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道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷 : 関東地方 からの場合 著者 小野寺 淳 雑誌名 筑波大学人文地理学研究 14 ページ 231-255 発行年 1990-03-25 その他のタイトル Ptterns and Changes of Pilgrim Ro Shrine : A Study Based on Traveler Left in the Kanto District URL http://hdl.handle.net/2241/00130041

道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷 : 関東地方 からの場合 · その他のタイトル Ptterns and Changes of Pilgrim Routes to Ise Shrine : A Study Based

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道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷 : 関東地方からの場合

著者 小野寺 淳雑誌名 筑波大学人文地理学研究巻 14ページ 231-255発行年 1990-03-25その他のタイトル Ptterns and Changes of Pilgrim Routes to Ise

Shrine : A Study Based on Travelers' RecordsLeft in the Kanto District

URL http://hdl.handle.net/2241/00130041

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人文地理学研究 xw 231~255 1990

道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷

一関東地方からの場合一

I はじめに

E 道中日記の性格

薗 伊勢参宮ルートの類型

皿-1 道中日記の年次別現存数

亜-2 伊勢参宮ルートの類型区分

W 伊勢+西国巡礼ルート

N-1 基本型

N-2 普及型(金比羅経由)

小野寺 、1"コ千子

N-3 拡張型(岩国又は四国経由)

V 伊勢参宮モデルルート

V-1 基本型

V-2 普及型(金比羅経由)

V-3 拡張型(岩冨又は西国経由)

VI 近代交通利用による伊勢参宮

VlI おわりに

I はじめに

人間は移動することによって絶えずその空間認識を更新している.未知の世界を知る旅もまた,そ

の体験によって新たなメンタルマップを与える.

江戸時代の民衆にとって,社寺参詣は合法的に未知の世界を体験する一つの方法で、あったとりわ

け,伊勢参宮は「一生に一度はお伊勢まいりをJといわれたように日本の社寺参詣の代表であり,享

保期では年間50万人の参宮者があったといわれている.このような多くの参宮者が,旅に何を期待し

どのようなルートを選択し何を見て何を感じたか,そして旅で得た情報を地域の生活の中にいかに

取り込んでいったのであろうか.多くの人が集まる伊勢では,奉納された種籾を交配して穏の改良品

種を作り, これを参宮者に配布したことから全国的な農業の技術交流がみられた l人地域間の結び付

きは,物資の流通のみならず,たとえば社寺参詣のような,人間の移動による清報の伝達によっても

もたらされたであろう. このような問題意識のもとに,まず研究の第一歩として,本研究では関東地

方に現存する道中日記を史料に伊勢参宮者の辿ったルートを具体的に示すとともに, これらの伊勢参

宮ルートの類型を求め,その変遷を明らかにすることを目的としている.

研究蓄積の厚い社寺参詣研究の中で,参詣者のルートならびに道中日記に言及した研究は,新城常

三 f新稿社寺参詣の社会経済史的研究Jの大著 2)をはじめとして,主要な文献のみでも西垣靖次 3) •

原田伴彦り・相蘇一弘 5) ・五十嵐富夫 6) ・小松芳郎7)・山本光正8)・桜井邦夫宮〉・岩鼻通明 10) ・田

中智彦 11)などの研究がある.道中日記は地方史の研究雑誌のなかで史料紹介として取り上げられて

きたが,近年道中日記に対する関心が高まるにつれて,自治体史の史料編にもしばしば取り上げられ

るようになった「茅ヶ崎市史研究Jの圭室文雄 12) • 1"我孫子市史研究Jの飯白和子 13)の研究は,

ともに自治体史編纂事業の中で見い出された道中日記を詳細に検討したものである.青梅市教育委員

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会編『谷合氏見開録』の滝沢博 14) 1 5) .世田谷区教育委員会編『伊勢道中日記史料』の池上博之 16)

の解説文もまた,新しい知見を盛り込んだ研究として評価される. これらの研究成果の論点は多岐に

わたっているが,道中日記の性格の検討はもちろんのこと,社寺参詣における御師の役害11.講の組織

と参詣経費の問題,紀行文学としての道中日記の意義,そして社寺参詣ルート論などである.

社寺参詣ルート論としては,新城常三の先駆的研究以後,本研究でいう「伊勢参宮モデ、ルルート」

が東北・関東地方からの伊勢参宮の基本的なルートとして形式化されたことを指摘した山本光正の研

究 17) 出羽三山参詣者のルートを提示してルートの循環性を論じた岩鼻通明の研究 18) 西国巡礼に

おける基本的なルートと実際、の参詣者が利用したルートの違いをミクロに検討した田中智彦の研

究19) そして東北地方からの出羽三山ならびに伊勢参宮のルートを類型化した桜井邦夫の研究 20)が

注目される. これらの研究は,一地域に現存する道中日記での克解ではなく,広く道中日記を渉猟し

た上での見解として一般性を持っている.

本研究で扱う伊勢参宮ノレートの類型については次章で述べるが,従来関東地方からの伊勢参宮ルー

トは十辺舎一九の膝栗毛シリーズとほぼ同様なルート(,伊勢参宮モデルルートJ)が大多数と想定さ

れており,異なるんートの道中日記が見い出されても,その位置付けがなされない状態であり,いわ

んやルートに変遷があったことも指摘されたことがない. この理由は,数多くの道中日記を系統的に

扱った研究が少なく,取り上げられた道中日記が1840年代・ 50年代のものが多かったためと思われる

そこで¥全国にわたる道中日記の所在調査の成果の中から,本研究では最も多くの道中日記の現存を

確認しえた関東地方の事例を取り上げ,伊勢参宮ルートの類型とその変遷を明らかにすることとした

道中日記がしばしば取り上げられるようになった現状において, このような基礎的な研究をしておく

ことが今後の研究の進展においても必要と考える.

E 道中日記の性格

ここで扱う道中日記は, ,伊勢参宮細見大全」などのような旅行案内書 21)ではなく,また文人の紀

行文でもない.主に名主層が書き残した旅日記である. 日記といっても道中日記の多くは,旅程願に

宿泊地・旅寵名・旅篭代・見学地・参詣代・昼食代,さらには渡船代・髪結代・わらじ代などの諸経

費を列記した,いわば金銭出納帳である.個人で経費を賄っている例もみられるが,関東地方の場合

は伊勢講による代参の例が多いために,このような金銭出納帳が必要であった したがって,代参の

場合は遊興費のような必要経費と認められないものは計上されないが,なかには旅寵に朝帰りしたこ

となど遊興の事実を正直に記載している例もみられる.また帰省後に漢詩・和歌などの古典の知識を

盛り込んだような,他人が読むことを前提に清書したと思われる道中日記もみられるが,多くは携帯

に便利な横帳または横半形式の小冊子に記されており,旅先でのメモ書き程度の記載内容である.

しかしながら,多くは語らなくとも,道中日記に記載された旅程や支出のあり方から旅の実態をむ

しろ客観的に把握することも可能である.最も簡略な道中日記でも宿泊地のみは記載されており,前

欠や後欠がなければ,少なくともルートは確認できる.またなかには,古典の知識はなくとも「伊賀

道中,人気甚だよろしからず.六軒より大和路に入りては食事よろしからざるなり.Jなどと旅先の

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率直なイメージを織り混ぜて記す例がしばしばみられ,未知の位界に対する空間認識を考察する史料

となりうるものもある

道中自記の所在調査は,自治体史の編纂のために調査された古文書所在目録の検索による. このた

め,庶民の日記とはいえ,多くは村方の名主層ないしは町方の商家の日記である.中世の伊勢参宮は

武士が圧倒的に多く,江戸時代になると家臣の統制が強まり武士の参宮が減少し伊勢参宮は農民・

商人が多くなった.農民と商人ではその人口比からも農民の方が多いが,慶安2年 (1649)の江戸市

民を主体としたお蔭参りの勃発にみられるように,江戸市民の伊勢参宮はかなりの数にのほとったとい

われる 22) このような江戸市民の道中日記は,史料の現存状況の関係で本研究には含まれていない.

播磨国黍田村のように嫁入り前の娘を伊勢参宮に旅立たせる慣習 23)は,関東地方にはなかったよ

うで,道中日記の執筆者はすべて男性である.また,遠隔地であるがゆえに,経済的にも女性の伊勢

参宮は密難であったろうと考えられている.関東地方では,年齢が判明するものでは20歳代と50歳前

後以上の人が多い. 20歳代は家督相続をする年齢層であり, 50歳前後は家督を譲って引退する年齢層

である. したがって,伊勢参宮は人生の節呂に日常的な生活を離れて未知の世界の見積を広める意味

が含まれていたと考えられる. もちろん,伊勢参宮を行う動機は偲々に異なるであろうし本研究の

呂的のように円、かなるルートを選択するかjという課題は基本的には個人差に帰結する. しかし

伊勢参宮は必ず平均十数名,多いときでは30名近くの同行者があり,ルートの選択は集団によって意

志決定されたといってもよいであろう.また同時に,道中日記 1点は向行者の数を掛け合わせた参宮

者数を想定しなければならない.なお,同行者は必ずしも顔見知りではなく,各村からの代参者が近

在の町場や江戸の旅鐘 24)で落ち合った.

同行者は伊勢までは必ず同一行動をとる.伊勢では御邸宅に宿泊し御馳走を振舞われる.この料

理の献立を記載する例は多い.御姉はその手代を旦那廻りさせ,御械をしお札・伊勢暦を配布して

初穂代を受け,お伊勢参りを促す関東地方を旦那廼りした伊勢御部は,明治 4年 7月の御師職廃止

以後に作成された 11日部職人名其他取調帳J25)でも確認することができる.道中日記にも御師名が

記載され,十数名の御姉の名がみられる.常陸一月は外宮の久保倉太夫,下野・上野は外宮の三日市

太夫と内宮の車館太夫,武蔵・下総は外宮の龍太夫と三百市太夫が,それぞ、れj玄範囲の旦那場を持っ

ている. この他,土浦市近在は内宮の十文字太夫,流山市近在では外宮の孫福太夫,茅ヶ崎市近在で、

は外宮の杉木権太夫などである.

出立地やルートによって異なるが,近代交通利用以前の伊勢参宮は60日以上の長旅が多い.経費に

ついては別稿で改めて論じるが,現在ならばおおよそ50万円程度の経費は必要としたであろう. した

がって,ルートについても出立以前に計画されていたものと考えられる.このルートの選択に,旅行

案内書を参照したことは史料的に裏付けられるしまた体験者からの情報も入手したであろう.この

他,旦那廻りに来た伊勢御蹄の手代の情報もかなりルートの選択に関与したものと考えられる.遠く

は桑名まで,伊勢街i師は手代を出迎えに行かせており,伊勢御師が旅の案内役を果たしていたようで

ある. しかし同一御婦ならば同ーのルートを選択しているか否かは,管見の道中日記の点数が不足

していて検討できないため,ルート選択の要因については今後の課題としたい.

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亜 伊勢参宮ルートの類型

ill-1 道中日記の年次55IJ現存数

本研究では,まず関東地方の自治体史ならびにそれらの史料所在呂録から,伊勢参宮・西国巡礼・

四国巡礼の表題または内容を含む道中日記269点を抽出した西国巡礼と四国巡礼を含めたのは,と

もに近畿地方での参詣の起点が必ず伊勢参宮であったためである. この点も検討課題ではあるが,表

題に「伊勢参宮道中日記Jと記載されていても,西国巡礼あるいは四国巡礼を行っている道中日記が

あり,その差はほとんどルートの差以上のものではないといっても過言ではないであろう.そこで,

本研究では伊勢参宮道中日記と総称して扱うこととする. この年次別リストを巻末の「伊勢参宮

道中日記一覧表」に示した このうち,自治体史などに紹介されたもの 26) と筆者が解読した道中

呂記は95点(一覧表の*印)である.未確認のうち表題が道中日記とのみ記載されているものの

なかには,あるいは他の社寺参詣のものも含まれているかもしれないが,一般的には表題に道中

日記とのみ記載されたものの多くは伊勢参宮である.

この一覧表から,第 1図に10年ごとの道中日記の点数を棒グラフで示した現存している道中日記

は, 1700年代から1930年代までである. もちろん,関東地方においても1700年代以前から伊勢参宮が

行われていたが,現在のところ17世紀の道中日記は確認されていない.道中日記の点数でみる限りに

おいては,伊勢参宮道中日記は19世紀に集中しており,とりわけ1840年代・ 50年代に点数のピークを

迎えている.関東地方では元禄期以前の文書が少なく,道中日記の現存点数の増減は,必ずしも参宮

者数の増減を意味しない.同様に,明治後期以捧における道中日記の減少も,必ずしも参宮者の減少

を意味しないであろう. しかしながら,宝永 2年 (1705)・明和 8年(1771)・文政13年(1830)・明

治23年(1890)のお蔭参りの時期における一時的な参宮者数の増加,あるいは飢鐙時の減少などの例

外を除けば,おおむね19世紀における道中日記の増減は,参宮者数の増減に比例したのではな~¥かと

推測する.なお,一覧表にはお蔭参りの時の道中日記はない.

伊勢参宮に出立する時期は,田植前に帰国するようにしたため, 1月が多いといわれている.この

点は本研究でも明確に指摘できる.改めて後述するが,汽車・汽船といった近代交通利用以前におい

ては,関東地方からの伊勢参宮の所要日数は 2か月が一般的であり,以後は 1か月程度に短縮してい

る.新暦に変更された1872年までの道中日記は190点であり, うち出立月の判明するものが138点であ

る. 138点のうち 1月の出立は91点であり, 65%と過半数を占め,田植前に帰国可能な10月から翌年

2月までの出立を含めると実に82%となる.その他は,気候の良くなる 3月から 6月までの出立が15

%であり,この時期に出立した参宮者の年齢をみると71歳 (No.112)の例もあるように,穏居身分の

高年齢層の参宮者が多かったと思われる.新暦に変更後も, 79点のうち出立月の判明する43点のうち

18点が!日麿の 1月に相当する 2月に出立している. 1880年代に入ると,近代交通を利用できることな

どから所要日数が短縮し田植前帰国を 4月出立まで含めると,やはり 86%と高い割合を示して

いる

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(年代)。 5 10

1700 -

1710 -

1720 -

1730 -

1740 -

1750 -

1760 -

1770 -

1780 -

1790 -

1800 -

1810 -

1820 -

1830 -

1840 -

1850 -

1860 -

1870 -

1880 -

1890 -

1900 -

1910 -

1920 -

1930 -

15 20 25 30 35

伊勢+西盟巡礼ノレート基本型

凶泌必伊勢参宮モデノレノレート基本型

圏一盟巡礼ノレート普悶叫経由)

日伊勢参宮モデルノレート問一白)

圏一国巡礼ルート拡腿(岩国間関経由)

口跡一一組(岩国四国経由)

口未 見 不 明

日似通機関を利用しω

第 1図 道中日記の年代55IJ現存数と伊勢参宮ルートの類型

盟-2 伊勢参宮ルートの類型区分

235

(点数)

40

伊勢参宮ルートについては,主に長野県内の道中日記15点をもとにした小松芳郎の研究 27)東北

地方の道中日記18点をもとにした桜井邦夫の研究28)がある.小松芳郎は,伊勢のほかにどこをまわっ

たかによって「伊勢参詣のみのコースJ. I西留三十三か所順礼コース上「吉野・高野山コ r スJ.I金

毘羅コース」の 4類型を示した.この区分は,小松自身が便宜的に分類したと述べているように,西

国巡礼の途中に金比羅に立ち寄る例,吉野・高野山から金比羅まで足を延ばした例があり,分類が重

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複するため類型としては適切ではない.一方,桜井邦夫は「伊勢往復型」・「近畿周遊型J• ,デラック

ス型」の 3類型に分類している.小松芳郎の類型と比較すると, ,伊勢往復型」は「伊勢参詣のみの

コースJ,,デラックス型」は「金毘羅コースJ,,近畿周遊型」は「西国三十三か所11損礼コース」と「吉

野・高野山コースjを一緒にしたものに該当する. ,西国三十三か所11頃礼コース」と「吉野・高野山

コース」は,後述するように伊勢参宮ルートの二大ルートであり, ,近畿周遊型jとして一括するこ

とはできない.以上,両者の類型に共通する問題点は,各類型の量的なウエイト付けが明確でないこ

とと,取り上げた道中日記の年代幅がともに約130年もあるにもかかわらず,その時間的な変化を考

慮していない点にあると考えられる.

そこで,本研究では1706年から1939年までの約230年間における管見の道中日記95点のうち,詳細

なルートの半1J55IJが可能な81点をもとにして分類・整理を行った.まず伊勢神宮から近畿地方の諸社寺

を参詣して巡るルートの差異を基準として, ,伊勢十西国巡礼ルートJ• ,伊勢参宮モデルルート」の

2類型に大きく区分した 29) これは,伊勢神宮往復(,伊勢切りjという)の道中日記が l点 (No.17

5) しか現存していないこと,また往路は秋葉山・鳳来寺経由ならびに佐屋路経由 30)の東海道,復路

は長野善光寺経由の中山道といったルートが大半を占めており,往復のルートは基準とならないため

である.後述するように, この 2類型は道中日記の点数からみても 2大別すべきものと考えられる.

「伊勢十西国巡礼ルートJと「伊勢参宮モデルルート」は,ともに1700年代から1850年代まで併存

してみられるが,現存の点数状況からみると「伊勢十西宮巡礼ルート」が先行していたようである

「伊勢十西富巡礼}[,;ートJの基本型は,在路東海道を伊勢神宮へ向い, 1番青岸渡寺より順次西国三

十三観畜霊場を巡り,中山道を復路とするルートである. ,伊勢参宮モデルルートjの基本型は,往

路東海道を伊勢神宮へ向い,伊勢より奈良・大坂・京都の社寺を巡り,中山道を復路とするんートで

ある

このような両者の基本ルート(基本型)は,ともに1800年前後を境として,以後それぞれのルート

に金比羅参詣を加えたルート(普及型〉が多数を占めるようになる.なかでも,金比羅参詣を加えた

「伊勢参宮モデルルート」は,十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に始まる膝栗毛シリーズと基本的に

i司ールートであり,関東地方からの伊勢参宮ルートの典型的なルートになったといえる. このため,

モデルルートと呼ぶことにした.また, 1800年前後以降においては, ,伊勢十西国巡礼ルートJ• ,伊

勢参宮モデルルートJとも,金比羅から四国巡礼,あるいは安芸の宮島や岩国の錦帯橋へ足を延ばす

ザIJ (拡張型)などもみられるようになる

以上,第 1図では 2類型をそれぞれ「基本型J. ,普及型(金比羅経由)Jイ拡張型(岩国又は四国

経由)Jに区分して,その点数を図示した 「伊勢十西国巡礼ルートJでは,基本型 4点,普及型18

点,拡張型 2点である. 1"伊勢参宮モデルルート」では,基本型13点,普及型35点,拡張型 9点で

ある.

明治期に入ると, 1873年から績浜一四日市間に蒸気船による定期航路が就航し 1889年には東京一

神戸間の東海道線が開通したことにより,鉄道や蒸気船を利用する参宮者が現れる.管見の道中日記

では, この時期のルートは基本的に「伊勢参宮モデルルート」を踏襲するが,近代交通を利用して主

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要な社寺のみを途中下車して参詣するようになった.第 1図にこのような近代交通を利用した伊勢参

宮を・印で示した.

以上のような伊勢参宮ルートの類型とその変遷を,以下類型別に個々の道中日記の例を示しながら

細部のルートについて考察していく.

IV 伊勢十西国巡礼ルート

IV-1 基本型

「伊勢十西国巡礼ルートJの基本型は,往路東海道を伊勢神宮に向い, 1番青岸渡寺より順次西国

三十三観音霊場を巡り,中山道を復路とするルでトである. この類型に該当する道中日記は,

No.1 時o.4 No.11 No.4 9の4点である.これらは, 1706年・ 1763年・ 1777年・ 1812年の道中出記であ

り, 18世紀における一般的なルートと考えられ, i伊勢十西国巡礼ルートJの初期段階のルートであっ

たといえよう.なお, 1812年では帰路に秩父巡礼が加わっている

巻末のカラー図版の図 1-aと図 1-bには, 1706年 (No.1 )と1763年 (No.4)の道中自記のルー

トを示した. 1777年 (No.11)の道中日記のルートは, 1763年のそれとほぼ同一である.

図 1-aは, )11名登によって紹介された道中日記であり, 1706年 5月28日より 8月13日まで74日間

にわたる旅である.東北地方も含めて管見では東日本に現存する最も古い道中日記である 31) 現在

の千葉県海上郡海上町を出立した一行は28名であった江戸に出て,矢倉沢往還を相模大山に向い,

ここから甲府善光寺に行く.甲府から下諏訪へ出て中山道を伊勢に向かった.往路をこのような甲府

経由のルートで辿った例は,他の道中日記にはみられない特色である. f也の多くは復路に中山道を通

り,長野善光寺の参詣を行うのが原則であるかのようである.

図 1-bは, 1763年 1月7日から 3月17日まで70日間にわたる旅である. この道中日記には,金銭

出納帳として同年の「西国道中宿並に金銭入用帳Jがある 32) 現在の埼玉県入間郡毛呂山町を出立

し江戸を経由せず,八王子を経由して大磯で東海道に出ている.東海道を森宿まで行き, ここから

秋葉山・鳳来寺を参詣し熱田明神・津島牛頭天王,佐屋から桑名に渡り,伊勢へ向かった伊勢で

は三日市太夫宅に宿泊している.伊勢から熊野街道を l番札所青岸渡寺へ向い, ここから熊野参詣,

田辺を経由して 2番紀三井寺, 3番粉河寺, ここから高野山へ寄り, 4番横尾寺,堺・大坂を経由し

て5番葛井寺(藤井寺〉へ到着した.

田中智彦の研究によれば,高野山経由と堺・大坂経由は,西国巡礼の基本的な経路ではないが,西

国道中日記の検討によって東国の巡礼者の辿ったルートであることが明らかにされている. これを発

展的経路と呼んでおり, 14番三井寺から22番総持寺までの愛宕越え経路, 24番中山寺から27番円教寺

までの須磨経由の経路,福知山経由の経路といった発展的経路の存在を,道中日記をもとに指摘して

いる 33) 本研究の道中日記は田中智彦の使用した史料と重複するものもあるが,以下の普及型・拡

張型を含めても 7害Ij(17点)は,多少の部分的な違いはみられるが,田中の指摘する発展的経路を通っ

ている.

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IV-2 普及型(金比羅経由)

f伊勢十西国巡礼ルート」の普及型(金比羅経由〉に該当する道中日記は,以下の18点である(カッ

コ内は年次を示す).

No.19 (1789) 3 4) No.21 (1791) 35) No.27 (1800)

Nu39 (1806) Nu48 (1812) Nu56 (1816)

No.29 (1803)

No.58 (1819)

No.38 (1805) 3 6)

No.61 (1820)

Nu91 (1840) Nu94 (1841) Nu98 (1842) Nu113 (1847) Nu121 (1848)

Nu146 (1853) Nu157 (1856) Nu202 (1875)

金比羅参詣は,宝麿・明和漬からにわかに盛んになった 37)関東地方の道中日記では,やや遅れ

て寛政期から金比羅参詣がみられるようになる.管見では, この類型に属する道中日記の点数は,次

章で述べる「伊勢参宮モデルルート」の普及型の点数の半数ではあるが, 19世紀における 2大ルート

といっても過言ではない.なお管見の道中日記では, 1875年以降「伊勢十西国巡礼ルート」の普及型

はみられないが,一覧表には以後においても「西国Jの表題をもっ道中日記があり,必ずしも「伊勢

十西国巡礼ルート」の減少を示すものとはいえない. この点はさらに史料収集の必要があろう.

巻末のカラー図版に示した図 1-cは, この類型の例としてNo.29のルートを示した. この場合は70

日間の呂程である.基本型に金比羅参詣が加わる場合,金比羅へのルートがどのように選択されたか

が問題となる.図 l一 Cのように,室津から船で

伊例tは,必必、ずず、しも多いとはいえない.一般的と考えられるのは,次の 2つのルートであろう. ひとつは

高砂から丸亀へ渡り,金比羅参詣の後,丸亀から下津井・下村・田のロのいずれかに渡り,岡山を経

由して姫路の27番書写山円教寺で巡礼路に戻るノレートである (Nu48 Nu58 Nu91 Nu121 NuI46).

もうひとつは,先に岡山を通過して下村まで行き, ここから丸亀へ渡った後,丸亀からもう一度下村

に渡るか室津あるいは赤穂、へ渡り,姫路の円教寺で巡礼路に戻るルートである (No.19 No.38 No.

39 No.56 No.113)

なお, i伊勢+西国巡礼ルート」では,帰路に坂東巡礼 (No.49)や秩父巡礼 (No.56)を行う例がみ

られる

IV-3 拡張型(岩国又は四国経由)

「伊勢+西富巡礼ルート」の拡張型に該当する道中B記は, No.97 (1841)とNo.l56(1856)の2点

である.現存点数としては,きわめて少ない. これは日数がかかり,経済的な余力がなければできな

い旅であったためと考えられる.

No.97の道中日記は,金比羅参詣の後,田の口に渡り,徒歩で尾道まで行き,ここから船で宮島へ,

そして岩国の錦帯橋へ到着している.岩国と宮島がセットとなっていた理由は今後の検討課題とする

が,関東地方からの庶民の旅はここが西線であった.巻末のカラー図版の図 2-bのように,岩国か

らは山陽道を戻るのが一般的と考えられるが, この道中日記では松江に出て山陰道を通り,津山経由

で巡礼路に戻っている

四国巡礼を行ったNo.156の道中自記では154日間の全日程であり,半年余りも旅をしていたことにな

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239

る. この道中日記の執筆者は本圧宿の両替商であり,経済的なゆとりがあったために可能な旅であっ

たと考えられる.

V 伊勢参宮モデルルート

V-1 基本型

「伊勢参宮モデルルート」の基本型は,往路東海道を伊勢神宮へ向い,伊勢より奈良・大坂・京都

の社寺を巡り,中山道を復路とするルートである.この類型に該当する道中日記は,以下の 13点で

ある.

No. 2 (1747) No.42 (1807) NO.43 (1807) NO.71 (1829) NO.83 (1833)

NO.87 (1835) NO.96 (1841) No.120 (1848) 3 8) No.161 (1858) 3 9) No.180 (1863)

Nu181 (1863) Nu239 (1890) Nu244 (1892)

道中日記の年次によって明らかのように,基本型は1747年から1892年まで約150年間にわたって継

続している.後述するように,金比羅参詣経由の「伊勢参宮モデルルート」が普及するようになって

な金比羅参詣をせず、に基本型のみのルートを辿る参宮者もかなり存在したことが指摘できる.

巻末のカラー図版の図 2-aは,基本型のルートを示している. この図は, 1817年棺馬中村からの

ルート 40)であるが,関東地方の道中日記も同様である.まず,往路と復路に注目すると,往路にお

ける秋葉山・鳳来寺経由,復路における善光寺経由に特色がある.これは「伊勢十西国巡礼ルート」

においても同様であり,関東以北からの伊勢参宮ルートに必ずといってよいほどにみられる.管見の

道中日記では,往路において秋葉山・鳳来寺を経由した最初の例は, NO.2の1747年(延享 4)の道中

日記である 41) これは「伊勢参宮モデルルートJを辿った最も古い道中日記であるが,京都までで

筆をおろしているため,復路において善光寺を参詣したかは不明である.以下,京都までのルートを

辿ってみよう.

1747年 1月7日,現在のつくば市を同行12名 (6か村2名ず、つ〉で出立した流山から江戸までは

JlI船を利用し浅草観音を参詣している.東海道を鎌倉へ向い,八幡宮などを参詣し江ノ島を経由

して藤沢の遊行寺へ到着.藤沢から相模一宮寒Jlf神社,大山参詣を行った.大山から小田原へ出て,

東海道を森宿まで行主秋葉山へ向かう.火除け神の秋葉山より鳳来寺を経由して岡崎に出る.熱田

参詣の後,佐屋から桑名に渡る.伊勢では久保倉太夫宅に泊まる.伊勢参宮の後,久居より伊賀街道

に入り,長野峠を越えて伊賀上野に到着.上野から大和街道を通り奈良に出る.奈良では春日大社・

法隆寺・西大寺・東大寺・薬師寺・当麻寺・三輪明神・多武峰・関寺・吉野と巡り,高野山に至IJ著.

高野山からは紀見峠を越えて堺に出て,住吉神社を参詣して大坂に出ている.大坂でも社寺を巡りな

がら枚方・宇治を経由して京都に到着した他の基本型のルートと比較すると,伊賀上野から大和街

道を経由して奈良に出ている点が特色である.

伊勢から奈良へのルートは,伊賀街道 42) と初瀬街道 43)の2つのルートが利用された.伊賀街道は

長野峠を越えて,伊賀上野→笠置→木津から奈良へ,初瀬街道は青山峠を越えて,名張→長谷寺から

奈良へ入るルートである. I伊勢参宮モデルルートJでは,奈良に寄らず京都で帰路に着いたNO.71の

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240

例外を除けば,すべてこの両者のいずれかを通っている.管見の道中日記では, このうち伊賀街道を

経由したものは,前述のNo.2と, No.4 2 No.111 No.140 No.1 7 9で、あり,その他多くは初瀬街道を選択

している

V-2 普及型(金比羅経由)

「伊勢参宮モデルルートjの普及型に該当する道中日記は,以下の35点である

No.26 (1798) 44) No.64 (1822) No.65 (1827) No.68 (1828) No.75 (1830)

No.80 (1831) No.82 (1833) 4 5) No.85 (1833) No.95 (1841) No.100 (1842)

No.102 (1843) No.107 (1844) No.112 (1845) No.114 (1847) No.122 (1848)

No.124 (1848) No.127 (1849) No.131 (1850) No.132 (1850) No.139 (1852) 4 6)

No.142 (1852) No.155 (1856) No.159 (1857) No.164 (1859) No.167 (1860)

No.169 (1861) No.172 (1862) No.176 (1862) No.179 (1863) No.207 (1876) 4 7)

No.212 (1878) 4 8) No.218 (1879) No.229 (1881) No.236 (1887) No.237 (1889)

道中日記の年次をみると, 1798年から1889年までであり, 19世紀において関東地方からの参宮者が

最も多く辿ったルートである. このルートは十返舎一九の膝栗毛シリーズのルートとほぼ同様であり,

旅籍組合組織である吾妻講が刊行した「講中道中記」のルートとも呼応している 49)

この類型の例を,巻末のカラー図版の図 2-cに示した. この全日程は60日間であった.なお,往

路東海道・復路中山道が一般的であるが, この類型に属する道中日記のうち次の 6点は例外である

No.114は群馬県甘楽郡から軽井沢・鰍沢・南部を経由して東海道に入り復路中山道, No.167は栃木県上

都賀郡から往路伊那街道を経由し復路東海道, No.169は群馬県沼田市から出立して往復とも中山道を

利用した一方,神奈川県茅ヶ崎市から出立しているNo.176ならびに基本型に属するNo.181,藤沢市か

らのNo.102は,往復とも東海道を通っている. これは,出立地と伊勢との距離関係による選択と理解

される.

普及型では大坂から京都への途中で瀬戸内海を船で渡り,金比羅参詣へ足を延ばす.この航路は「伊

勢十西国巡礼ルートjの普及型と異なり, 26番札所一乗寺・ 27番札所円教寺に参詣しなくともよいた

め,異なる瀬戸内海航路が利用されている. I伊勢十西国巡礼ルートJ普及型の高砂から丸亀への航

路の利用もみられるが,大別すれば次の 2つの航路が一般的で、あったひとつは大坂から丸亀へ渡り

金比羅参詣後に丸亀から室津へ渡るルートであり, もうひとつは和歌山加太浦から撫養(現在の鳴門

市)へ渡り金比羅参詣後に丸亀から自の口・下村へ渡るルートである.前者は大坂の平野屋佐古に宿

泊して乗船する例が多くみられる.

V-3 拡張型(岩国又は四国経由)

「伊勢参宮モデルルート」の拡張型に該当する道中日記は,以下の 9点である

No.20 (1789)

No.148 (1854)

No.37 (1804) 50) No.40 (1806)

No.241 (1890) No.257 (1898)

No.ll1 (1845)

封0.269(1939)

No.140 (1852)

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このうち,金比羅参詣から四国巡礼の旅に出たのは,次の 3点である.東京都八王子市を出立した

No.20は全日程83日間のうち43日間で四国巡礼を行っている.埼玉県北足立郡伊奈町を出立したNo.37の

全日程は94日間である.埼玉県岩槻市を出立したNo.148は,四国巡礼を行った後, さらに安芸の宮

島・岩国錦帯橋へと足を延ばしており,全日程は100日間に及んでいる.

金比羅参詣から岩国錦帯橋まで旅した道中日記は, Nu40 Nu111 Nu140 Nu241 Nu257 Nu269で、

ある.なおNo.257とNo.269は次章の近代交通利用による伊勢参宮で取り上げる.

巻末のカラー図版に示した図 2-bは, No.111の道中日記のルートである.金比羅参詣の後に,丸

亀から松山まで27の四国巡礼札所があるが,そのうち77番札所・ 71番札所・ 72番札所・ 75番札所・ 70

番札所・ 51番札所の 6か所の札所に立ち寄りながら,松山の道後温泉に到着している.松山から宮島

そして岩田へと船旅をして帰路についている. このように金比羅から宮島へ行くルートは,四国を徒

歩で松山まで行く場合と, No.40やNo.140のように瀬戸内海を船で乗り継ぐ場合とがあったようである.

拡張型の岩国経由は,四富巡礼を目的としていないため,船旅を好むか否かでルートが選択されたと

考えられる.

VI 近代交通利用による伊勢参宮

1880年代以降においてら伊勢参宮ルートは基本的には「伊勢参宮モデルルートjが踏襲されたが,

1873年の横浜一四百市間における蒸気船の就航, 1889年には神戸まで東海道線が開通したことにより,

このような近代交通機関を利用した参宮者が増加している.一覧表の道中日記では, No.218 No.

229 Nu237 Nu239 Nu240 Nu244 Nu257 Nu269の8点が該当する.なお管見では, 1880年代以降

の道中日記において近代交通を利用していない例は, No.236 (1887)の神奈川県厚木市を出立したも

ののみである.

No.218の道中日記では, 1879年 2月21日から 5月 1日まで718間にわたり,金比羅経由の「伊勢参

宮モデルルートJ普及型を旅した.その際,往路において新橋一神奈川間で汽車を利用したまた,

同行の 5人が復路において四日市一横浜簡で月 9回就航した三菱汽船の蒸気船を利用したことが記さ

れている.

No.229の道中日記では, 1881年 2月4日から 3月27日まで金比羅経由の「伊勢参宮モデルルートj

普及型を旅したその際,復路では四日市-横浜認を 3月50銭で「はまたや伝六船」に乗船している.

No.237の道中日記では, 1889年 2月28日から 4月2日まで35日間にわたり,金比羅経由の「伊勢参

宮モデルルートJ普及型を旅した.往路では,高崎一品川罰を63銭で汽車に乗り,一旦川崎大師を参

詣した後,保土ヶ谷より静岡まで 1円15銭で汽車を利用している.復路では,四日市-横浜開を 2円

10銭で40時間の蒸気船の旅を楽しんでいる.

No.239の道中日記では, 1890年 2月25日から 3月初日まで24日間の旅をしている 51) 第 2図に示し

たこの道中日記のルートは,基本的には「伊勢参宮モデルルートj基本型である.最寄り駅の古河駅

から上野まで汽車に乗り,東京馬喰町で一泊した新橋から鎌倉まで汽車の乗るが,途中下車して川

崎大師に参詣している.鎌倉から江ノ島を参詣して藤沢で汽車に乗り,熱田まで向かった.熱田参詣

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徒歩

一号 て一鉄 道

一一一一一一一炉蒸気船

第 2図近代交通機関を利用した伊勢参宮ルート (1890年)

史料)明治23年「伊勢参宮道中記」茨城県猿島郡三和町鈴木幸太郎家文書

の後,蒸気船で伊勢に到着.伊勢参宮の後に,初瀬街道を通り奈良へ,長谷寺・東大寺・法隆寺・筒

-吉野と巡り,高野山参詣の後,紀見峠を越えて堺・住吉神社そして大阪に到着.ここまでは徒歩

である.大阪から汽車に乗り,京都で市内晃物をして汽車で名古屋へ.名古震では津島神社まで行き,

帰路は馬車鉄道を利用している.名古屋から途中下車して豊川稲荷を参詣し静岡に向かう.久能山

参詣の後,江尻から新橋まで汽車で戻った. このように,伊勢から大絞までは徒歩でモデルルートを

辿っているが,往路・復路とも東海道線を利用しているため,往路では秋葉山,復路では善光寺といっ

た「伊勢参宮モデルルート」にみられる主要な社寺を参詣せずに旅を終了している.

NO.240の道中日記では, 1890年 2月25日から 3月初日まで24日間の旅をしている.期間はNO.239の道

中日記と同様であるが,ルートは異なる. この旅は,基本的には奈良・京都の社寺を巡らない伊勢往

復型ルートではあるが,帰路に中山道を選んで、いるために日数がかかっている.往路では,新橋一国

府津を汽車に乗り,国府津から箱根湯本まで馬車鉄道を利用したまた,日記には記載がないが,こ

の道中日記を研究した飯白和子は,豊橋一伊勢簡を蒸気船,復路は善光寺参詣後,長野から上野まで

汽車を利用したと日程から推測している 52)

NO.244の道中日記では, 1892年 4月11日から27日までの17日間, I伊勢参宮モデルルートJ基本型を

旅した往復とも東海道線を利用し往路で本庄一上野・新橋一名吉屋間,復路で大板一京都・京都

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一名吉屋@名古屋一新橋と汽車を乗り継いでいる

No.257の道中日記では1898年 5月17Bから 6月15Bまで30日間,基本的には宮島経由の「伊勢参宮

モデルルート」拡張型を旅した 53) しかしその旅順は変則的である.青梅から東京に,新橋から

静岡,静岡から大垣,大垣から京都,京都の社寺を 4日間参詣した後大阪へ,大阪から多度津へ渡り

金比羅参詣,丸亀から宮島を参詣し広島・岡山・姫路・神戸と乗り継いで大阪へ戻り,住吉神社参

詣の後,南海電車で橋本まで行き高野山参詣,奈良の社寺を巡った後汽車を乗り継いで伊勢に着く

管見の他の道中日記では,すべてまず伊勢神宮に向かうのに対して, この道中日記はむしろ最後に伊

勢へ到着している点に特色がある.また,利用できる鉄道をいたるところで利用している点も注自さ

れる.復路も熱田・豊橋(豊川稲荷〉・静岡(久能山〉と汽車を乗り継いで帰省した向行者に73歳

の高齢者がいたことも,できる限り汽車を利用した理由と考えられるが,徒歩の旅の時代は完全に消

滅したといってもよいであろう.

No.269の道中日記では, 1939年 2月25日から 3月12日まで16日間,基本的には宮島経由の「伊勢参

宮モデルルートj拡張型を旅した 54)ただし宮島から岡山に出て,鳥取経由で出雲に行き,ここ

から天橋立を見学して京都に戻っている点が特色である. この旅も,宗道駅を出発してから汽車を乗

り継ぐ旅であった

以上のように,伊勢参宮ルートは復路における中山道の利用の減少,それに替わって四日市一横浜

砲の蒸気船の利用や東海道線の汽車の乗り継ぎ利用にと変化した しかしながら,伊勢往復型ルート

の道中日記も 1点みられるが,近代交通機関を利用するようになっても,その多くは基本的には「伊

勢参宮モデルルートjの巡回の旅を踏襲した

四おわりに

関東地方に現存している伊勢参宮道中日記は269点にのぼっている.その時期は1706年から1939年

までの234年間に及んでいるが,点数では1800年から1899年すなわち19世紀に集中していたとりわ

け, 1840年代・ 50年代に点数のピークを迎えている.本研究では, このような道中日記の現存状況を

把握した上で,現在までに確認した95点の道中日記のうち81点を研究史料とした. これらの道中日記

から,以下のような伊勢参宮ルートの変遷が明らかになった

関東地方からの社寺参詣は,主な百的が西国巡礼であれ,四国巡礼であれ,必ず伊勢神宮がその起

点とされた道中日記によれば,これらの伊勢参宮ルートは「伊勢十西国巡礼ルート」と「伊勢参宮

モデルルートjに大別できる. i伊勢十西国巡礼ルートjは,往路東海道を伊勢神宮へ向い, 1番青

岸渡寺より順次三十三観音霊場を巡り,中山道を帰路とする基本ルートが1706年の道中日記から見ら

れるが, 1800年前後 (1789年初出〉を境にして以後このルートに金比羅参詣を加えたルートが多数を

占めるようになる.一方, i伊勢参宮モデルルート」は,往路東海道を伊勢神宮へ向い,伊勢より奈

良・大坂・京都の社寺を巡り,中山道を帰路とする基本ルートが1747年の道中日記から見られるが,

「伊勢十西国巡礼ルート」と同様に1800年前後(1798年初出)を境として以後このルートに金比羅参

詣を加えたルートが圧倒的多数を占めるようになる.すなわち,道中日記からみると関東地方で

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は1800年前後から金比羅参詣が盛んになり,また金比羅参詣の延長線上で四国巡礼や安芸の宮島・岩

国の錦帯橋まで足を延ばす参話者も見られるようになった

このような江戸時代における伊勢参宮ルートの変化は,単に金比羅参詣の興隆のみではなく,関東

地方からの伊勢参宮者の増加を背景としたものであった換言すれば,関東地方における1800年前後

という時期は,社寺参詣が一部の富裕な文人気質の名主層の旅から,ルートの画一化とともにより大

衆化する移行期であったといえよう江戸時代の伊勢参宮は,多くの参宮者にとっては人生の節目に

行う行為であり,信仰心と,娯楽の要素を含めた見閣を広めるという目的が併存していたと理解され

る. 1800年前後の時期は,両面を合わせもつ社寺参詣の旅が,より信仰の旅からより娯楽の旅へと変

化してし 1く転換期であったのではなし 1かと考える.また北関東農村では農村荒廃が徐々に復興してい

く時期であり, このような時期に盛んになる伊勢参宮の意味も考えなければならない. この点は,個

別村落における伊勢参宮の実態把握が必要とされる

大衆化した社寺参詣の旅は,明治以i経の近代交通の発展により,復路における中山道の利用の減少,

それに替わって四日市-横浜開の蒸気船の利用や東海道線の汽車の乗り継ぎ利用にと変化した.すな

わち,これは伊勢神宮と主要な社寺のみを点で結ぶ社寺参詣の近代化であった. しかし近代交通機

関を利用しつつも,それ以前の画一化された伊勢参宮ルートを踏襲することによって社寺参詣が本来

内在していた巡回の旅は維持された

以上,本研究では道中日記をもとに伊勢参宮ルートの変遷を明らかにした.自ら解読した道中日記

以外は自治体史や研究論文に掲載されたものである.自治体史の編纂で道中日記が取り上げられるよ

うになり,ルート変遷の存在に気付いた.従来の研究で扱われた道中日記の点数と比較すれば,本研

究のそれは 5倍である. しかしそれとても,第 l図でわかるように,道中日記の現存点数の 3割に過

ぎない.本研究のルート変遷は妥当な結論と考えるが,量的に傾向を把握するためには今後さらに多

くの道中日記を収集しまた細部のルートについても検討を必要とするであろう.なお,ルートの選

択や変遷の理由については,今後の課題としたい.

付記

歴史人類学会第 3回大会(1982年)・歴史地理学会第29回大会(1986年)・交通史研究会例会 (1986年)にお

いて,それまでに収集した道中自記をもとに研究報告を行ってきた.御助言をいただきました先生方に厚く御

礼申し上げます.広範留にわたる所在調査を進めてきたので,多くの方々に御教示を仰ぎました.御教示いた

だいた道中日記は,注・参考文献で明記するよう努めましたとくに道中日記を研究史料とされている山本光

正先生・岩鼻通明先生・田中智彦先生・桜井邦夫先生には互いに情報交換をしていただきました.なお,製留

は筑波大学宮坂和人氏にお願いしました記して厚く謝意を申し上げます.

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1 )新城常三 (1982): r新稿社寺参詣の社会経済史的

研究j'.塙書房, 1276ページ.

2)前掲 1)1387p.

3 )西垣i清次 (1983):rお伊勢まいりJ岩波新書, 214p.

西垣i清次 (1984):近世伊勢信仰研究史の回顧と

展望.西垣i清次編 (1984): r伊勢信仰 E 近世J

雄山間, 335,...._,348.

4 )原田伴彦 (1983):r道中記の旅J芸9111J堂,248p.

5)相蘇一弘(1975):おかげ参りの実態に関する諸

問題について大阪市立博物館研究紀要 7, 1 ----44.

6)五十嵐富夫 (1984):江戸時代の道中記にあらわ

れた庶民の旅.群馬女子短期大学紀要11. 1 "-'10

五十嵐富夫(1986): r日本紀行文学の研究J 柏

書房, 173p.

7 )小松芳郎(1984):道中日記からみた伊勢への道

のり長野84-3, 36"-'40.

小松芳郎 (1986):道中記にみる伊勢参詣ー近世

後期から明治期を通してー.信濃38-10,703"-'720

8 )山本光正 (1984):史料紹介「金毘羅参詣道中日

記Jr国立歴史民俗博物館研究報告第 4集j, 55"-'

74.

山本光正 (1985):旅日記にみる近世の旅につい

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参詣者を中心として一. r国立歴史民俗博物館研究

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9 )桜井邦夫 (1986):近世における東北地方からの

旅.駒沢史学34,144"-'181.

10)岩鼻通明 (1986):r出現三山参詣道中記史料集科

学研究費成果報告書i 山形大学教養部, 20p

岩鼻通明 (1987a) :道中記にみる出羽三山参詣

の旅.歴史地理学139, 1"-'14.

岩鼻通明 (1987b):道中記にみる近世の出羽三

山登拝.東北生活文化論文集 6,4 "-'12.

11)田中智彦 (1987):愛宕越えと東国の巡礼者一酉

国巡礼路の復元一.人文地理39-6, 66"-'79.

田中智彦(1988a):石山より逆打と東国の巡礼

者一西国巡礼路の復元一.神戸大学紀要15, 1,...._,23.

田中智彦 (1988b):大坂廻りと東国の巡礼者一

西国巡礼路の復元一.歴史地理学142, 1 ----16.

12)圭室文雄 (1977):r伊勢道中日記」について.

茅ヶ崎市史研究 2,68----83.

13)飯自和子 (1984):伊勢参りと伊勢講ーその社会経

;主

245

済史的側面について一.我孫子市史研究8,51~83

14)滝沢 博 (1978):庶民の旅-r伊勢道中日記j

より一.多摩のあゆみ12,40~43.

15)青梅市教育委員会 (1974): r谷合氏見聞録J 青

梅市教育委員会(多摩郷土研究の会再版), 128p.

16)世田谷区教育委員会 (1984):r伊勢道中記史料J

世田谷区教育委員会, 250p.

17)前掲 8)山本光正 (1985)

18)前掲10)岩鼻通明 (1987a)

19)前掲11)田中智彦の一連の研究論文

20)前掲 9)

21)旅行案内書については,今井金吾ならびに矢守一

彦の研究等に詳しい.今井金吾 (1979):庶民の道.

山田宗践他編『道の文化J講談社, 140"-'196.

矢守一彦 (1987):読む旅,視る旅.週刊朝日百

科日本の歴史75,281 ~287.

22)前掲 2)

23)山田正雄(1961):近世における農民の伊勢参宮

について史学研究80,前掲 3)西垣 (1984),99

,...._,114

24)江戸では馬喰町の旅龍で宿泊する伊jが多い.馬u食

間]ーでは木賃銭でも宿泊ができた北見俊夫(1970)

『旅と交通の民俗J岩崎美術社, 49"-'50

25) 皇学館大学史料編纂所編 (1980~85): r神宮御前i

史料 16師職人名其他取調帳』内宮篇・外宮篇 3

皇学館大学出版部.

26)自治体史や研究論文に掲載された道中日記は,次

頁の「道中日記所収の参考文献」を参照されたい.

27)前掲 7)小松芳郎 (1986)

28)前掲 9)

29)小野寺淳 (1987):旅のモデルルート一道中日記

からー.週刊朝日百科日本の歴史75,274----279.

30)伊勢湾をめぐる伊勢へのルートは,熱田より海路

を桑名へ渡る七里の渡しルート,佐屋から桑名へ渡

る佐屋路ルート,村瀬の研究にある吉田(豊橋)よ

り海路を利用するルートがあった一覧表の道中日

記では,七里の渡しルートが 2伊jみられるが,その

{也は佐屋路ルートである.村瀬正章(1972):伊勢

参宮人輸送をめぐる出入.海事史研究19,48,..._,55.

佐屋路については,梶)11勇作(1984):江戸期の東

海道佐屋路と佐屋宿(前編).金沢大学文学部地理

学報告 1. 37"-'55. 梶)11勇作 (1985):江戸期の東

海道佐屋路と佐屋宿(後編).金沢大学文学部地理

Page 17: 道中日記にみる伊勢参宮ルートの変遷 : 関東地方 からの場合 · その他のタイトル Ptterns and Changes of Pilgrim Routes to Ise Shrine : A Study Based

246

学報告 2. 89-----96.

31)静陪県では1693年(元禄 6)の西国道中日記(本

研究の「伊勢十西国巡礼ルートj基本型)が紹介さ

れている 宮本勉 (1988):I佐藤善兵衛道中記」の

研究一元禄 6年,駿ナ!、i安倍君s7.k見色村庄屋の旅と意

識.地方史静岡16. 80-----126

32)刊0.4 埼玉県立文書館平山家文書

33)田中智彦二 (1987):西国巡礼と四菌遍路.週刊朝

日百科5本の歴史75. 276-----277.

34) No.19 茨城県結城郡八千代町仁江戸 高野伝家文

35) No.21 茨城県立歴史館 深作家文書

36) No.38 埼玉県立文書館林家文書

37)守屋毅編(1987):r金毘羅信仰J雄山間. 322p.

近藤喜博(1987): r金毘羅信仰研究J 塙書爵,

503p.

38) No.120 茨城県結城郡八千代町塩本 青木恒夫家

文書

39) No.161 茨城県結城郡八千代町新地 岩田良雄家

文書

40)小暮知清編 (1972):r伊勢参宮道中記J 相馬郷

土研究会. 26p.

41) No.2 茨城県つくば市栄 沼尻義郎家文書

42)三重県教育委員会編(1983):r大和街道・伊勢百IJ

街道・伊賀街道一歴史の道調査報告書J三重県教

育委員会. 159-----214

43)三重県教育委員会編 (1982):r初瀬街道・伊勢本

街道・和歌山街道一歴史の道調査報告書J三重県

教育委員会. 5 -----90.

44) No.26 埼玉県立文書館 田口家文書

45) No.82 東京都昭島市中神 西野秀一家文書(出立

地 日の出町羽益三)白川宗昭氏より御教示いただいた.

46) No.139 茨城県つくば市玉取 高田五兵衛家文書

47)自0.207 茨城県結城郡八千代IIIJ栗山 湯本文夫家

文書

48) No.212 茨城県猿島郡三和町東諸川 鈴木幸太郎

家文書

49)小野寺淳(1981)・伊勢参宮道中日記の分析.東

洋史論 2. 1 -----8

50) No.37 埼玉県立文書館加藤家文書(加藤家文書

には, この他Nn12 Nn101 Nn174 Nn190の道中日

記がある.)

51) No.239 茨城県猿島郡三和町東諸)11 鈴木幸太郎

家文書

52)前掲13)

53) No.257 東京都青梅市街i獄 片柳家文書(大漬徹

世先生より御教示いただいた)著者の片柳鯉之助

は御議神社の御邸で, 日清戦争従軍の後. 32裁で伊

勢参宮を行った大漬徹也(1972):戦場の声一片

柳鰹之助の『遠征日誌』について一.中京法学72.

23"'60.

54) No.269 茨城県結城郡八千代町栗山 飯間武義家

文書

道中自記所収の参考文献(カッコ内道中日記番号)

1 )阿見町史編さん委員会(1980):r!可見町史編さん 石昭市. 653'""659. (No.127 小野寺淳執筆)

史料集(4)近世農民の生活J.茨城県何見町. 114-----142. 7 )岩槻市史編纂委員会(1982): r岩槻市史 近世史

(No.179) 料編W 地方史料 CF)J].岩槻市. 905-----1077. (No.

2 )安房先賢偉人顕彰会編 (1939): r安房先賢遺著全 91 Nn148 Nn164)

集J 安房先賢偉人顕彰会. 752-----755. (No.27) 8 )青梅市教育委員会(1974): r谷合氏見開録J 青

3 )飯臼和子(1984):伊勢参りと伊勢講ーその社会 梅市教育委員会(多摩郷土研究の会再版). 128p.

経済史的側面について一.我孫子市史研究 8. 51----- (No.29 No.64 No.75 No.159)

83. (No.218 No.240) 9 )大田原市史編集委員会(1975): r大田原市史 前

4 )五十嵐富夫(1984):江戸時代の道中記にあらわ 編J大田原市. 580-----594. (道中日記が掲載されて

れた庶民の旅.群馬女子短期大学紀要11. 1 '""10. いるが,年号不詳のため割愛した)

(Nn60 Nn123 Nn130 Nn168) 10)大友農夫寿 (1977):伊勢参宮道中日記.群馬歴

5 )池田村史編纂委員会 (1964): r池田村史J 群馬 史散歩21. 48"'52. 大友農夫寿 (1977):伊勢参宮

県池田村. 600'"'-'611. (No.140 No.169) 道中日記.群馬歴史散歩22. 38'"'-'41. (No.131)

6 )石岡市史編さん委員会(1985):r石岡市史 下巻Jl. 11)大宮町史編纂委員会(1980): r大宮町史 史料集J

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247

茨城県大宮H江 162~167. (No.100) 29)鈴村 茂 (1975):伊勢参宮道中日記の分析.県

12)邑楽町史編纂委員会 (1983): r邑楽町誌 上J). 央史談13, 1 ~ 13. (No.180 No.236)

群馬県邑楽町, 886~889. (No.98) 30)世田谷区教育委員会 (1984): r伊勢道中記史料J).

13)小川町史編さん委員会 (1982): r小川町史上巻J 世田谷区教育委員会, 250p. (No.39 No.43 No.83

茨城県小川町, 478~49 1. (No.142) No.87 No.96 No.111 No.229)

14)小沢正弘 (1971):近世後期一農民の社寺参詣- 31)袖ヶ浦町史編纂委員会 (1983):作由ヶ浦町史 史

上一.埼玉史談, 18-2, 10~16. 小沢正弘 (1971) : 料編llJ].千葉県袖ヶ浦町, 286~304. (No.85)

近世後期ー農民の社寺参詣-下一.埼玉史談, 18-3, 32)大子町史編さん委員会(1986): r大子町史料別冊

10"-'17. (No.40 No.56) 9 西国j頓樟道中記J 茨城県大子町, 124p. (No.

15)加須市史編纂委員会 (1984):向日須市史 資料編 48)

IJ].加須市, 955"--'1006. (No.94) 33)圭室文雄(1977):1"伊勢道中日記Jについて茅ヶ

16)金井好道 (1978): r栗原JI頃庵伊勢金比羅参宮日 崎市史研究 2,68~83. (No.176)

記J.金井好道(伊勢崎市), 94p. (No.132) 34)茅ヶ崎市史編纂委員会 (1977): r茅ヶ崎市史 第

17) )11名 登 (1986):海上町に残る「西国道中日記J. 1巻J.茅ヶ崎市, 568~589. (No.181)

海上町史研究25,33.._,65. (No. 1 ) 35)土浦市史編纂委員会(1988): r土浦市史資料 第

18) JII名 登 (1989):史料紹介庶民の旅.海上町 l集伊勢道中日記史料J 土浦市教育委員会, 101

史研究29,39~102. (No.146 No.157) p. (No.42 No.112)

19)甘楽町史編纂委員会 (1979): r甘楽町史J].群馬 36)流山市史編纂委員会 (1975):ri流山市史料集 第

県甘楽町, 470"--'474. (No.114) 6集Jl.流山市, 134~14 1. (恥144)

20)鋸南町史編纂委員会 (1969):r鋸南町史J].千葉 37)原田伴彦 (1983):r道中記の旅J].芸州i堂, 224~

県鋸南町, p526. (No.80) 237. (No.107)

21)熊田 一 (1980):近世農民の伊勢参宮.鹿沼史 38)福田分次 (1981):r伊勢西国道中記J.福田分次

林19,22~35. (No.167) (今市市), 34p. (No.113 No.202)

22)国分寺市史編集委員会 (1983): r国分寺市史料集 39)藤沢市史編纂委員会(1973):r藤沢市史 第 2巻J.

lliJ].国分寺市, 297"--'303. (No.95) 藤沢市, 986~995. (No.102) 向 (1974): r藤沢市

23)小林徳司 (1972):大宮町の講.茨城の民俗11, 史第5巻J].藤沢市, 671 ~68 1. (No.68)

53~6 1. (No.100) 40)藤原町文化財保護委員会 (1969): r神路山詣道中

24)古文書を探る会(1981):江戸時代の庶民の旅一 記JJ.藤原町文化財保護委員会, 52p. (恥122)

八王子鈴木佐平次道中日記一.吉文書を探る会, 70 41)松戸市誌編さん委員会(1971): r松戸市史 史

p. (No.ll No.20 No.65 No. 71 No.124)内田公彦・ 料編(1)J].松戸市, 766.._,816. (No.49 No.97)

光石知恵子両氏に御教示いただいた 42)村上義彦 (1976):参宮日記から見た近代の伊勢

25)佐野弥太郎 (1973):伊勢参宮道中日記県央史 参り埼玉県立博物館紀要 2,14~24. (No.156 関o.

談11, 9 ~ 13. (No.175) 244)

26)塩原町誌編纂委員会(1980):r塩原町誌、J 栃木 43)森 豊 (1984):伊勢道中記.鹿沼史林23,39"--'

県塩原町, 468~498. (持0.121 No.l72) 52. (前掲38)の道中日記を紹介).

27)清水 利 (1961):伊勢道中日記.多摩郷土研究 44)谷田部町教育委員会編(1983): r大藤家文書目録JJ.

29, 40--59. (No.64) 茨城県谷田部町, 98--102. (No.155 小野寺淳執筆〉

28)上郊村誌編纂委員会 (1976):r上郊村誌J].群馬 45)湯津上村誌編さん委員会 (1979):r湯津上村誌J].

県上郊村, 400"--'405. (No.237) 栃木県湯津上村, 217--242. (No.58)

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Patterns and Changes of Pilgrim Routes to Ise Shrine :

A Study Based on Travelers' Records Left in the Kanto District

Atsushi ONODERA

The purpose of this paper is to identify the patterns and their changes of the pilgrim

route to the shrines, temples, and historical sites. This paper is based on the comparison

of 81 travelers' records, which existences were confirmed. There are the largest number

(269) of the records in the Kanto district. While the period covers 234 years from 1706 to

1939, the majority of records were written in the 1840s and 1850s. Therefore, this paper

focuses its analysis on the routes from the Kanto district in modern times. Main findings

of this paper is summarized as follows :

Some route patterns for Kanto pilgrims are identified. All pilgrims visited Ise shrine,

even if their final destination were Saigoku or Shikoku. The pilgrim route patterns are

categorized into two types.

One type is named “Ise+Saigoku pilgrim route". According to a record in 1706, the

pilgrims went to Ise through Tokaido, made a tour of Sankannon sacred places and

returned to Kanto through Nakasendo.

The other type is termed “Ise pilgrim model route". According to a record in 1747,

the pilgrims went to Ise through Tokaido, made a tour of shrines and temples in Osaka,

Nara and Kyoto and returned to Kanto through Nakasendo.

New routes including Konpira shrine pilgrimage became popular in both type at the

turn of the 18th century. Some pilgrims visited Shikoku, Miyajima and Iwakuni in Aki on

the way to Konpira.

It seems that the change of the pilgrim route resulted not only from a rise of Konpira

pilgrim but also from the change of trm叫 ers' consciousness toward the pilgrimage.

Forゴnerlyfor Kanto pilgrims Ise pilgrimage was both for a life observance connected with

their faith and for amusement through seeing more of the world. The author estimates

that around 1800 the pilgrimage mainly for religious purpose had changed into that more

for amusement. At the same time, the pilgrimage began to attract even lower-upper

class.

Even after the development of such transportation systems as railway and steamship

after the Meiji Era, people maintained the traditional pilgrimage patterns, in which

people visited several shrines and temples on their way.

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IsJ・村

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八王子水戸碓氷宇都宮多野入間北葛飾鴨 )11鎌倉青梅横須資行方向内河内那須利根

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横浜入間海上

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富岡吾妻那須鹿沼

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臼中伊勢参宮道

西国道中記

道中日記(伊勢参宮)

西国道中記

西国JI綜し道中細記

伊勢西国道中記

西国道中記

伊勢西富田国道中宿名所間万覚

(西国!頃礼旅日記)

伊勢道中記

(伊勢参宮小選帳)

道中日記

伊勢西国泊り帳伊勢参宮道中記

西国道中日記帳道中記

西国道中万覚棋

西国道中記

伊勢参宮道中記

西国道中記

道中日記(四国巡礼〉

西国道中記道中日記

西国秩父坂東道中記

道中日記帳

道中日記帳(伊勢参宮道中記)

伊勢参宮西国巡礼道中記抄

道中日記覚帳道中日記(西国)

伊勢参宮西国諸方道中記

(伊勢参宮買物代控井道中小遣覚〉

伊勢参宮道中記

伊勢参宮道中泊附帳

伊勢道中記

秋葉講伊勢講道中日記

伊勢参宮銭万覚帳

伊勢道中日記(四国巡礼)

伊勢西国美知の記

道中参所附名所日記帳

道中日記覚帳伊勢道中日記

名所古跡参詣覚帳

道中名所日記附

道中日記帳

西国道中記道中記

西国順礼道中記

西国道中日記帳道中記

道中万覚棋

伊勢参り覚帳道中諸日記(伊勢・京・金沢・善光寺)

道中記

道中日記覚

西国道中日記

伊勢参宮道中日記伊勢熊野金毘羅道中記

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250

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埼玉茨城

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埼玉栃木

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道中日記帳

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参宮日記帳

伊勢道中日記帳

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伊勢参宮日記

参宮道中記

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西国l郎し道中記

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伊勢参宮日記

西宮道中日記帳

伊勢参宮道中記(西圏)道中日記

伊勢道中記

伊勢道中日記

太々講参宮道中日記帳

道中日記帳

伊勢参宮道中日記

伊勢道中記

道中日記

道中入用覚

伊勢参宮覚書

道中日記

伊勢西国道中日記帳

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伊勢道中日記帳

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251

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日伊勢参宮道中

名 称

伊勢道中夫より金毘羅道中日記控帳

伊勢参宮道中附

京大阪旅記

伊勢参宮道中自記

伊勢詣り道中記

神路山詣道中記

伊勢・西国道中記

道中日記帳

伊勢道中記

道中日記覚帳

伊勢両宮金毘羅大和諸社道中案内

(大神宮井金毘羅参詣)

伊勢西国道中日記

伊勢参宮西国三十三番道中控帳

道中日記帳

伊勢金毘羅参宮白記

道中日記

伊勢参宮金毘羅道中記

伊勢参宮金毘羅道中記

参宮日記帳

道中記

伊勢道中記

伊勢参宮道中案内記

伊勢太神宮金毘羅大権現道中日記

伊勢道中覚帳

伊勢太々金毘羅道中記

西国11協し道覚帳伊勢参宮道中日記帳

道中日記

伊勢参宮道中日記帳(西国巡礼〉

道中誌

四国八拾八ヶ所日記帳

道中泊り控帳

伊勢参宮板東百番11頃礼道中日記flft控道中日記覚帳

参宮金毘羅道中日記

道中記

道中自記帳

道中日記帳

(伊勢・西国・四国道中日記〉

西国道中自記事長

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道中日記帳

参宮道中入用i嬢伊勢道中日記帳伊勢道中記

伊勢参宮道中記

道中日記手控伊勢参宮日記

伊勢・京等道中記

伊勢参宮道中日記帳

伊勢道中日記

参宮道中日記

道中日記

伊勢道中万覚帳伊勢参宮道中記

伊勢帰り道中日記帳伊勢讃岐紀州、i芸州道中記

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252

町・村

田沼月夜野

阿見

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伊奈

高山旭区

塩谷

南河内

上河内長野原

八千代総和嬬恋群馬愛川三和明野湯津上

畑区旭区

南那須塩原

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吾西

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日中伊勢参宮道

称名

伊勢参宮道中日記帳

伊勢道中日記

道中日記

伊勢参宮日記覚事長

道中日記帳

伊勢道中万覚帳

伊勢道中日記

伊勢ヨリ金毘羅迄道中記

伊勢参宮道中手控帳

道中日記帳

伊勢道中小遣帳

道中日記帳

参宮道中記

道中日記泊帳

道中日記帳

伊勢参宮道中記

伊勢熊野西国三十三所道中万日記

伊勢道中記

伊勢道中日記覚帳

上方旅行道中記

参宮道中誌

道中誌

道中日記帳

記(伊勢参宮記録)

伊勢道中日用帳

伊勢西国道中誌

道中日記帳

(伊勢西富道中記)

伊勢参宮道中記

道中日誌

伊勢参宮道中記

道中日記宿料帳

道中日誌

伊勢参宮日記

道中日記

伊勢参宮金毘羅道中記

伊勢参詣日記帳

伊勢道中日記

道中記

伊勢参詣諸神懸道中記

伊勢参詣道中休泊控簿

伊勢参宮道中記

伊勢参宮道中記

覇旅護筆

道中日誌

伊勢参宮道中日誌

道中記

伊勢道中入費記

伊勢道中記

伊勢参宮日記帳

参宮道中記

伊勢参宮日記簿

伊勢参宮道中日記帳

道中日記帳

道中万覚帳

伊勢参宮道中記

伊勢神宮道中日誌

伊勢参宮道中日記

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253

HlJ .村

平日

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i玄野

海上

鶴見区

上三)11

区見

上上

南那須

幸明

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坂戸

猿島

那須

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鹿沼猿島我孫子

坂戸

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水戸

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横浜

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坂戸

習志野

習志野

鹿沼青梅行方

横浜

坂戸

海上

水海道

海上

海上柏

那須

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海上

結城

都一埼茨栃神群栃茨千埼神茨埼千茨千神栃栃千千埼千千栃東茨神埼千茨千千千栃埼千茨

表監均

月一

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日中伊勢参宮道

道中休泊日誌

伊勢参宮日記

伊勢参宮道中記

伊勢参宮所々参詣道中日記控帳

(道中記)

伊勢道中記

伊勢参宮道中記

道中日記帳

旅中の日誌

伊勢参詣諸国神社仏関名所)1頃路日記

伊勢参宮並関西筋遊歩記

参宮日記費用相簿

道中録(伊勢参宮)

伊勢道中日記

伊勢参詣金平宮道中記

参宮道中日記

伊勢参宮金毘羅道中宿泊簿

道中日記

伊勢道中記

西国道中記

旅中箔泊之覚

参宮道中日記帳

伊勢参列道中日記帳

伊勢道中記

伊勢参宮祝儀之控(臼記)

参宮旅行日誌

伊勢参詣道中日記

旅中日記

西国参詣道中記

道中日記

西国三十三ヶ所参詣道中記

西国参詣道中記

伊勢参宮道中日記

伊勢参宮道中日記帳

伊勢参宮記

伊勢神宮・高野山拝礼道中宿泊簿

伊勢参宮日記帳

称C

*

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*

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No.

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海上

八千代*

注1) *印は管見の道中日記を示す.

注2)月は出立月を示し, 。は未見または不明である. なお. 1872年以後は新麿である.

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「週刊朝日百科日本の歴史75Jより許可を得て転載