郎? 滋賀県犬上郡彦根町大字土橋M.Makino 牧野 勝次? 岡山県吉備郡庭瀬町字延友 27S.Taniguchi 谷口 政吉? 鹿児島県鹿児島市小川町K.Moriado 森門光成R.RaamitouraN.HiranoS.NoseK.MiyatobedaJ.MurakaK.TsujiiJ.Fujimori

注:トーンはロジャーズ峠雪崩事故の犠牲者レベルストーク鉄道博物館所蔵“Payroll Records”外務省外交史料館所蔵『移民取扱人ヲ経由セル海外渡航者名簿』(1907)中山訊四郎『加奈陀同胞発展大鑑 附録』(1922) より作成

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Ⅲ.日本と海外の事例

1910(明治 43)年の東京移民合資会社による契約移民として渡加した福井県出身者のなかにも、やがて組を束ねる者も現れた。同年 8 月 21 日に横浜を出港した三方郡南西郷村久々子出身の加茂傳蔵は、そのひとりである。前述した「在留同胞人物観」には、彼の活躍が紹介されている。それによると、加茂はアルバータ州マクラウドで CPR の保線作業に従事したようである。1883(明治 19)年生まれの加茂は、渡加当時には 21 歳だった。一時、バンクーバー郊外で農業に従事したようだが、彼は長期に渡って CPR の保線作業に関わり、1918(大正 7)年には組長の一人になったのである。そのとき、彼は32 歳になっていた。

Ⅳ.最年少の犠牲者

ロジャーズ峠の雪崩災害で亡くなった福井県三方郡南西郷村大藪(現在の

福井県美浜町)出身の今村武房は、濱野組の一員だった。1887(明治 23)年 12月 8 日、武房は助次郎・わさ夫婦の二男として生まれた。そのころ、今村家の家計は厳しく、宅地とその周辺の土地を残して多くの田畑、薮地や草地を

第3表 今村家における地籍

小字 地番 地目 地積(反・畝・歩)

地価(円・銭) 小字 地番 地目 地積

(反・畝・歩)地価

(円・銭)

栗ノ木山

6 草地 0 ・ 4 ・ 15 0 ・ 14下宮ノ脇

11 薮地 0 ・ 0 ・ 15 0 ・ 49 宅地 1 ・ 1 ・ 12 42 ・ 73 18 草地 0 ・ 1 ・ 14 0 ・ 410 田 0 ・ 3 ・ 12 22 ・ 52 20 田 1 ・ 3 ・ 27 84 ・ 8011 薮地 0 ・ 4 ・ 7 0 ・ 32

北戸崎9 田 1 ・ 1 ・ 41 70 ・ 33

12 田 0 ・ 0 ・ 27 4 ・ 14 10 田 0 ・ 4 ・ 69 0 ・ 3713 田 0 ・ 2 ・ 1 17 ・ 90

上久谷1 草地 0 ・ 0 ・ 9 0 ・ 1

14 萱地 0 ・ 1 ・ 6 0 ・ 47 2 田 1 ・ 0 ・ 57 55 ・ 69

五良谷

12 田 0 ・ 5 ・ 5 31 ・ 15 中久谷 1 田 0 ・ 2 ・ 11 13 ・ 7213 薮地 0 ・ 2 ・ 9 0 ・ 17 北中野 3 田 1 ・ 0 ・ 32 85 ・ 9614 畑地 0 ・ 3 ・ 9 5 ・ 51 永長 7 田 3 ・ 4 ・34注 164 ・ 916 田 0 ・ 7 ・ 26 37 ・ 7 中崎 7 田 0 ・ 4 ・ 40 25 ・ 61

南中野2 田 3 ・ 9 ・ 17 262 ・ 19 池ノ谷 21 田 0 ・ 1 ・ 1 5 ・ 723 墓地 0 ・ 0 ・ 12

計 18 ・ 9 ・ 12 939 ・ 204 田 0 ・ 1 ・ 14 8 ・ 51

注:畔 0・4・28 を含む。トーンは 1885(明治 18)年当時、今村家が所有していた地籍今村家所蔵『滋賀県下第四大区十三小区大藪村農業今村助次郎 明治拾二年三月拾三日』福井県美浜町所蔵『明治十八年改正 若狭國三方郡大藪村字限地籍乙圓』より作成

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

手放した。その状況は、今村家に残る文書と美浜町役場が管理する地籍資料から看取できる(第 3 表)。前者によれば、1879(明治 12)年に今村家は大薮に 18 反以上もの土地を所有していた。しかし、後者からは 1889(明治 22)

年頃に宅地のある小字栗ノ木山の土地を残し、当家は全ての土地を手放したことが読み取れる。このような窮状のなか、16 歳の武房は今村家の再興のため 1907(明治 40)年に東京移民合資会社の契約移民へ応募したのである。

家族の期待を背負った武房は、同年 9 月 4 日に日本郵船の信濃丸で横浜を発ち、18 日にバンクーバーへ到着後、濱野組の一員として CPR の保線作業に従事した。しかし、3 年契約の満期を迎える最後の春、雪解け期の大雪崩が彼の命を奪ったのである。『大陸日報』によれば、事故から 10 日後の 14日午後に武房の遺体が発見され、それは彼らが従事した CPR で運ばれた。遺体は 16 日午後にバンクーバーに到着し、その 2 日後の 18 日午前 9 時にマウンテン・ビュー墓地で宮城県出身者 2 名、岡山県 3 名と滋賀・広島県各 1名からなる合同葬儀が行われた。これを執行したのは、福井県今立郡服間村(現在の福井県越前市)出身であるバンクーバー仏教会の初代住職・佐々木千重であった 17)。

外務省外交史料館の資料では、日加用達会社から武房の父・助次郎と長兄・市太郎に 150 ドル、日本円にして約 300 円(現在の米価基準によれば約

150万円)の弔慰金が支払われた(第1表)。また今村家に残る香典帳をみると、在加奈陀福井県人会からも 5 円 4 銭(現在の米価基準によれば約 25,000 円)の見舞金が送られ、美浜町域を中心に 90 余名から見舞金が寄せられたことがわかる。今村家の窮状を救おうとカナダへ渡った武房の墓は故郷の大藪に建立され、現在も当家の発展を見守っている。

Ⅴ.カナダ日本人移民史の再考─おわりにかえて

CPR の鉄道工夫として活躍したのは、契約移民としてカナダへ渡った若者だけではない。組長として日本人保線工を指揮した者のなかには、当初は他の目的で渡加した若者もいる。長野県小縣郡滋

しげ

野の

村(現在の東御市)出身の阿部正虎は、ロジャーズ峠の雪崩災害の犠牲者・32 名のなかで唯一の組長

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Ⅲ.日本と海外の事例

である(第 1 表)。海外への飛躍を求めた彼は、1907(明治 40)年に「研学」を目的とする旅券を取得してカナダへ渡った。その前年には 4 歳年少の弟・孝之が「研学」として渡加 18)していたことも、正虎の向上心を高めたのかもしれない。

キリスト教徒の木村熊治が 1893(明治 26)年に創立し、後に作家となった島崎藤村も教壇に立った小諸義塾で学んだ阿部兄弟は、早くから海外での活躍を望んでいたのであろう。また、長野県東部に布教の場を求めたカナダ・メソジスト派の宣教師の影響も考えられる。そのためか、バンクーバーのマウンテン・ビュー墓地に残る阿部正虎の墓石の上部には、十字架が添えられていた痕跡が残る。ただし、少しの英語が理解できるだけでは、当時のカナダで日本人が就ける仕事は限られ、正虎は CPR の保線工になった。そして彼は、後発の東京移民合資会社を経た日加用達会社の契約移民の組長を担ったのであろう 19)。

2010(平成 22)年、この雪崩災害の犠牲者を追悼する百周忌合同慰霊祭が、3 月 4 日にレベルストークで行われた。その後、日本の盆行事に合わせて 8月に開催された慰霊祭は、カナダ各地の日本人(日系人)関係者の協力によって、厳かかつ盛大なものになった 20)。8 月 13 日、遺族一行は親族が眠るバンクーバーのマウンテン・ビュー墓地に招かれた。事故当時、ほとんどが単身での契約移民であり、100 年もの風雨・風雪、一部には日本人への排斥のため、葬られた場所には墓標となるものは、ほとんど残っていなかった。今回の行事を機会に、埋葬場所には灯籠を模った石碑が建立され、折鶴を模ったプレートが埋め込まれた。また、事故現場のロジャーズ峠には、枯山水の玉砂利の上に屏風を模ったパネルが建てられた。それには、全ての犠牲者が記され、日本人には漢字も記された(資料 5)。

前述したように、この雪崩災害の犠牲者のなかに、カナダ日本人漁業史の先駆者である工野儀兵衛の連鎖移住からなる和歌山県出身者は皆無である。また、これまでのカナダ日本人移民史ではほとんど注目されなかった静岡・岡山・鹿児島県出身者も落命している。これらから、東京移民合資会社と日加用達会社を経て CPR へ携わった契約移民と、地縁・血縁関係による連鎖移住者からなる自由移民との差異がうかがわれる。つまり、カナダ日本人移

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

民史研究において限定された地域から鉄道工夫、ならびに炭鉱夫としての契約移民と、その後の転業などの諸相について再検討しなければならない。今後は、契約移民の輩出地についての事例研究を重ねるとともに、等閑視されてきたアメリカ合衆国とカナダへの契約移民の相互補完的な受容と、その後の移動をめぐる歴史的意味を検討したい。

[付記]本稿の作成において、カナダ雪崩協会の藤村知明様には多大な御協力をいただ

きました。藤村氏のお誘いによって拙稿を発表できましたことを、深謝いたします。そして、ロジャーズ峠雪崩犠牲者慰霊祭実行委員長のジョン・ウッド氏と、レベルストーク鉄道博物館のみなさまにもお礼申しあげます。

本稿に関わった多くのご遺族の方々、とりわけ福井県の今村正憲様、長野県の阿部文生様、ならびに宮城県の熊谷直文様、茨城県の山路和盛様とそのご家族には多大なご高配を賜りました。また、百周忌合同慰霊祭でお世話になった日本領事館をはじめとするカナダの方々、ご協力いただいた長野朝日放送や福井県美浜町のみなさまにも感謝いたします。

本稿の作成にあたって、2013〜2017 年度基盤研究 A「環太平洋における在外

資料5 ロジャーズ峠に設けられた雪崩犠牲者の鎮魂碑(2012年河原撮影)日本の屏風を模したパネルには、カナダをイメージする楓と日本の折鶴がデザインされている。また、CPR の機関車に使用された鐘とハンドル、そしてレールを活用したモニュメントも置かれている。遠方には、失火とそれによる雪崩後の裸地がみえる。

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Ⅲ.日本と海外の事例

日本人の移動と生業」(代表 米山裕)、ならびに 2013 年度立命館大学研究推進プログラム基盤研究「カナダ契約移民をめぐる渡航後の転業と拡散的移動」(代表 河原典史)の一部を利用した。

最後になりましたが、ロジャーズ峠でお亡くなりになった鉄道工夫のご遺族の方々に改めてお悔やみ申し上げるとともに、まだ判明していないご遺族の方々にご連絡できることを願っています。

注1)河原典史「第 2 次世界大戦前のカナダにおける日本人の就業構造」地理月報 501、

2007、1−4 頁。2)例えば、飯野正子『日系カナダ人の歴史』東京大学出版会、1997、1−218 頁。佐々

木敏二『日本人カナダ移民史』不二出版、1999、1−302 頁。新保満『カナダ日本人移民物語』築地書館、1986、1−330 頁。新保満『カナダ移民排斥史:日本の漁業移民』新装版、未来社、1996、1−241 頁。山田千香子『日系カナダ社会の文化変容:「海を渡った日本の村」三世代の変遷』御茶の水書房、2000、1−326 頁。

3)例えば、河原典史「カナダ・バンクーバー島西岸への日本人漁業者の二次移住─クレヨコツト・トフィーノ・バムフィールドを中心に ─」(米山裕・河原典史編『日系人の経験と国際移動─在外日本人・移民の近現代史─』人文書院、2007 所収)、147−171 頁。河原典史「『前川家コレクション』にみる女性と子供たち:カナダ・バンクーバー島西岸の日本人」京都民俗 28、2011、111−130 頁。河原典史「20 世紀初頭のカナダ西岸における捕鯨業と日本人移民」地域漁業学会 52−2、2012、65−83 頁。河原典史「1920 年頃のカナダ・バンクーバー島西岸におけるニシン漁業の漁場利用─調査報告書と古写真から─」国際常民文化研究叢書 1、2013、173−184 頁。

4)新保満『石をもて追わるるごとく─日系カナダ人社会史』御茶の水書房、1996、1−342 頁。

5)例えば、鶴谷寿『アメリカ西部開拓と日本人』日本放送出版協会、1977、1−220 頁。6)David Laurence Jones, Tales of the CPR, Fifth House Ltd. A Fitzhenry & White-

side Company, 2002. クリスティアン・ウォルマー著 安原和見・須川綾子訳『世界鉄道史─血と鉄と金の世界変革─』河出書房新社、2012、194−234 頁。(原著 Chris-tian Wolmar, BLOOD, IRON & GOLD, 2009.)

7)東京移民合資会社は、1897(明治 30)年に資本金 2 万円で横浜市弁天通(現在の横浜市中区)に開業した。社長の斎藤忠太郎は東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、横浜商法会議所(現在の横浜商工会議所)に入所した。その後、日本絹綿紡績会社を経て、彼は東京合資会社を起した。横浜商工会議所編『横浜開港五十年史(下巻)』名著出版、1973、201 頁。同社はカナダだけでなくハワイ、アメリカ合衆国、オーストラリア、メキシコやブラジルへ契約移民を送出した。東京移民合資会社をはじめ

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8.カナダ・ロジャーズ峠における雪崩災害と日本人労働者

とする移民会社の展開については、以下を参照するとともに、今後の課題としたい。石川友紀「日本出移民史における移民会社と契約移民について」琉球大学文学部紀要

(史学・地理学編)19、1970、55−92 頁。高村宏子「日本人契約移民とカナダの移民政策」カナダ研究年報 6、1985、27−38 頁。木村健二「明治中・後期における移民会社の設立主体」近代史研究 31、1997、1−11 頁。飯田耕二郎「明治中期・大阪商人による移民斡旋業─小倉商会および南有商社による草創期ハワイ移民の場合─」地域と社会 2、1999、59−78 頁。花木宏直「明治中〜後期の沖縄県における移民会社業務代理人の経歴と属性」沖縄地理 13、2013、1−16 頁。

8)大陸日報社編『加奈陀同胞発展史 第 3』1924、57−58 頁(佐々木敏二『カナダ移民史資料 第 1 巻』、不二出版、1995、317−318 頁、所収)。

9)福井県『福井県史 資料編 17 統計』福井県、1993、276−277 頁。10)このような状況に鑑み、美浜町に西接する熊川村河内(現在の若狭町)出身の中村

源六は養蚕技術者を志し、1904(明治 37)年にカナダへ渡った。河原典史「カナダにおける日系ガーディナーの先駆者たち(3)─農業技術者であった中村親子─」The Year of 2011 Membership Roster、2012、22−29 頁。

11)若狭人発行所編『若狭の人物』若狭人発行所、1952、1742−1743 頁。12)美浜町史編纂委員会編『若狭美浜町誌〈美浜の歴史〉第 1 巻 ふりかえる美浜』(美

浜町、2010)、212−217 頁。前掲 11)。13)中山訊四郎『加奈陀同胞発展大鑑 附録』1922(佐々木敏二『カナダ移民史資料 

第 2・3 巻』不二出版、1995、306−307 頁、所収)。1870(明治 3)年生まれの後藤は、1889(明治 22)年の渡米後、カナダへ移った。日本図書センター『日系移民人名辞典

〈北米編〉第 1 巻』1993(日米新聞社編『在米日本人 人名辞典』1922、152 頁)。詳細については、今後の課題としたい。

14)後藤の出身地である福井市には、東京移民合資会社北陵部が設置された。大和中町の醤油醸造業者の伊東幾久次郎が代理人、坂井郡本郷村(現在の福井市)の生田藤蔵が募集人となった。古屋政次郎と後藤佐織をめぐるアメリカとカナダ、そして日本における斉藤忠太郎、後藤佐織と伊東幾久次郎をめぐる福井県からの鉄道契約移民の展開については、今後の課題としたい。

15)外務省外交史料館所蔵『帝国殖民合資会社移民渡航認可に関する雑件』16)当島は、ハワイや台湾などへの海外移民の輩出地として有名である。17)カナダ佛教会初代開教師である佐々木については、以下を参照。生田真成『カナダ

仏教会沿革史─第二次大戦以前の BC 州を中心に─』カナダ仏教教団、1981、16−21 頁。若狭県有社編『福井県人之精華』若狭県有社、1929、264 頁。

18)外務省外交史料館所蔵「外国旅券下附表」より判明する。19)阿部兄弟をはじめとする長野県からのカナダ移民と、カナダ・メソジスト派との活

動については別稿に記したい。20)この慰霊祭には、福井県美浜町から武房の大甥夫妻が参加した。カナダ雪崩協会か

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Ⅲ.日本と海外の事例

ら遺族探しを依頼された著者も、この行事に同行した。この様子は、テレビ朝日「テレメンタリー2010:雪崩に消えた日本人─ 100 年後にみた事実─」(2010 年 8 月 27 日)において放送された。なお、この行事を契機に、以下の文献が作成・出版された。John G. Woods Snow War An Illustrated History of Rogers Pass, Glacier National Park, BC, The Friends of Mount Revelstoke and Glacier National Parks, 2010, pp.1−64.