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明治・大正期の日本における 西洋の心理学の受容と展開 菅野 幸恵 キーワード:心理学、輸入学問、客観性、科学性 Keywords: Psychology,Science imported from abroad,Objectivity,Science はじめに 近代心理学は、1879年にヴントがライプチヒ大学に心理学実験室を開設したときに成立 したとされる。日本では、西洋における近代心理学の成立にあまり遅れることなく心理 学が根づいた。現在ではアメリカに次ぐ心理学者を数えるに至っており、心理学を専攻 できる大学や大学院の数も増えている。 本稿では、日本において、西洋の心理学がどのように受容され、その後どのように展開 していったのかについて検討する。日本における心理学の歴史については、すでに佐藤達 哉・溝口元編『通史 日本の心理学』で概観されているが、本論では、明治期における受 容のありようと、その後大正期までの間にどのように展開していったのか、とくに教育分 野における発展(応用)に焦点を当てていくこととする。 1.受容以前の状況 心理学は、真正の輸入学問であるといえる。その意味で心理学受容以前、明治期以前の 日本に近代心理学を生み出したり、呼び水になるような考え方があったとはいいがた く、蘭学や洋学の受容は医学・自然科学の分野が先行し、日本において思想や社会科学 の重要性が認識されるのは幕末になってからであるといわれる。しかし、維新前に思想や

明治・大正期の日本における 西洋の心理学の受容と展開...は「pneumatica(現在のpneumatology霊物学))の訳として「心学」が与えられてい

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  • 明治・大正期の日本における

    西洋の心理学の受容と展開

    菅野 幸恵

    キーワード:心理学、輸入学問、客観性、科学性

    Keywords:Psychology,Science imported from abroad,Objectivity,Science

    はじめに

    近代心理学は、1879年にヴントがライプチヒ大学に心理学実験室を開設したときに成立

    したとされる 。日本では、西洋における近代心理学の成立にあまり遅れることなく心理

    学が根づいた。現在ではアメリカに次ぐ心理学者を数えるに至っており 、心理学を専攻

    できる大学や大学院の数も増えている。

    本稿では、日本において、西洋の心理学がどのように受容され、その後どのように展開

    していったのかについて検討する。日本における心理学の歴史については、すでに佐藤達

    哉・溝口元編『通史 日本の心理学』で概観されているが、本論では、明治期における受

    容のありようと、その後大正期までの間にどのように展開していったのか、とくに教育分

    野における発展(応用)に焦点を当てていくこととする。

    1.受容以前の状況

    心理学は、真正の輸入学問であるといえる。その意味で心理学受容以前、明治期以前の

    日本に近代心理学を生み出したり、呼び水になるような考え方があったとはいいがた

    く 、蘭学や洋学の受容は医学・自然科学の分野が先行し、日本において思想や社会科学

    の重要性が認識されるのは幕末になってからであるといわれる。しかし、維新前に思想や

    ― ―

  • 社会科学・人文科学がまったくはいっていなかったわけではない。ここでは、幕末期まで

    の(近代心理学受容以前の)心理学的概念や考えの浸透について述べる。

    近代心理学の手法や考えは維新後一気に輸入されたのではなく、維新前の医学書や自然

    科学書や辞書類にはすでに心理学的な用語が現れ、ヨーロッパに留学した学者によって当

    時の心理学的知識も持ち込まれていた。例えば、1822年に刊行された「新修蘭日辞典」に

    は「pneumatica(現在のpneumatology霊物学))の訳として「心学」が与えられてい

    る 。1856年に出版された自然科学書・物理学書「理学提要」には、自然科学が人間と交

    渉をもつとき「シイルキュンデ(zielkunde=psychology=心理学)なる者」や「ヒロソ

    ヒー(philosophy=哲学)なる者」を先務とするという記述がある 。また江戸幕府にお

    ける洋学研究の最高機関、洋書調所によって刊行された「英和対訳袖珍辞書」(1862年)

    には“psychologist”の訳として「精心ヲ論ズル人」、“psychology”の訳として「精心ヲ

    論ズル学」が与えられている 。

    日本に体系的な心理学の知識をはじめて持ち込んだのは、西周(1829-97)であるとさ

    れている。西は国際法や経済学を学ぶためにオランダに留学し、そこで当時の西洋の哲学

    に触れ心理学にも理解を深めたと当時の記録から考えられている 。帰国後、西は、維新

    後の新政府に登用されて、文明開化政策の一翼を担い、後に開いた私塾で心理学の講義を

    した 。そして、1875(明治8)年、ジョセフ・ヘブンの書いた“Mental Philosophy In-

    cluding Intellect,Sensibilities,and Will”を翻訳し「心理学」を刊行する(タイトルには

    “psychology”ということばは入っていない)。西の翻訳した「心理学」は短期間の間に多

    数の民間本が出回り、多くの人々に読まれたという 。西は用語に対して慎重であり、「心

    理学」においてもむやみに既存の日本語を使わず、多くの訳語を作った。日本で使用され

    ている心理学用語の基本的な部分は、西のこの訳書によって成立したといわれる 。ただ

    西自身は“psychology”の訳に「性理学」をあてており、東洋の学問体系で理解しようと

    していたことが伺える(訳語として“心理学”ということばが定着するのは1887(明治

    20)年ごろである )。さらに、西の留学した頃はまだ西欧においても心理学は哲学から独

    立しておらず、ヴント以降の近代心理学とは趣を異にするものであったので、西によって

    日本に近代心理学がもたらされたとはいえない。しかし、近代心理学の成立以前から心理

    学の理解と受容が行われ始めていたということは日本の心理学史を考える上で重要な事実

    である。

    2.受容の時期

    1)学問としての専門化

    近代心理学の成立が、ヴントによる心理学実験室の開設とされるなら、日本において近

    代心理学が成立したのは、東京帝国大学に心理学実験室が成立した1903年であるといえ

    る。ここでは、日本における西洋の心理学の受容に関して重要な役割を果たした、元良勇

    ― ―

  • 次郎と松本亦太郎の功績を中心に受容期の心理学について述べていく。

    大学教育におけるいわゆる教養科目としての心理学は比較的早くから教えられていた

    (後述)が、専門教育科目として心理学が成り立つのは、1893(明治26)年、帝国大学文

    科大学に心理学に関する講座(単独ではなく「心理学、倫理学、論理学」という講座)が

    導入されたのがはじまりである。その担当教授が、日本で最初に心理学研究者として自立

    した元良勇次郎(1858-1912)である。元良は16歳で洗礼を受け、キリスト教徒としての

    感情を生涯持ち続けた 。同志社大学で学んだ後、上京し、東京英和学校(後の青山学院

    大学)の創立に関わった (当時元良は杉田姓で数学教師として名を連ねている)。

    1883(明治16)年から1888年までアメリカに留学し、スタンレー・ホールに心理学を学ん

    だ。ホールはアメリカ人としてはじめて、ヴントのもとで研究し、アメリカに心理学と銘

    打った実験室をはじめて作った人物である。元良は帰国後再び東京英和学校で教鞭をと

    り、1889(明治22)年からは帝国大学にて「精神物理学」を担当し、1890年には日本人に

    よる初のオリジナル著書「心理学」を刊行した。その後1890年に帝国大学の教授に就任

    し、1893年の講座開設を経て、1903年には日本最初の心理学実験室を設立した。

    元良が日本に紹介した心理学は実験心理学的内容が中心であったが、彼は児童教育にも

    強い関心をよせていた。児童心理の研究のために、玩具を収集したり、日本児童学会の前

    身ともいうべき教育研究会を発足させた 。さらに障害児教育にも取り組み、伊沢修二の

    「鈍児(ママ)教育の研究会」に名を連ね、現場の教師たちに指導を行った。伊沢は東京

    師範学校に心理学を導入し、吃音矯正教育にも力を注いでいた人物である(後述) 。元良

    は当時の小学校で問題になっていた低脳児(ママ)について、伊沢と共に自身の考案した

    機器を用いて訓練を行った。元良は彼らの身体活動を抑えれば精神活動を活発にし学習効

    果が上がると考え、注意力の養成を目的とした訓練を行う実践に取り組んだ。このような

    実践を経て、元良は「低脳児」は治るのだから、低脳という語は使わないほうがいいと考

    えて「遅性児」という名称を提唱した 。訓練することによって症状を改善するというこ

    とは障害児の教育において一定の評価があるかもしれないが、発達という概念と尺度を導

    入することは、障害児と健常児を一元的に序列化してしまうことにもなっただろう。

    元良とともに、日本の心理学において指導的役割を果たしたのが、松本亦太郎

    (1865-1943)である。松本は、元良のもとで心理学を学び、アメリカに留学後、ライプチ

    ヒ大学のヴントのもとへ留学する。彼は留学中さまざまな欧米の大学の心理学実験室を訪

    れており、その経験を後に日本で心理学実験室を創立する際に役立てた 。帰国後、東京

    師範学校などで教鞭をとって後、1906年京都帝国大学文科大学の心理学講座に教授として

    就任する。日本最初の心理学講座(単独)である同講座は、心理学の補助科目として生理

    学、精神病学、人類学、高等数学、生物学などの講義も聴講できるようになっており、学

    際的な心理学を目指していたことがうかがえる。1912年に元良が亡くなると、東京帝国大

    学の教授となる。松本は後進の教育にも力を注ぎ、教えを受けた弟子たちは多方面に実験

    心理学の応用分野を開拓する役割を果たした。とくに教育学との関わりは深く、弟子のひ

    ― ―

  • とり、野上俊夫は「モンテッソーリ教育」を日本にはじめて紹介した人物である 。松本

    の場合、人間の知能への関心が弟子たちに引き継がれていったことが特徴である。主著

    「知能心理学」(1925)のなかで、彼は、心理学の対象は精神身体的な存在である人間であ

    り、科学的考察を行う場合には知能を扱うことが重要であると述べている。こうした志向

    が、田中寛一らによる知能検査や産業能率研究などの成果を生み出したといえる 。さら

    に松本は女子教育にも力を注ぎ、女子教育への風当たりが強くなった明治期後半において

    も、女子教育の意義を説き、同志社女子大学(同志社女学校専門部)の設立準備にも関

    わった。日本女性としてはじめてアメリカで博士号をとった新井鶴子も日本女子大で松本

    の教えを受けた一人である 。

    2)教育

    心理学のように新しい学問が発展していく背景には、高等教育機関の果たす役割は見逃

    せない。新しい学制を採用した明治時代に、教育機関で心理学はどのように教えられてき

    たのだろうか。

    ①帝国大学

    科目としての「心理学」のはじまりは、日本にはじめての心理学実験室ができる1903年

    から30年前の、1873年(明治6年)東京開成学校のカリキュラムにさかのぼることができ

    る 。1877年東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学ができると、文学部の史学、

    哲学及政治学科において「心理学」が教えられるようになった。心理学が文学部で教えら

    れるようになった最初のカリキュラムである 。1886(明治19)年に帝国大学時代に改称

    されてからは、哲学科の授業のなかで「心理学」の授業が設けられ、1893(明治26)年に

    単独ではないが「心理学、倫理学、論理学」の講座ができるにいたった。東京帝国大学で

    初の心理学専修生が卒業したのが1905年、京都帝国大学では、東京大学に先んじて1906年

    単独の心理学講座ができた。

    ②師範学校

    国内初の官立師範学校が設立されたのは1872年であったが、師範学校で「心理学」が教

    科として加わったのは、1877(明治10)年に東京師範学校における学則変更の際であっ

    た。「心理学」は2年次の必修科目で、英書の教科書が使われた。さらに1879年にはカリ

    キュラムの改革が行われ、週5時間におよぶ心理学の講義(教職課目中もっとも多い時間

    数)が行われることになった。これは、アメリカの師範学校にもまだ心理学を独立の教職

    専門科目として教えるカリキュラムがなかったことを考えると、かなり画期的なことであ

    る 。カリキュラム改革に関わった伊沢修二、高嶺秀夫が心理学を基礎に教育を論じる

    ジョホノットの教育学に強く影響を受けており、そのためこのような改革が行われたこと

    が考えられる 。ジョホノットは心理学をQueen of the Scienciesととらえ、教授方法に

    とって不可欠の土台となるべきものであるはずなのに、実際の教授は形式的であると批判

    した 。彼は、授業は子どもの発達に合わせて行うべきだとされながら、実際には「子ど

    ― ―

  • ものどんなFaculties of mind」を開発したのか、それはどのような心理学則に基づいてい

    るのか吟味されておらず、教授法は原理認識を欠いた「一種ノ模倣的ノ術」となっている

    と指摘したのである。留学先の師範学校でジョホノットと同様の認識をもった高嶺は、

    「子どもの精神の発達自体の追及」のため心理学をおいたのではないかと考えられる。

    1881年に各府県にも師範学校が置かれるようになり、「心理学」も設けられていたが、

    当時はまだ心理学自体がよく知られていない時代であったので、東京師範学校では教授法

    改良を目的として、各府県から師範学科取調員を募集し、1年の間教育学、心理学、学校

    管理法などを習得させた。この研修によって全国的に心理学が広まることになったと考え

    られる 。また19世紀中だけでも20冊弱の教育心理学関連書が発行されており、これらは

    各府県の師範学校で使用されたことが伺える 。

    東京師範学校では1886年のカリキュラム改正によって学科目から心理学がなくなる。し

    かし心理学を教える教員の名前があることから、心理学がまったくなくなったのではな

    く、教育学や他の科目に併合された扱いとなったことが考えられる 。そして、1900(明

    治33)年、学則の改定によって、ふたたび心理学の科目が復活する。そのなかには、「児

    童研究」や「実験心理学」という科目名もあった。実験心理学という科目を設けたことに

    関して、当時の校長伊沢修二は「教育学はどんな突飛な説でも可能だが実験して証拠立て

    していくことも必要だ」と述べている 。1890(明治23)年に独立した女子高等師範学校、

    1902(明治41)年に設置された広島高等師範学校でも心理学が教えられた。

    一時期、科目として「心理学」がみられなくなったものの、実質的には教えられていた

    ことを考えると明治期の師範学校、つまり教員養成課程において「心理学」が重視されて

    いたことは非常に興味深い。

    ③私立学校

    私立学校では慶應義塾、東京専門学校(早稲田大学)、同志社英学校(同志社大学)な

    どで心理学の講義が行われていた。青山学院大学の前身、東京英和学校でも、開学当初か

    ら心理学が教えられていた。また女子学校では、女子英学塾(津田塾大学)、日本女子大

    学校(日本女子大学)で心理学が教えられていた 。

    このように、高等教育機関である大学およびそれに準じた学校では心理学がかなり早い

    時期から共通科目として教えられていた。

    3)明治期の学術会のようす

    心理学が輸入された明治時代においては、心理学専門の雑誌はなく、総合学術雑誌が研

    究発表の場として利用された。とくにキリスト教主義の総合雑誌「六合雑誌」は、心理学

    研究の紹介・発表の場として大きな役割を担った 。アメリカから帰ってきた元良勇次郎

    も「米国心理学ノ近況」(第93号;1888年)という論文を掲載している。その後、松本亦

    太郎などによる本格的な実験心理学の論考が寄せられるようになる。第160号では、現在

    のアメリカ心理学会の機関紙「Psychological Review」の創刊を報じ、アメリカ、イギ

    ― ―

  • リス、ドイツ、フランス、イタリア各国の研究動向などを紹介している。日本の心理学に

    とって重要な論考を掲載した「六合雑誌」は、1897(明治30)年頃からは、社会主義に関

    する論説が主となり、心理学を扱う記事はほとんどみられなくなった 。そのほか「哲学

    会雑誌」(のちの「哲学雑誌」)や「神経学雑誌」(のちの「精神神経学雑誌」)にも心理学

    に関する論文などが掲載された。

    1898年に発刊された日本発の児童研究の専門雑誌「児童研究」(1903年から日本児童研

    究会、現日本児童学会、の機関紙となる)には、元良勇次郎ら多くの心理学者が関わっ

    た。「児童研究」は読者層が文学博士から一般児童の父母までと幅広く、心理学のみなら

    ず、教育学、教育病理学、特殊教育学、学校衛生、生理学、小児科学などさまざまな分野

    の論文が掲載され、研究者の論文に対する読者の質問や意見が載せられたりと、誌上で活

    発な議論が繰り広げられた。「児童研究」は市井の人々に心理学者が働きかける活動を支

    えた雑誌であるといえる 。

    4)心理学黎明期の特徴

    日本の心理学は、元良や松本など海外で留学した人々が指導的役割を果たし、海外から

    の知識や技術の導入によって成立した。しかし、ほかの学問領域に比べて外国人教師の影

    響がほとんどみられないことが特徴で 、その理由としては、明治維新後の新政府が、心

    理学に直接注目しなかったことが考えられる。心理学の名目で外国人の雇用はなかった

    し、出発時から「心理学」を目的にした国費留学は1901(明治34)年の塚原政次が最初で

    ある 。

    また直接に心理学を学ぶのではなく、教育を経由して心理学を学ぶ者も多いことも特徴

    のひとつである。ドイツに留学した教育学者たちはヴントの授業にも出席し、帰国後は心

    理学に関心を示し、その発展に寄与することも多かったという 。師範学校で「心理学」

    が重視されていたこと、塚原の大学院での研究題目が「児童心理」であったことなども併

    せて考えると、黎明期において教育の領域で心理学が重視されていたことがわかる。それ

    では大正にかけて心理学はどのように発展していったのだろうか。おもに教育分野での発

    展に注目してみていく。

    3.心理学の自立と展開

    1)専門雑誌の創刊と大学における専門教育の拡大

    明治時代に受容された心理学は、明治の終わりから大正、昭和の初期にかけて、専門雑

    誌の創刊や学会の創立など着実に発展を遂げ、また大学での専門教育も徐々に拡大して

    いった。

    日本初の心理学専門雑誌は1912(明治45年)に創刊された「心理研究」である。この雑

    誌は、心理学一般の啓蒙のためにつくられた「心理学通俗講和会」の内容をまとめた「心

    ― ―

  • 理学通俗講和」が前身となっていたため、一般的な通俗誌の側面も兼ね備えていた。

    1919(大正8)年には「日本心理学雑誌」も誕生し、それまで哲学や神経学の雑誌に寄せ

    られていた心理学の論文を心理学を専門とする雑誌に投稿する機会がうまれた 。その後

    両雑誌は経済難や編集作業の忙しさから一本化され、1926(大正15)年に創刊された「心

    理学研究」がその歴史を引き継ぐことになる 。また1927(昭和2)年には第一回日本心

    理学大会が東京帝国大学において開催され、日本初の全国的な心理学者の学術組織である

    日本心理学会が発足し、「心理学研究」は学会の正式な機関紙となった 。

    専門分野として心理学が確立されていくのと時を同じくして、大学における専門教育も

    拡大していった。当時は、留学先の心理学研究室で経験を積んだ研究者が、帰国後に心理

    学研究室を開設するというケースが多かった。帝国大学では、東京帝国大学、京都帝国大

    学に引き続き、東北帝国大学(1922(大正11)年)、九州帝国大学(1924(大正13)年)

    に心理学講座が設けられた。私立大学では、1926年に慶應義塾大学に心理学実験室がはじ

    めて完成した。次いで、法政大学(1924(大正13)年)、日本大学(1924(大正13)年)、

    早稲田大学(1932(昭和7)年)、にも心理学講座が開設され、キリスト教系の大学では、

    同志社大学(1927年)、立教大学(1927年)、関西学院大学(1934年)に心理学講座ができ

    た 。

    2)教育場面における心理学の応用的研究

    ①「個性」の尊重

    専門雑誌の刊行、学会の設立、高等教育機関での専門教育の拡大と、質量ともに着実に

    発展を遂げた心理学は、応用的研究によって社会との接点をもとうとした。

    心理学が新しい役割を模索していたちょうどその頃、教育の場面では「奇妙なほど個性

    ということばが氾濫していた」 。「個性」ということばは、もともと日本語にはなく、

    “Individuality”や“Individuaritat”の訳語として明治維新後に登場したと考えられてい

    る 。血縁、地縁から離脱した個人が、産業社会と市場社会において差異化され、民主主

    義の成熟を基盤とした新しい共同体へと同一化しようとする「個性化」の運動は「近代

    化」の運動そのものであり 、デモクラシーの発達とともに登場した 。

    ここでは「個性尊重」の風潮と心理学研究とのかかわりについて述べる。

    教育雑誌において「個性」ということばがはじめに登場したのは1890年代である。1900

    年代に入ると「個性」をタイトルに含む記事が増え始め 、1910年代になると「個性尊重」

    は教育界の合言葉になり 、かなり活発に個性教育論が論じられるようになった。

    1927(昭和2)年には文部省から「児童生徒ノ個性尊重及職業指導ニ関スル件」という訓

    令が出され、その年教育雑誌において個性を標題に含む記事の数はピークを迎えた。しか

    し教育現場における「個性」の尊重は、それぞれの研究者の思惑とは異なる方向で定着

    し、結果としては否定されることになる。

    ― ―

  • 「個性」に託された意味

    はじめに「個性」ということばが誕生したとき、そこに託された意味は3つあった 。

    ひとつは、国家に対して個人を対置しようとするものであり、この立場において教育の究

    極の目的は、国家ではなく個人にあるとされた。教育の目的を国家ではなく個人の完全発

    達に求めようとする主張は、帝国主義勃興の時代においてその1つに成り上がろうとして

    いた当時の日本にとっては受け入れがたいものであり、後に国家意識や民族意識の形成を

    目的とする主張の壁にぶち当たることになった。

    2番目は、学習者である子どもを無視した教育への批判である。教育学者の湯原元一

    は、ヴント以後の実験心理学の成果に依拠し、児童の個性を無視した教師中心のありかた

    を批判した。3番目は教育そのものの機能に対する限界の認識である。「児童心理学」を

    志し、アメリカやドイツで心理学を学んだ塚原政次は、その論文のなかで、人間は基本的

    に「遺伝」と「周囲の影響」という二大原因によって支配されており、教育によって「善

    とも又悪とも為るもの」ではなく、児童の個性に制限されるものであると述べている。

    個性尊重の重要性が強調されるようになると、個性のもつ意義についても述べられるよ

    うになった。石川謙は、個性には、目的としての個性と手段としての個性の二つの意味が

    あると述べ、教育目的としての個性を強調した 。しかし、石川らの主張にも関わらず、

    個性にこめられた2番目と3番目の意味については、十分に議論されないまま「教育手段

    としての個性尊重」論を基礎づけるものへと矮小化されてしまったのである 。サトウ

    (2001)は、「教育心理学の不毛性」について「不毛性議論は教育について考えていないと

    いうこところから派生しているように思えてならない」と述べている が、個性尊重も

    「個性」の具体的な中身を問わずに、どうとらえるかという測定に関心がいってしまった

    のであろう。その測定の部分に心理学は大きく関わっていたのである。

    手段としての個性尊重へ

    個性観察」の重要性が盛んに主張されるようになった小学校の現場では、個性尊重の

    名の下に能力別学級編成が注目を集めるようになり、「能力」の検討が不十分なまま「優

    秀児」「中庸児」「遅滞児」などの学級が作られた。当時盛んになりつつあった心理研究の

    教育測定は能力別学級編成に「客観的根拠」を与えた 。学習における「能率主義」と

    「効率主義」の追求である 。

    1927年に出された訓令のなかでも、個性教育の必要を説く教育風潮に基づき児童生徒の

    個性を尊重することに加えて、心理測定・教育測定に基づいた児童生徒の理解の必要性な

    どが強調されている 。教育雑誌には医学・心理学の成果に基づいた個性調査法や個性検

    査法が紹介された。1931年の「心理学研究」には1927年の訓令に基づいて、東京市で行わ

    れるようになった個性調査について記されている。それによると東京市では、1927年に高

    等小学校用の個性調査票を制定し、市下の各学校で実施、職業指導、進路指導に利用して

    いた。「個性調査票」は「個性観察」が中心として構成されており、「個性観察」欄は「知

    能並特殊能力、感覚運動、体力、情意素質、言語その他」に分類され、それらはさらに下

    ― ―

  • 位項目に分かれ、これらの項目について5段階で評価するようになっている。そこで行わ

    れていたのは、個性を「科学的」に測定することと、測定された「個性」を「尊重」する

    ために「学級編成や異常児教育」などに利用していくことだった。そのような「個性」の

    「尊重」は、国家の要請に基づく教育の「効率化」を目指すものであり、「個性調査」はそ

    のための道具にすぎなかった 。

    教育雑誌に現れ始めた頃の「個性」は自然的・生得的な生理的・身体的・心理的差異を

    表現することばでしかなく、文化的差異も社会的差異も価値的意味も含まない概念だった

    (そのことは、湯原の論文のタイトルが「個性(Temperament)」であること、また塚原

    が遺伝的要因を考慮したことなどによくあらわれているだろう)。「個性」を客観的な方法

    で測定し、数値化するという心理学の研究によって、「個性」には文化的・社会的差異、

    さらには価値的意味が加わるようになったのである 。

    しかし、このようにもてはやされた「個性」は、1937年文部省「国体の本義」において

    「個性の開発などを事とする教育」は「わが国の本質に適わざるもの」と否定されること

    となり 、心理学の方法は別の方向で利用されていく。

    ②知能検査

    心理学の応用的価値が求められた大正から昭和の初期にかけて、実験心理学の発達とそ

    の普及は教育測定の基礎となった。実験心理学の発展は、要素主義的な人間観を強調し、

    個々の要素である人間の「特性」の測定に関する関心と技術を高めていったのである 。

    ビネとシモンによる知能検査が輸入され、展開されていったのもこの頃である。ビネとシ

    モンの知能検査が発表されたのは1905(明治38)年であり、日本では1907年に「児童研

    究」などで概要が紹介された。知能検査の日本への導入ルートは3つあった 。1つは精

    神医学者である三宅鉱一らによるフランスからの直接の導入である。三宅は同僚とともに

    さまざまな子どもたちにビネの知能検査を試行し、日本における知能検査を作成しようと

    し、「知力測定法」という論文を「医学中央雑誌」に発表した(1908年) 。2番目のルー

    トは、ドイツ経由での導入である。医師の三田谷啓は、ドイツの改定版知能検査を翻訳

    し、「学齢児童智力検査」として発表した(大正4年)。三田谷は勤務先の大阪市の児童相

    談所において、自身の翻訳した検査を用いていた。知能検査導入ルートの3番目は、アメ

    リカ経由のものである。日本では結果的に3番目のルートによる知能検査が使われるよう

    になった。検査の作成に長けた心理学者がアメリカ経由の知能検査に魅力を感じて翻案し

    たことがその理由として考えられる 。このように日本において知能検査の受容が迅速に

    進んだ背景には、教育現場において「低脳児」の処遇が問題になっていたこと、また知能

    検査の問題が、医学、教育、心理学という複数の領域の接点があったことがあげられ

    る 。

    日本においてビネの知能検査を精力的に整備し、教育の場面に測定を持ち込むことに尽

    力したのは、久保良英、鈴木治太郎、田中寛一といった人物である 。久保良英は、日本

    ではじめてビネ式検査の心理学的な標準化(サンプルの成績に基づく基準づくり)をなし

    ― ―

  • た人物である。久保は、東京帝国大学で元良勇次郎の元で学び、クラーク大学に留学し

    た。彼は日本の子どもを対象に検査項目の選定を行い、1919(大正8)年日本版を作成し

    た。鈴木治太郎は大阪府師範学校に勤め、付属小学校の学業不振児のために、「教育治療

    室」を開設し、子どもたちの抱える問題を細かくとらえて指導した。彼は1920年からビネ

    の尺度の日本版の作成に取り組み、度重なる改訂を行っている。田中寛一は松本亦太郎の

    もと心理学を学び、アメリカのターマンによって改訂されたビネの検査を翻案した。

    入学試験で使われた知能検査

    第一次世界大戦後、アメリカで発展した集団式の知能検査が日本にも輸入され、軍隊だ

    けではなく、教育の場面でも利用された。とくに入試での利用は日本に特徴的なことであ

    る。明治期後半、上級学校への進学者が増え、入試による選抜が行われるようになると入

    試のありかたについての研究(得点分布など)が心理学者によって行われるようになっ

    た。さらに大正に入ると進学希望者に比して上級学校の数が足りないという事態が生ま

    れ、選抜のために筆記試験に代えて知能検査を行う動きがでてきた。試験地獄、受験地獄

    ということばが出てきたのはこの時期だといわれ 、加熱する準備教育(受験勉強)の緩

    和策として知能検査が導入されたと考えられている 。従来の学力測定が「非科学的」で、

    「客観性」に乏しいという批判 や、学力測定よりも知能検査のほうが入学後の学力との相

    関が高いという主張も知能検査の導入を後押ししたと考えられる。

    準備教育の加熱緩和という理由があるにせよ、このような使い方は知能検査を考案した

    ビネの意図とは大きく異なるものである。知能検査は選抜や排除のためにつくられたので

    はなく、実際教育学者のなかには、素質の検査のみで入学許可をしたのでは教育の意味が

    なくなると批判的な見方をしていたものもいた 。実際に、多くの学校において知能検査

    が行われるようになっても、実施前に検査の専門家による講習を受けたり、特別の委員を

    設けたりする学校はわずかで、知能検査が形式的な面のみで使われたいたことが疑われ

    る。導入されても形式的な使われ方をしていたのでは、まったく意味をなさないことは明

    らかである。心理学的方法だけが一人歩きしてしまったのだろう。

    その後の挙国一致体制のもとでは応用心理学の知見はあまり重視されず、心理学は大き

    な発展を遂げることができなかった。挙国一致の時代に個性の代わりに重視されたのは、

    民俗性という概念であった。知能検査は個性ではなく民族性を客観的にとらえ比較するた

    めの道具として重用されるようになる 。

    ③子育て

    子育て書と心理学

    心理学の応用は教育場面のみならず子育てにも及んだ。横山(1986)は大正期の子育て

    書の特徴の1つとして、心理学者が登場し始めたことをあげている。大正期、第一次世界

    大戦で戦勝国側になった日本は、重工業などで急速な発展を遂げた。その結果生まれた都

    市部の中上層階級でゆとりが、生活文化領域での自分たちの底の浅さを自覚させる働きと

    なり、文化的生活改善運動などを引き起こした 。そのような流れは子育てにも及び、「子

    ― ―

  • ども」や「子育て」はひとつの時代的主題 となった。先の受験熱も同様の流れのなかで

    起こっていることが考えられる。また「神経質」な子どもについて扱う育児書が現れるな

    ど、子ども(子育て)の心理的な側面にも関心が向くようになったこともこの時期の特徴

    である。1925(大正14)年に出された「神経質児童の躾け方」には「文明国の殊に都市生

    活の余りに切迫的競争的であることが児童の神経を尖らせ、その神経質を誘致する」とか

    「神経質を有する両親はその家庭に於いて児童を適当に処遇せずして、あまりにやかまし

    く児童の一挙一動に干渉し、些細なことに小言を言ったりするから」神経質になるのだと

    いう記述がある 。子育ての微妙な心理的な面にも目を向けるようになったことは、子ど

    もの「個性」を配慮するという側面もあっただろうが、かえって配慮が細かくなりすぎ、

    子どもへの干渉事項が増え、子育てを面倒なものにしていったことを見逃すわけにはいか

    ない 。

    「科学的」な子育て

    明治開化期の欧化の波は、子育てが医学や生理学のコントロールの下におかれていく

    きっかけを作った。結果としてそれは子育ての場面に「科学的」「合理的」知識を持ち込

    むことになったのである。それまでコミュニティの間で共有されていた子育てについての

    伝統的な「迷信」は、科学的ではないと排除され 、母親たちは医者や心理学者による専

    門書にしたがって行動するようになった。「科学性」を謳う育児書によって育児の世代間

    コミュニケーションが薄れていったともいえるのである 。大正期の民間の代表的な育児

    書のひとつである三田谷啓による「育児の心得」(1923(大正12)年) においても「科学

    的」であることの重要性が述べられている。三田谷はドイツから知能検査を輸入した人物

    である(前述)。三田谷は本文のはじめに「子どもを育てる方針」として、「一、こどもを

    親よりも強健にすること、二、こどもを親よりも賢明にすること、三、こどもを親よりも

    善良にすること」をあげ、それを実現するために注意することとして「子どもの本体をよ

    く知ること、子どもの特性(個性)を知ること、子どもを観察すること、科学的なるこ

    と」などがあげられている。大正期に子育ての心の問題にまで及んだことは、社会との接

    点をもとうとした心理学の流れの中で起こったことかもしれないが、それは子育てにおけ

    る科学性や合理性の強調にますます拍車をかけたのではないだろうか。

    3)展開期の心理学

    心理学が展開していった時代は、応用的な研究が社会との接点のなかでなされていっ

    た。とくに心理学的な検査や調査は科学性、客観性を前面に押し出すことによって発展を

    遂げた。しかし、この時期の心理学の応用には社会の風潮や現場サイドが個人をとらえる

    技術を要望した結果おきたものであり、それは人々を上から見下ろす視点と一致してし

    まった 。心理学者の努力は体制イデオロギーの補強や効率化に利用される危険性があっ

    たのである 。

    ― ―

  • おわりに

    心理学は、実験と言う自然科学の「客観的」な手法によって心の問題を扱うことによっ

    て学問として独立した。日本における心理学の輸入と展開はまさに欧米における近代心理

    学のはじまりと発展の流れのなかにあった。師範学校における心理学の重用など、人間理

    解の視点として心理学が発展する機会があったにもかかわらず、知能検査など方法として

    発展していくということは、実験しないと心理学ではないという風潮、まずはじめに方法

    ありきという態度 につながっていったことが考えられる。

    やまだ(2006)は自然科学を手本としてきた心理学は、認知科学を経て、ナラティブ研

    究によって「意味の行為」を扱う心理学へと発展するだろうと述べている 。明治・大正

    期に受容・発展した心理学が戦後から現在に至るまでの間に、どのように発展していくの

    かについては今後の課題としたい。

    引用文献

    1)実際には公的なカリキュラムが整備された年であり、実験室の開設はさらにさかのぼると

    いうが、ここでは通説に従うことにする

    2)佐藤達哉a(1997)「日本の心理学:前史」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心理学』北

    大路書房、p.15

    3)佐藤達哉a 同上、p.8

    4)杉本つとむ 1967 蘭語訳撰についての一考察 桜楓社

    5)杉本つとむ 1995 江戸の翻訳家たち 早稲田大学出版会、p.240

    6)佐藤達哉a 前掲書、p.9

    7)佐藤達哉a 前掲書、p.11

    8)太田惠子a(1997)「「心理学」と‘Psychology’」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心理

    学』北大路書房、p.20

    9)太田惠子a 同上、p.21

    10)児玉斉二(1994)「日本の心理学」梅本堯夫・大山正編著『心理学史への招待』サイエンス

    社、p.298

    11)太田惠子a 前掲書、p.40

    12)佐藤達哉b(1997)「心理学研究の自立:学会・留学・実験」佐藤達哉・溝口元編著『通史

    日本の心理学』北大路書房、p.75

    13)東京英学校開設時の教員履歴書 青山学院90年史(1965)、p.74-77

    14)佐藤達哉b 前掲書、p.82

    15)東京都(1967)東京の特殊教育、p.214

    16)佐藤達哉b 前掲書、p.83

    17)佐藤達哉b 前掲書、p.95

    18)西川ひろ子(1996)「野上俊夫と大正期のモンテッソーリ教育法」『乳幼児教育学研究』、5,

    pp.63-71

    19)村田恵子(2000)「松本亦太郎」教育思想史学会編『教育思想事典』頚草書房、p.658

    ― ―

  • 20)荻野いずみ(1983)『原口鶴子』銀河書房

    21)児玉斉二 前掲書、p.298

    22)高砂美樹a(1997)「教育制度と心理学」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心理学』北大

    路書房、p.43

    23)高砂美樹a 同上、p.49

    24)水原克敏(1981)「ジョノホットの教育学と東京師範学校の1879年改革」『教育学研究』、

    48、pp.154-164

    25)山下恒男(1982)『日本の教育心理学』明治図書、p.32

    26)堀啓造(1986)「明治期の東京高等師範学校の心理学教育史」 日本教育心理学会第28回総

    会発表論文集、pp.2-3

    27)サトウタツヤ(2002)21世紀の教育心理学: 教育心理学の不毛性議論」に触発されつつ

    教育心理学年報、41、pp.139-156

    28)高砂美樹a 前掲書、p.52

    29)伊沢修二(1900)「高等師範学校規定改正に就いての告示」『教育』、1、9-21

    30)高砂美樹a 前掲書、pp.60-62

    31)太田惠子b「明治期の学界における心理学」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心理学』

    北大路書房、p.65

    32)太田惠子b 同上、p.66

    33)太田惠子b 同上、p.68

    34)佐藤達哉b 前掲書、p.112

    35、36)サトウタツヤ 前掲書、p.141

    37)鈴木祐子(1997)「心理学通俗講話と専門誌の創刊」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心

    理学』北大路書房、pp.161-162

    38)鈴木祐子 同上、p.172

    39)高砂美樹b(1997)「日本心理学会の設立と国際交流の本格化」佐藤達哉・溝口元編著『通

    史日本の心理学』北大路書房、p.241

    40)高砂美樹c「大学における心理学研究室の開設と専門教育の拡大」佐藤達哉・溝口元編著

    『通史日本の心理学』北大路書房、p.208-219

    41)山下恒男(1982)『日本の教育心理学』明治図書、p.67

    42)片桐芳雄(1995)「日本における「個性」と教育・素描」森田尚人ら編『教育学年報4 個

    性という幻想』世織書房、p.57

    43)佐藤学(1995)「「個性化」幻想の成立」森田尚人ら編『教育学年報4 個性という幻想』

    世織書房、p.26

    44)片桐芳雄 前掲書、p.62

    45)片桐芳雄 前掲書、pp.55-56

    46)片桐芳雄 前掲書、p.63

    47)片桐芳雄 前掲書、p.61

    48)石川謙(1916)「個性尊重の意義」『教育学界』34、p.1

    49)片桐芳雄 前掲書、p.65、中村勝二(1971)「我国に於けるBinet-Simon法の発展過程の

    一研究」『精神薄弱問題史研究』、9、pp.42-54

    50)サトウタツヤ 前掲書、p.152

    ― ―

  • 51)片桐芳雄 前掲書、p.65

    52、55)佐藤学 前掲書、p.34

    53)山下恒男 前掲書、p.67

    54、56)星野真由美(1997)「「個性」研究から調査および練成心理学へ」佐藤達哉・溝口元編

    著『通史日本の心理学』北大路書房、p.263

    57)山下恒男 前掲書、p.64

    58、60)佐藤達哉c(1997)「実際的研究の機運:現場と心理学」佐藤達哉・溝口元編著『通史

    日本の心理学』北大路書房、p.182

    59)佐藤達哉d(1997)『知能指数』講談社、p.93

    61)佐藤達哉c 前掲書、p.175

    62)佐藤達哉c 前掲書、p.177

    63)日本近代教育史事典(1971)平凡社、p.146

    64)佐藤達哉c 前掲書、p.180

    65)山下恒男 前掲書、p.66

    66)佐藤達哉d 前掲書、p.95

    67)佐藤達哉c 前掲書、p.203

    68)横山浩司(1986)『子育ての社会史』勁草書房、p.217

    69、71)横山浩司 前掲書、p.224

    70)横山浩司 前掲書、p.223

    72)横山浩司 前掲書、p.237

    73)横山浩司 前掲書、p.241

    74)横山浩司 前掲書、p.218

    75)佐藤達哉c 前掲書、p.203

    76)佐藤達哉e(1997)「心理学の教育・社会への影響」佐藤達哉・溝口元編著『通史日本の心

    理学』北大路書房、p.290

    77)尾見康博(2001)「フィールドワーク、現場心理学、フィールド研究」伊藤哲司・尾見康博

    編『心理学におけるフィールド研究の現場』北大路書房、p.5

    78)やまだようこ(2006)「質的心理学とナラティヴ研究の基礎概念-ナラティブ・ターンと物

    語的自己」『心理学評論』、49、3、pp.436-463

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