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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」 – 1 – 名城大学理工学部応用化学科 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」 前回は、アルケンへの求電子付加反応の基本的な特徴を学んだ。中間体のカルボカチ オンの性質によって、生成物が決定されることも学んだ。今回は、アルケンの付加反応 で、カルボカチオンを経由しない反応について学ぶ。いずれもアルケンの反応として重 要なものである。 1. アルケンと臭素の反応 アルケンと臭素の反応について考えてみよう。これは古くからよく知られている反応 である。 実はこの反応も、アルケンへの求電子付加反応である。といっても、何が求電子剤な のかがわかりにくいだろう。この場合は、Br2 が求電子剤として働く。Br2 は分極して いないが、アルケンのπ電子が近づいてくると、Br–Br の結合電子がアルケンから遠 い方へ押しやられる。このため、Br δ+ –Br δという一時的な分極が発生し、正に分極し Br に対してアルケンのπ電子が結合を作りに行く。 上の図を見ると、Br–Br 結合が C=C 結合に対して垂直方向から近づいていることが わかるだろう。反応はこのまま進行して、Br 原子は2つの炭素原子と同時に結合を作 る。反応式で書くと、下のようになる。 C C H 3 C H H CH 3 + Br 2 C C H 3 C H H CH 3 Br Br アルケンのπ電子との反発で Br‒Br結合が分極する C C H 3 C H H CH 3 Br Br δ+ δ+ C C H 3 C H H H 3 C Br + Br cyclic bromonium ion

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 1 – 名城大学理工学部応用化学科

第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

前回は、アルケンへの求電子付加反応の基本的な特徴を学んだ。中間体のカルボカチオンの性質によって、生成物が決定されることも学んだ。今回は、アルケンの付加反応

で、カルボカチオンを経由しない反応について学ぶ。いずれもアルケンの反応として重要なものである。

1. アルケンと臭素の反応

アルケンと臭素の反応について考えてみよう。これは古くからよく知られている反応である。

実はこの反応も、アルケンへの求電子付加反応である。といっても、何が求電子剤なのかがわかりにくいだろう。この場合は、Br2 が求電子剤として働く。Br2 は分極していないが、アルケンのπ電子が近づいてくると、Br–Br の結合電子がアルケンから遠

い方へ押しやられる。このため、Brδ+–Brδ–という一時的な分極が発生し、正に分極した Brに対してアルケンのπ電子が結合を作りに行く。

上の図を見ると、Br–Br結合が C=C結合に対して垂直方向から近づいていることが

わかるだろう。反応はこのまま進行して、Br 原子は2つの炭素原子と同時に結合を作る。反応式で書くと、下のようになる。

C CH3C

H

H

CH3

+ Br2 C CH3CH H

CH3

Br

Br

アルケンのπ電子との反発でBr‒Br結合が分極する

CC

H3C H

H CH3Br Brδ+ δ–

+CC

H3CH

HH3C

Br + Br–

���������

cyclic bromonium ion

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 2 – 名城大学理工学部応用化学科

中間体として生成するのは、環状ブロモニウムイオン cyclic bromonium ion である。形式電荷+1が三員環の Br上にあることに注意して欲しい。この Br原子は、価電子を6個しか持たない。Brの本来の価電子数は7であるから、形式電荷+1を Br上に置く。

注1:Brの価電子は6個だが、Brの最外殻電子は8個である。自分自身の価電子6個に加えて2つの Cと価電子1個ずつを共有しているためである。従って、環状ブロモニウムイオンの Br 原子はオクテット則を満たしている。

上の反応で、2本の C–Br結合は同時に生成する。正に分極した Brに対してアルケンのπ電子が攻撃し(①)、電子不足になった C に対して Brのローンペアが結合を作

る(②)。Br–Br 結合の電子は、遠い方の Br に向かって押し出される(③)。つまり、環状ブロモニウムイオンの生成は、下のように3本の巻き矢印を使って表される。この3本の巻き矢印に対応する電子の移動は同時に起きるので、3本の巻き矢印は1つの反

応式に記入する。

右辺のブロモニウムイオンで、2つのメチル基が三員環に対して trans の位置にあることに注意してほしい。環状ブロモニウムイオンの立体構造は、元のアルケン(trans-2-ブテン)の立体構造をそのまま保持している。cis-2-ブテンから出発すれば、2つのメチル基が cis のブロモニウムイオンが生成する(自分で書いてみること)。

なお、HBr の付加の時と同じように考えると、環状ブロモニウムイオンの生成を下のように二段階に分けて書きたくなるが、これは正しくない。下の書き方だと、一方の C–Br 結合ができた後に二本目の C–Br 結合が生成することになるが、実際にはそうで

はなく、二本の C–Br 結合は同時に生成する。数学の式変形とは違って、巻き矢印を「同時に書く」のと「二段階に分けて書く」のは化学的な意味が異なることに注意。

環状ブロモニウムイオンの生成は、Br2の付加反応の第一段階である。第二段階では、

Br– が環状ブロモニウムイオンと反応して、C–Br 結合を作る。このとき、Br– はブロ

モニウムイオンの Br 原子の反対側から C原子に結合する。

CC

H3C H

H CH3

+ Br Br CC

H3CH

HH3C

Br + Br–

� �

CC

H3C H

H CH3+ Br Br C

C

H3C H

HH3C

BrCC

H3C H

H CH3

Br���

��� ������

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 3 – 名城大学理工学部応用化学科

反対側から攻撃する理由は、Br(後から結合する方)のローンペアの電子が、C–Br

(ブロモニウムイオンの方)の結合電子を Br の方に押し出すためである。

これを背面攻撃 backside attack と呼ぶ。背面攻撃は、あとで SN2 の時に出てくるので、そこでもう一度取り上げることにする。 押し出された C–Br 結合の電子は、Br 上のローンペアになる。このローンペアを描

き忘れることが多いので、注意しよう。また、背面攻撃を受けた C 原子の周りの置換基の配置にも注意しよう。下の図に示した通り、「メチル基は手前・水素原子は奥」という関係を保ったまま、左右が反転する。

以上をまとめると、trans-2-ブテンに対する Br2 の付加反応は、以下のように進行す

る。

2. 環状ブロモニウムイオンと他の求核剤の反応

環状ブロモニウムイオンは、強い求電子剤である。このため、反応系内に Br– 以外の

CC

H3CH

HH3C

Br + Br–Br��������

CC

H3C H

HH3C

BrBr–

������������

C–Br� �����������

CC

H3CH

HH3C

Br + Br–Br�������� C

C

H3C H

HCH3

Br

Br

� �����

���������

CC

H3C H

H CH3

+ Br Br CC

H3CH

HH3C

Br + Br–CC

H3C H

HCH3

Br

Br

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– 4 – 名城大学理工学部応用化学科

求核剤が存在するとき、そちらと反応することがある。例えば、NaOH 水溶液中でアルケンと Br2 を反応させると、第二段階で Br– の代わりに HO– が反応して、Br と OH が付加した下のような化合物(ブロモヒドリン)が生成する。(なお、生成物は非等価

な不斉炭素を2つ持つキラルな化合物だが、生成するのはラセミ体である。このことを明示するには、化合物の構造に「ラセミ体」と注記しておけばよい。わざわざ両方のエナンチオマーを記す必要はない。)

環状ブロモニウムイオンが何と反応するかは、「反応系内」に何が存在するかによる。例えば、濃い NaOH 水溶液中なら、強い求核剤の HO– が多量に存在するので、上の反

応が進行する。一方、中性の水溶液中なら、H2O が多量に存在する。H2O は弱い求核剤だが、この場合は「量にモノを言わせて」H2O が反応する。H2Oが反応する場合も、生成物は同じブロモヒドリンだが、H+ が脱離する段階が一つ加わることに注意。

また、非極性溶媒中であれば、他に求核剤になるものが存在しないため、Br– が反応する。

注2:求核剤の「強さ」については、脂肪族求核置換反応の章で学ぶ。大まかに言えば、「塩基性」が強い化学種ほど「求核性」も強い、と考えてよい。

なお、アルケンと Cl2 の反応も、Br2と同様の反応機構で進行する。この場合は、中間体は環状クロロニウムイオンとなる。

3. アルケンへの過酸の付加

過酸 peroxyacid とは、カルボン酸の OH が OOH に置き換わった化合物である。一

般に、O–O 結合を持つ有機化合物は不安定で、爆発的に分解しやすいため、取り扱いには注意を要する。よく用いられる過酸は、以下のようなものである。m-クロロ過安息香酸 (mCPBA)は固体で単離でき、比較的安定で取り扱いやすい。

Br Br+Br

+ Br–HO– OH

Br�������

Br Br+Br + Br–

H2OOH

Br

O

Br

H H– H+

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– 5 – 名城大学理工学部応用化学科

アルケンと過酸を反応させると、エポキシド epoxide が生成する。エポキシドとは三

員環の環状エーテルのことである。

注3:有機化学の構造式で「R」は「アルキル基」を表す。最も厳密に言えば、「飽和炭化水素から水素原子を除いたもの」であるが、他の官能基を含んでいてもよい場合もある。また、ベンゼン環から水素原子を除いたものを「アリール基」と総称し、「Ar」で表す。ただし、「R」が「アリール基」を含む場合もある。

アルケンと過酸の反応機構は、環状ブロモニウムイオンの生成とよく似ている。過酸の O–O結合は下に示すようにわずかに分極している。

アルケンのπ電子が正に分極した方の Oを攻撃して C–O結合を作る(①)。π電子を取られて電子不足になった C に向かって O–H結合の電子が移動する(②)。一方、O–O結合の電子が①により押し出されてC=O π結合を作る(③)。もともとあった C=O

π結合の電子が③により押し出されて H との結合を作る(④)。これらの電子移動は同時に起きるので、4本の巻き矢印を一つの反応式に書き入れる。③④がわかりにくいが、あとで「カルボン酸の O–C–O部分に電子が非局在化する」ことを学ぶと、理解しやす

くなるだろう。

エポキシドは、殺菌剤としてのエチレンオキシドや、エポキシ樹脂の主剤など、広く

利用される有用な物質である。エポキシドの名称は、元になるアルケンの名称に「オキ

CH3CO

OOHHCO

OOH

Cl CO

OOH

��� ��� m–�������(mCPBA)

CC +

RCO

OOH

CC

O +R

CO

OH

��� � ���� ���

OO H

O

R

δ+

δ–

CC O

O

HO

R

+�

CC

O +O

HO

R

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– 6 – 名城大学理工学部応用化学科

シド」を付加するか、または–O–を「エポキシ」という置換基と見なして命名する。

4. アルケンと水素の反応

アルケンと水素 H2を単に混合しても、何も反応は起こらない。しかし、ある種の触

媒を加えると、水素の付加が起きて、アルカンが生成する。

この反応を、接触水素添加 catalytic hydrogenation と呼ぶ。触媒として最もよく用い

られるのは、パラジウムを活性炭に吸着させたものであり、「Pd/C」と略される。 接触水素添加は、求電子付加反応ではない。HBr の付加反応から類推して、下のよ

うな機構を書きたくなるかもしれないが、これは正しくない。右辺に生成する「H–」(水

素の陰イオン)が高エネルギーで、容易には生成しないためである。

この反応は、実際には金属-炭素結合の生成を伴う複雑な反応である。固体の金属表

面が関わっているため、イメージするのが少し難しい。基本的なプロセスは、「分子内のある結合が切断され、その位置で金属表面との結合が生成する」、および「金属表面に結合している2つの原子の間に結合が生成し、金属表面との結合が切断される」とい

うものである。これら2つのプロセスは、互いに逆反応である。 Pd/C触媒を用いた 2-ブテンの接触水素添加は、大まかには以下のように説明できる。

実際の触媒機能は金属 Pd 微粒子が担っており、活性炭は Pd微粒子が融合して大きな

塊になるのを防ぐ役割を持つ。アルケンが金属 Pd表面に接近すると、C–Cπ結合が切断され、C–Pd 結合が2本生成する。

C CO

HH

HH

OO

1 - 1 , 1

ethylene oxide cyclohexene oxide 1-chloro-2,3-epoxypropane

Cl

C CH

CH3

CH3

HC C

H

CH3

CH3

HH

H

trans-2-��� ���

Pd/C+ H2

C CH

CH3

CH3

HC C

H

CH3

CH3

HHH H+ + H–

��������

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– 7 – 名城大学理工学部応用化学科

この反応を巻き矢印で書くのは適切ではない。金属パラジウムは自由電子を持っているため、原子上の電子の数が明確に決められないからである。

同様に、H2 が金属表面に接近すると、H–H結合が切断され、H–Pd結合が2本生成する。

H 原子は Pd 表面上を(Pd 原子との結合を保ちながら)動くことができる。Pd–C結合の隣にやってきたときに、C–H 結合が生成され、H 原子と C 原子が Pd 表面から離脱する。これを2回繰り返せば、アルカンが生成することになる。

Pd/C の触媒作用は、H2の付加反応に特異的である。HBr, H2O, Br2 などの付加反応

で Pd/C が促進作用を持つことは(現在までのところ)知られていない。Pd が触媒として有効に働くのは、Pd–H・Pd–C結合が「適度な」強さを持つことと関係している。結合が強すぎると Pd表面と結合した状態が安定化してしまい、それ以上反応が進行し

ない。また、結合が弱すぎると、そもそも Pd 表面との結合が形成されない。Pdの他に、同じ 10族元素である Pt, Ni も H2の付加反応の触媒として働く。

5. アルケンの安定性と水素化熱

アルケンの接触水素添加は、合成上有用な反応であると同時に、アルケンの安定性を

H3CC C

CH3

Pd Pd Pd Pd Pd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3

H

H HH

Pd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3HH

H HPd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3HH

H H

Pd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3HH

H HPd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3H

H

HH

Pd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3H

H

HHPd Pd Pd Pd

H3CC C

CH3HH

HH

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– 8 – 名城大学理工学部応用化学科

評価する上でも重要な反応である。アルケンの接触水素添加は常に発熱反応である。アルケン 1 mol が H2 1 mol と反応する際に放出される熱量を水素化熱 heat of

hydrogenation と呼ぶ。

注4:第4回で述べた通り、通常は発熱反応の反応熱は負の値として扱う。しかし、水素化熱については正の値として取り扱う習慣がある。なんとも不統一で面倒だが、それぞれに歴史的な理由があるためやむを得ない。

たとえば、互いに異性体である下の3つのアルケンの水素化熱を比較する。3-メチル-1-ブテンの水素化熱が最も大きい。

これらのアルケンの水素化生成物はいずれも同じ 2-メチルブタンだから、水素化熱

の違いはアルケンの安定性の差を反映している。水素化熱がより大きい、ということは、元のアルケンがより不安定である(エネルギーが高い)ことを意味している。

一般に、アルケンの安定性は、二重結合両側の sp2炭素に結合しているアルキル置換

基の数に応じて大きくなる。つまり、四置換アルケンが最も安定であり、三置換・二置換・一置換の順に安定性が低下する。

sp2炭素についたアルキル基の数が多いほどアルケンが安定になるのは、超共役の効

果である。π結合性軌道の電子は C–H のσ反結合性軌道に(部分的に)流れ込み、逆

2-���-2-��� 2-���-1-��� 3-���-1-���

26.9 kcal/mol 28.5 kcal/mol 30.3 kcal/mol

反応座標

エネルギー

水素化熱

最も不安定

最も安定

R1C

R2CR3

R4

R1C

R2CR3

H

R1C

R2CH

H

R1C

HCH

H> > >

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 9 – 名城大学理工学部応用化学科

に C–Hσ結合性軌道の電子は C=Cπ反結合性軌道に(部分的に)流れ込む。

また、二置換アルケンには、置換基の位置関係が3種類あるが、置換基がなるべく離

れている方が安定である。これは、置換基が近くにあると立体ひずみが働くためである。

6. アルケンへの付加反応の立体化学

原子の結合の順序が同じで、立体構造のみが異なる異性体を立体異性体と呼ぶ。反応物や生成物が立体異性体を持つとき、反応物のどの異性体が反応しやすいか、また生成物のどの異性体が生成しやすいかを取り扱う化学の領域を立体化学 stereochemistryと

呼ぶ。 アルケンに対する付加反応では、反応物が平面構造の sp2炭素であるのに対して、生

成物は四面体構造の sp3炭素である。このとき、付加する原子が二重結合平面の「同じ

側」から結合する場合と、「反対側」から結合する場合がある。「同じ側」から結合する付加反応をシン付加 syn addition、「反対側」から結合する付加反応をアンチ付加 anti

additionと呼ぶ。

反応によっては、シン付加とアンチ付加がどちらも起こり、生成物は立体異性体の混合物になる。また別の反応では、シン付加またはアンチ付加のみが選択的に起こり、生

成物は特定の立体異性体のみを与える。特定の立体異性体のみが生成する反応は「立体選択的 stereoselectiveである」という。

CC

HC

CH H

HH

HH

H

C=C πC-H σ*C-H σ* C-H σ

C-H σC=C π*

R1C

R2CH

H

R1C

HCR2

H

R1C

HCH

R2> ~

�����

C C + X–Y C CX Y

C CX

Y

syn�� anti��

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 10 – 名城大学理工学部応用化学科

前回学んだ、カルボカチオンを経由する付加反応は、立体選択的ではない。理由は、中間体カルボカチオンに対して求核剤が反応するとき、カルボカチオン平面のどちらからでも反応できるからである。

一方、今回学んだ三つの付加反応は、いずれも立体選択的である。

6-1. Br2の付加

この反応では、中間体として環状ブロモニウムイオンが生成する。このとき、2本のC–Br結合が、二重結合平面の同じ側から同時に生成する。したがって、この付加反応はシン付加である。

次の段階では、Br– が求核剤として背面攻撃する。このとき、攻撃を受けた炭素原子の立体配置は反転する。その結果、得られる生成物は、最初のアルケンに対して Br2 が

アンチ付加したものになる。

すなわち、Br2, Cl2の付加反応は、中間体を生成する段階はシン付加で、生成物まで考えるとアンチ付加になる。

sp2炭素に結合している2つの置換基が異なる場合、付加反応で生成した sp3炭素が

不斉炭素になることがある。エナンチオマーを区別して生成させることは(特別な工夫を行わない限り)不可能なので、生成物は両方のエナンチオマーの1:1の混合物(ラセミ体)となる。

C C + H–Br C CH

+ Br–

C CBr

H

C CBr H

syn

anti

C

C+ Br–Br

C

CBr + Br–

syn��

C

CBr + Br–

anti�����

C

C Br

Br

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– 11 – 名城大学理工学部応用化学科

trans-2-ブテンへの Br2の付加では、メソ化合物が生成する。

6-2. 過酸との反応

この反応も、シン付加である。反応機構は環状ブロモニウムイオンの生成とほぼ同じなので、同様に理解することができる。

6-3. 接触水素添加

接触水素添加では、アルケンが触媒金属表面に結合した後、2つの水素原子がどちらも金属表面から供給される。したがって、2つの水素原子は二重結合平面の同じ側から結合する、すなわちシン付加である。

7. 今回のキーワード

・アルケンと臭素の反応、環状ブロモニウムイオン、背面攻撃

・過酸 ・アルケンと過酸の反応、エポキシド ・アルケンと水素の反応(接触水素添加)

�������

CH3

CH

CCH3

H

+ Br2 C CH

HCH3

CH3

Br

Br

C CH

H

CH3

CH3

Br

Br

+(R) (R) (S)(S)

CH3

CH

CH

CH3

+ Br2 C CCH3

HH

CH3

Br

Br

C CCH3

H

H

CH3

Br

Br

+

���������

(R) (S) (S)(R)

OO

HO

R

+ +O

HO

RCC

CC

O

syn��

C C + H2 C CH Hsyn��

Pd/C

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有機化学Ⅰ 講義資料 第9回「アルケンの反応:さまざまな付加反応」

– 12 – 名城大学理工学部応用化学科

・アルケンの安定性、水素化熱 ・一置換~四置換アルケン ・シン付加、アンチ付加

【教科書の問題(第6章)】 21, 25, 28, 34, 37, 85, 91 ※ 求電子付加反応については、巻き矢印で反応機構を示すこと。