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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 1 教育実践と形而上学 ―想像的なものとしての理念- 北 村 三 子 はじめに 現代の学問では形而上学は影が薄い。かつては哲学の核心的問いであった にもかかわらずそうである。教育哲学も認識論に関心が余りない。ベイトソ ンの著作やマトゥラーナとバレラのシステム論は魅力に富んだものだが、教 育の分野にそれらは生かされていない。教育社会学で、ルーマンのシステム 論に一定の関心が向けられているくらいである。 今日、宇宙の科学的な解明が進む一方で、脳・精神科学の発展によって人 間の精神についてもかつてないほどの知識がもたらされている。もはや形而 上学的なものの出る幕は無さそうである。しかし、本当にそうだろうか?少 なくとも教育実践と関わって、認識論が必要なのではないだろうか。本稿は そのような観点からの試論である。 例えば、「考える」ということについて見てみよう。それが意味することは 当然分かっているとして日々の教育活動が行われているが、神話的思考と近 代科学的思考とは大いに異なっている。「考える」ということの意味内容は普 遍的ではないのである。そのことに無自覚なのは、私たちが近代の思考様式 に染まっているからである。またそれゆえに、私たちは新教育運動教育にも

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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 1

教育実践と形而上学

―想像的なものとしての理念-

北 村 三 子

はじめに

現代の学問では形而上学は影が薄い。かつては哲学の核心的問いであった

にもかかわらずそうである。教育哲学も認識論に関心が余りない。ベイトソ

ンの著作やマトゥラーナとバレラのシステム論は魅力に富んだものだが、教

育の分野にそれらは生かされていない。教育社会学で、ルーマンのシステム

論に一定の関心が向けられているくらいである。

今日、宇宙の科学的な解明が進む一方で、脳・精神科学の発展によって人

間の精神についてもかつてないほどの知識がもたらされている。もはや形而

上学的なものの出る幕は無さそうである。しかし、本当にそうだろうか?少

なくとも教育実践と関わって、認識論が必要なのではないだろうか。本稿は

そのような観点からの試論である。

例えば、「考える」ということについて見てみよう。それが意味することは

当然分かっているとして日々の教育活動が行われているが、神話的思考と近

代科学的思考とは大いに異なっている。「考える」ということの意味内容は普

遍的ではないのである。そのことに無自覚なのは、私たちが近代の思考様式

に染まっているからである。またそれゆえに、私たちは新教育運動教育にも

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2 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

認識論の変革があったことにあまり注意を向けない。認識論の変革こそが新

教育をもたらした、ということを理解していないのである。

シカゴ大学の「実験学校」を営んだジョン・デューイ、シュタイナー教育

とその名を冠して呼ばれる教育を始めたルドルフ・シュタイナーの二人は、

今日の教育を語る上で欠かせない存在である。デューイの、「経験から学ぶ

(learning by doing)」といったことは、実現されているかどうかは別として、

今日の日本社会にも広く浸透している。シュタイナー教育は日本では未だ特

殊なものと見られているが、ユネスコが推奨している。二人は、カント的・

近代科学的な認識論を真に生命をもった存在に見合ったものへと変革しよう

としたのである。そのために思考の概念はその射程を拡げられ、今日の日本

の学力論議の暗黙の前提をはるかに超えて出たものとなった。また、二人は、

観察や分析も必要だとしたが、それらに命を与えていく想像力(imagination)

こそ人間の知性、本来創造的である知性にとって も重要なものであるとし

て、そこに主眼を置くのである。筆者の見るところ、シュタイナーはともか

く、デューイについては、この点の理解が十分とは言えない。

両者は膨大な著書を残しており、その全体にあたってこのテーマを掘り下

げることは筆者の手に余る。そこで、本稿では、デューイの『共通の信仰』

とシュタイナーの『自由の哲学』を中心に、両者が想像力を思考の核心に置

くことで、思考像の転換を図ろうとしたことをあとづけていこう。

1. デューイの教育論におけるイメージの位置づけ

教育における経験主義は、通常「机上の学問」、つまり記号化された知識の

学習の対極に置かれる。そのせいもあって、「体験」ということだけが強く意

識され、そこにどのような精神的働きが含まれるのか、ということまで注意

が行き届かない。それは、デューイの言う「教育」、つまり「経験の改造」を、

学習者の内部から導くものは何なのか、ということが十分に考察されていな

いということである。

ところで、デューイは、「私の教育学的信条」の中で、イメージの重要性に

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ついて、次のように言っている。

―イメージは教授の重要な道具である。どんなテーマであっても、子ども

がそこから得るものは、それに関して自分が形成するイメージだけなので

ある。

―子どもに何かを学習させるために現在向けられているエネルギーの 10

分の 9 が、子どもが適切なイメージを形成するのを配慮するために使われ

たならば、教授という仕事はいくらでも容易になるであろう。

―課題の準備と提示のために現在向けられている時間と注意のほとんどは、

子どもの想像力を訓練し、彼が経験の中で接触する様々なテーマについて

明確で、活き活きとして、成長するイメージを継続的に形成するのを配慮

するのに使った方が、賢明かつ有効かもしれない(1)。

「私の教育学的信条」は実験学校の実践と重なる時期の著作であり、ここ

で言われている教授は実験学校で行われている学習活動でのものである。実

験学校は、協力を必要とする手仕事を中心に小さな社会をなしたが、そこで

は、描画や演劇といった表現活動が盛んに行われた。歴史や科学の学習も作

業や表現活動と結びついていた。それらは、子どもの想像力を訓練し、活き

活きとした、成長するイメージを形成することを目指すものだった。そのよ

うなイメージの形成が、真の興味の喚起をもたらすと考えられていたのであ

る。

それでは、イメージとは何か?デューイの言うイメージは根拠のない空想

のようなものではなく、事物に即して働き、私たちの行為を導くものである。

科学的方法においても、仮説を立てる(アブダクション)際には、それが働

いている。また、物事の意味を把握する時にもそうである。こうした知性の

能動的で想像的=創造的な働きはまた、「宗教的なもの」とも深く関わってい

る。

2. 想像力の核心(デューイの宗教論)

デューイによれば、宗教的な経験は必ずしも特別なことではなく、生活の

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重要な瞬間と結びついてしばしば起きている。それは、人生のクリティカル

な時点で「生活の中でより良く、より深く、より永続する調整(adjustment)」

がもたらされるような体験である。それには、至福感、精神的安定感が伴っ

ている。そして、そこには想像力が大きく関わっているのである。

デューイのいう「調整」とは、「順応(accommodation)」や「適応(adaptation)」

より一般的な関係の変化、つまり存在全体と関わる変化であり、私たちに、

その住む世界との関係において、より包括的で深く根下ろす変化をもたらす

ものである。言い換えれば、「調整」とは自我と世界の関係の調整であり、自

我の調和(the harmonizing of the self)を必然的に含んでいる。それゆえ、倫

理的・道徳的な変化でもある。といってもそれは、いわゆる「道徳的」とい

う言葉よりも広義であり、芸術、科学、善良な市民の態度の中にも見られる

ものである(2)。

こうした「調整」の核心には、「想像的なもの(the imaginative)」が働いて

いる。なぜなら、個人であろうと世界であろうと、その全体(a whole)につ

いての観念は想像的なものだからである。観察と内省は限られたものであり、

想像的な拡張なしには、「宇宙」や「自我」にはならない。「自我と宇宙との

調和」という観念(理念)には想像的なものが強く作用しているのである。

ところで、このような「調整」、「自我の統一」は、自分の意志や意図的な

行動によって生じるのではない。むしろ自我はそれによって捕捉されるので

ある。その意味で、自我は常に自我自身を超えた何かに向かって方向付けら

れているのである。

デューイによれば、何らかの理由で行為が思うように進まないときに想像

力が働く。この「想像的なもの」(心像イメージ

、理念といったもの)は、疑わしい

事実や幻想ではない。デューイによれば、想像力は「理念を感知する器官

(organ)」であり、自然的、あるいは社会的現実に即して働く。「実際には実

現されていない事柄が、われわれにとって切実なものになり、われわれをか

きたてる力をもつ」のである。 デューイの見るところでは、正義と安定への欲求は人間のうちに実在して

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いる。人間は、不平等、抑圧、不安定な状態などに当面すれば、それらをよ

り良いものにしたいと願い、その可能性を探らずにはいられない存在なので

ある(3)。

つまり、「理念自体が人間を含む自然的諸条件の中にその根をもっているの

である(4)」。自然と社会の中には、理念を生み、支持する諸力が存在する。

思考や行動の可能性を想像力が理念(ideal)化するときに、実現されるべき価

値や善の理念が出現するのである。

「調整」は経験の転換期を示す。人間は、その時点で も貴重だと思われ

る物事を未来に投影する。新しい関係の中に古い事物を見ることから新しい

パースペクティブは生まれるのだ。それが善であることについては、何ら外

的な基準や保証を必要としない。そして、このようなものである理念は、そ

の本来的性格として、私たちの忠誠と献身を要求するものである。

実現されるべき新しい価値についての感覚は、普通、漠然とした不明瞭な

形で現れる。それが行動の内に留められ、前に運ばれるにつれて明確で一貫

したものになる。現存する諸条件との相互作用が理念とそれに基づく目的(an

end)を試し、改良していくのである。この過程は人間の生命とともに続き、

前進していく。

このように、人間を動かす理念や目的は、想像力を介して自然的・社会的

経験世界の素材を基に作られる。それゆえ、私たちの生きている宇宙・世界・

社会は、私たちの理念的願望が生まれ育つ母胎であり、諸価値の源泉である。

デューイは、理念と現実のこのようなポジティブな関係(思考と行為の中で

作動する統一性)を、「神的なもの」と呼びうるかもしれないと言う。自然(人

間も含む)は、力と方向を与えるものであればどんなものをも生み出す、つ

まり不和と混乱も生みだすが、それでも自然を信頼するという人間の決意と

願望の表現として、である(5)。

3. シュタイナーの形而上学

(1)宇宙的な作業としての「思考」

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カント的な世界観からの脱出をめざす、生物進化論を受け入れる、想像力

の重要性を認めるなどの点で、デューイとシュタイナーは近い地点に立って

いる。プラグマティズムは生きた世界に立脚しようとしたのであり、そのた

めには形而上学の転換を必要とした。そして「理性」よりも包括的な意味合

いをもつ「知性」という言葉を用いた。また、科学的方法の強調の陰で見落

とされてしまいがちだった想像力の重要性を認識していた。しかし、シュタ

イナーは、思考を「霊」として語り直すことで、デューイよりもはっきりと、

決定的な重要性を想像力に与えた。また、デューイは現実に根ざした想像力

によって得られる「より良きもの」を「理念」と見なしたが、シュタイナー

にとっても、思考によってもたらされるものはやはり普遍性をもつ理念的な

ものである。その点では共通だが、シュタイナーは人間の行為についてだけ

でなく、認識についても大幅に想像力の関与を認めたのである。これは、デ

ューイの立場と矛盾するわけではないが、デューイにおいては余り明示的に

語られなかった面であり、理解するためにはシュタイナーの込み入った議論

に付き合わねばならない。

デューイは『経験としての芸術』で、芸術的な経験を思考と行為とが一体

となった も完全な経験とみなしているが、動物の行動の統合性についても

言及している。シュタイナーも、思考を、人間だけに限らない宇宙的な働き

として論じた。思考、つまり「霊的な営み」は、「宇宙的な思考作業」であり、

本能的な欲望、情熱、衝動が私たちを熱くさせ熱狂させるのと同じように、

霊的な仕方で私たちの内面を熱くさせ、熱狂させる、と言う。

この「霊」については、1 年生の植物を例とした説明が分かりやすい。

私たちが感覚器官を通して出会う植物は個的なものである。来年生じる植

物は今年のものと全く同じとは言えない。しかしそれが同種の植物であるこ

とも確かである。絶えずその植物を生み出し、形成する力がそこには失われ

ることなく働いている。シュタイナーの言う「霊(宇宙的な思考)」とは、そ

うした創造的な働きを指している。

シュタイナーのこのような見解には、近代の認識論の批判が含まれている。

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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 7

すなわち、「表象」が「外界の諸事象が内部に映し出されているだけ」にすぎ

ないこと、またそれを基にした思考も抽象的なものに過ぎないということへ

の批判である。意識を鏡と捉えれば、行き着くところは、「私は自分の表象世

界の中に閉ざされており、そこから抜け出ることはできない」ということで

あり、世界全体は夢のようにしか現れないことになる。シュタイナーはそう

した知覚に対して、ちょうど夢に対する目覚めの状態の経験に相当するよう

な何かが確かに存在するとし、それこそが、「思考」にほかならないとしたの

である(6)。換言すれば、シュタイナーの言う生きた思考とは、「鏡像として

の思考」の背後にある、「創造的働きの場」に参入することである。植物の場

合と同様、人間の「生きた霊視的な思考の場合、思考内容そのものが生命力

になっている」のである(7)。

いわば、シュタイナーは、カント的な二元論を乗り越え、私たちも真にそ

の一部であるようなエコロジカルな宇宙像を提示しようとしたのである。そ

して、面白いことに、デカルト哲学の出発点におかれた、あの「我思う。ゆ

えに我あり」を引きながら、思考の実在性を主張している。私の思考....

だけは

私自身がそれを生みだしている。それだけは確信できる、と言うのである(8)。

そこで何かが生じるとき、必ず私たち自身がそれに立ち会っている。消化は

消化の対象とならないが、思考は思考の対象となりうる。シュタイナーによ

れば、その思考行為においてこそ、人間は、宇宙の秘密の一端を掴むことが

でき、エコロジカルな宇宙の住人になるのである。

そのためには、思考そのものと、その意識への投影としての知覚内容とを

明確に区別するべきだとシュタイナーは言う。霊の働きとしての「思考」は、

私たちの日常の思考活動とも連続的であり、誰でも経験していることである

が、近代の認識論がそれを見せなくさせている。

シュタイナーによれば、知覚内容には外部的知覚と内部的知覚=直観(思

考内容をもつ)の二つがあり、心理学等で知覚内容とされるものは、実はそ

の二つが総合されたものである。人間は対象を観察する一方、その意味(概

念)を直観しそれを知覚内容と結びつけるが、そうした働きこそ人間本来の

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思考なのである。

『自由の哲学』で、シュタイナーは次のように言っている。

知覚世界だけを眺めてみよう。それは空間の中で並存し、時間の中で相

前後して存在する、無関係な個別の寄せ集まりでしかない。知覚の舞台に

現れたり消えたりするものは、どれ一つとして別な知覚内容と直接関わり

あいを持っていない。その世界は等価の諸対象の多様な集まりでしかな

い。・・・ある事実が他の事実以上に大きな意味を持っているとしたら、そ

れは思考を働かせた結果に相違ない。思考の機能を働かせなければ、今は

全く意味をもっていない器官の痕跡も、眼のような も必要な感覚器官も、

価値の上で何ら変わりはない。個々の事実は、思考が存在と存在との間に

関連の糸を通すときそれ自身にとっての、そして世界にとっての意味を、

はじめてはっきりと示す。このような思考活動は抽象的ではなく、内容を...

持っている.....

。・・・単なる観察や(対象の)知覚では生体の完全性を明示す

るような内容を与えてくれない(なぜかたつむりがライオンより低次の有

機的発達段階にあるのかなども)。

思考はこのような内容を(対象の)知覚のために、概念や理念の世界か

ら取り出してくる。外から我々に与えられる知覚内容とは反対に、思考内

容は内部から現れる。その内からの内容が 初に現れる際の形式を、我々

は直観..

と呼びたい。直観の思考に対する関係は、観察の知覚に対する関係

に等しい。直観と観察はわれわれの認識の二大源泉である(9)。

このように、内部的に直観される概念や理念(概念から構成される)は、

まさに直観される.....

のであり、それらは、もともと宇宙の内にある。前に植物

を例に述べたように、形成するパタン(概念であり、思考であり、理念であ

るようなもの)は諸生命の存在とともにあり、さらにそれは宇宙的つながり

のうちに存在している。こうした直観は、ゲーテ的な「想像力」、つまり、「原

植物」を生み出すような働き、と同種のものである。シュタイナーは次のよ

うに言っている。

どのような根拠から、思考内容なしの世界を出来上がったものと主張で

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きるのか。世界が人間の頭の中に思考を、植物の中に花が咲き出るのと同

じ必然性をもって、生じさせるのではないか。種子を地面にまけば、そこ

から根が生え、茎が生じ、葉を拡げ、花を咲かせる。そのような植物を目

の前においてみたまえ。その植物は、君達の魂の中で、特定の概念と結び

つく。一体なぜそのような概念が葉や花と同じようにこの植物に属してい

る、とは言えないのか。・・・花や葉もまた、大地に種がまかれ、そこに光

や空気や水が存在するとき、つまり葉や花に成長する条件が与えられた

とき、はじめて生じてくるのではないか。植物についての概念もまた、

同じように、思考する意識がその植物に出会った時にはじめて生じてく

るのだ(10)。

このように、現実は、通常、対象知覚..

と思考..

の二つの側面から考察する者

の前に現れてくるのだが、シュタイナーによれば、それは、人間存在が限界

づけられた存在であるためである。「我々の生活が事物と深く結びつき、すべ

ての宇宙の出来事が同時に我々..

の出来事でもあるとすれば我々と事物との間

の区別は存在しなくなる。しかしその場合には、我々にとっていかなる個体

も存在しない。すべての出来事が持続的になり、互いに移行しあう。宇宙は

統一体であり自己完結的な全体性を成し、出来事の流れはどこにおいても中

断されない。我々が限定されているからこそ、実際には個別的でないものも、

個別的に現れる(11)」のである。

とはいえ、人間はそれぞれの限定された生活世界の中に生きており、世界

から特定の断面を切り出し、それをそれ自身として考察することが必要であ

る。しかし、思考は我々の特殊な個性を宇宙全体と関連付ける。「思考すると

き、我々はすべてに通用する全一の存在となる(12)」。だからこそ、人間には

認識への衝動があるのだとシュタイナーは言う。思考する存在の場合、外な

る事物に内なる概念が結びつく。事物を外からではなく、内から受け止める

ことができるのは、この概念のおかげである。

また、ある事物を「説明する」ということ、「理解できるようにする」とい

うことは、上に述べたような人間の認識機能が分離させてしまった関連の中

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に、その事物を再び組み入れるということである。つまり、対象が謎めいて

見えるのはそれが個別的なあり方をしているからである。

シュタイナーの使う概念、理念という言葉は、このように、意味やイメー

ジを含むものであることに注意することが必要である。思考とは何かについ

て、シュタイナーは次のようにも語っている。

思考とは何でしょうか。たとえば手で何かをする時、からだの働きが体

験できますね。それとまったく同じように、内で何かを行う時の体験が思

考なのです。ですから、手や腕の運動の知覚から、内なる思考力の働きの

知覚まで移行するには、たった一歩だけ歩めばいいのです。そしてそうで

きた時、私たちは肉体の人間ではなく、エーテル体の人間を感知し、同時

に、このエーテル人間が、すべて思考内容から織り成されていることも理

解します。そして、このエーテル化された思考内容を通して、これまで経

験してきたこの世の人生のすべてを、眼前に展望することさえできるよう

になるのです(13)。

エーテル体とは「生命としての体」の意味である。(シュタイナーによれば、

人間は、このほかに、「物質体」、意識としての体である「アストラル体」、そ

こから生まれ出る「自我」の 4 つで構成されている。)従って、エーテル化さ

れた思考内容とは、身体的な、アナログ的な思考内容である。それに対し、

脳の働きは基本的にデジタル的であり、シュタイナーの理解では、物質的な

ものである。

ところで、野口三十三は、身体の自然な動きを解放する必要性を説く中で、

身体自体が生み出しそれに導かれて動いていく、いわば身体の「思い」のよ

うなものに、「イメージ」という語を宛てている(14)。それは、シュタイナー

の言う「エーテル体の思考」と重なり合っているように筆者には思われる。

(2)個体化された概念としての表象

科学的記述であろうとその他の記述であろうと、近代的な記述は対象をで

きるだけ正確に、客観的に描写することが重要であるとして、シュタイナー

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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 11

の言うような内的知覚や直観をむしろ抑制する傾向が強い。筆者も、そうし

た近代の表象化の暴力性を近代青年期との関わりで論じたことがあるが(15)、

シュタイナーは、「思考」についてそうしたように、「表象化」についても、

近代的なバイアスをそこから取り除くことで、むしろ創造的な働きがあるも

のと見なした。人間の具体的な表象は想像力(内的直観)を通して作り出さ

れるものだからである(16)。

前にも触れたとおり、シュタイナーは、ある事物の現実性は、観察によっ

て概念と知覚内容が結びつく瞬間に生じると述べる。概念は知覚内容から個

的な形姿を、特定の知覚内容を受け取る。知覚内容の特徴を担った概念は私

たちの中に生き続けて、その事物の表象を作り出す。表象とは個体化された

概念なのである。たとえば、ライオンについての概念は、必ずしもライオン

についての私の知覚内容から作り出されなくてもよいが、ライオンについて

の表象は,私の知覚に即して作り上げられねばならない。

さらに、経験とはそこから表象が作り出されるものの総体のことであり、

多数の「個体化された概念」(=表象)をもっている人は、豊かな経験の所有

者である。そして、直観の能力を持たない人は経験を手に入れることが下手

だということになる。そういう人には対象と関わり合うべき内的知覚内容が

欠けているからである。よく発達した思考能力をもちながら、感覚能力が粗

雑なので充分な知覚活動が行えない人も、同様である。

表象の個体性は対象に向かう感覚の個別性にのみ由来するのではない。そ

もそも人間の身体組織は完全に個的なものである。その表現である感情(快・

不快)も、さまざまな強度で知覚内容と結び付けられる。感情がなければ、

人間は知覚内容を特別な主観性である個的な「自我わたし

」と結びつけることはで

きない。

シュタイナーによれば、思考と感情は、私たちの本性の二重性に対応する

ものである。つまり、思考は私たちを世界に結びつけ、感情は私たちを自分

自身の中に連れ戻し、私たちを個体にする。自我わたし

が(対象)認識の機能しか

果たせなかったら、私たちは個的な存在にはなれないのである。「自己認識と

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12 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

同時に自己感情を、事物の知覚と共に快、不快を感じることによってこそ、

われわれは個的存在として生きている。個的存在の意味は自分と周囲との概

念関係によって汲みつくすことはできない。存在自身が独自の価値を担って

いるからである(17)」。 このように、シュタイナーの見るところでは、人間は普遍的な宇宙的事象

と自分の個的存在のとの間をたえず行ったり来たりしている。そして、全体

との関係を失わないでいる人の事実認識は、感情の育成、発達と手を取り合

って進んでいくのである。普遍的である思考の中に個別的な特徴があるのは、

思考が個別的な感情や感覚に結び付けられているからに他ならない。

(3)理念としての「自我わたし

「思考」は自己認識においても重要である。シュタイナーによれば、その

あり方は対象認識のあり方と基本的に同じで、自分に関する内外の知覚から

始まる。「自己知覚は、例えば黄色、金属の輝き、硬さ等の諸性質をもとにし

て『黄金』という統一体を纏め上げるのと同じような仕方で、私の人格全体

を纏め上げるために必要な諸性質の合計を私に示してくれる(18)」。内的に知

覚される感情も自己知覚である。そして、思考は、自己知覚によって獲得さ

れたものに理念的性格を与え、それを主観もしくは「自我わたし

」として、客体に

対比させる。それゆえ、自分自身と思考との関係は、私たちにとって、大切

な人生課題である。 人間がどう行動するかは、直観能力が特定の状況に際してどう働くかにか

かっている、とシュタイナーは言う。私たちの内部に働く理念の総計、私た

ちの直観の具体的な内容は、たとえ概念界そのものがどれほど普遍的であろ

うとも、常に一人ひとりの中で個別的に現れる。そしてこの内実を十分に生

かしきることが 高の道徳衝動である(19)。シュタイナーによれば、行為の

基準を自分の動機の中に見出し、その行為の根拠を洞察しようと努力するこ

とは、道徳上の一大進歩を意味する。自由な存在とは、自分が正しいとみな

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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 13

すことを欲することのできる存在なのである(20)。

植物の種の中に植物全体にまで生長する可能性があるのと同様、人間もま

た成長する可能性を持って生まれる。それらの可能性は客観的な法則による

ものである。しかし、シュタイナーは、人間は自分の力で自分の内なる素材

に変化を加えることができなければ、不完全な存在、不自由な存在に留まり

続けると言う。そして次のように付け加える。

自然は人間から単なる自然存在を作り出す。社会はその自然存在を規則

にしたがって行動する存在にする。しかしその存在を内部から自由な存在

に作り変えるのは、もっぱら自分だけなのである(21)。

もちろん、道徳的に行為するためには、この世界のことをよく知っていな

ければならない。科学的認識を通して実現の道を探求しなければならない。

また自然法則にそむかずに知覚世界を作り変える能力も必要である。つまり、

既に存在している知覚内容に手を加えて、それに新しい形態を与えることで

あるが、人間は一般に既存の現実についての概念を作り出すことに慣れてい

て、未来のために想像力を働かせて生産的に行為することを苦手としている、

ともシュタイナーは述べている。

おわりに

これまで見てきたように、デューイもシュタイナーも、思考の核心には想

像力があるとする点で共通している。ファンタジーやイマジネーションと言

えば、ふつう御伽噺の世界かせいぜい芸術的なものとして、非日常的なもの

として扱われがちである。しかし、二人は、それを理念や目的や意味として

論じている。人を動かす真正な力としてである。ことにシュタイナーは認識

の普遍的かつ個人的な側面を明らかにしつつ、その両方に想像力が深く関わ

っていると述べている。

本質に即した思考に向かう人は、思考そのものの中に感情と意志をともに

見出す。シュタイナーは次のようにも言っている。

思考する魂は乾いているように見える。しかしこれは熱くそして輝きに

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14 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

満ちて世界現象の中に沈潜する思考の単なる影にすぎない。ただその影が

自分を非常に際立たせているのである。・・思考活動そのものの中を流れて

いる内的力、それは精神化された愛の力である(22)。

また、それゆえ、そのように思考するためには私たちが自由でなくてはな

らないとデューイもシュタイナーも言う。私たちは自らを主人として理念に

対置させなければならないのである。そうでないと自分を理念の奴隷にして

しまうことになる。

ラインホールド・ニーバーは、『光の子と闇の子』で、デューイを典型とす

るリベラルな宗教論のオプティミズムを批判し、それが進化論という「信仰」

と結びついた浅薄なものだと述べている。ニーバーは、私たちは自己を知る

ことは原理的に困難であり、それが社会的な関係においてどのような害悪を

もたらすかを指摘している(23)。確かに、グローバルな金融資本主義の暴走

は民主主義を危機にさらしており、謙虚なキリスト教的人間観の必要性を感

じさせる。

他方で、シュタイナーは、『社会問題の未来』や『経済学講義』などで人間

本性に合った経済活動についても考察を深める。そして、「個人の理念は、社

会によっては完全に実現されることはない」と、カルマの思想を説くのであ

る。それによって、彼は、死への不安からますます人々が暴走していくこと

を食い止めようとしているかのようにも見える。

シュタイナーは、ゲーテの植物学のように、時間に沿って展開される生命

の営みへの想像力を訓練することを私たちに求めている。人間の思考を生命

あるもの全体を視野に入れて考え直すためである。シュタイナーは障害児教

育を教育の原点としたが、言語的思考だけでなく、さらに深く宇宙的なもの

としての、身体そのものの思考に眼を向けた。それは生死を包含した生命の

進化への想像力を含むものだった。デューイも、シュタイナーのように転生

は語らなかったが、ゆっくりとではあるが前進する時間を信じた。たとえど

れほど脳天気に見えようと、そうしたことなしには教育について考えること

は出来ないように思われる。

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教育実践と形而上学―想像的なものとしての理念― 15

近年、日本人の対話能力の弱さが語られ、それとの関連で演劇の教育的効

果への期待が高まっている。デューイの実験学校でも、シュタイナー教育で

も、演劇的なものは重要な要素であった。上で見てきたように、それが想像

力としての思考とつながるからである。

筆者も、 近、中学国語科の教科書に載っている平田オリザの対話劇のテ

キストを、大学生と一緒に試してみた(24)。朝の学校で生徒たちが話してい

ると、担任教師が転校生を連れてやってくる。そして、先生が出てゆき、転

校生と生徒達の会話が展開するという、きわめて単純な筋書きである。課題

は、この枠組みだけを生かして自由に対話劇を作るというものである。これ

は、意外なほど様々な物語へと発展した。また、筋書も自分達で考えること

にしても、学生たちは大いに自分達の経験を生かし、イメージを広げ、意見

交換し、グループの皆が参加できる一つの話を織り上げていった。今まで二

十数年授業をして来て、あれほど熱心にかつ楽しそうな大学生を見たことは

なかった。もちろん、表現をしないという表現もそこには含まれていた。

何の事はない、これは、子どものごっこ遊びと本質的に同じものだ。ミヒ

ャエル・エンデの『モモ』の中に出てくる、時間泥棒の灰色の男達に支配さ

れる前の、円形劇場でのモモを交えた子ども達の遊びと同じものだ。あちら

は、現実の嵐さえ仲間にしてのさらに大いなるファンタジーになっていたけ

れど。しかし、それこそが近代人が思考から排除してきた、思考の も豊か

な部分なのだ。

想像力は創造的な生き方をもたらす。自由で十分な自己表現の源であり、

シュタイナー的に言えば、かけがえのない宇宙的出来事をもたらす。しかし、

そのためには一人一人が心ゆくまで時間を使えなくてはいけない。グローバ

ルな金融市場、新自由主義の席捲で、そうした「命としての時間」がこの世

界から今ますます失われつつある。教育の世界も例外ではない。灰色の男達

の存在が今ほど強く感じられる時はない。

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16 駒澤大学 教育学研究論集 第 28 号 2012 年

(1) John Dewey, My Pedagogic Creed(School Journal, LIV (January, 1897), pp.77-80), in John J. McDermott, ed., The Philosophy of John Dewey, Chicago and London: The University of Chicago Press, 1971.

(2) Dewey,A Common Faith, John Dewey,The Later Works,1925-1953, Volume9, Southern Illinois University Press,1981, p.12.

(3) Ibid.,p.53.

(4) Ibid.,p.33.

(5) Ibid.,pp.34-35.

(6) ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』(高橋 厳訳)、筑摩書房 2007

年、99 頁。

(7) シュタイナー『遺された黒板絵』(「思考内容に力がそなわるとき」)

(高橋 厳訳・ワタリウム美術館監修)、筑摩書房 1996 年、102 頁。

(8) シュタイナー『自由の哲学』、60 頁。

(9) 同、113 頁。

(10) 同、104 頁

(11) 同、106~107 頁。

(12) 同、109 頁。

(13) シュタイナー『遺された黒板絵』(「思考とは何か」)101 頁。

(14) 野口三千三『原初生命体としての人間』三笠書房、1972 年、225~

227 頁。

(15) 北村三子『青年と近代-青年と青年をめぐる言説の系譜学』世織書

房、1998 年。

(16) シュタイナー『自由の哲学』126 頁。

(17) 同、128 頁。

(18) 同、158 頁。

(19) 同、179 頁。

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(20) 同、225 頁。

(21) 同、189 頁。

(22) 同、164 頁。

(23) ラインホールド・ニーバー 『光の子と闇の子』(武田清子訳)、聖学

院大学出版会、1994 年、130、197 頁。

(24) 平田オリザ・北川達夫『日本には対話がない―学びとコミュニケー

ションの再生』三省堂、2008 年。平田の対話劇のシナリオは、三省

堂『現代の国語 2』(平成 18 年度中学国語教科書)に掲載されてい

る。